たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

砂漠で朝食を アガサ・クリスティー 中村妙子訳『春にして君を離れ』

松本清張ばりに面白いユニークなサスペンス。発表当時はメリー・ウェストマコットという別のペンネームで出されたほど、誰も殺されず、誰も探偵のマネゴトをしない。で けれども日常にひそむ秘密、真実が、時には一番コワーイのである。人生に満足しきっている奥様ジョーン、娘のところに旅行し夫の元に戻る帰り、汽車が動かずひとり何もない砂漠でいく日も過ごすことになる。そこで彼女は自分の来し方をそれまで気づかなかった、あるいは気づかないふりをしていたプリズムを通して眺めるという緊迫のときを過ごすのであった…。

彼はマドモアゼル(婦人客を彼は一様にこう呼ぶらしかった)が無事に快適な旅行をなさるようにと挨拶し、出発の用意がととのうと大仰に一礼して、昼食用のサンドイッチが入っている小さな紙箱を手渡した。

ジョーンはレーンコートを羽織って車の外に出ると、紙箱を開いて、あたりを少し歩きまわりながら、サンドイッチを食べ食べ、二人の男がスコップで泥を掘ったり、ジャッキを投げ合ったり、用意してきた板を車輪の下にあてがったりする様子を見物していた。

朝食はコーヒーにミルク(缶入り)、卵の目玉焼、固い、小さなトースト幾枚か、ジャム、それにあやしげなスモモを煮たものだった。
食欲はかなりあった。食べているとインド人がまたやってきて、昼食は何時にしようかと訊ねた。ジョーンはともかくずっと後でいいといって、一時半ということに話を決めた。

昼食はオムレツ(火にかけ過ぎたのか、ふうわりといい具合にできているとは義理にもいえなかった)、卵のカレー炒り、缶詰の鮭、ベークドビーンズ、それに缶詰の桃。
いささか胸にもたれる食事を終えると、ジョーンは自室にもどってベッドに横になった。そして、四、五十分ほど眠って目を覚ますと、お茶の時間まで『ダイサート夫人回想録』を読んで過ごした。
紅茶(缶入りのミルクを添えて)を飲み、ビスケットを少しつまんでからしばらくその辺を歩き、帰って回想録を読みあげた。夕食はオムレツに鮭のカレー煮と米、卵焼き、ベークドビーンズ、缶詰のあんず。食後、推理小説を読みはじめ、床につく前にそれも読んでしまった。

ある午後レスリーは、パンにバタの塊、手作りのジャム、普段使いの茶碗や土瓶をみんないっしょくたにゴタゴタとお盆に載せて、お茶を振舞ってくれた。

昼食は、オムレツのまわりに豆をこってり盛った一皿と米をあしらった鮭の煮こみ、それに缶詰のあんずだった。食欲はあまりなかった。炎天下をほっつき歩いたせいで、暑気当りの気味なのだとすれば、一眠りしたら気分が’すっきりするかもしれない。 

「夕食、じき。とてもうまい夕食、奥さま」

インド人の言葉に、そう、それはありがたいわと返事をしたのだが、どうやらその予告は単に儀礼的なものだったらしく、献立は缶詰のスモモが桃に変わっただけでいっこう変わりばえがしなかった。うまいまずいはとにかくとして、三度三度ほとんど同じ献立というのはどうかと思われた。

家の中に入ると、レスリーは息子たちに手伝わせてお茶の用意をした。やがてお盆の上にパンとバタ、手作りのジャム、普段用の厚手の茶碗をごたごたとのせて、笑いさざめきながら運んできた。

… ご注文のスペイン風ラグーにはずいぶん骨を折りました。手のかかる料理でございますし。本にあるような献立はあたくしの好みじゃないんですが」
「あれは上出来でしたよ」

さあ、起きて、朝食をとろう。けさはポーチド・エッグにしてもらったら、少しは気分が変わるかも知れない。コツコツと固いオムレツにも飽き飽きした……。
こう思って食堂に行ったのだが、インド人はポーチド・エッグなどてんで試みる気がないらしかった。
「卵を湯にいれて煮る?それ、茹卵」
いいえ、茹卵とは違うのよ、とジョーンは説明した。宿泊所の茹卵はいつも茹ですぎだということを経験によって知っていたこともあって、ポーチド・エッグなるものを何とか科学的に説明しようとしたのだが、インド人はろくに耳にいれずに、頭を振った。
「卵を湯にいれる ― すぐくずれる。わたし、奥さまに上等目玉焼、あげる」
というわけで、食卓にのぼったのは白味が焦げ、黄味は白っぽく固まった、目玉焼で、オムレツの方がまだましなくらいだった。

それなのに彼女は砂漠のど真ん中のこんな白漆喰の牢獄で、薄のろのインド人、頭の弱いアラブ少年、明けても暮れても缶詰の鮭にベークドビーンズ、固茹での卵という食事を平然と食卓に並べるコックと、そんな連中を相手にむなしく日を送っているのだ。

思えば幸せな6週間であった。ワトキンズやミルズに会い、ハーグレーブ・テイラーとも一夕を楽しくすごした。ほんの2、3人の友人とのゆきき、日曜には多くの丘を渉猟して楽しい半日を送った。メイドたちがうまい食事を作ってくれ、それを好きなだけゆっくり食べた。ソーダ・サイフォンに本を立てかけて読みながら、食後、仕事をすることもあった。それからしばらくパイプをくゆらした。その上、話相手がほしくなれば、幻のレスリーを椅子に坐らせた。

アガサ・クリスティー 中村妙子訳『春にして君を離れ』

邦訳版はやっぱりタイトルがステキよね。(ただ、同じシーンの繰り返しで表記がゆれまくってるのが分かる。そのへん校正かけてないんだろうか)

英語の確かさに定評のあるクリスティー。ぜひ原書でも。

メシ作りの耐えられない軽さ 神谷美恵子『神谷美恵子日記』

この本が電子化されていたのはちょっと意外で嬉しかった。偉人の日記を読むと、「人生ってあれこれ詰め込めるものだな」と思う...。とにかく凡人よりも生きてる時間が濃い。彼女は意志の医師である。

で、千葉敦子氏が『ななめ読み日記』で「(彼女に)弁当づくりをさせた夫を許せない」と怒っていたとおり、自分がやりたい書き物や医療の仕事と果てしないおさんどんの板挟みに苦しんだ日々が綴られている。めっちゃ今日的で、日本の家族のあり方は何も変わっていない。だいたいなんで医師で文学者がつまらぬ家事に時間を費やさなけりゃならんのだ。ものすごい損失。

朝阪神ビルの下でコーヒーを、昼ナンバの中華料理やでワンタンとブタマンと、すべてこの世の名残と言った気持で味わった。

昼食にまぐろのさしみ、きゅうりとかにの三杯酢。酒粕汁、父上午後入浴、ひるね。私は又食料の買物。

Rのたんじょう日。月足らずの律が十四才になるとは何という有難いことであろう。しかし何一つ祝らしいことをしてやれぬほど今日は忙しかった。お赤飯をたき、カツレツ、ケーキ、アイスクリームなどを夜の食事にまに合わせた。

子供の日とてプディングをつくりトンカツをつくる。

神谷美恵子『神谷美恵子日記』より

千葉氏は『ななめ読み日記』を書くのに犬養道子『マーチン街日記』のスタイルから着想を得たという。『マーチン街日記』は私が今のところ最も好きな日記文学。ボストンの歴史学徒としての生活記は何度読み返しても飽きない。 

コンビニのサンドイッチが懐かしい 五十嵐貴久『年下の男の子』

例の黒服の男が食前酒を運んできた。すぐ後ろから、作務衣のような服を着た若い男が前菜をテーブルに並べてくれた。
「左から、タケノコと湯葉のポワレ、壬生菜と鮎の煮浸し、空豆とゴルゴンゾーラチーズとフォアグラのパテ、一番右が浅蜊のソテー、ガーリックソース蒸しでございます」
ではごゆっくり、と二人が下がっていった。グラスを手元に引き寄せた児島くんが、飲む前に、と両手を膝に当てた。

まさか、と笑ったところで、黒服の男がスープの皿を下げ、代わりに白い紙に包まれた上品そうな料理を出してきた。器用な手つきで紙を破ると、テーブルの上に湯気がたった。
「サーモンの奉書包み焼き、エンドウ豆のムース添えでございます。香りをお楽しみくださいませ」
優雅な笑みを浮かべて去っていくその後ろ姿を見ていると、なぜかおかしくなってきた。

児島くんは気配りもよく、わたしのグラスが空くと何か飲みますか、とすぐに聞いてきた。わたしも決してアルコールに強いわけではないのだが、気がつけばメインの鴨肉のローストが出るまでの間に、食前酒に加えワインを3杯も飲んでいた。あんまり気を遣わないでくださいと言ったが、そんなつもりはないんですよ、とちょっと悲しそうな顔になった。

メインを食べ終えると、チーズとデザートが出てきた。その辺りは完全にフレンチのスタイルだった。
デザートは胡麻のアイスクリームと小さなイチゴのミルフィーユで、両方ともとてもおいしかった。児島くんはコーヒー、わたしはストレートの紅茶を飲みながら、しばらく話した。

店はちょうど昼時で混んでいたけれど、運よくカウンターに二つだけ席が空いていた。わたしたちは二人並んでランチを取ることにした。彼が頼んだのは生姜焼き定食のご飯大盛りで、わたしは刺し身御膳という比較的あっさりしたものにした。
生姜焼き定食を食べている間、彼は無言だった。前に一緒に食事をした時もそうだったが、とにかく彼は食べるのが異常に速い。

鶴亀食堂は、もしかしたら戦前から、いや、まさかとは思うが明治時代からあったのではないかと思えるような内装の店だった。店番はそれこそ大正生まれと思われるお婆さんで、どうやら厨房で食事を作っているのはその旦那様のようだ。
とはいえ、8卓ほど4人掛けのテーブル席があったが、そのうち6卓が埋まっていた。はやっていないというわけではないらしい。
そこでわたしたちは焼き魚定食を食べた。何だか食べてばかりでホームドラマのようだが、とにかくお腹が空いていたことは確かだったのだ。
ビールでも飲めばと勧めたが、しばらく迷っていたけれど、やっぱり車で来てるんで、と児島くんは普通にお茶を飲んでいた。

それぞれの家にご挨拶に行った帰りに寄ったコンビニで買ってきたサンドイッチをオレンジジュースで流し込みながら考えた。

博多ラーメン“天海”というその店は、もともと界隈では有名だったらしいけれど、最近になって休日の昼にやってる大型情報番組で特集されたことから、その人気に火がついたそうだ。
「あんまり、しかつめらしいお店だと嫌だな… ほら、お喋り厳禁とか、スープは全部飲み干せとか、店の方が指示するみたいな」
「そんなことないと思いますけど。少なくとも、店に行ったうちの連中はそんなこと言ってませんでしたね」
そんなことを話している間にも、わたしたちの後ろに4人連れのサラリーマンが並んだ。前の方からはメニューが回ってきた。店に入る前に注文を決めておけ、ということらしい。
「どうする?」
迷うほどラーメンの種類はなかった。いわゆるトンコツラーメンに、トッピングの類がいろいろあって、それで値段が違うだけの簡単なメニューだった。
「よくわかんないっすけど、とりあえずオススメって書いてありますからね」と児島くんがメニューの一番上を指した。「このオリジナル白湯トンコツラーメンってのにしますよ」
「じゃ、あたしもそうしようかな」
「オレは大盛りで」
そこだけは譲れない、というように児島くんが言った。

部長が連れていってくれたのは、最近女性向けの情報誌などでも話題になっているエクリュというオーガニック食材を扱ったフレンチレストランだった。よくこんなところを知ってますねと感心すると、趣味なんだよという答えが返ってきた。
「新しい店を見つけたり、行ってみるのが好きなんだな。だから、逆にあんまり馴染みの店とかはないんだよ。すぐ新しい方へ新しい方へと行っちゃうから」
そういうものなのか。わたしたちが席に着くと、当店特製の無農薬栽培の小麦粉で造られたパンでございますと言って、清潔そうな白いシャツを着た男の子が皿に2種類のパンを載せてくれた。
メニューを決めるのはそれからだそうだ。雑誌で読んだんだけど、と部長が“季節野菜の鮮やかメニュー”というのをご推奨してくれたので、わたしもそれにならうことにした。

そしてわたしの引っ越しについて部長が言い出したのは、メインディッシュの“鳩のカリカリオーブン焼き・ソテーした京野菜を添えて”が出てきた時だった。

「ところで、飯、食ってないっすよね。何にしますか」
わたしたちは同時にメニューを開いた。さて、何を食べようか。しばらく相談した結果、トマトのサラダと魚介類のフリッター、それからキノコのパスタと生ハムのピザを頼むことにした。
それで足りるのと聞くと、そんなに腹減ってないんで、という答えが返ってきた。児島くんにしては珍しいことだ。
テーブルに備え付けになっている細長いパンをぽりぽり齧りながら、わたしたちはしばらく会社の話をした。

何も食べていなかったのを思い出して、マンションへ戻る途中コンビニへ寄ってサンドイッチを買った。哀しいディナーだけれど、食欲がそれほどあるわけではない。今夜はこれで済ませることにしよう。

立っていたウエイターが近づいてきて、ビールでよろしいですか、と尋ねた。エンカレンという地ビールを頼むと、入れ替わるようにして簡単なつまみのようなものが出てきた。日本料理でいうところの突き出しだ。
「カロシで取れたエンドウ豆のソテーでございます」
男が説明する前に、児島くんがフォークで突き刺して、口の中に入れた。あれ、と不思議そうな顔になった。
「マジ、うまいすね」

朝食といってもたいしたものではない。トーストと目玉焼き、冷蔵庫に入っていた野菜で作った簡単なサラダ、そしてコーヒー、それだけだ。

黙ったまま、わたしたちはフォークで目玉焼きをつつき、トーストにバターを塗って、それを食べた。何を話せばいいのだろう。

ジョアンナは飲み物がメインの普通の喫茶店だ。食べ物の類がそれほど多いわけではない。わたしはメニューを開き、クラブハウスサンドイッチとアイスティーを頼んだ。

そんなわけで、児島くんの誕生日祝いは池袋のファミリーレストランで行われることになった。唯一、救いといえば、8月10日の午後11時に店に入ることができたということぐらいだろう。下手をすれば日付が変わった11日にずれ込んでしまう可能性だってあったのだ。
それでも児島くんは喜んでくれて、和風ハンバーグ御膳と共に、誕生日だからという理由でザッハトルテとイタリアンジェラートの2つのデザートを食べて、御満悦ではあったのだが。

食事はどれも素晴らしかった。前菜としてエンドウ豆をムース状にしたサラダ、その後にフォアグラと雑穀を併せた和テイストのソテー、薄く切ったアワビをトリュフソースで食べるカルパッチョとコースが続き、口直しとしてフランボワーズのシャーベットが出てきた。メインは肉と魚の両方、あるいはどちらかを選べるということだったが、わたしも児島くんもそこまでのコースにボリュームがあったため、ひと品だけにすることにした。
わたしは高知から直送されたという舌ビラメのムニエル、彼はクリスマス限定という飛騨牛のステーキを選んだ。少しずつシェアして食べたが、舌ビラめのシンプルではあるけれど濃厚でクリーミーな味わい、更に素材の味を活かしきるため塩と粒胡椒だけで味付けをしたステーキは、どちらも完璧としか表現の仕様がなかった。
最後にグラッパを勧められて少しだけ飲むと、香草の香りがとても心地よかった。まるで高原で食事をしているような気がした。
最後にシェフ帽をかぶったフランス人の女性が出てきて、私たちの目の前でクレープを作ってくれた。ブランデーを合わせてフランベすると、フライパンの中で美しい青い炎が踊った。
わたしはストレートの紅茶、彼はコーヒーをオーダーし、そのクレープを食べた。コースを締めくくるにふさわしい甘みと酸味の調和が取れたデザートだった。

部長に連れていかれたのは、会社からそれほど離れていない場所にあるバーだった。バーといっても、軽食の類はもちろんある。
部長は黒ビールを、わたしはファジーネーブルをオーダーしてから、食べる物をいくつか注文した。真鯛のカルパッチョとか、シーザーサラダとか、木の実の盛り合わせとか、そんなふうにあまり重くないものだ。

少し遅いランチになってしまったけれど、仕方がない。わたしはビルの外に出て、近くのコンビニで買ったサンドイッチと野菜ジュースで昼食を済ませることにした。

五十嵐貴久「年下の男の子」より

Kindleの日替わりセールで買ったのですが、やっぱり現代小説を読むのは時間のムダだなァ...と思わされたことでした。Kindleでなければ出会えなかった良作はほとんどマンガです。なぜならKindle以前はほとんどマンガを読まなかったからです。

キャシー・フリードマン優勝 村上春樹『シドニー!』

『村上さんのところ』をきっかけに、村上さんの紀行本を読み返しまくっている。この本については何の記憶もなかったのだが、キャシー・フリーマン優勝のシーンに感動。彼女自身の言葉もいい。

朝食を抜かしたので、売店で小型ピザとミネラル・ウォーターを買ってくる。アンザック・ブリッジにかかるまで、おそらく新しい展開はないだろうと踏む。だから席を立って売店に食料を買いに行ったわけだ。席に戻り、ヴェジタブル・ピザを齧り(ジャンク・フードの愉しみ!)、冷たい水でのどを潤しながら、先頭集団が橋にかかるのを待つ。

記者会見のあとで、お昼にプレス・センターでヤくんと2人で食事をする。白いご飯にビーフシチューのようなものをかけた料理と、蒸し野菜。<オジー・グリル>というコーナーにあった。味は悪くないんだけど(そして量もたっぷりとあるんだけど)、いかんせん牛肉が硬い。でもまあ顎の訓練と思って全部しっかりと食べる。時間がなくて朝ご飯もほとんど食べなかったし。

プレス・センターのデスクで仕事をしていたら、韓国の新聞の若い記者に「村上さんですか?」と声をかけられる。インタビューをさせてくれないかということ。3時半までちょうど時間があいていたので、30分くらいならいいよと言う。 

オリンピックの商業主義に関する笑えないエピソードは、実に数多くある。プレス・センターの食堂には<オジー・グリル>というオーストラリア料理を専門とするコーナーがある。ここがベーコン・エッグ・バーガーを出していた。カイザーロールにベーコンとエッグをはさんだもので、オーストラリアではとくに珍しい食べ物ではない。しかし隣にあるマクドナルドが文句をつけた。「おかげでうちのエッグ・マフィンが売れなくなっている。かっこだってそっくりじゃないか」と。マクドナルドはオリンピック委員会の大スポンサーだから粗略には扱えない。主催者はパンのかっこうを変更するようにとオジー・グリルに要望を出した。オジー・グリルはパンの形を変え、細長いロールパンに同じものをはさむことにした。それなら違うものになるだろう。ところがマックは納得しない。形は違っても、中身がまだ同じじゃないかと。それでとうとうオジー・グリルはそのメニューを完全にひっこめることになった。
パーティーはしゃれたビーチクラブの2階で開かれていた。メディア・パスを持っている人間なら誰でも入れる。そんな集まりに参加するつもりはなかったんだけど、たまたま部屋に入ったら、美人のウェイトレスがにこやかにやってきて、僕に白ワインのグラスと、スティックつきの海老の天ぷらを差し出した。断るのも面倒だし、ちょうどおなかもすいていたので、ありがたくいただいた。ソファに座り、試合が始まるまで寿司や天ぷらをつまみ、悪くないワインを優雅に飲んでいた。メディア・パスを持っていると、たまにこういう美しい経験をすることになる。
こんなことをしていたら風邪をひいてしまいそうだ。だから一緒に来ていた編集のヤくんに「寒いからもうやめて、温かいうどんでも食べにいこうよ」と言う。彼はダフ屋から100ドル(6000円)増しの切符をわざわざ買ったので、こんなにすぐに出ていくのはもったいないのだが、風邪をひいては元も子もない。冗談半分で言いだしたのだけど、競技場を出て通りを歩いていたらほんとにうどん屋があった。ボンダイ・ビーチのうどん屋。 ずるずると「シーフードうどん」をすすって、身体を温める。1週間前までは暑くて暑くて、温かいうどんが食べたくなるだろうなんて予想すらしなかった。ところが春先の気候は不安定で、一度冷え始めると、どんどん寒くなっていく。

気味の悪い内容のCD-ROMを時間をかけてじっくりと見てから、博物館を出て食事をしました。<ハイドパーク・バラックス>という昔の刑務所(今は博物館になっています)のガーデン・カフェで、その煉瓦造りの建物を見ながら白ワインを一杯飲み、焼き野菜のリゾットと野菜サラダを食べました。なかなかおいしかった。勘定は25オーストラリア・ドルです。日本円にすると約1500円。ワインは「コックファイターズ・ゴースト」というものでした。セミヨン、98年。悪くないワインです。

オーストラリアのワインの質はなかなかのものですよ。よほど安物でもない限り、がっかりすることがない。

8時になってホテルを出て、近所のコンビニで新聞を買い、愛想のいいトルコ人のおじさんがやっているカフェに入って朝食を食べる。今日は土曜日なので、いつも行くカフェはどれも開いていない。野菜のオムレツとトーストとコーヒー。パンはトルコ風である。オムレツは「とてもきれいにできている」とは言い難いけれど、味はさっぱりして悪くないし、なにより野菜がたっぷりと入っている。夫婦で経営している店らしく奥さんが奥で料理を作っている。とんとんとんと野菜を刻む音がこちらまで聞こえる。全部で12ドル。

シドニーの街にはトルコ人のカフェとか、ギリシャ人のカフェとかもいっぱいある。エスニック料理の店が本当に多いのだ。 

休憩時間にホットドッグとコーヒーで簡単に食事をすませる。ホテルから持ってきたリンゴも齧る(コンピュータを盗まれたおわびにホテルがフルーツ・バスケットを贈ってくれた)。水もたくさん飲む。

朝食がわりに部屋にあるコーンフレークと果物を食べる。

どうせ今日の夕飯は競技場にいて、ろくなものは食べられないだろうからと思って、お昼ご飯に近所の日本料理店でしっかりとボックスランチを食べておく。17ドル。天ぷらと刺身と揚げ出し豆腐と魚の照り焼き。それからセントラル駅のカフェで持ち帰りのサンドイッチを買う。コーンビーフとチーズのサンドイッチ、2ドル90セント。

駅の売店で面白そうな本があったので買い求める。『オーストラリアの短い歴史』と『探検家たち』。後の方はオーストラリアの奥地を探検した人々が書き残した文章を集めたアンソロジーである。僕の読んだパトリック・ホワイトの『ヴォス』のモデルになったドイツ人の探検家、ラドウィグ・ライカートの書いた文章も載っている。電車の中でぱらぱらと読んでみる。

カフェでコーヒーとブレッド・バスケットの朝食をとる。12ドル。初めて入るカフェだが、ほかのところに比べるとちょっと高い。

市内に戻り、その足でダーリング・ハーバーから中心地へと出る。失われた携帯電話を探して空しく警察をまわって、おかげで昼ご飯を食べ損ねていたので、ダーリング・ハーバーのシーフード・レストランに入り、ソードフィッシュのグリルと、野菜サラダを食べる。とにかく野菜サラダが無性に食べたかった。勘定は48ドル(3000円弱)。味はよかったけれど、ウェイトレスはほとんど口をきかない。今日はどの店に入ってもウェイトレスの機嫌がよくない。

(中略)

しかしオーストラリアのレストランの料理は、都会でも田舎でも、どこで食べても悪くない。ぜんぜん悪くない。少なくともアメリカやイギリスの同等のレストランで出される料理に比べたら、比較にならないくらい質は高い。肉にしても野菜にしてもシーフードにしても、材料は新鮮で、味つけもさっぱりしていて、しつこくない。過度に凝った料理は出てこないけれど、普通に調理されたものが美味しい。オーストラリアは食べ物が美味しいと聞いていて、「ほんとかよ」と半信半疑だったんだけど、疑って悪かった。本当です。

いったいどのような過程を経て、このように料理の質が全体的に高く維持されることになったのか、とても知りたい。だってこう言っちゃなんだけど、服装だってどっちかと言うと(言わなくても)あまりファッショナブルとは言えないし、洗練された刺激的な文化によってその名を広く知られているお国柄というのでもないのに(むしろその逆なのに)、レストランの料理はいける。ワインもおいしい。ビールもおいしい。

村上春樹著『シドニー!』より

チンパーティ 内館牧子『女盛りは意地悪盛り』

車社会に引っ越してさみしいのは、出かけた先で気軽に飲めなくなったことだ。「自分チ」か、「人んチに泊まるとき」が唯一の飲酒の機会である。

(実際のところ、私の住むカウンティでは「1杯くらいのアルコール量まではOK」的なルールがあるので、たいていの人は外食で飲んでいる。ただし、DUIは日本よりもずっと重犯罪、即牢獄行き。)

内館作品との出会いは「ひらり」「私の青空」を毎日見ていたことから始まる。

著書は『養老院より大学院』がいちばん好きで、何度か買い直してしまった... 今は電子版があるので、海外にいても手にとれる。

「俺の田舎の山うどのうまさ、懐かしいよなァ。東京のうどは味がしないよ」

と言い、何人かの男子メンバーが「そうだ、そうだ」と同調した。

実は「うど」は東京が大産地なのだが、やはり故郷の味とは違うのだろう。女子メンバーは全員が東京か近県の出身だったが、男子メンバーは大学入学時に東京に出て来た人が圧倒的に多かった。そしてその席で、Aさんは、

「うまいうどの天ぷらとキンピラ食いたいなァ」

とため息をついたわけである。

ところが、シルクロードを取材するため、写真家の管洋志さんとスタッフと、中国の西安に向かったのが6月のことだった。西瓜シーズンの始まりで、市場でも露店でもすでに最盛期のような西瓜の山。リヤカーに積んで売り歩く行商も賑やかだった。

到着したばかりの私たちは、暑さと人いきれの市場を歩きながら、決して美しいとはいえない店に入り、西瓜ジュースを飲んだのだ。そのおいしかったこと!たぶん、「メロンのとこ」も使っているのだろう。青くさくて甘くて、おいしいの何のって、私たちは全員がハマってしまった。

ある時など、「喜び組」の1人と青葉山界隈をドライブした。そして、お茶を飲もうということになり、店に入った。彼は運転するので、当然、

「僕、ジュースにする」

と言った。将軍様は何も考えずに、当然、

「私はビール。そうね、肴はホタルイカ」

と言った。

そして、その「チンパーティ」の前夜、メンバーのA子から、何を持って行こうかと電話があった際、私はつい言った。

「掟破りだけど、私、サラダだけ作っとくわ」

するとA子、叫んだ。

「えーッ、サラダ作ってくれるの? 本当? 泣けてきた…」

たかだか野菜をちぎるだけで、この感動だ。女の可愛さも極まれりではないか。A子は次に言った。

「乾き物はあるの?」

何よりも先に「乾き物」と言う発想が貧しくて、泣けてくるではないか。私はすぐに答えた。

「あるある! 仙台の牛タンジャーキーもあるし、ピーナツもあるし、柿の種もあるわ」

「そんなにあるの?」

「うん。サキイカとホタテの薫製もある」

「すごい…… 。 あなたの食生活って充実してるのね」

(中略)

そして当日、A子はプラスチックの器に作りたての「明太子パスタ」を詰めて、胸を張ってやって来たのである。私はといえば、ここは掟破りでも致し方ないからと、フライパンとオイルを用意して待っていた。私の自宅に着くまでに、パスタはくっついているはずで、もう一度火を通すしかないと思っていた。

しかし、到着したA子は、

「ヘーキ、ヘーキ。チンすりゃオッケーよ」

と言う。そして、チンしたら、何とくっついたパスタはアッという間に離れてしまった。あぶった海苔をかけると、ほとんど作りたてのおいしさである。私とB子は、A子によって改めて「チン」の偉大さを確認させられたのであった。

彼女が私の家に来た時は、私が作るしかないので作るが、常に秋田のキリタンポ鍋である。大きな土鍋に、市販のキリタンポと市販の出し汁を入れ、野菜と比内鶏をぶちこみ、

「アタシの故郷、秋田のキリタンポ鍋にしたわ」

と言えば、猛暑だろうが、残暑だろうが鍋料理を出す立派な理由になるわけで、つくづく故郷が「鍋どころ」で助かっている。

 

その料理上手のトミちゃんが、深夜の電話で何気なく言った。

「今日はひじきをたくさん煮たの。大豆と油揚げをたっぷり入れて」

それを聞き、私は猛然とひじきの煮たのが食べたくなった。

内館牧子著『女盛りは意地悪盛り』より

サンドイッチとコーヒー 村上春樹『色彩を持たない、多崎つくると、彼の巡礼の年』

この本を読んで「かもめ食堂」を思い出し、今、そばで流している。

「かもめ食堂」は折々に見返したくなる不思議な作品。

ところで、村上作品を読んだのは久しぶりだったが、メタファーに富んでいることに驚く。質問サイトで彼の戦争や原発に対する意見を読み、TIME 100にiconの1人として選ばれたことがサイドの情報としてあるからかもしれないが...

かもめ食堂

かもめ食堂

  • 小林聡美
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食べることにはほとんど注意を払わなかった。空腹を感じると、近所のスーパーマーケットで林檎や野菜を買ってきて齧った。あるいは食パンをそのまま食べ、牛乳を紙パックから飲んだ。眠るべき時間が来ると、ウィスキーをまるで薬のように、小さなグラスに一杯だけ飲んだ。

灰田は料理が得意だった。音楽を聴かせてもらう御礼にと、彼はよく食材を買ってきて、キッチンに立って料理を作った。調理器具も食器も、姉がひと揃い残していってくれた。つくるは他の多くの家具と同じように、また彼女の以前の男友だちから時々かかってくる電話と同じように(「すみません。姉はもうここには住んでいないんです」)、それらを引き継いだだけだ。二人は週に二回か三回夕食をともにした。音楽を聴き、様々な話をしながら、灰田の作った料理を一緒に食べた。その多くは簡単にできる日常的な料理だったが、休日には時間をかけて凝った料理に挑戦することもあった。味はいつも素晴らしかった。灰田には料理人としての天性の才能が具わっているようだった。プレーン・オムレツを作らせても、味噌汁を作らせても、クリームソースを作らせても、パエリヤを作らせても、どれも手際よく気が利いていた。

「物理学科に置いておくのは惜しいな。君はレストランを開くべきだよ」、つくるは半分冗談でそう言った。

週末の夜、灰田はつくるのマンションに泊まっていくようになった。二人は夜遅くまで話し込み、灰田は居間のベッド兼用ソファに寝支度をととのえて眠った。そして朝にはコーヒーを用意し、オムレツを作った。彼はコーヒーにはうるさく、丁寧に焙煎された香ばしいコーヒー豆と、小さな電動式のミルを常に持参した。コーヒー豆に凝るのは、貧乏な生活を送っている彼にとってのほとんど唯一の贅沢だった。

つくるは例によって一杯だけワインを飲み、彼女がカラフェの残りを飲んだ。アルコールに強い体質らしく、どれだけ飲んでも顔色はほとんど変わらなかった。彼は牛肉の煮込み料理を選び、彼女は鴨のローストを選んだ。メイン・ディッシュを食べ終えると、彼女はずいぶん迷ってからデザートをとった。つくるはコーヒーを注文した。

彼はその本に意識を集中し、別の世界に心を移しているように見えた。しかしつくるが顔を見せるとすぐに本を閉じ、明るい笑みを浮かべ、台所でコーヒーとオムレツとトーストを用意した。新鮮なコーヒーの香りがした。夜と昼とを隔てる香りだ。二人はテーブルをはさみ、小さな音で音楽を聴きながら朝食をとった。灰田はいつものように、濃く焼いたトーストに薄く蜂蜜を塗って食べた。

十二時五分前にアオはスターバックスに現れた。

「ここはうるさい。飲み物を買ってどこか静かなところに行こう」とアオは言った。そして自分のためにカプチーノとスコーンを買った。つくるはミネラル・ウォーターのボトルを買った。

一時間ほどかけて買い物を済ませたあと、少し休みたくなって、表参道に面したガラス張りのカフェに入った。窓際の席に座り、コーヒーとツナサラダのサンドイッチを注文し、夕暮れの光に染まった通りの風景を眺めていた。

カフェでは人々はビールやワインを飲み、談笑していた。丸石敷きの古い通りを歩いていると、どこからともなく魚を焼く匂いが漂ってきた。それは日本の定食屋で鯖を焼いている匂いに似ていた。つくるは空腹を感じ、匂いを辿るように、狭い横町に入ってみたが、その源を特定することはできなかった。通りを行き来しているうちに、やがて匂いは薄らいで消えてしまった。

食べることについてあれこれ考えるのが面倒だったので、彼は目についたピツェリアに入り、屋外のテーブルに座って、アイスティーとマルゲリータのピッツァを注文した。沙羅の笑い声が耳元で聞こえてきそうだった。飛行機に乗ってわざわざフィンランドまで行って、マルゲリータ・ピッツァを食べて帰ってきたのね、と彼女は言っておかしがるだろう。

でもピッツァは予想を超えてうまかった。本物の炭火の窯で焼いたらしく、薄くてぱりぱりとして、香ばしい焦げ目がついていた。

その気取りのないピツェリアは家族連れや、若いカップルでほぼ満席だった。学生たちのグループもいた。みんなビールかワインのグラスを手にしていた。多くの人が遠慮なく煙草を吸っていた。見回した限りでは、一人でアイスティーを飲みながら黙々とピッツァを食べているのは、つくるくらいだった。

ハメーンリンナの街に着いたのは十二時前だった。つくるは駐車場に車を駐め、十五分ばかり街を散策した。それから中心の広場に面したカフェに座ってコーヒーを飲み、クロワッサンをひとつ食べた。クロワッサンは甘すぎたが、コーヒーは濃くてうまかった。

キャビンの中には誰もいなかった。テーブルの上にはコーヒーカップがひとつ、ページが開きっぱなしになったフィンランド語のペーパーバックが一冊載っているだけだった。どうやら彼はそこで一人で本を読みながら、食後のコーヒーを飲んでいたらしい。彼はつくるに椅子を勧め、自分はその向かいに座った。本にしおりを挟んでページを閉じ、脇に押しやった。

「コーヒーはいかがですか?」

「いただきます」とつくるは言った。

エドヴァルトはコーヒーメーカーのところに行って、湯気の立つ温かいコーヒーをマグカップに注ぎ、つくるの前に置いた。

「砂糖とクリームはいりますか?」

「いいえ、ブラックでいいです」とつくるは言った。

エリは彼に夕食まで残っていくことを勧めた。

「このあたりではよく太った新鮮な鱒がとれるんだ。フライパンで香草と一緒に焼くだけのシンプルな料理だけど、なかなかおいしいよ。よかったらうちの家族と一緒に食事をしていって」

白髪のウェイターがやってきて、沙羅はレモン・スフレを注文した。デザートを欠かさず食べながら、彼女が美しい体型を保ち続けていることに、つくるは感心しないわけにはいかなかった。

ウェイターがレモン・スフレとエスプレッソ・コーヒーをテーブルに運んできた。彼女は熱心にそれを食べた。どうやらレモン・スフレを選んで正解だったらしい。つくるは彼女のそんな姿と、エスプレッソ・コーヒーから立ち上る湯気を交互に眺めていた。

「それはそうと、スフレを一口食べない? とてもおいしいわよ」

「いや、君が最後の一口まで食べればいい」

沙羅は残ったスフレを大事そうに食べ終え、フォークを置き、口元をナプキンで丁寧に拭い、それから少し考えていた。

歩き疲れると、あるいは考え疲れると、カフェに入ってコーヒーを飲み、サンドイッチを食べた。

夕方になると、オルガが勧めてくれた港の近くのレストランで魚料理を食べ、冷えたシャブリをグラスに半分飲んだ。

暑い一日になりそうだった。エアコンのスイッチを入れ、コーヒーをつくって飲み、チーズ・トーストを一枚食べた。

プールから帰って、半時間ほど昼寝をした。夢のない、意識をきっぱり遮断されたような濃密な眠りだった。そのあと何枚かのシャツとハンカチにアイロンをかけ、夕食を作った。鮭を香草とともにオーブンで焼いてレモンをかけ、ポテトサラダと一緒に食べた。豆腐と葱の味噌汁も作った。冷えた缶ビールを半分だけ飲み、テレビで夕方のニュースを見た。そのあとはソファに横になって本を読んだ。

新宿駅を出て、近くにある小さなレストランに入り、カウンター席に座ってミートローフとポテトサラダを頼んだ。そしてどちらも半分残した。まずかったわけではない。そこはミートローフがうまいことで有名な店だった。ただ食欲がなかったのだ。ビールをいつものように半分だけ飲んで残した。

村上春樹『色彩を持たない、多崎つくると、彼の巡礼の年』より

63個のミートボールの縁 Jason Priestley: A Memoir

ビバヒルのジェイソン・プリーストリーが昨年出したメモワールから。

後半2つのエピソードはなかなか印象深かった。

彼はカーレースの事故で生死をさまようのだが、家に戻ってしばらくの間、毎日昼いっぱいかけて料理に挑戦し続けたのは良いリハビリだったと。

また、配偶者のNaomiさんと63個もガーリック・ミートボールを作ってしまい、隣人を招いて5時間ディナーを決行した楽しい思い出。(隣人オチもいい)

この本は、彼の善人ぶり全開でなかなかよかった。

感想文はこちら。 

Lunch was always raw almonds, millet, greens… which funnily enough seems quite trendy and acceptable now. But back in the age of processed foods? It was simply unheard of.

Being big foodies, Naomi and I both were quite picky about the reception menu, and it more than exceeded our expectations. A huge pile of stone crab claws, literally four feet high, and every kind of seafood pulled directly out the nearby Caribbean waters were exquisite. The amount of food was overwhelming and every bite of it delicious.

When I came home, I would leaf through one of the many cookbooks in the house and settle on one of the most complicated, involved recipes I could find. I only chose dishes that before the accident I simply had not had the time to tackle. I was free to spend all day preparing coq au vin or cassoulet. My entire challenge for every afternoon was to make dinner. Trust me: at the time, creating these dinners was always a four- or five-hour ordeal.

I mixed and measured, sliced, chopped, and pureed. The math involved in measuring ingredients or adapting recipes gave my brain a good workout. Cooking is all about timing and multitasking. It was not easy, and there were some major mishaps along the way, but my reward was usually a delicious dinner. Meal preparation became a huge part of my rehabilitation and something that carried on well after my recovery. To this very day, when I'm home, I'm the cook.

I was spending all my afternoon in our big old kitchen with the original 1928 cabinetry - though it had a modern range and refrigerator. It was such a fantastic room, the best place in the house. Naomi and I both loved coking or just hanging out in there.
One day we made roasted garlic meatballs, a phenomenal recipe but ridiculously complicated and time-consuming. Somehow, we didn't realize that we would wind up with thirty-six meatballs. We were faced with this ridiculously huge mound of meatballs. "Crap, honey, what are we going to do with all this freaking food?" I asked her.
"I know!" Naomi said. "I'll run over and ask the neighbors if they'd like to have dinner with us." Jack and Dennis were partners, in work in life; we'd spoken briefly to them out on the street the day we moved in. I thought inviting them was a great idea so we both put on our shoes, went down the fifty-two steps, and crossed the street to knock on our neighbors' door.
"Hi, guys! We made way too much food. Can you come over and help us eat it?" Our neighbors accepted and showed up a few minutes later. I headed to the wine cellar and started pulling corks, and dinner with our new friends began. It turned into an unbelievable five-hour-long feast, and they literally rolled themselves home. (It wasn't until years later that they told us they had already eaten a big meal that night, but wanted to connect, so they came over for dinner anyway and stuffed down some meatballs.)
After that we saw them frequently - generally starting around happy hour. I'd get a cheese plate and pâté
 going, and they would drop by after work.

Jason Priestley, Jason Priestley: A Memoir