たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

三浦綾子『愛と信仰に生きる』

神のもとに帰ろうとするとき、聖書とともに氏の文章を読んで信仰の先輩たちの姿に励まされている。
『道ありき』と重複しているが、食べもの以外のメモも含めて上げておきたい。

この頃、戦時中の慰安婦が問題になっている。戦時中の日本軍のやり方は、人買いよりも恐ろしいものであった。今の今まで家族と一緒に食事をしていた妻が、突然踏みこんで来た男たちによって連れ去られる。母のふところに抱かれて、すやすや眠っていた赤子が引離される。「妻を返せ」と追って来る男が殴りつけられる。泣き叫ぶ子女たちは怒鳴りつけられる。
連れ去られた女たちは、人妻や娘の別もなく、兵隊や軍人軍属の相手を強いられ、時には1日何十人も相手にしなければならなかったという。戦後50年、この人たちに日本政府はいったい何をしたのか。いまだにろくに謝罪もせず、何の補償もしていない。もし私たちの1人1人の胸に、この痛ましい事実が自分のこととして感ずることができるなら、政府ももっと速やかに謝罪をし、補償に力を尽くさずにはいられなかったのではないか。
私は思う。戦後50年、日本の経済は豊かになったと聞く。しかし人間にとって、最も豊かなるべきものは、思いやりであり、優しさであろう。隣人のために、共に涙を流す優しさであろう。
私たちは慰安婦の現実を知らなかった。だから何も心を痛めなかった。だが、今はかなりの人々がそれを知っている。とは言っても、真に心を痛めている者はまだ決して多くはない。

戦争のために、おとなも子供も、腹一杯食べるということは、決してなかった。戦争が激しくなるにつれて、米が次第に不足になった。だから弁当を持ってくることのできない子もいた。いもやかぼちゃや、でんぷん団子を持ってきた子もいた。
お菜もむろんじゅうぶんではない、たくあん漬をふたきれか、みきれしか持ってこない子もいた。

もう一つ考えたことは、みそ汁給食である。いまは給食は珍しくはないが、当時、日本のどこにも給食はなかった。いってみれば、わたしのクラスが日本で初めて給食を始めたことになる。
その方法は簡単であった。当時どこの家でも、朝はみそ汁をつくった。そのみそ汁の実を、ほんのひとつまみずつ学校に持ってくる。ついでにみそも、ほんの少々持ってくる。というわけで、ダシもみそ汁の実も容易にそろった。それを、お昼近くになると大きな鉄鍋に入れて、教室のストーブにかける。弁当の時間にはみんなが持ってきたお椀に、でき上たった熱いみそ汁を盛りわけるのである。
これは大成功であった。何しろ、みそ汁の実がいろいろだ。大根あり、じゃがいもありというわけで、たくさんの実から出る味が、何ともいえないおいしいみそ汁をつくった。だから、自分の家では絶対みそ汁をのまない子が、大のみそ汁好きになったものだ。

ある日、胸の上におかれた食膳を手鏡にうつして、そこに二切れのカボチャの煮つけを見いだした時、
「ああ、秋になったのだわ」
と、わたしは、涙のこぼれる思いがした。
それはわたしをキリスト教に導いて下さった西村久蔵先生が召天なさった年の秋である。(中略)
しかし、先生を思いながら食べたそのカボチャが、俗にいうまさかりカボチャで、粉を吹いたような実に美味しいカボチャだった。こんなに逝った人を悲しんでいるのに、カボチャがこれほど口に美味しいとは、何と無情なことだろうと、思わずにはいられなかった。
先生がなくなってから、はじめて奥様が訪ねて下さったのは、10月も半ば頃であったろうか。
「西村のことをいろいろ憶えていて下さる方が、あちらこちらにいらっしゃって。昨日西村の好きなマツタケを送って下さった方も、一度もお会いしたことはないんですよ」
奥様はわたしのためにマツタケ飯をつくって持ってきて下さった。わたしはふとんをかぶって泣き、しばらくして顔を出すと、奥様もまぶたをあかくはらしていらっしゃった。
先生がお好きだったというマツタケ飯を、わたしは夕食の時にいただいたが、何の香りも味もなかった。あんまり泣いて嗅覚がすっかりにぶっていたのだろう。あれはいかにも身にしみて、わびしい秋の味覚ではあった。
サケ、バレイショ、トウキビなど、まことにおいしい秋のものではあるけど、わたしが舌の先ではなく、心の底にうけえとめた秋の味覚は、以上のカボチャとマツタケ飯であった。

結婚しても、わたしは500メートルぐらいしか歩けなかったし、ひるはほとんどねて暮らした。しかし、弁当だけは心をこめて作ったものである。紅しょうがで、ミツヨなどと白いご飯の上に文字を作ったり、
「光世さん、ごくろうさま、きょうのお魚ちょっとこげてしまったの。ごめんなさい。綾子」
と手紙を書いたりした。
彼もときどき、空き弁当に手紙を入れてくれた。
「綾子、きょうの煮付けの味は傑作だった。いかの塩からを入れたビニール袋をしばった黄色いリボンに、綾子の優しさを感じたよ」
そんな手紙をみると、わたしは飛びあがって喜び、そして日記帳にはりつけた。(中略)

しかし、わたしたちは、2人だけが仲よければよいという家庭を、作るつもりはなかった。むしろ、2人だけが仲よくすればよいというつもりなら、結婚することはないと思っていた。
結婚とは、2人がお互いにお互いをみつめ合うことではなく、2人で同じ人生の目標をみつめ、他の人々のために生きる家庭をつくることだと、わたしは思っていた。だから、わたしたちは何人かの病気の人に毎日のようにキリスト教の文書を送ったり、ハガキを書いたりした。2人が書く手紙はすべて、「三浦光世・綾子」と書いたものであった。

洗礼を受けてからどんなふうに変わったかと申しますと、たとえば、毎日、人のために祈るようになったということですね。

私たちの心も、他の人のために動いている状態にあることが、私、ほんとうの意味で生きている状態じゃないかと思います。
(中略)
私はそのときはただ寝てるだけしかないみたいでしたけれども、とにかく人のことを考えはじめましたら、なんていいますか、私の病室もまた、変わってきたんですね。
それまではあまり人のよりつかないような病室だったんですけれども、絶えず人が集まってくるようになりました。
考えてみるとおもしろいことだと思います。健康人が私を見舞いにくるというのなら、わかりますけれども、病人の私に慰めを求めにくるんですね。私が寝ているのですから、私が慰められるというのですと、まあ、ふつうかもしれませんけれども……。
(中略)
それまでは、ほんとうに私という人間は、なんといいますか、じっと自分の胸の中だけ、心の中だけをみつめていて、ああ、こんな生き方じゃつまらない、こんな人生じゃつまらない、死んだほうがいい、などという気持ちを持っていました。
けれど、人のために祈ろうと思い、神に向かって祈りはじめたときに、その私の心の中にあるものが、不思議なことに、他の人につたわっていったのです。

心というものは目に見えないもののようでありながら、実は一番敏感に、伝わるものであるということをつくづくと、私は感じました。だれも私に寄ってこない状態というのは、いったいどういう状態なのでしょう。それは、私がだれにも必要とされない存在であることを意味していると思います。私が自分のことばかり考えていて、人のことを考えてあげなかったときは、私はだれにも必要とされなかったわけなんです。

人を生かすということは、結局は、その人のよいものに目を向けてやることじゃないかと思います。つまり愛のまなざしを向けることではないかと思います。
三浦綾子著『愛と信仰に生きる』から

滅びの香り『細雪』

「その、烏賊のお料理と申しますと?」
と云う房次郎夫人の質問から、烏賊をトマトで煮て少量の大蒜で風味を添える仏蘭西料理の説明が暫くつづいた。

悦子の好きな蝦の巻揚げ、鳩の卵のスープ、幸子の好きな鶩の皮を焼いたのを味噌や葱と一緒に餅の皮に包んで食べる料理、等々を盛った錫の食器を囲みながら、ひとしきりキリレンコ一家の噂がはずんだ。

「今日カタリナのとこで晩の御飯よばれて来てんわ」
と云って夜おそく帰って来た。そして、露西亜人と云うものはとても健啖なのに驚いた、最初に前菜が出て、それから温かい料理が幾皿か出たが、肉でも野菜でも分量がえらく沢山で、ふんだんに盛ってある、パンでもいろいろな形をしたパンが幾種類も出るので、妙子は前菜を食べただけで好い加減お腹が一杯になったが、もう結構です、もう食べられませんと云っても、あなたなぜ食べません、これ如何です、これ如何ですと云っていくらでも勧めながら、キリレンコ達は盛に食う。その間には日本酒やビールやウォツカをぐいぐい飲む。兄のキリレンコがそうなのは不思議はないが、カタリナも、そして「お婆ちゃん」も、倅や娘に負けないくらい飲み且食う。そうこうするうちに九時になったので帰ろうとしたら、まだ帰ってはいけませんと云って、トランプを出して来たので、一時間ばかり相手をしていたら、十時過ぎになって又もう一遍お夜食が出たのには、見ただけでゲンナリしてしまったが、あの人達はそのお夜食を又しても食べて酒を飲む。その飲み方も、ウィスキー用の小さなコップに一杯注いで、ぐいと一と息に、飲むと云うよりは口の中へ放り込む。日本酒は勿論、ウォツカのような強い酒でも、そう云う風にぐい飲みをしないと旨くないと云うのだから、実に呆れた胃袋である。料理はそれほどおいしいものはなかったけれども、変ったものでは、支那料理のワンタンや伊太利料理のラビオリに似た、饂飩粉を捏ねたようなものが浮いているスープが出た。と、妙子はそんな話をして、
「今度はあなたの兄さんや姉さん逹御招待します、是非連れて来て下さい云うて、頼まれてるねん。一遍だけよばれてめえへんか」などと云った。

八時が打つとカタリナは立って台所の方へ行って、何かごとごとやっていたが、手早くいろいろなものを食堂に運んで、三人を其方の部屋へ呼んだ。貞之助逹は、テーブルの上に数々の前菜、− いつの間に用意してあったのか、鮭の燻製、アンチョビーの塩漬、鰯の油漬、ハム、チーズ、クラッカー、肉パイ、幾種類ものパン、等々がまるで魔術のように一時に出現して置き切れぬ程に並べられた光景を見ると、先ずほっとした形であった。カタリナは一人でよく働いて、紅茶を幾度も入れかえて出した。空腹を訴えていた三人は、目立たぬように、しかし相当に急いで食べたが、分量があまり豊富なのと、次々とすすめられるので、すぐ満腹を覚え始めて、時々そっと、テーブルの下へ来ているボリスに食べかけを投げてやったりした。

それに、発育盛りの年頃にしては前から食慾が旺盛でないのであるが、その傾向が募って来て、毎食一二膳しか食べず、お数も、塩昆布とか、高野豆腐とか、老人の食べるような物を好み、お茶漬にして無理に飯を流し込む。「鈴」と云う牝猫を可愛がって、食事の時は脚下に置いていろいろの物を与えるのであるが、少し脂っこい物は自分が食べるよりも大半鈴に遣ってしまう。

尤も、6人もの子供の食事を賄うのだから、お菜一つ買うのにも頭を使うと使わないとでは随分な違いになる訳であるが、賎しいことを云えば、お惣菜の献立なども大阪時代とは変って来て、シチュウとか、ライスカレとか、薩摩汁とか、なるべく一種類で、少しの材料で、大勢の者がお腹一杯食べられるような工夫をする。そんな風だから、牛肉と云ったって鋤焼などはめったに食べられず、僅かに肉の切れっ端が一片か二片浮いているようなものばかりを食べさせられる。それでもたまに子供たちが一立て済んでから、大人たちだけ別な献立で、兄さんの相手をしながらゆっくり夕飯を楽しむ折があって、鯛は東京は駄目だとしても、赤身のお作りなどが食べられるのはまあそんな時だけであるが、それも実際は、兄さんのためと云うよりは、夫婦があたしに気がねして、いつも子供たちのお附合いばかりさせて置いては雪子ちゃんが可哀そうだから、と云うようなことであるらしい。

「奥さん、あなたそれお上りになりますか」
と、貞之助は、シュトルツ夫人が膝の上にちらし鮨の皿を載せて、不器用に箸を使い始めたのを見つけると云った。
「あなたそんな物お上りになれんでしょう。御迷惑だったら止めて下さい」
そう云って貞之助は、
「おいおい、何かもっと、シュトルツさんの奥さんに食べられそうなもんないのんか」
と、見物席にお茶を配って廻っているお花に云った。
「ケーキか何かあったやないか。あのお鮨貰うて来て、外のもん持ってって上げなさい」
「いえ、わたし食べます。……」
と、シュトルツ夫人は、お花が鮨の皿を貰おうとするのを拒みながら云った。
「ほんとうですか、奥さん、あなたそれお食べになるんですか」
「ええ、食べます、わたしこれ好き。……」
「そうですか、お好きなんですか。……おいおい、そしたら匙か何ぞ持ってって上げなさい」
シュトルツ夫人は本当にちらし鮨が好きであるらしく、お花から匙を受け取ると、その皿のものを一粒も残さず平らげてしまった。

「そんでも、こないして食べるもんや云うこと、教せてもろてん」
「誰に」
「おッ師匠はんとこへ来る芸者の人に。-芸者が京紅着けたら、唇を唾液で濡らさんようにいつも気イ付けてるねんて。物食べる時かて、唇に触らんように箸で口の真ん中へ持って行かんならんよってに、舞妓の時分から高野豆腐で食べ方の稽古するねん。何でか云うたら、高野豆腐は一番汁気を吸うよってに、あれで稽古して、口紅落さんようになったらええねん」

姉の注文した中串と、幸子の注文した筏が焼けて来る間、ビールの肴に、幸子はひとしきりお春の店卸しをした。

もとこの親爺は、今はなくなったが明治時代に有名であった東京両国の与兵衛で修行した男なので、「与兵」と云う名はそれに因んだのだそうであるが、鮨そのものは昔の両国の与兵衛鮨とは趣を異にしていた。それと云うのが、親爺は東京で修行したものの、生れは神戸の人間なので、握り鮨ではあるけれども、彼の握るのは上方趣味の頗る顕著なものであった。たとえば酢は東京流の黄色いのを使わないで、白いのを使った。醤油も、東京人は決して使わない関西の溜を使い、蝦、烏賊、鮑等の鮨には食塩を振りかけて食べるようにすすめた。そして種は、つい眼の前の瀬戸内海で獲れる魚なら何でも握った。彼の説だと、鮨にならない魚はない、昔の与兵衛の主人などもそう云う意見だったと云うので、その点で彼は東京の与兵衛の流れを汲んでいるのであった。彼の握るものは、鱧、河豚、赤魚、つばす、牡蠣、生うに、比目魚(ひらめ)の縁側、赤貝の腸、鯨の赤身、等々を始め、椎茸、松茸、筍、柿などに迄及んだが、鮪は虐待して余り用いず、小鰭、はしら、青柳、玉子焼等は全く店頭に影を見せなかった。種は煮焼きしたものも盛に用いたが、蝦と鮑は必ず生きて動いているものを眼の前で料理して握り、物に依っては山葵の代りに青紫蘇や木の芽や山椒の佃煮などを飯の間へ挟んで出した。

親爺は先ず、客をずらりと並べて置いて、一往何から握りましょうと注文を聞きはするけれども、大概自分の仕勝手のよいように、最初に鯛なら鯛を取り出して、頭数だけ切り身を作って、お客の総べてに一順それを当てがってしまい、次には蝦、次には比目魚と云う風に一種類ずつ片附けて行く。二番目の鮨が置かれる迄の間に、最初の鮨を食ってしまわないと、彼は御機嫌が斜めである。当てがわれた鮨を二つも三つも食べずに置くと、まだ残っていますよと、催促することもある。種は日によっていろいろだけれども、鯛と蝦とは最も自慢で、どんな時でも欠かしたことはなく、いつも真っ先に握りたがるのは鯛であった。トロはないか、などと云う不心得な質問を発するお客は、決して歓迎されなかった。そして気に入らないことがあると、恐ろしく山葵を利かして客をあッと跳び上がらせたり、ポロポロ涙を零させたりして、ニヤニヤしながら見ているのが癖であった。
取り分け鯛の好きな幸子が、妙子に此処を紹介されてから、忽ちこの鮨に魅了されて常連の1人になったのは当然であるが、実は雪子も、幸子に劣らないくらいこの鮨には誘惑を感じていた。少し大袈裟に云うならば、彼女を東京から関西の方へ惹き寄せる数々の牽引力の中に、この鮨も這入っていたと云えるかも知れない。彼女がいつも東京に在って思いを関西の空に馳せる時、第一に念頭に浮かぶのは蘆屋の家のことであるのは云う迄もないが、何処かの頭の隅の方に、折々は此処の店の様子や、親爺の風貌や、彼の包丁の下で威勢よく跳ね返る明石鯛や車海老のピチピチした姿も浮かんだ。彼女は孰方(どちら)かと云えば洋食党で、鮨は格別好きと云う程ではないのだけれども、東京に二た月三月もいて、赤身の刺身ばかり食べさせられることが続くと、あの明石鯛の味が舌の先に想い出されて来、あの、切り口が青貝のように底光りする白い美しい肉の色が眼の前にちらついて来て、それが奇妙にも、阪急沿線の明るい景色や、蘆屋の姉や妹や姪などの面影と一つもののように見え出すのであった。そして、貞之助夫婦も、雪子の関西に於ける楽しみの一つがこの鮨にあることを察していて、大概彼女の滞在中に一二度は此処へ誘うのであるが、貞之助はそんな時に、幸子と雪子の席の間に自分の席を占めるようにして、時々、目立たぬように、妻と二人の義妹たちへそっと杯を廻してやるのであった。
「おいしい、とてもおいしい、……」
と、妙子はさっきから溜息をつきつき食べていたが、雪子があたりへ気がねしながら廻って来た杯の方へ身を屈めている向うから、
「貞之助兄さん」
と、声をかけた。
「-こんなにおいしいもん、あの人等にも食べさせたげたら宜しゅおましたなあ」
「ほんに」
と、幸子も云った。
「キリレンコやお婆ちゃんも誘うたらよかったわ」
「それは僕かて気イ付かんでもなかったけど、急に人数が殖えてもどうか思うたし、あの人等、こんなものをよう食べるかどうか思うて、……」
「何云うてはりまんねん」
と、妙子が云った。
「西洋人かて何ぼでもお鮨食べまっせ。なあおっさん」
「へえ、食べます」
と、親爺は今、俎板の上で暴れ廻る蝦を、水でふやけた太い5本の指をひろげて、手の中へ押さえ付けながら、
「うちの店へも時々西洋人が見えまっせ」
「あんた、シュトルツさんの奥さんかて散らし鮨を食べはったやおませんか」
「そやけど、あの散らしには魚の生身が這入ってえへなんだよってに、……」
「生身かてよう食べます。……尤も、食べるもんと食べんもんとありますな。鮪はあんまり食べしまへんな」
「へえ、何でやろ」
と、株屋の旦那が口を挟んだ。
「何でか知りませんけど、鮪、鰹、ああ云うものは食べしまへん」
「ほら、姐さん、あのルッツさん、――」
「――あの人、白身のお作りばっかり食べとって、赤身はちょっとも食べとってやないわ」
「ふん、ふん」
と、老妓は爪楊枝を手で囲って使いながら、芸者の方へ頷いて置いた。
「西洋のお方は、赤身のお魚は気味悪う思やはるのんでっしゃろ、あんまりお上りになれしませんな」
「成る程な」
株屋の旦那がそう云った後から、貞之助も云った。
「西洋人になって見ると、真っ白な御飯の上に正体の分らん真っ赤な生の魚が載ってるのんは、確かに気味が悪いやろうな」
「なあこいさん、――」
と幸子は、夫と雪子の向うにいる妙子を覗き込みながら、
「キリレンコのお婆ちゃんに此処のお鮨食べさせたら、どんなこと云うやろか」
(中略)
「今日は皆さん、船へお越しでしたんですか」
そう云いながら、親爺は蝦の肉を開いて、飯のかたまりの上へ載せると、五六分ぐらいの幅に包丁を入れた。そして、妙子と雪子の前に一つ、貞之助と幸子の前に一つ、その鮨を置いた。頭を除いた大きな車海老の一匹がそのまま鮨になっているのを、一人で一つ食べてしまうと、あとの鮨が這入らなくなるので、貞之助達は一つを二人で食べることにしているのであった。
(中略)
貞之助は食塩の容器を倒(さかさ)にして、味の素を混和したサラサラに乾いた粉末を、まだ肉が生きて動いている車海老の上へ振りかけると、包丁の目のところから一と切れ取って口に入れた。
(中略)
「娘(とう)さん、どうぞ早うお上り下さい」
と、親爺が例の癖を出して、まだ手を着けずに眼の前の鮨を見守っている雪子に云った。
「雪姐(きあん)ちゃん、何してるのん」
「この蝦、まだ動いてるねんもん。……」
雪子は此処へ食べに来ると、外のお客達と同じ速力で食べなければならないのが辛かった。それに、切り身にしてまで蝦の肉が生きてぶるぶるふるえているのを自慢にする所謂「おどり鮨」なるものが、鯛にも負けないくらい好きなのではあるが、動いている間は気味が悪いので、動かなくなるのを見届けてから食べるのであった。
「その動いてるのんが値打ちやがな」
「早よ食べなさい、食べたかて化けて出えへんが」
「車海老のお化けなんか、出たかて怖いことあれしまへんで」
と、株屋の旦那が半畳を入れた。
「車海老やったら恐いことないけど、食用蛙は怖かったわなあ、雪子ちゃん」
「へえ、そんなことがあったんか」
「ふん、あんさん知りなされへんけど、いつか渋谷に泊ってた時に、兄さんがあたしと雪子ちゃんを道玄坂の焼鳥屋へ誘うてくれはりましてん。そしたら、焼鳥のうちはよろしゅおましたけど、しまいに食用蛙を殺して焼くねんわ。その時蛙がぎゃッと云うたんで、二人とも青うなってしもて、雪子ちゃんはその晩とうとうその声が夜じゅう耳について、……」
「ああ、その話止めて、――」
雪子はそう云って、もう一度しげしげと蝦の肉を透かして見て、「おどり鮨」が躍らなくなったのを確かめてから箸を取った。

御馳走と云っては手料理の野菜が主であったけれども、それが大変おいしく、味噌汁の身に入れてあった小芋と、煮付けの蓮根が殊に美味であったこと、などを覚えているのであるが、義兄の姉に当るその家の女主人が、今では未亡人になっていて、気軽な身分でもあるせいか、幸子の次の妹の雪子が未だに結婚もせずにいる噂を耳にし、何とか良い縁を見付けて上げたいと云っているのだと云うことは、かねがね聞いていないでもなかった。

「−−−この陽気やったら、早うせなんだら御馳走の味が変りまっせ」
彼女がそう云っている暇に、妙子はもう立ち上って網棚の上の籠だの風呂敷包だのを卸していた。
「こいさん、出し巻の玉子、どうもなってえへんやろか」
「それよりクラブサンドイッチが怪しいで。この方を先に開けよう」
「よう食べるなあ、こいさんは。さっきから口を動かし続けやないの」

「それでは、何もございませぬけれども、−−−」
と、常子がその時沢崎の膳の前に坐って、青九谷の銚子を取った。今日は手料理と云うけれども、膳の上の色どりは、大垣あたりの仕出し屋から取り寄せたらしいものが大部分を占めていた。幸子は実は、暑い時分のことではあり、こう云う風な生物の多い、而も田舎の割烹店で作るお定まりの会席料理などよりは、この家の台所で拵える新鮮な蔬菜の煮付けの方が食べたかったのであるが、試みに鯛の刺身に箸を着けて見ると、果して口の中でぐにゃりとなるように身が柔かい。鯛について特別に神経質な彼女は、慌ててそれを一杯の酒と一緒に飲み下して、それきり暫く箸を置いた。見渡したところ、彼女の食慾をそそるものは若鮎の塩焼だけであるが、これはさっき、未亡人が礼を云っていたところから察すると、沢崎が氷詰めにして土産に持って来たものを、この家で焼いて出したので、仕出し屋の料理とは違うらしい。
「雪子ちゃん、鮎を戴きなさいな」
幸子は自分が気の利かない質問をしたのが因で、座を白けさせたことを思うと、何とか取り繕わなければならないのであったが、沢崎には寄り着きにくいので、仕方なく雪子に話しかけた。が、最初から一と言も物を云う機会がなくて、じっと俯向いてばかりいた雪子は、
「はあ、......」
と、纔かに頷いただけであった。
「雪子さんは、鮎がお好きなのでございますか」
と、未亡人が云った。
「はあ、......」
と、雪子がもう一度頷いたあとを、幸子が受けて、
「鮎は私も大好物なのでございますが、妹は私以上に好きなのでございまして、......」
「まあ、それは宜しゅうございました。本日はほんとうに田舎料理で、何もお口に合うようなものがございませんので、当惑致しておりましたが、沢崎さんからこの鮎を戴きましたので、......」
「こんな田舎におりますと、こう云う見事な生きのよい鮎を戴くなんて云うことはめったにございません」
と、常子が口を挟んだ。
「−−−而も沢山氷詰めにしてお持ち下さいまして、さぞお荷物でございましたでしょう。これはどちらで獲れました鮎でございましょうか」
「これは長良川で、......」
と、沢崎はだんだん機嫌を直して、
「昨夜電話で頼んで置きまして、先刻岐阜の駅で汽車まで届けさせたのでございます」
「それはまあ、お手数をお掛け下さいまして、......」
「お蔭で初物が戴けますわ」
と、未亡人の尾について幸子が云った。

たとえば御飯のお数なども驚くほど質素で、晩の食卓にもお吸物の外には野菜の煮き合せのようなものが一品附くだけで、啓坊も看護婦もあたしも皆同じものを食べたのである、お春どんが時々見かねて、西宮の市場から天ぷらだの蒲鉾だの大和煮だのを買って来てくれることがあったが、そんな時には啓坊もお相伴に与っていた、

食事は恐るべきもので、毎日私達は黒パンと、チーズと、バタと、「ボルシュ」と称する野菜スープを貰ったに過ぎません。私達は日がな1日骨牌やチェスをして過し、クリスマスイーヴには蠟燭をつけて、平日通りパンとバタとを食べました。

 谷崎潤一郎著『細雪』より

三浦綾子氏の青春『道ありき』

三浦氏と奇跡の結婚を果たすまでを記した手記。
まだKindleストアジャパンの品ぞろえが薄かった頃に買い、6年ぶりに読んだがほとんど何も覚えていなかった。
今回はずっと深く感銘を受け、彼女をキリストに結び付けた人々の愛にむせび泣いてしまった。

わたしは決してやさしくはなかった。きびしいだけの教師であったかもしれなかった。けれども、弁当の時間、漬物しか持って来ない子供たちには、自分のお菜ひと切れずつでも分けてやった。分けてやらずにはいられないようなつながりが、教師と生徒というもののつながりではないだろうか。
そのうちに、わたしは校長の許可を得て、給食を始めた。その頃は勿論給食などのない時代である。生徒に、朝の味噌汁の実を、ひとつまみずつ学校に持たせてよこすようにした。それと、味噌をほんの少々。
豆腐あり、キャベツあり、大根あり、油揚あり、実にいろいろの実が、ひとつ鍋にぶちこまれる。それをズン胴のストーブにかけて授業をする。弁当の時間には、味噌入れて味をととのえ、各自持参のお椀に分ける。
この味噌汁は大好評で、家では決して味噌汁を食べなかった生徒も、味噌汁好きになった。食糧のない頃の、特に寒い旭川の冬のお菜として、この味噌汁は成功であった。
別れに際して、そんなこともかえって、悲しみの種となった。 (もうこの子たちに、味噌汁を作ってやることもなくなる)
何だかやめて行くことが悪いような気もした。子供たちは、どこまでも、どこまでもわたしを送って来て帰ろうとしない。とうとう、二十二、三町離れているわたしの家まで、子供たちは送ってきてくれた。

そして、その見舞は、彼のその後の何年間かの仕事となってしまった。ある月は、その月給の全額を、わたしの見舞に送ってくれたこともある。旭川に来ると、 「駄目だよ、そんなものを食べていては」 と、 筋子や肉などを沢山買いこんで来てくれたこともある。

その夜、一郎の母が心づくしに作ってくれたチラシズシはおいしかった。そのおいしいことが、わたしには不思議だった。 (これが最後の食事になるというのに、どうしてこんなにおいしいのだろう。人は生きるために食べるとか、食べるために生きるとかいうけれど、今夜のこの食事は、生きることとは何の縁もない食事なのだ)

わたしの誕生日は四月二十五日だった。その時たしかお祝に本をもらっていたはずである。彼はお菓子屋で、ギューヒ二個と桃山二個を買った。甘いものの好きなわたしのために、それをお祝に買ってくれたのかと思いながら丘に行った。

姉の百合子と、前川正が別れを告げに来てくれたし、同室の友人たちはわたしの好きな鶏のスープを、部屋の隅の七輪に火をおこして作ってくれた。

彼の母が、ハムエッグを作って持ってきてくださった。彼もこのハムエッグを食べて正月を迎えているのかと、彼と同じ病院で新しい年を迎えたという思いが、しみじみと湧いた。

やがて秋も深くなった頃、奥さんが松茸飯を炊き、松茸のみそ汁を作って持って来てくださった。奥さんの顔を見ただけで、わたしはふとんをかぶって泣いてしまった。その松茸は、京都のある方が、西村先生の人徳を伝え聞いて送ってくださったものだという。しかし残念ながら、その香りも味もわたしにはわからなかった。涙で鼻がすっかりきかなくなってしまったからである。

写真をいただいてから二カ月後の年の暮だった。クリスマスにプレゼントをくださった先生は、帰りがけにおっしゃった。
「何かほしいものがあったら、遠慮なく甘えてくださいよ」
「では、おねがいします。わたし鮭の焼いたのをいただきたいんです」
初めてお目にかかった時、見舞物などいらないと言って拒んだ、かたくななわたしだったが、こんなことも言えるように素直になっていた。
「それはまたお安いご用ですね」
そう先生はおっしゃった。そして大晦日の夕方、奥さまの心づくしの年越しの膳を、わざわざ運んでくださったのである。それには厚い焼鮭をはじめ、うま煮、煮しめ、黒豆、数の子などなどが並べられてあった。それは、同室の患者とわたしに、別々に盛りつけて持ってきてくださったのである。

三浦綾子著『道ありき 青春編』より

フィンランドで食べるたのしみ『わたしのマトカ』

あの頃の香港は、時給450円の映画館アルバイトでも、思うさま飲み食い買い、遊びわれるくらいふところが深かった。500円もあれば、お昼の飲茶を降参するくらい食べられる。ワゴンで運ばれてくる点心をひるむことなく選べる幸福!
朝のお粥から始まって、酒家で屋台で夜店で露天で、街の中で口にできるものはすべて口にした。一食も無駄にしない心意気だった。最終日には、もう中華味はいやだ、という脱落者も出たが、わたしは最後まで、負けることなく食べ続けた。

わたしの父親は、戦後日本の高度成長経済をささえた偉大な1サラリーマンである。偉大な食通だったかどうかは疑わしいが、石油を商って日本全国を渡り歩き、食べ歩き、そして、ゆくさきざきから地元の名産、特産の類をおみやげに持ち帰った。
今でも、わたしが地方などで美味しいと聞く店を探し求めてたどりつくと、時々「昔、おとうささまがよくお見えになりました」なんて言われることがある。
そんな父親の仕込みで、わたしは幼いころから山海の珍味を好む子どもだった。誕生日にはケーキのかわりに、なまこ酢が祝宴に並び、この日ばかりはこのわたを思いきり食べさせてもらえた。

機内誌をめくっていると、早速食べ物の情報が手に入った。この時期フィンランドの市場にはさやえんどうがたくさん並ぶので、それを生でつまみながら町を歩きなさい、と書いてある。生のさやえんどう、未体験の領域である。
旅行の準備で、築地のお茶屋さんにおいしい日本茶を仕入れに行った時も、店員さんがが、今ごろのヘルシンキならば市場のベリー類やいちごが絶品です、と教えてくれた。特にいちごは忘れず食べなくてはいけません、と強く念を押されたものだから、わたしの心は、飛行機より早くヘルシンキの市場に飛んでいた。
機内食は、なによりパンがおいしかった。穀物のかたまりの味がする。わたしがおかわりのパンをせしめて、こっそりナプキンで包むのを見たのだろう。背の高い妙齢の客室乗務員が、
「もっと良いものがありますよ」
と、またちがう種類のパンのかごを運んでくる。そしてさも嬉しそうに、
「これがフィンランドのおふくろの味です」
と言ってわたしの前に差し出した。
シナモンロール。映画の中でも大活躍をするし、もちろんヘルシンキの町の中でも大大活躍をしていたこのパンに、わたしはこの時、はじめて出会った。
重要な共演者との早々の出会いに感動しながら、シナモンロールを味わっていると、例の客室乗務員がまた嬉しそうな様子で近寄ってくる。フィンランドの味に興味津々の日本人をまた喜ばせようというのか、次に差し出されたのは、黒と白のチェッカー柄の小さな箱だった。
トランプ? と一瞬思ったが、ふるとからからと音がする。開けてみると、中には小指のつめ大の、世にも真っ黒なかたまりが入っていた。飴だと推察される。とても食べものと思えないような見た目の代物だったが、わたしは迷わず口に放り込んだ。
味蕾が脳に何味、と伝えるより前に、わたしの体に鳥肌が立っていた。しょっぱい。飴のはずだがしょっぱい。まちがえて箱に入っていたゴムのかけらをなめたのだろうか。くじけずになめているとハーブの味もしてくる。これは、たぶん甘草の香りだろう。
舞台でのどを嗄らさないためにあらゆるのど飴を試しているので、そのての成分はすぐに嗅ぎ分けることができる。アジア各地で公演をした時には、ずいぶんその国々ののど飴にお世話になった。度肝を抜かれる味のものもたくさんあったが、どれも漢方由来の、アジア人ならばかろうじて想像できる範囲内の味だった。
しかし、今回のは想像を絶していた。わたしの中のコンピューターが一時混乱し、これまでの全データをもとに必死で検索をしているのがわかる。脳が、箱の柄とおなじ白黒の市松模様になる。あまりのことに、口に入れたものを吐き出すべきか、飲みこむべきか判断する能力さえもなくしていた。
タイヤとかゴムのホースに塩と砂糖をまぶしてかじったら、もしかしたらこんな味がするのかもしれない。未だかつて味わったことのないまずさだった。
(中略)
「これは、何のために存在するものなのですか?」と聞きたかったが、失礼なので、
「これはのどに良い飴ですか?」と訊ねた。
その人は、
「のどに良い? そういう話は、あたくし聞いたことございません。これはサルミアッキと申しまして、フィンランド人が大好きなお菓子でございます。塩が入っているので、血圧の高い方や妊娠してる方は召しあがらないほうがよろしいでしょう」
というようなことを、それはそれは嬉しそうに英語で話した。
プッラ、つまりシナモンロールと、サルミアッキ。日本で言うなら、おにぎりと納豆に相当するだろうか。行きの飛行機の中ですでにわたしは、フィンランドの“魂の味”に出会っていた。
翌日から、わたしの隣にシナモンロールとサルミアッキがある生活が始まった。
どこのカフェ、こちらで言うところのカハビラにも、シナモンロールはコーヒーの横で王妃のように君臨していたし、フィンランドのコンビニ、キオスキではお菓子の棚の多くの部分を、サルミアッキの不気味な黒が占めていた。
聞いたところでは、サルミアッキとは、のど飴通のわたしの見立てどおり、甘草などのハーブが原材料で、それを塩で漬けた物で作るのだそうだ。その塩が、箱の横の成分表にも書いてある塩化アンモニウムとはなんだ。調べたら、電池の材料などと書いてある。
電池の材料を使って、タイヤのゴムみたいな味のお菓子を作る人たち……。
わたしはその実態を確かめるために、キオスキでグミ状や棒状の各種サルミアッキ製品を買い集めて、こっそり撮影現場のお茶場に置いてみた。
横目で見ていると、フィンランド人スタッフたちは、どんな菓子類よりまず謎のグミにたかっている。目をはなすと、すぐに袋が空になっている。
それを見てからというもの、わたしのサルミアッキ克服の修行は始まった。お茶場に置く実験用のお菓子を買っては、まず自分でもためした。慣れてきたところで、サルミアッキのアイスクリームにいどんでみた。どす黒い色のアイスクリームを食べるには勇気がいったが、トッピングされているカラメルの助けで、なんとか完食した。
こうして少しずつ難易度を高めてゆき、最初の週末には、わたしはサルミアッキ味の強いお酒に挑んでいた。

おぼえたての言葉を得意げに使う日本人に、おばさんはハハと笑ってバケツに山盛りのさやえんどうを袋に入れてくれた。おまけにもうひとつかみ入れてくれた。初フィンランド語の効果はてきめん。ついでに、この金色のきのこの調理法を聞いてみた。できそうだったら、また「サーンコ・タシタ・リタラ」だ。
おばさんは、最初ぶつぎれの英語で一生懸命説明をしてくれていたが、終わりのほうは早口のフィンランド語になってしまった。身ぶりと英語の単語から推測すると、どうやらバターでカラカラにいためてたまねぎと一緒にソースにする、というようなことらしい。

市場中のお店を偵察したのちまた、「サーンコ・タシタ・リタラ」。一番安くておいしそうないちごを1リットル買った。
ロケバスに戻って、早速“さやえんどうを生で食べる”に挑戦してみた。でも、食べ方がよくわからない。さやは、スナップえんどうなどよりぐんと硬い。東京でなら、さやつきグリーンピースとして売られているものに近い。念のため外殻からかじってみたが、歯が立たないのでさやを割ってみる。つぶらな豆が整列している。
ほの甘い。思ったほど青くさくない。ゆでて食べるより豆の味が濃い。おいしい。いや、けっこうおいしい。甘栗みたいに、食べだしたらとまらなくなり、ぱきぱきさやを割って、ぱくぱく食べた。
(中略)
撮影でお邪魔したお宅でも、家主の女性が「おやつにどうぞ」とにんじんを剥いてくれた。もちろん塩もマヨネーズもついてこない。「柿をどうぞ」みたいな気持ちなのだろう。果物と野菜の境目があいまいになってくる。彼女は庭に生える野生のハーブでおいしいお茶をいれてくれたりもしたので、「このにんじんもきっとこの庭でできたんだわ!」とみんなでありがたくいただいた。あとで冷蔵庫を見たら、思いきりスーパーの袋に入っていた。
いっぽう日本でなら、果物界のトップアイドル的地位にあるいちごも、ここでは十把ひとからげだった。なにしろ1リットルのバケツで買うのだ。大きさも色もまちまちだし、熟れすぎてつぶれたものも混じってくる。日本のみたいにあんなに大きくて、一粒いくらの気高さで箱に並んでいるようないちごは見たことがなかった。
粒が小さいので一粒ずつ食べるのももどかしい。ホテルに戻ってから、わたしは1リットルのいちごをスプーンですくってざくざく食べた。口中がいちごでいっぱいになって、とても幸せだった。
よその国で野菜や果物を食べると、野生の味がする。このいちごだって畑の出身というよりは、野や山の出のようだ。日本で感じるおいしさとは、一味も二味もちがう。これが本来の野菜や果物の味なのよ、と言う人もいるが、どうなのだろう。ほんとだろうと嘘だろうと、わたしはどちらの味も大好きだ。
フィンランドのいちごは、フィンランド語で「ヒューヴァ」というのがふさわしい味だった。日本語の「おいしい」とはまた一味違う。
それにしても、ノキアのセールスマンは、わたしがフィンランドで野菜を買うとは思わなかったのだろうか。英語の通じるデパートでイッタラの食器を買うより、市場で野菜を買う機会のほうがはるかに多いのに。
人は、まず自分に必要な言葉から覚える。

英語のガイドブックには、フィンランド料理はスウェーデンやロシアの料理の流れを汲むもので、特に固有の料理方法はない、と書いてある。フィンランドの人にそう言うと、「素材が良いから、そんなにあれこれ料理をしなくてもいいのさ」とのどかにこたえる。わたしが日本人とわかると、「僕たちは魚を生で食べる仲間だ!」と握手を求められたりもした。確かにスモークサーモンやバルト海にしんの酢漬けなどは、生と言えば生だ。
わたしにとってのフィンランド料理は、出かける前は、鮭、しか思い浮かばなかったけれど、帰ってきてからは、いも、のことしか思い出せない。とにかく、一生分のじゃがいもを食べた気持ちがする。
どこで出されたお皿にも必ず、いろんな形に変装したじゃがいもがのっかってきた。主にマッシュポテトだが、それもおたまですくってお皿にたたきつけたみたいなものから、オムライスみたいにきれいに盛りつけられたもの、卵とバターで表面を焼いたもの、わざわざうんこ状に渦を巻いて盛られたものなど、いろんなバリエーションがあった。だが、どれも量が多くて食べ方はおなじ。サーモンやお肉やレバーなどのつけあわせ、というより、日本人ならご飯の感覚で、それらのソースとからめていただく。何でもかんでもこのマッシュポテトまみれという味が、わたしが思う最もフィンランドな味である。
鮭もあらゆるところに出没していた。有名なのはサーモンスープ。牛乳仕立てでフィンランドの代表的な香草ディルが入っている。クリーム・チャウダーの鮭版のような味である。寿司のねたも、やはりサーモンがおいしかった。噂ではフィンランドスタイル寿司なるものがあって、小ぶりの新じゃがに、サーモンやにしんの刺身をのせて食べるのだそうだ。
海だの湖だのがたくさんある国だから、もちろん鮭以外の魚もいろいろあった。だけど、魚を食べるには少し骨が折れた。フィンランド語はもちろん、英語でも、魚の名前などてんでわからないから、レストランに出かけるときは必ず電子辞書を携帯した。おかげでタラ、ヒメマス、カワカマス、スズキ、アンコウなど電子辞書が訳した魚を食べた。本当かどうかは知らない。
わからないままだった魚もたくさんあった。タラコでもイクラでもない、とってもおいしい魚の卵をチーズのディップなどと一緒によく食べたのだが、未だに誰の子なのかわからない。
ザリガニのシーズンだったので、デパートにはザリガニを剥く専用ナイフやら、専用の絵入りナプキンや、前かけなどのザリガニキットがたくさん並んでいた。7月の終わりに漁が解禁されると、こちらの人たちは、大はしゃぎでこの泥の中に棲む生き物を食べるらしい。ゆでてまっ赤になったザリガニをテーブルのまん中に盛りあげ、おそろいの前かけをして、専用のザリガニナイフを使って割って食べるのだ。ザリガニキット売り場にそんな写真が飾られていた。わたしが毎秋恒例の上海蟹宴会を楽しみにするのとおなじように、フィンランドの人たちは、夏のこのイベントを待ち焦がれるのだろう。
毎週末、島にあるザリガニレストランに予約を試みたがいつも満杯。残念ながらフィンランド的ザリガニパーティは体験できなかったが、短い夏をなんとしてもお盛り上げようとするフィンランドの人の意気込みを、じゅうぶんに思い知らされた。
ザリガニもそうだが、トナカイや雷鳥などのラップランド系料理もそれなりに高価だ。
物価の高いヘルシンキでは、夕食を外で食べようと思うとかなりのお金がかかった。英語のガイドブックにも、レストランのディナーはとても高いから、効率よくフィンランドのご飯を食べようと思ったら、平日のランチビュッフェを利用なさい、10ユーロ以内で食べられます。でも、そういうレストランは5時には閉まりますよ、と書いてある。
おっしゃるとおりだった。ヘルシンキでは、はりこんで高く出せばそれなりにおいしい食事に出会えるが、安くて良い夜ごはんを探すのは、ちょっとした苦労だった。

主菜とサラダ、もちろん大量のマッシュポテト。そしていろんな種類のライ麦パンと日本人用のライス、それからデザートにいたるまで、大きなアルミホイルのバットに並んでやってくる。日本のようにロケ弁当ではなくて、大きな紙皿に好きなものを好きなだけ取ることができる。屋外のロケの時などは、ちょっとしたアウトドアパーティのようだった。
主菜はベジタリアン用もあるので、メニューによっては今日は草食、明日は肉食と好きなほうを選ぶことができた。ときたま無法者が両方のおかずを取ってしまうので、ケイタリングのアイノはいつも監視に忙しかった。彼女が、あとの人の分が足りなくなっちゃうから、どちらかひとつにしてください! と叫ぶのを聞きながら、目を盗んでわたしはよく雑食をした。
わたしたちは、毎日かなり濃いフィンランド料理に恵まれていたわけである。「スオミ食堂」の料理は、いわゆるフィンランドのおふくろの味だ。ミートボールもソーセージも、魚のきのこソースがけも、野菜のクレープも、みんなお昼のケイタリングでいただいた。
忘れられないのはトナカイ肉のリンゴベリーソース。いつものようにフィンランド人スタッフとランチの列に並んでいると、ある日見慣れないひと品があった。つぶつぶの入った鮮やかな血の色をしたそれを、みんなどろろっとお肉にかけている。
「ちょっと! その赤いものは何!?」
わたしが叫ぶと、スタッフたちは一斉に、
「リングンベルィ、リングンベルィ」
と言ってそれを指さした。ベリーの一種? その不気味なソースを指につけて恐る恐る味を見るわたしに、今まで声すら聞いたことなかった無口なスタッフまでが話しかけてきた。
「これ、肉にかけるとうまいよ」「フィンランド人みんなこうやって食べる」「もっとたくさんかけなきゃ!」
フィンランド人の何かのツボを押してしまったのだろう、みんなぶっきらぼうながら、次々とひと言コメントを言いに来る。
トナカイ肉は、細かくスライスしてあったが、しっかりけものの味がしておいしかった。こういうものは少し匂いがあるくらいのほうがわたしは好きだ。そしてリンゴンベリー、こけもものことだろうか、そのソースはむき出しな酸味が野生の匂いに良くつりあった。フィンランドの森をまるごといただいているようだ。メイクの宮崎さんは、ひと口食べるなり「無理!」と叫んで皿を置いた。でもわたしにはかなりお気に入りの、もう一度食べたいフィンランドの味、になった。
後で知ったのだが、お肉料理やソーセージにベリーのソースをかけるのは、フィンランド料理の一大特長らしい。

アンコールワットの国有地の中に違法で住む人たちの村に行き、おも湯みたいな子どもたちの給食をごちそうになった。

7時をまわると、東向きの2階の広いベランダにわたしの朝食が用意される。この時宿泊者はわたしだけだったから、この時間のこの日向は完全にわたしだけのものだった。日向も日向のベランダのテーブルに着くと、住み込みで働いているもうひとり、実直なお兄さん青年が、庭で炭をおこしてパンをあぶりはじめる。
国の一部がかつてフランス領だったせいか、カンボジアのフランスパンは絶品だった。フランスでフランスパンを食べたことはないけれど、わたしは、おかあさんの家の炭であぶったパンが世界一のフランスパンだと思っている。
まっ正面から太陽とさしむかいで朝食をとる。あまりに眩しいので、わたしはいつもサングラスをかけて食事をした。超直射日光でも、朝の光はそれほど温度が高くない。カンボジアの人たちも、だからがまんできないくらい太陽が熱くなる前に働こうと早起きをするのだろう。目の前のやしの木には、やし酒の原料をとるために、もうとなりの家のじさんが登っている。

ヘルシンキでも、撮影中、日本人の皆さんにそれぞれアンケートをした。
「日本に帰ってまっ先に食べたいものは何ですか?」
だんとつで、蕎麦が1位だった。わたしは、蕎麦と大根おろしが同率一位という感じ。海外で暮らす日本の人に聞いても、旅先で知り合った人たちと日本食を懐かしむ話になっても、蕎麦は必ず話題にのぼる。
帰国後、念願かなって家で大根おろしばかり食べていたら、5日も経たないうちに2キロ体重がへった。食べる量は変わらないから、きっとヘルシンキでは2キロ分のバターとじゃがいもを食べたのだろう。ヘルシンキのデパートには、小さな大根らしきものは売っていたが、とてもすりおろしたいと思える代物ではなかった。白っぽい何かの根っこ、みたいなものだった。
わたしの家の毎日の食事は、たいてい夢に描いたとおりだ。大根とねぎ、そしてあぶらげはきらしたことがない。それに納豆やたまご、おみおつけに入れる野菜のひとつがあれば一汁一菜ができあがる。外でごついお料理を食べる機会が多いから、家の中ではおとなしくしていましょう、という心構えである。そして歳とともに、それがもっとも好みの食べものとなった。

世界各地の中華街にはほんとうにお世話になっている。ヘルシンキには中華街はないが、ハカニエミの市場のそばに2軒ほどアジア系の食材店があるという。わたしはそれだけの情報を頼りにハカニエミに向かい、市場の裏手を歩きに歩いて、とうとう赤い看板の漢字のお店を発見したのだった。
アジアの市場のややこしい乾物の匂いと、見慣れた食材の数々。紙パックのとうふを手に入れたら、ピータンをのせたくなった。
ピータン、ピータンとつぶやきながら店中を探しまわる。

またさらに店内を巡っていると、店のはしに、手打ちの蕎麦の店で麺打ちを見せるようにしつらえたガラス張りのスペースみたいな一角があって、三角巾をしたおばさんが作業をしていた。ぱしゅっぱしゅっという音をさせて、何かを放送している。近づくとその部屋からは、たまらなく懐かしいにおいがする。
韮。
にらの束を細かく分けて、袋詰めにしていたのだった。わたしはティファニーのウィンドウをのぞきこむヘップバーンのような気分で、ガラス越しににらを眺めた。何束かまとめたのを持っておばさんが部屋から出てきたのであとをつけ、おばさんがそれを冷蔵庫に投げ込む也、早速ひと束抜き取った。
市場でも、北欧最大のデパート、ストックマンでも、にらは見かけなかった。こちらのお料理にも使われている形跡はない。とうふやピータンのような加工品でないぶん、わたしにはこちらのほうが貴重品のように思えた。

ニューヨークの日本スーパーでかぶを見つけた時も、同じように嬉しかった。これをあぶらげと炊いたらどんなにうまかろうとのどを鳴らしたが、よく見たら日本の産地のテープがはってあって、かしゅかしゅに乾燥している。なんらかの方法で日本から運んだものらしい。それでもがまんできずに、貝柱の缶詰と煮て食べた。よけい、正しいかぶの味が恋しくなった。

蕎麦ほど単純で、しかもやっかいな食べ物はない。粉と水だけでできていて、つゆにつけるだけの超シンプルな食べ物のくせに、これだけ蘊蓄が語られ、いろんな楽しみ方をされるものもめずらしい。香り、歯ごたえ、さらにのど越し。粉とつなぎの具合、切り方、茹で方、色、長さ。つゆの甘辛、蕎麦との相性。それに、薬味の入れ方だの、盛り方だの、蕎麦猪口や湯桶の趣味だの、お店の風情だの、たぐり方だのすすり方だの、なんだのかんだの。蕎麦湯を飲み終わるまでに、その蕎麦の良し悪しを決めるあらゆる難関が潜んでいる。
わたしはもっとのほほんとした蕎麦素人だから、そんなごたくはどうでも良い。気持ちよく音を立てて食べられればそれで良い。でも1週間に1度は立ち食いでもいいから蕎麦屋で蕎麦を食べたいと思ってしまう。ちょっとした中毒である。

ハカニエミのスーパーから戻ると、わたしは早速、腕まくりをして夕食の支度をはじめた。
東京より持参した和風だしの素を煮立て、厚揚げを切って入れる。持参した乾燥わかめを散らし、にらをさっと煮て、たまごでとじる。
ブロッコリをゆがいて、持参した練りごまと炒りごまに、前記のだし汁と持参した練りごまと炒りごまに、前記のだし汁と持参した練りわさびをくわえて和える。
持参したインスタント生味噌汁の素に、ポロねぎを刻んだのを添え、熱湯を注ぐ。
大量に持参したレンジでちんのごはんをあたためる。
自我持参、そしてヘルシンキの中華スーパー万歳! のおばんざいができあがった。

はじめての汽車の旅のチケットを買う。7時38分発、ペンドリーノ号。トゥルクには9時半につく。プラットホームがたくさん並んでいて、ヨーロッパの映画そのまんまだ。低気圧で少し落ちた気分が盛り上がってくる。朝食のチーズサンドとコーヒーを買って、列車に乗りこんだ。

おじさんとさし向かいで、素朴なミートボールとマッシュポテトの夕食をたいらげ、湖を見渡すテラスに移動して、コーヒーをいただいている時だった。おじさんが、森でとれたブルーベリーでつくった、これまた素朴なケーキを持ってやってきた。

わたしは吸い込まれるようにそこに入り、1階のバーで黒ビールを飲んだ。黒い川をながめていたら、たまらなく黒ビールを飲みたくなったのだ。タンベレの水とおなじ色のビールを飲んでいると、夕陽が最期のひと息みたいに光の勢いを強めた。美しい夕陽だった。これがフィンランド最後の夕暮れになるだろう。明日のこの時間には、飛行機の上にいるはずだ。ひと月のヘルシンキ、そしてたった1泊のひとり旅。ここにいたってまた、ずいぶんといろんなもののしっぽをつかんでしまった。森と湖、田舎の暮らし、イスケルマ、ムーミン。わたしはまだフィンランドのしっぽの先にふれたばかりだ。旅はきっとこれからも続くのだ。
缶ビールと名物の黒ソーセージを手に入れて、ヘルシンキ行きの列車に乗った。すでに暮れて真っ暗な窓の外をながめながら、わたしはやたらと長い真っ黒な豚の血のソーセージを、手づかみでむしゃむしゃと食べた。

フィンランドに発つ前も大忙しだった。1日前まで舞台の公演をしていた。大阪で千秋楽を終え、せめて串カツだけは食べさせて、と梅田の地下で30分だけ打ち上げをして飛んで帰った。

デザートまでついているケイタリングをゆったりといただいて、ミルクをいっぱい入れたコーヒーを飲む。

ヘルシンキでは、わたしは毎日のようにすずめと朝食をともにしていた。
仕事に出かける前に自分で和朝食をこさえる時以外は、ホテルの向かいのカハビラで、キッシュや、サンドイッチをつまむのがわたしの日課だった。

片桐はいり著『わたしのマトカ』より

ポートランドで再会(その2)『ニューヨークの天使たち。』

私はNYでの役者修行を中心に書かれた『日経WOMAN』コラム連載時から渡辺葉さんの書きもののファン。
といっても現在はNY州弁護士として活躍されているようだ。

この本も私をアメリカへとドライブした数ある本の1冊と言ってもいいかもしれない。
林真理子氏のエッセイと同じく、この本の舞台のひとつでもあるポートランドで再会した。
12年ぶりの再読である。

飲みものは、勝手に訪れた客が勝手に置いていった安ワインを、勝手に開けて飲む。喉を焼くようなひどい味の酒でも、お金がないのはお互いさまだから、みんな黙って飲む。つまみはしなびた野菜スティックや、ひよこ豆をつぶしてつくる中近東のディップ。

冷たい夜の街路から逃げこむようにして、その店に入った。赤レンガの壁にあめ色の木の椅子が懐かしく、身も心も、ほっとほころぶ。さしだされたメニューを見て、はてな、と思った。薄黄色の紙に並んだ名前は、ヨーロッパの料理のようでもあれば、中近東の料理のようでもある。水を注ぎにきたウェイターに聞くと「アルメニア料理」だという。
勧められるまま、前菜はポテト・クレープを取ることにした。メインには何がいいかしら、と聞くと、彼はにっこり笑って言った。
―― もしアルメニアの伝統的料理を試したかったら、羊のシチューをどうぞ。これは各家庭ごとにその家の味があって、僕個人としては当店のシチューは少し胡椒が効きすぎている気がするのだけれど、とっても身体の温まるおいしい一皿ですよ。
注文を厨房に通すと彼はすぐに、一杯のワインと小さな籠に入ったパンを持って戻ってきた。イーストをほとんど使っていないシンプルな生地を、幾層にも重ねて焼いてあるようだ。香草の効いたバターをつけると芳しくて手が止まらない。
前菜のじゃがいものクレープは、一見すると春巻そのものだった。カラリと揚がった皮に、トロリと詰まったじゃがいものピュレ。添えられたソースは、仄かにインド的な香りがする。
そうこうしている間に、羊のシチューが運ばれてきた。身体の芯から温まる。でもこの匂い、この味、どこかで食べた気がする。舌から脳へと懸命に信号を送り、記憶を辿り……ようやく思い出したのは、モンゴルの草原で、山猫みたいな顔のアルタン・スフたちが作ってくれた羊のシチューと同じ味だということだった。

毎年、週末などに合わせ「今年はこの日」と決めて、母はひなまつりのごちそうを作った。それは決まって、蛤のお澄しと混ぜ寿司、お伴にはふんわりと柔らかな白和えや貝のぬた。母を手伝ってすし飯をぱたぱたと団扇で扇いでさましたり、帆立貝の殻のお皿をふきんできれいにぬぐったりするのも、お祭りの準備のように心が躍るのだった。

日本の何が恋しかったの?
東京で再会したとき、尋ねてみた。
「あのね」
彼女は、嬉しそうにふふふと笑った。
「鱸の味だったの、ニューヨークのお寿司屋さんで食べた。気がついたら涙が出ちゃって……。街で会う人々、友だち、土地、言葉、夏のお祭りや下町の気配、畳の香り。ああ、離れていたくないって思った。日本に<帰ろう>って」
そう言うとエリザは、熱々の緑茶をひとくち、ふうふう吹きながら啜った。

客人に供されるのは、脂のしたたる羊のもも肉でもなければ、クリームたっぷりのスープでもない。たいていは彼女が小屋のまわりから集めた葉っぱで作ったサラダ、あるいは同じく崖の上で採ってきた香草で風味づけした、野菜のシチュー。運がよければ、新鮮な卵が出ることもあった。
客は、スープ皿に盛られたそれらのご馳走を、フォークとスプーンを使って食べる。スーは食事用ナイフというものを持っていなかった。肉など手に入ることはなかったから、どのみち必要なかったのだ。
食後には、スーが作った特製のお茶が出る。
スーの才能というのは、貧しい食卓を、妖精の宴席さながらの魅力ある饗宴に変えてしまうことだった。一流料理店の豪奢なメニューであろうと、崖の上のぼろ小屋のつましい食事であろうと、そこに「気品」と「優雅さ」が加わると、食事は単なる「消費」から「文化的、哲学的営み」に変わるのである。
スーの話は、M・F・K・フィッシャー著『狼を料理する法』に収められている(初版1942年、日本語未訳)。

マンハッタン3番街の一角に「フィービーズ」という安食堂がある。薄くて焦げ臭いコーヒーと、オムレツやポークチョップなどを出す、何の変哲もないダイナーだ。けれど、70年代にはこの辺りのボヘミアン・アーティストたちの溜まり場だったらしい。
私は歳上の友人と、この店の隅に腰かけてチリ(豆とひき肉のシチュー)を食べていた。

急に冷え込んだと思ったら、あっという間に熱が出てきた。ゾクゾクする背中を丸めて、数日間冬眠するための買い出しに出かける。
ひとり暮らしなので、寝込んでいるあいだも自分でなんとか生き延びられるように準備しておかなければならない。レモンと生姜、紙パック入りのオーガニック・チキンスープ(缶詰のよりも新鮮な味でおいしい)を買って帰った。
「風邪をひいたらチキンスープ」はアメリカの民間療法のナンバーワン。こちらに移り住んですぐのころは、風邪をひいたときにチキンスープを勧められても「お粥のほうがいいなあ」と思っていたけれど、いつのまにか慣れてしまった。チキンスープに生姜をたっぷり搾ってフウフウいいながら飲むと、身体の中からカッカして、たくさん汗をかく。
もちろん仕事に響くし身体も辛いのだけれど、熱で寝込むのはどこか楽しい。
頭がぼうっとして、妙ちきりんな夢をいっぱい見て、大汗をかいて寝ると、熱がひきかけるころはたっぷり本が読める。
(中略)
熱が出ると買ってもらえるアイスクリーム(いつもバニラ)を大事に舐めながら、ものいうライオンと悪い魔女の戦いを読みふけり、熱にけだるい夢の中で、ときどき木の精や水の精と遭遇したりしたものだ。

このワイオピ谷ツアーには、アラバマから来たという白人の四人組もいた。
「この谷では何を食べていたのか」
という彼らの問いに、ハナレイさんが、
「もっぱらタロ芋と果物、そして魚だね」
と答えると、「肉を食べないで生きていられるなんて、信じられない」といったふうに首を振っていた。
「この谷にはもともと、数百人のハワイアンがいたのさ」と、ハナレイさんは続ける。
「けれどアメリカが入ってきたとき、その大部分が殺された。それは、歴史上はじめてのことじゃない。アメリカ合衆国そのものがそうやってできたんだし、南米にも同じような歴史があるからね」

私のお気に入りは、搾りたての林檎ジュースを練りこんで揚げたドーナツ。素朴だけれどしっとりして、いままで食べたドーナツの中でも上位3位に入るのは確実だ。これをひとつとコーヒーを買って、店内に作られたコブ細工の長椅子に腰掛けて、ひとりでゆっくりおやつを楽しむ。窓は廃品利用の瓶の底で作られていて、ぽこぽこと丸い泡のようなガラス窓から射し込む陽が目に優しい。(中略)

「人々の食べもの生協」から歩いて2分ほどのところに、村のもうひとつの中心「赤と黒のカフェ」がある。毎日焼きたてのマフィンやクッキーがカウンターに並び、野菜がたっぷりのスープ、サンドウィッチもおいしい。地元の有機野菜を使っているので、サンドウィッチに添えられてくる生の人参も、シャキシャキと歯ごたえがよくて、じんわりと甘い。

ビールの種類がよくわからなくて、メニューのいちばん下のふたつを指差し、「どっちか、軽い方をちょうだい」と頼んだ。
それと、サンドウィッチ。早朝、パリに着く前の機内で果物をつまんだだけだったから、お腹がぺこぺこだ。メニューをじっくり眺めて、バスク地方の生ハムとチーズをポワラーヌの田舎パンではさんでね、と注文した。
ポワラーヌは老舗ベーカリーで、ここの田舎風パンはパリ一との評判がある。10数年前に訪れたときに食べて感動した。カフェではふつうのバゲットか、少しだけ値段の高い「パン・ポワラーヌ」か、選べるようになっているところが多い。
でも、ギャルソンは怪訝な顔。
「本当にそれでいいの? この生ハムなら、バゲットのほうがおいしいよ」
生ハムの味と田舎パンの味は合わないのかしら? 値段はバゲットのほうが安いから、これは善意で言ってくれているのだろう。
彼の薦めどおりバゲットで作ってもらったサンドウィッチは、とびきりおいしかった。何が違うのだろう、皮はパリパリなのに乾いているわけではなく、とびきり軽い。バターと生ハム、それだけなのに噛みしめるごとに味わいがある。

ゼイバーズの隣のデリで、12年前から変わらないお気に入り、海老サラダを買った。小さなカップに入って、3ドルちょっと。小さなパンがついてくる。目をつぶって「えいっ」と思い切りひっぱらないと割れないほど歯ごたえのある、サワー種のパン。刻んだピクルスの混ざったマヨネーズをパンのかけらですくって、よーく噛む。
イタリア風のパニーニやさっぱり軽いソフトクリームなど、12年前にはなかったメニューもある。けれど、白いチーズが入ったポーランド風クレープの「プリンツ」や、ユダヤ風パイ「クニッシュ」などは昔のままだ。小さな店の真ん中に置かれたテーブルを、見知らぬ人々が囲み、ひとときのランチブレイクやコーヒーブレイクをすごす。
私の目の前に、青いシャツを着たおじいさんが座った。高齢のせいか、ゆっくりと慎重なしぐさで、コーヒーの入った紙コップをテーブルに置く。私がテーブルに置いたバッグを邪魔にならないようにずらすと、「いいんだよ」とでも言いたげに目で少し笑った。おじいさんは大事そうにチョコレートプリンの蓋を開け、熱く泡立ったコーヒーと交互に、小さなスプーンをゆっくり口に運んだ。
近所に住むらしい老人たちは、アップルソースを添えたパンケーキをつつきながら、口を尖らせておしゃべりに夢中だ。学校帰りの子どもたちが、ベビーシッターに連れられておやつのクッキーを買いにくる。

渡辺葉著『ニューヨークの天使たち。』より

この本なんて何度買いなおしたか。

『ニューヨークの魔法をさがして』バナナマフィンにたどりつく

ドアを開けると、すでに店内は朝食をとる人で活気にあふれていた。土曜日の朝、アッパーウエストサイドでブロードウェイを、「ゼイバーズ・カフェ」(Zabar's Cafe)に向かって私は歩いてきた。
カフェのショーウインドウの前に立ちはだかるように、7、8人がレジの順番を待っている。焼きたてのベーグルやマフィンがぎっしりと収まっているショーウインドウを、一列に並んだ人の間からのぞき込み、ブルーベリーにしようか、と少し悩んでから、バナナのマフィンとコーヒーを頼む。

高齢の女の人が、私の右斜めの前の席に腰を下ろす。黒のウールのコートに茶色の帽子を身につけている。運んできたトレイには、全粒粉パンのようなものにスモークサーモンとクリームチーズをはさんだサンドイッチと、ダイエット・スナップルのジュースがのっている。
彼女はサンドイッチをひと口ひと口、ゆっくりと食べ始める。やがて、食べかけのサンドイッチを皿の上に戻すと、空いた手でジュースの瓶の蓋を開けようとしている。

ハンナはもともと、温かい人なのだろう。同じアパートの住人の息子が脳の病気で入院したことがある。ユダヤ系の病院だったので、金曜日の日没から土曜日の日没までは安息日で、調理ができない。そのため、作り置きのマヨネーズだらけのサラダやマカロニばかりが出されたことに同情し、半年以上、土曜日になると毎週のように、料理を用意して病院に持っていったという。

私はバナナマフィンとコーヒーの朝食をとりながら、その朝の様子をメモに残していたので、“証拠”をメールで編集者に送った。

岡田光世著『ニューヨークの魔法をさがして』より

 

シリーズ第6弾。岡田さんはバナナマフィンがお好きなようですね。ベーカリーでさんざっぱら悩んだあとに結局バナナに落ち着いてしまうのはすごく分かります。

それから、ユダヤ系の安息日の厳しさも。エレベーターのボタンも押しちゃいけないとかね。

ポートランドで再会したシャラくさいTOKYO STORY『「綺麗な人」と言われるようになったのは、四十歳を過ぎてからでした』

ポートランドの知と夢の殿堂、Powell's書店で日本語の古本を見つけ買ったのがこれ。
他はいかにもブックオフ的ラインナップだった。在米日本人エッセイとか、英語本とか、全巻揃ってない村上とか、古いベストセラーとか(ワイルド・スワン...)。
あとまあ当然、買い取り側に日本語の本の知識があるわけもなく、値段も疑問いっぱい、逆さに並べてある本も。トホホ。

でも、そう日本人が多いわけでもないので見つけたときは嬉しかったです。
しかも、今どき珍しくしょうもない箇所に蛍光マーカーやシャーペンで印がたくさんつけてあって(全体がしょうもないので仕方ない)、胸にせまるものがあった。
ここに長く住んでいる人なのか、短期滞在で売り払って行ったのか。

移動中に読んだのだが、これほど旅に合わない、一期一会感の希薄な下らない本もないだろう。
ポンとでも呼びたい((c)中野翠)。

40代女性向けのSTORY誌に連載していたエッセイらしい。
(雑誌の衰退が激しいので、廃刊になっていないか一応確認した。まだあるっぽ)

新宿のパークハイアット東京の、ニューヨークグリルに行ったときの驚きを、今でも忘れることはできない。

52階から眺める夜景の素晴らしさに加え、インテリア、サービス、すべてが洗練されている。料理がアメリカ風で、あまりにも量が多過ぎるという声があるけれども、取り分けてもらうことも可能だ。何よりも、パンや野菜といった基本もののが本当においしい。(中略)

いつも夜訪れていたニューヨークグリルに、ランチがあることを知ったのは本当に偶然であった。ある人と待ち合わせ、新宿で行くところがないので、たまたま入ったのである。(中略)

私は知らなかったのであるが、ここのランチはものすごい人気なのである。なるほどと思うに、ビュッフェのいいところをうまく取り入れているのだ。

どんなに豪華なところであろうと、ビュッフェにあまりおいしいところはない。時間がたってしまうのと、たくさん盛りつける浅ましさとが、かなり味を落としてしまうようだ。
ニューヨークグリルでは、まず席に通された後、飲み物をゆっくりいただき、そしてビュッフェのテーブルに行く。ビュッフェはすべて冷菜だが、その豊富なことといったらない。
どこかの安いビュッフェのように、焼きソバやチャーハンということはもちろんなく、新鮮なサラダ類や、チーズ、テリーヌ、といったものがどっさり置かれている。これをたっぷりいただいた後、今度は注文したメイン料理をゆっくり食べる。最後は別の席に移り、今度は食べ放題のスイーツとコーヒーをいただく仕組みだ。一流のホテルのパティシエがつくるケーキやプリン、ゼリーといったものを見ると、女の人たちは目の色が変わる。これで4,900円というのが、高いか安いかは考え方次第であるが、優雅なランチを食べる女性たちで、いつもすごい人気である。

林真理子著『「綺麗な人」と言われるようになったのは、四十歳を過ぎてからでした』

書く人によるのか、「いただく」という丁寧な言葉が鼻につく。

パークハイアット東京ももう25周年か...。
私は映画 Lost in Translation (2003) で「単なる高級ホテルじゃないらしい」と知った。
関西にも外資系高級ホテルが増えているけど、人手不足かついわゆる富豪向けのサービスが未熟な日本で、本物の要人対応のできる人がどれほどいるんだろう、と思うんだよね。
帝国ホテルでもバイトが働いていると聞いたときはわりと驚いたけど。