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たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

サンドイッチとコーヒー 村上春樹「色彩を持たない、多崎つくると、彼の巡礼の年」

この本を読んで「かもめ食堂」を思い出し、今、そばで流している。

「かもめ食堂」は折々に見返したくなる不思議な作品。

ところで、村上作品を読んだのは久しぶりだったが、メタファーに富んでいることに驚く。質問サイトで彼の戦争や原発に対する意見を読み、TIME 100にiconの1人として選ばれたことがサイドの情報としてあるからかもしれないが...

 

食べることにはほとんど注意を払わなかった。空腹を感じると、近所のスーパーマーケットで林檎や野菜を買ってきて齧った。あるいは食パンをそのまま食べ、牛乳を紙パックから飲んだ。眠るべき時間が来ると、ウィスキーをまるで薬のように、小さなグラスに一杯だけ飲んだ。

灰田は料理が得意だった。音楽を聴かせてもらう御礼にと、彼はよく食材を買ってきて、キッチンに立って料理を作った。調理器具も食器も、姉がひと揃い残していってくれた。つくるは他の多くの家具と同じように、また彼女の以前の男友だちから時々かかってくる電話と同じように(「すみません。姉はもうここには住んでいないんです」)、それらを引き継いだだけだ。二人は週に二回か三回夕食をともにした。音楽を聴き、様々な話をしながら、灰田の作った料理を一緒に食べた。その多くは簡単にできる日常的な料理だったが、休日には時間をかけて凝った料理に挑戦することもあった。味はいつも素晴らしかった。灰田には料理人としての天性の才能が具わっているようだった。プレーン・オムレツを作らせても、味噌汁を作らせても、クリームソースを作らせても、パエリヤを作らせても、どれも手際よく気が利いていた。

「物理学科に置いておくのは惜しいな。君はレストランを開くべきだよ」、つくるは半分冗談でそう言った。

週末の夜、灰田はつくるのマンションに泊まっていくようになった。二人は夜遅くまで話し込み、灰田は居間のベッド兼用ソファに寝支度をととのえて眠った。そして朝にはコーヒーを用意し、オムレツを作った。彼はコーヒーにはうるさく、丁寧に焙煎された香ばしいコーヒー豆と、小さな電動式のミルを常に持参した。コーヒー豆に凝るのは、貧乏な生活を送っている彼にとってのほとんど唯一の贅沢だった。

つくるは例によって一杯だけワインを飲み、彼女がカラフェの残りを飲んだ。アルコールに強い体質らしく、どれだけ飲んでも顔色はほとんど変わらなかった。彼は牛肉の煮込み料理を選び、彼女は鴨のローストを選んだ。メイン・ディッシュを食べ終えると、彼女はずいぶん迷ってからデザートをとった。つくるはコーヒーを注文した。

彼はその本に意識を集中し、別の世界に心を移しているように見えた。しかしつくるが顔を見せるとすぐに本を閉じ、明るい笑みを浮かべ、台所でコーヒーとオムレツとトーストを用意した。新鮮なコーヒーの香りがした。夜と昼とを隔てる香りだ。二人はテーブルをはさみ、小さな音で音楽を聴きながら朝食をとった。灰田はいつものように、濃く焼いたトーストに薄く蜂蜜を塗って食べた。

十二時五分前にアオはスターバックスに現れた。

「ここはうるさい。飲み物を買ってどこか静かなところに行こう」とアオは言った。そして自分のためにカプチーノとスコーンを買った。つくるはミネラル・ウォーターのボトルを買った。

一時間ほどかけて買い物を済ませたあと、少し休みたくなって、表参道に面したガラス張りのカフェに入った。窓際の席に座り、コーヒーとツナサラダのサンドイッチを注文し、夕暮れの光に染まった通りの風景を眺めていた。

カフェでは人々はビールやワインを飲み、談笑していた。丸石敷きの古い通りを歩いていると、どこからともなく魚を焼く匂いが漂ってきた。それは日本の定食屋で鯖を焼いている匂いに似ていた。つくるは空腹を感じ、匂いを辿るように、狭い横町に入ってみたが、その源を特定することはできなかった。通りを行き来しているうちに、やがて匂いは薄らいで消えてしまった。

食べることについてあれこれ考えるのが面倒だったので、彼は目についたピツェリアに入り、屋外のテーブルに座って、アイスティーとマルゲリータのピッツァを注文した。沙羅の笑い声が耳元で聞こえてきそうだった。飛行機に乗ってわざわざフィンランドまで行って、マルゲリータ・ピッツァを食べて帰ってきたのね、と彼女は言っておかしがるだろう。

でもピッツァは予想を超えてうまかった。本物の炭火の窯で焼いたらしく、薄くてぱりぱりとして、香ばしい焦げ目がついていた。

その気取りのないピツェリアは家族連れや、若いカップルでほぼ満席だった。学生たちのグループもいた。みんなビールかワインのグラスを手にしていた。多くの人が遠慮なく煙草を吸っていた。見回した限りでは、一人でアイスティーを飲みながら黙々とピッツァを食べているのは、つくるくらいだった。

ハメーンリンナの街に着いたのは十二時前だった。つくるは駐車場に車を駐め、十五分ばかり街を散策した。それから中心の広場に面したカフェに座ってコーヒーを飲み、クロワッサンをひとつ食べた。クロワッサンは甘すぎたが、コーヒーは濃くてうまかった。

キャビンの中には誰もいなかった。テーブルの上にはコーヒーカップがひとつ、ページが開きっぱなしになったフィンランド語のペーパーバックが一冊載っているだけだった。どうやら彼はそこで一人で本を読みながら、食後のコーヒーを飲んでいたらしい。彼はつくるに椅子を勧め、自分はその向かいに座った。本にしおりを挟んでページを閉じ、脇に押しやった。

「コーヒーはいかがですか?」

「いただきます」とつくるは言った。

エドヴァルトはコーヒーメーカーのところに行って、湯気の立つ温かいコーヒーをマグカップに注ぎ、つくるの前に置いた。

「砂糖とクリームはいりますか?」

「いいえ、ブラックでいいです」とつくるは言った。

エリは彼に夕食まで残っていくことを勧めた。

「このあたりではよく太った新鮮な鱒がとれるんだ。フライパンで香草と一緒に焼くだけのシンプルな料理だけど、なかなかおいしいよ。よかったらうちの家族と一緒に食事をしていって」

白髪のウェイターがやってきて、沙羅はレモン・スフレを注文した。デザートを欠かさず食べながら、彼女が美しい体型を保ち続けていることに、つくるは感心しないわけにはいかなかった。

ウェイターがレモン・スフレとエスプレッソ・コーヒーをテーブルに運んできた。彼女は熱心にそれを食べた。どうやらレモン・スフレを選んで正解だったらしい。つくるは彼女のそんな姿と、エスプレッソ・コーヒーから立ち上る湯気を交互に眺めていた。

「それはそうと、スフレを一口食べない? とてもおいしいわよ」

「いや、君が最後の一口まで食べればいい」

沙羅は残ったスフレを大事そうに食べ終え、フォークを置き、口元をナプキンで丁寧に拭い、それから少し考えていた。

歩き疲れると、あるいは考え疲れると、カフェに入ってコーヒーを飲み、サンドイッチを食べた。

夕方になると、オルガが勧めてくれた港の近くのレストランで魚料理を食べ、冷えたシャブリをグラスに半分飲んだ。

暑い一日になりそうだった。エアコンのスイッチを入れ、コーヒーをつくって飲み、チーズ・トーストを一枚食べた。

プールから帰って、半時間ほど昼寝をした。夢のない、意識をきっぱり遮断されたような濃密な眠りだった。そのあと何枚かのシャツとハンカチにアイロンをかけ、夕食を作った。鮭を香草とともにオーブンで焼いてレモンをかけ、ポテトサラダと一緒に食べた。豆腐と葱の味噌汁も作った。冷えた缶ビールを半分だけ飲み、テレビで夕方のニュースを見た。そのあとはソファに横になって本を読んだ。

新宿駅を出て、近くにある小さなレストランに入り、カウンター席に座ってミートローフとポテトサラダを頼んだ。そしてどちらも半分残した。まずかったわけではない。そこはミートローフがうまいことで有名な店だった。ただ食欲がなかったのだ。ビールをいつものように半分だけ飲んで残した。

 

村上春樹「色彩を持たない、多崎つくると、彼の巡礼の年」より