たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

日本語を話すチャーミングなジーザス、岡田光世氏「ニューヨークの魔法」シリーズ

初めて読んだ岡田氏の著書は岩波新書の「アメリカの家族」
現場に即した家族の形のルポを実に刺激的だと思った。
その後、多くのファン同様、書店で素敵な装幀にひかれて手にとった「ニューヨークの魔法シリーズ」。
シリーズ3冊目からは電子版を購入。

彼女のニューヨークエッセイを読んでいると、優れたクリスチャンだなあ、お会いしてみたいなあ、と思う。
見知らぬ人から一目で気に入られたり、有機的な言葉のかけあいをしたり、長く豊かな友達付き合いをしたり、といったあたたかいエピソードが多いのだが、それらを読むと、彼女の中にJesusが生きているのが分かるから。
特に子どもはそれが直感的に分かるし、まだ神さまとの間にはだかるけがれも少ないから「あなたが好き」とポンと彼女に抱きついていく。
次作が楽しみだ。 

おじさんは苦笑いしながら、うなずく。
おい、腹減ってないか。
そういえば、ランチも食べずに、ずっと写真を撮り続けていた。
聞かれて、お腹が空いていたことに気がついた。
ホットドッグ、食うか。
ここにはプレッツェルだけでなく、ホットドッグもあったのか。
じゃあ、ひとつ買うわ。
マスタードとケチャップは?
両方、お願いします。
ホットドッグを受け取り、お金を払おうとすると、強い口調でおじさんが言った。
金なんか要らないよ。あんたが食べたい、と言ったわけじゃない。
I offered.
俺が言い出したんだ。
おじさんの思いがけないやさしさに、久しぶりに口にした屋台のホットドッグは、こんなに美味しかったか、と思うほどの味だった。

先生はいつも、私がお金を払うことを頑なに拒む。店に入ると、先生はアボカド・サンドをさっと選ぶ。私があれこれ迷っていると、大きなサンドイッチを指差して、これにしなさい、と先生っぽい口調で言う。はっきりしたやや強い言い方なのに、私にはとてもかわいく聞こえる。
サーモン・サンドイッチが美味しそうだったのでそれを手にすると、もっと大きなサンドイッチを指差して、怒ったように言う。そんなのを買わないで、これにしなさい。
でも、これが食べたい、と5回ほど主張すると、先生は苦笑し、しぶしぶあきらめる。大きくて、もっと高いサンドイッチを食べさせたい、と思ってくれているのだろう。

人気メニューは何?
パネリ(Panelli)とヴァステッダ(vastedda)。どっちもシチリア名物よ。
パネリはひよこ豆、バステッダは牛のここ、と自分の脇腹に当てた手を上下させる。
味見してみる? すぐに答えずにいると、持って来てあげるわ、と去っていった。
しばらくすると、イタリアンブレッドが山盛りのバスケットをテーブルに置いた。
せわしなく、料理を運びながら、あちこちでなじみの客としゃべっている。忘れているのだろうと思い始めた頃、試食用のふた皿を持ってやってきた。
パネリは薄い四角いコロッケのようで、豆の味がする。別の皿に載っているのは、黒っぽい内臓の切れ端だ。蜂の巣のように小さな穴がいくつも空いている。レモンも添えてくれた。
下手物好きの夫はもちろん、内臓に目を輝かせているが、私は試食で十分だ。
店頭に総菜が並んでいたのを思い出したので、あそこから、これを二つ、これを三つ、って注文してもいかしら、と聞くと、もちろんと答えてから、私をからかった。
Do you think this is a buffet or something?

私が店頭に行くと、この人は"ビュッフェ"だから、と担当の店員に彼女が笑って伝える。私はそこから、トマトとモツァレラチーズとナスの重ね焼き、エビとマッシュルームの詰め物を選んで、頼む。
夫のヴァステッダは、脾臓を具にした丸いパンバンズのサンドイッチだ。白いリコッタチーズと黄色いカチョカヴァロチーズがたっぷり挟まれ、厚さが十センチはありそうだ。

チャイナタウンの小籠包の人気店、ジョーズ・シャンハイ(Joe's Shanghai)は、その日も満席だった。外でしばらく順番を待ったあと、店の一番奥にある丸テーブルに通された。十人の相席だ。
熱々でジューシーな蟹肉入りの小籠包を、ジンジャーの千切りとともに、たれをつけてレンゲの上に載せ、中の汁を一滴たりともこぼさないように、慎重にほおばる。
今日は、灰の水曜日(Ash Wednesday)なんだよね。おでこに黒い十字を付けた人が結構、いたよ。夫にそう言われて、初めて気づいた。
その日から、キリストの復活を祝う復活祭(Easter)を迎える準備のときが始まる。復活祭の前の日曜日、シュロの日(Palm Sunday)に、礼拝でシュロが使われる。
シュロは燃やされ、翌年の灰の水曜日に、司祭がその灰を信者の額につけるのだ。キリストの受難をしのび、回心の印としてつけられたこの灰は、洗い落とさず、自然に消えるのを待つ。

アメリカでは、風邪といえばチキンスープを飲む。肉や野菜など噛まなければならないものが入っていれば、英語では飲む(drink)ではなく、食べる(eat)と言うけれど。
ゲイルのことだから、缶詰のキャンベルスープに違いない。彼女のキッチンには包丁もまな板もない。唯一の料理といえば、チキンかターキーを丸ごと一羽買い、それにガーリックやパプリカ、あらゆるパウダーをふりかけ、オーブンで丸焼きするだけだった。
ところが、会員制大型スーパーで、美味しい大きなロティサリーチキンが5ドルで買えるものだから、今ではそれをほぼ毎日、食べているらしい。並んでいるチキンを、かがんで真横から見比べ、一番高さのあるものを選ぶ。

コスコのチキンは私も好きだが、現在は6ドル弱に若干の値上がり。1回で1羽食べ切れるわけではないので、ほぐしたりカットしたり、処理が面倒なのが難点。

で、これがチキンスープ、と透明な円柱型のプラスチック容器を、ビニール袋から取り出す。野菜やチキンがたっぷり入ったちチャイニーズスタイルで、美味しそうだ。
最近、気に入って、よく買ってるのよ。ヌードルがいっぱい入ってるんだけど、やけに長いのよ。食べる前に短く切りなさい。
そうそう、アメリカ人はよく、ヌードルをナイフとフォークを使って、細かく切って食べている。
お箸があるから、長くても大丈夫よ、と言っても、ゲイルは首を傾げているけれど、風邪でだるくて説明するのも面倒なので、放っておく。
それと、ミツヨの好きな海藻(seaweed)が入ってるわよ、ほら。
容器の中でゆらゆら揺れているのは、どう見ても青梗菜だ。
Oh, is that it? Whatever.
え、それ、そうなの? ま、何でもいいわよ。
しかし、あのゲイルが野菜を食べている。よりによって、食べ物などとは思っていない海藻と勘違いして。
私が日本食を料理するのを気味悪そうに横目で見ながら、海藻? 野菜? ノー、サンキュー、お金をもらってもいらないわ、が口癖だったのに。

その夜、彼らの友人も招き、有機野菜たっぷりの夕食を用意してくれた。バターを取るなどちょっとしたことをアンに頼むときでも、ドンは必ず、Thank you, dear. (ありがとう)と愛情のこもった言葉をかける。

最後の日、一緒に映画「硫黄島からの手紙」を観た。ドンがビデオを持っていた。日本兵の視点で描かれた作品なのに、あれはよかった。また観てもいい、と言ったのだ。
アンが、レモネードとチーズ、クラッカーを持ってきてくれた。

翌朝、ドンがいつも食べていた朝食を作ってあげるわね、とアンが私に用意してくれた。チーズ入りスクランブルドエッグと、ストロベリーとグレープのジャムを添えたトースト。インスタントのネスカフェ、コーヒーには、クリーミングパウダーを入れて。
ミツヨ、ドンがいつもすわっていた場所にすわって。

岡田光世著『ニューヨークの魔法の約束』

刊行から20年近くたつが、今でも日本の家族事情から見れば、まだまだ十分に新鮮なはず。

日野原先生の「精神的知的青春期」

アメリカへ留学した時、私は39歳でした。日米講和条約が締結された年で、米国メソジスト教会関係で奨学金を出して留学生を募集し、神学以外の領域でも若干とるというので、志願して受験しました。難しかったけれど、とにかくパスしたのです。年齢制限が40歳だったからぎりぎりでした。
憧れのアメリカ大陸を目の前に、サンフランシスコのゴールデン・ゲートを船がくぐった時には、デッキの上で私は興奮の余り身震いをしました。
奨学金は月に60ドルだったから、生活は大変でした。食べるものから切り詰めなくてはならない。朝と夜はパンと牛乳とバナナくらい。牛乳は嫌いだったけれどタンパクはとらなくちゃいけないと思い、無理に飲みました。昼は一番安い所で毎日毎日ハンバーガーを買って食べるという生活で、食費は1日1ドル50セントぐらいであげました。

そのアメリカ留学はわずか1年、エモリー大学にいたのは正味10か月で、あとの1か月半は父が学んだと同じ北カロライナ州のデューク大学の内科で、ステット教授の回診やカンファレンスに出て、非常に啓蒙されました。そしてその後の1か月はアメリカ各地を旅行しました。39歳にもなっての留学で、この時私が得たものは、非常に大きかったのです。本当に、毎日毎日、自分の身長が伸びるような思いでした。

日野原重明著『今日なすべきことを精一杯!』

東海岸から六甲まで 村上春樹著『辺境・近境』

家の保持がロンの役割なら、スーは料理の担当である。彼女は素晴らしい朝御飯を作ってくれる。キャロット・ブレッド、ピーカン・マフィン、グラノーラ、パンケーキ、ぜんぶ手作りで、大変においしい。ここはいわゆるベッド・アンド・ブレックファストで、食事は朝しか出ないが、毎朝この朝食を食べるのが楽しみだった。(イースト・ハンプトン)

教会の前の大きな広場では市が立っているが、これは地元住民のための必需品や食品を売っている市であって、我々の興味をそそるようなものはあまりない。売っているのは干し魚、さとうきび、椰子の実、レモン、バナナ、といったものである。僕はここの屋台で茹でトウモロコシと卵のタコスというのを食べた。卵のタコスというとなんだかおいしそうだけれど、要するに冷えたゆで卵をトルティーヤで巻いて食べるだけのものである。はっきり言って、べつにうまくもなんともない。
それから物売りの女の子から小さな飾り紐をふたつ、500ペソで買った。(サン・ファン・チャムラ、メキシコ)


彼はトロントから1時間くらいの距離にある山の中に隠遁用のコテージを持っていて、僕らはそこに泊めてもらった。ずいぶん山深いところで、ビーバーやヤマアラシや鹿、狼、ラクーンなんかが出てくるということである。ワインを飲み、ボブ・ディランの古いレコードを聴き(そう、我々はその世代なのだ)、サーモンを焼き、庭で摘んできたアスパラガスを食べた。

1日の平均走行距離はおおよそ500キロ。2人で交代で運転し、どこから眺めても非印象的なモーテルに泊まり、朝にパンケーキを食べ、昼にはハンバーガーを食べる。毎日が同じことの繰り返しだ。

西部のたいていの金鉱の町は、今ではみんなゴーストタウンになっているが、このウォーレンだけは今でも現役の金鉱の町である。というか、現役のゴーストタウンである。というのは、ここにはまだ人が20人くらい住みついて細々と金を掘っているからだ。だからそういう人たちを相手にする小さなサロンみたいなバーが一軒だけある。それ以外には店もなにもない。生活物資はヘリコプターで運ばれてくる。この町にいると、なんだか歴史の流れに置き忘れられた場所にふらりと入り込んでしまったような気がする。僕はこの町のバーに入って、冷たいバドワイザー・ドラフトを飲んで、マッシュルーム・ハンバーガーを食べた。ウェイトレスは特に冷酷ではなかったけれど、「食べ終わったらすぐに出て行っていいんだよ」というような感じではあった。

となりの阪急岡本駅に着いたら、そこでどこでもいいから喫茶店に入ってモーニング・サービスの朝食でも食べようと思う。考えてみれば朝から何も食べていないのだ。でも実際には、朝から開いている喫茶店なんてどこにも見あたらなかった。そうだ、ここはそういう種類の町ではないのだ。しかたなく国道沿いのローソンでカロリーメイトを買い、公園のベンチに座ってひとり黙々とそれを食べる。そして缶入りのコーヒーを飲む。
(中略)
その次の御影駅にも、残念ながらモーニング・セットは存在しなかった。僕は温かい濃いコーヒーと、バターを塗った厚切りのトーストを深く夢見ながら阪急電車の線路に沿って黙々と歩き続け、相変わらずいくつもの空き地といくつもの建築現場を通り過ぎる。
(中略)
阪急六甲駅前で、ささやかに妥協をしてマクドナルドに入り、エッグマフィン・セット(360円)を注文し、深い海鳴りのような飢えをようやく満たし、30分の休憩をとる。

映画館を出るともう夕方近くになっている。散歩がてら山の手の小さなレストランまで歩く。ひとりでカウンターに座ってシーフード・ピザを注文し、生ビールを飲む。(中略)
運ばれてきたシーフード・ピザには「あなたの召し上がるピザは、当店の958,816枚目のピザです」という小さな紙片がついている。その数字の意味がしばらくのあいだうまく呑み込めない。958,816? 僕はそこにいったいどのようなメッセージを読みとるべきなのだろう? そういえばガールフレンドと何度かこの店に来て、同じように冷たいビールを飲み、番号のついた焼きたてのピザを食べた。僕らは将来についていろんなことを話した。そこで口にされたすべての予測は、どれもこれも見事に外れてしまったけれど……。(中略)
2杯目のビールを飲みながら、『日はまた昇る』の文庫本のページを開き、続きを読む。失われた人々の、失われた物語を。僕はすぐにその世界に引き込まれる。

 村上春樹著『辺境・近境』より

イタリヤのスパゲッティ 三浦光世著『綾子へ』

船酔いしないのは「揺れに対して抵抗しないから」ではないか、という考察は興味深い。

午後1時札幌を発ち、4時半登別着、登別では中級の五色旅館に泊まった。この宿はこのちに焼失した。もし焼けなければ2人で再訪したことであろう。この旅館で夕食にブリの刺身が出た。翌25日の朝食にもまたブリの刺身だった。昨夜の残りではないかと思った。朝食を摂らぬ私は、このブリの刺身は食べず、綾子だけが食べた。

大きな客船であった。乗客たちはみな吐きつづけていた。私も苦しくて横になって耐えていた。
が、1人綾子は平気で、弁当の海苔巻きであったか、旨そうに食べていた。おそらく子供のように、揺れに対して抵抗しないからではないかと思った。

6時、燭火礼拝と注文の親子どんぶりで、ささやかにクリスマス・イブを祝う。

しかし、朝からの準備は何といっても大変だ。食事担当のスタッフたちも忙しい。昼食は店屋ものの握り飯を出す。が、20人からの味噌汁、ポテトサラダ、ハムなどを添えなければならない。この昼食時がまた楽しい。

食物には副作用はなく、綾子は何でもよく食べた。彼女が絶対に嫌ったものは、何であったろう。なかったような気がする。麺類も好きで、ソバ、ウドンも好んだ。私にはさほどうまいと思えないスパゲッティも好物のようで、取材でイタリヤに行った時、巧みにフォークを絡ませて食べていたのを覚えている。

トロロも好きなものの一つだったので、私はよく長芋を擂りおろし、熱いタレをかけて搔きまぜ、本格的なトロロ汁を時々作ってやった。むろん、彼女自身、私に作ってくれた料理も、テンプラをはじめ少なくない。私の姪隆子が一緒に住んでいた頃は、むろんこの姪に何でも作らせていた。握り鮨も姪は中々上手に作り、綾子は実によく食べた。

私が作ってやったものの中では、蟹味噌の味噌焼がある。毛蟹の甲羅の中に味噌がある。この部分が一番うまいが、これに等量より少なめの生味噌を混ぜ、お湯を数滴垂らして火にかける。甲羅からもじわじわと脂が出て、実にうまい味になる。ご飯の上に少しずつ載せて食べると絶妙だ。綾子は喜んでよく食べたものだ。

朝食の粉ミルク以外は、昼食夕食共、七分搗き米の飯軽く一膳、味噌汁、野菜の煮付、ポテトフライ等であった。時にはパン食と、ポタージュスープを摂ることもあった。
ところで、綾子も私も果物が大好きであった。この点、実に似た者夫婦と言えた。バナナ、リンゴ、スイカ、サクランボ、ミカン類、アンズ、パパイヤ、メロン、イチゴ等々、果物であれば何でもよかった。間食には食べなかったものの、食後のフルーツとしてよく食べた。

綾子の好きなものに、トウモロコシ、南瓜、そして馬鈴薯があった。馬鈴薯は保存がきくので、毎日のように食べた一時期があった。(中略)
「ここで勤めさせていただいて、全く文句はなかったけど、只一つ、毎日じゃがいもの塩煮を食べさせられたのには、参りました」
そう言えば、ほとんど毎日馬鈴薯の塩煮が昼食に出た。わが家に勤務する者は当時から現在に至るまで、スタッフたちは皆、わが家の提供する昼食を摂ってきた。それにしても、来る日も来る日も、馬鈴薯の塩煮を食わされては、さぞかしうんざりしたことであろう。

その後、唐揚げ、イモサラダ、塩煮に澱粉を混ぜた団子など、変化することになったが、裕子秘書の率直な一言はありがたかった。食事の担当者は当時から現在までで4人目となる。どうしたわけか、3人目までの担当者たちは肉ジャガを作ったことがない。

わが家では、私が時に料理を作ることは先にも書いた。その中に掻き卵がある。綾子はこれが好きで、よく作ってやった。料理というほど大げさなものではなく、ダシ汁を小さな鍋に適当に入れ、コンロにかけ、煮え立ってきたところへ、といてあった卵をさっと散らす。半熟そこそこで火をとめる。これででき上がり。これを飯の上にかけてもよいし、お菜として食べてもよい。これを綾子は好んで食べた。

三浦光世著『綾子へ』

シンプルごはん 渡辺葉『おさかなマンハッタンをゆく』

日経WOMAN連載時からの読者。大切な1冊である。

料理は苦手だからと、ミレナはオーストラリアとニュージーランド名物のデザート「パブロヴァ」をつくることになった。これは固く泡立てたメレンゲを大きなリング型に焼いて、その上に苺やラズベリー、ブルーベリーなどの果物をかける、目にもきれいでふんわり軽いデザートだ。それじゃあ料理は私が、と引き受けて、さっそくメニューづくり。パーティーだから簡単につまめるものがいい。野菜のクルディテに、3種類のディップ。グリュイエール・チーズ入りのシュー「グージェール」も楽しいかもしれない。ほかには…サーモンのキーシュ? 中近東風ミートボール? ワインやシャンペンも買わなくっちゃ!
私たちのはじめてのパーティーは大成功だった。次から次へと20人ほどの友人たちが集まってくれ、みんなでしゃべり、笑い、踊った。

鼻の頭がキュン、と冷たくなるのを手袋をはめた手で抑えながら、アスター広場を横切った。
カフェに入りコーヒーとベーグルを注文する。胡麻のついたのを、トーストしてバターを塗ってもらう。オーディションで待ち時間が長いのは嫌ではない。こうしていったん外に出て一息いれたり、会場でウォームアップする時間があるほうがリラックスして臨めるから。朝ごはんを終えて会場に戻ると、リストにはさらに人が増えていた。

セント・マドンナ山の公園内にはところどころに木のテーブルとベンチがあり、石でつくったかまどがあった。火をおこし、とうもろこしを焼く。山の上は空気もひんやりして、杉の木立から降り注ぐ日射しが気持ちいい。そばの水道に水を汲みにいく。家族で山に行くなんて、子供のころ以来だ。火のところに戻ると、弟がクーラー・ボックスから取り出したチョリソ・ソーセージを焼こうとしていた。ところがこのソーセージ、焼くと溶けてきてしまう。しかたがないので鍋でトマトと一緒に煮ることにした。
さて、こういうときにはやはり冷たいビールだ。筋金入りのビール呑みの父を喜ばせるのは結構大変なのだが、弟が持ってきたサンフランシスコの「アンカー・スチーム」という銘柄のビールは気に入ったらしい。これは琥珀色の苦みのきいたビールで、黄金色で軽い日本のビールとギネスのように強い黒ビールの中間くらいのコクがある。鍋のなかのチョリソ・シチューは怪しいオレンジ色にぐつぐつ煮えてきた。見た目はものすごいけれど、トルティーヤチップスにつけて食べると、熱くてスパイシーでなかなかおいしい。

渡辺葉著『おさかなマンハッタンをゆく』

ありがたいなさけ飯 福島敦子『就職・無職・転職』

いわゆるメディアで話すアナウンサーというのは努力したからといってなれる職業ではないだろう。福島氏が就活をしていたネットなき時代ならなおさらだ。そういう中での極限までの努力に驚嘆した。脱帽。

最初は厳しかった先生もゼミが開講してしばらくすると、週末に何回か私達を世田谷の自宅に招いて夫人の手料理をふるまってくれるようになった。ジャガイモをつぶすところから作りあげたコロッケ、和風の野菜の煮込みといった、どれも心のこもったもので、学生食堂の味に慣れた胃袋には、この上ないおいしさだった。

寮の食堂といえば、どうしても味が単調になりがちなのが一般的だが、おじさんのつくるものは、どの品をとっても文句のつけようのないおいしさだった。
さばの味噌煮や芋の煮っころがしといった和風から、グラタンや鮭のムニエルといった洋風おかずまで、レパートリーは広く、味も天下一品である。
おじさんの優しい人柄と、心のこもった暖かい手料理のおかげで、うら若き乙女(?)のひとりぼっちの夜の食事の淋しさはまぎれ、疲れ切った身体もやがて蘇生してくる。

何せ無輸入の身なので、無駄遣いは絶対に禁物と、外食をすることはなかった。自炊にしても、できるだけ安くて、お腹がふくれるものということで、よくお世話になったのは「もやし」。一つのパックに結構たくさん詰まっていて、値段も20円から30円という安さは他にはない。

所持金が減る一方の私にとって「もやし」の存在は、なくてはならないありがたいものだった。
「もやし」をベースにした献立は、その日の気分で幾通りにもなった。基本的にはフライパンで炒めるのだが一緒に入れる材料は、ある日は豚肉、少しだけ気持ちに余裕のある日はふんぱつして牛肉、またある日はニンジンやナスといった野菜だけ、時には「もやし単品」といったシンプルこの上ないメニューの日もあった。
くいしんぼうの私にとって、それまでは考えられなかったわびしい食生活で、よく耐えられたものだと思う。

私がお金に困っていたことは、アカデミーの友人たちもよく知っていたので、近くに来た時は必ずといっていいほど、ホットドッグやおにぎり、はてはプリンといったデザートの類まで差し入れてくれた。

紹介した料理は、決して贅沢品ではなく、きらびやかでもない。その土地にしっかり根ざし、そこで生活する人の知恵から生まれた”土”の匂いのする料理ばかりだった。
三重県志摩の漁師さんが、生の鰹の切り身を御飯にまぶして船の上で食べる「手こね寿司」、岐阜県高山の「ほう葉味噌」や「栗きんとん」、そして名古屋名物の「みそ煮込みうどん」。
こうした郷土料理のルーツを訪ね、昔ながらの味を守り続けている人たちに話を聞くのは、「食」を通してその土地の歴史をひもといていくような興味があった。

福島敦子著『就職・無職・転職』

<おまけ>
↓日本政府、何も変わってないじゃん。これ20年前(1995年)に出た本だよ…最低すぎる...

私が親しくしていたのはやはり一緒にいる時間が長かったルームメイトのキムとエレーナ。特にキムは同じアジアから来たということで、日本と韓国の関係について、ざっくばらんに話をすることが多かった。
キムは日本の最先端のテクノロジーをはじめとする戦後の急成長に、敬意をはらっていたが、人間としての日本人は好きになれないと言っていた。18歳ではあるが、やはり日本と韓国の悲しい歴史を、祖父や親から聞かされて育ってきたからだという。
戦後補償にしろ教科書問題にしろ、日本政府の対応には誠実さが感じられないと言うのだ。

喫茶店のナポリタンと被災地のおにぎり『絶唱』

ハアタフビーチに着くと、「そろそろお昼にしようか」と言われた。トンガダブ島、西の端の海岸は真っ白い砂浜に青い海、青い空といいかんじにわたしの理想に近づいてきた。
白人夫婦の経営するオープンスタイルのカフェで、尚美さんはわたしのと二人分、ハンバーガーを注文した。プレートの上には、バカでかいハンバーガーに溢れんばかりのフライドポテトが添えられていた。これが一人分かと驚いたけれど、この国の人たちの体型を思い浮かべると納得できる。顔より大きなハンバーガーに思い切りかぶりついた。

タロイモの蒸し焼き、タロイモの葉とコンビーフのココナッツミルク煮、パパイア。物珍しさ込みでおいしいと思ったけれど、これが毎日だと少しきつい。

小屋の中にいるトンガ人のおばさんに、「マロエレレイ」と挨拶をして、厚手のクラッカーのようなものを指さした。「マーパクパク」とおばさんは言った。ビニール袋に20枚入って、60セント。セント? どうやら、いちいちパアンガと言わなくても、ドルで通用するみたいだ。缶コーラも指さした。日本で売っているのと同じだ。これは1パアンガ。おばさんは奥の冷蔵庫から冷たいのを出してくれた。

誰もいない砂浜に座って、コーラを飲み、マーパクパクを3枚食べた。意外とおいしい。ジャム、いや、ピーナッツバターを載せるともっとおいしいはずだ。

教会から帰ったあとは、朝から仕込んでいたごちそうを食べるらしい。
庭に出ると、こんもりと盛った土の上で乾燥した椰子の葉が燃えていた。たき火の匂いにココナッツミルクの匂いが混ざり、南の島の匂いが漂いはじめる。
普段着に着替えた男の子たちがスコップで火を消して、土を掘り起こすと、花恋の背丈より大きなバナナの葉が現れた。それをめくると、大きなイモとアルミホイルに包まれた料理が並べられていた。トンガの伝統料理「ウム」だ。イモはタロイモ、アルミホイルに包まれた料理はループル、尚美さんの部屋で食べたのと同じものだった。

できたてのループルは甘くて、しょっぱくて、南の島の味がした。裕太はココナッツミルクが苦手だけど、これなら、いや、ここで食べたらいけるかもしれない。花恋はおかわりをして食べている。

夕方からのパーティーにビーフカレーを100人分作ってほしいと頼まれたことがある。他のごちそうもあっての100人分だから、1人で作れない量ではない。

トンガ人たちだって、この牛を使ってもっと手のかかる料理を作らなければならないし、メインの豚の丸焼きだって準備しなければならない。が、勝負はここからなのだ。

メインに大きなロブスターがついてくるコースとニュージーランド産のワインを注文して、街中を散策したことを話した。

コンビニのおにぎりは好きじゃない。
米も海苔もほとんどの種類の具もおいしいけれど、その存在が好きとは言えない。だけど、世話にはなっている。多分、そこら辺の人の3倍くらいは、世話になっている。
テーブルに2個、おにぎりを置く。今日はシーチキンマヨネーズとおかかだ。
「花恋、おにぎり置いとくから、6時になったら食べるんやで。このあいだ、梅干しほじくりだして残しとったけど、今日は魚やから、絶対にやったらあかんで。子どもにはカルシウムが必要なんやからな」
5歳の子どもの夕飯に、おにぎり1つは少ないが、2つになると少し多いようだ。

「なんんか、コンビニ行くの面倒やし、1個はおやつにして、もう1個を晩ごはんにしてもええな。ポテチも残ってるし、今日の晩ごはんは、シュークリームとポテチに決定や。豪華やな」
「ヤッター」
花恋が両手をグーにして振り上げた。ガッツポーズとバンザイが合わさった、最強の喜びのポーズだ。
「シュークリームには卵と牛乳が入ってるから、カルシウムが十分にとれるし、ポテチはじゃがいもやから、野菜やし、栄養満点やな。そうや、一緒に牛乳も飲んどき。カルシウム祭や」

椰子の実にストローが刺さった飲み物を買う。ぬるくて、まずい。バナナケーキとミートパイを買う。まあまあ、おいしい。ボンゴというスナック菓子を買う。バーベキュー味。花恋はこれがお気に入りのようだ。

クジラは見られなかったが、シュノーケリングをして熱帯魚をたくさん見た。
おなかいっぱい、ロブスターを食べた。スイカとパイナップルも食べた。

セミシさんの写真が並ぶ部屋で、あたしは、セミシさんの奥さん、ナオミさんにセミシさんとの思い出を記憶の限り語った。
セミシさんの作ってくれる料理の中で、一番好きなのはやきそばだったこと。普通のソースやきそばのはずなのに、再現しようとすると、なかなかその味に辿りつけないこと。10歳だったあたしは子どもの中では年長のような気がして、おかわりはなるべくしないでおこうと遠慮していたのに、やきそばがおいしすぎて、つい、おかわりをしてしまったこと。どうぞ、と差し出されたおかわりのやきそばは、温かく、麺が少しこげておせんべいのようになっているところがあって、とてもおいしかったこと。
「あれはね、だしの素を入れていたのよ。かつおと昆布の合わせだし」
ナオミさんが種明かしをしてくれる。
「でも、スーパーに行ったけど、だしの素なんかありませんでしたよ」
「トンガにそんなもの、ないない。だしとか、うま味っていう概念はないはずよ。だからこそ、セミシはだしの味が大好きで、何にでも混ぜていたの」

パレードの最中に貧血を起こして倒れてしまったわたしを、尚美さんは背負って自宅に連れ帰り、洗い立てのシーツを敷いたベッドで寝かせてくれたあと、フレンチトーストとパイナップルジュースを作ってくれましたね。分厚く切った柔らかい食パンの中まで甘い卵牛乳がしみ込んで、おいしくてたまらなかったのに、わたしはフォークを置き、ごめんなさい、とだけ言って逃げ帰ってしまいました。

夕方、泰代が急に喫茶店のナポリタンを食べたいと言い出し、西宮駅前から商店街にかけてさんざん彷徨った末、商店街から自転車がぎりぎり通れるほどの路地に入り、なんとなく海側に向かってあみだくじのように歩き続けていると、営業しているかのかどうかもわからない、元は白だったと思われるグレーの壁に蔦のからまった喫茶店を見つけ、ダメ元でドアを開けて訊ねたところ、ナポリタンやってるよ、と仙人のようなおじいさんに言われ、作ってもらったのです。
おまえの職業は何なのだと、ボキャブラリーの貧弱さを笑われてしまうかもしれないけれど、美味しかった。すごく、美味しかった。

翌朝、3人でトーストとカップスープと魚肉ソーセージの朝食を取りました。テレビをつけると、死亡者の数が桁違いに増えていました。

背中に背負った大きなリュックにはまだ温かいおにぎりが数えきれないほど入っていて、アパートの他の部屋の子たちにも配りました。朝食は取っていたのに、しょうゆ味のよくきいたおかかのおにぎりは、胃袋にしみこむようなおいしさだった。
おいしいね、と涙を拭う人たちに、菊田さんは心から労るような目を向けたあと、わたしに言いました。

翌日は、夕方近くまで寝て過ごしました。何もしていないのにお腹はすき、すき焼きとちらし寿司をたらふく食べさせてもらいました。

 湊かなえ著『絶唱』