たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

甘くて熱い紅茶とともに山への扉を開いてくれる『淳子のてっぺん』

地方新聞連載小説らしく(駆け足で切った貼った感がある)、最初は読みにくいと思ったけれど、「山に登り続ける人々」「日本の登山事情」にに引き込まれた作品。

「そうそう」と、話を変えるように、淳子はザックを開いてタッパーを取り出した。
「いいものがあるの。食べてごらん、元気が出るよ」
中には干し柿が入っている。女の子は面食らったようだった。
「ほら、遠慮しないで」
勧めると、おずおずとした仕草でひとつを口にした。
「あ、おいしい」
「でしょう。私の故郷、三春町の干し柿なのよ。太陽の光をいっぱい浴びてるから、その分、エネルギーもいっぱい詰まってて、疲労回復に最高なの」
「うちも毎年冬に軒先で干し柿を作ってました。その時はあんまり食べる気になれなかったけど、こんなにおいしかったんだ。ちょっとびっくり」

その夜は父と向き合って夕食を摂った。更には地元の川魚や山菜が彩りよく盛り付けられている。父が淳子の膳に目を向けた。皿にほうろく焼きが手つかずのまま残っている。
「どうしだ、食べねえのが」
「おなかいっぱい」
「そうが。まあ、無理はせんでええ」
三角形の油揚げの中に長葱を入れて焼き、味噌を付けて食べるこの協働料理は、子供の頃から淳子の鉱物だった。家の食卓に並べられるといつも真っ先に箸を伸ばした。それさえ食べられないという淳子の姿に、父は困惑の表情を浮かべた。

淳子はザックを下ろさなかった。一度下ろしてしまったら、もう二度と背負えなくなりそうな気がしたからだ。ウェアのポケットに手を入れ、ビニール袋に入れた干し柿を取り出す。登山での行動食はいつも田舎の母が送ってくれる干し柿と決めていた。ほの甘さが口中に広がって、ようやく人心地ついた。そこで、ふと、母の顔が浮かんだ。

「おっと、忘れてた、ゆで卵を持って来たんだ」
勇太はザックの中から、それを取り出した。
「登るのに夢中で食い損ねちまったよ。ちびじゅんもどうだ」
差し出されたゆで卵を見て、淳子は思わず噴き出した。殻にマジックで顔が描いてあった。
「あんた、相変わらずだね」
「ただの殻じゃ面白くねえだろ。まあ、食えって」

「ああ、おなかすいた」
「チョコと干し柿があるよ。サラミも」
「いいねえ、サラミ焼こうよ」
サラミを取り出し、ナイフに刺して、膝に載せたコンロにかざした。ツエルトの中に脂が焼ける香ばしい匂いが広がって、思わずおなかがきゅうっと鳴った。
「これで、ビールがあったら最高なんだけどなぁ」
「ここじゃ、熱燗の方がいいかも」
「あはは、ほんとだね」
何気ない会話が心を和ませてくれる。
「あ、そうだ、差し入れがあるんだ」と、マリエがザックから包みを取り出した。
「淳子も食べて」
ゆで卵だ。殻に顔が描いてある。それが誰からの差し入れか、もちろんわかっていた。

ちなみに上記サラミパーリーは、「足下は200メートルほども切れ落ちた断崖」の「半畳ほどの岩」にビバーク、ハーケンで体を固定させての開催です。宇宙で食事するようなもんかしら。想像を絶します。。。

「おう、お疲れさん。腹減ったろう?」
思いがけず、正之がすき焼きの用意をして待っていてくれた。
「ありがとう。もう、ぺこぺこ」
ガスホースを部屋まで伸ばし、卓上コンロの上に載せた鉄鍋に、葱や豆腐を入れてゆく。牛肉は贅沢なので豚肉だが、醤油と砂糖の香ばしい匂いが食欲をそそる。

心配した正之はよく夕食を作ってくれた。最初はすき焼きやおでんといった鍋ものだったが、ごはんに味噌汁、焼き魚にほうれん草のおひたしという家庭料理も並ぶようになった。だんだん腕を上げて、野菜の炊き合わせや、豚肉の生姜焼きなどの献立も加わった。

ここのところ夕食は正之に頼りっぱなしだった。今夜は久しぶりに淳子が用意した。正之の好きなクリームシチューだ。

麗香からは「機内で食べて」と、おだんごとプリンが食料係の大里恭子に差し入れされた。

そしてアンナプルナ。

キャラバンは楽しかった。テント地に行くと、すでにシェルパがテントを設営してくれている。ザックを下ろしたと同時に熱くて甘いティが運ばれて来て、これが疲れた身体に染み渡る。コックの作ってくれる食事は美味しくて、カレーは言うまでもなく、蒸し餃子のモモ、焼きそばのチャウミン、混ぜごはんのジフィーズなどが食卓に並んだ。それに日本から持って来た缶詰などが添えられ、隊員たちは毎日ぺろりと平らげた。

「では、まずざっくばらんな話から聞かせてもらいましょうか。山行の間って食事がいちばんの楽しみだって聞いたんですが、この遠征でいちばんおいしかった食べ物は何だったのかぜひ教えてください」
意外な質問に、隊員たちは気が抜けたように麗香を見直した。
「じゃあ、まずは隊長の広田さんから」
「私?」と、明子が戸惑いながら口を開いた。
「そうねえ、正直言ってロクなものはなかったけど、コックが作ってくれたネパール料理だと、やっぱりモモかしら。お醤油をかけると日本の餃子そっくりで、食べると安心しました。それと果物の缶詰がおいしかった。疲れていると甘いものがやっぱり欲しくなるんですね。重かったけれど、たくさん用意しておいてよかった。田名部さんもよく食べてたよね」
明子に問い掛けられて、淳子は頷く。
「果物の缶詰にはお世話になりました。特に桃缶。あのぷるんとした食感がたまらなかった。それで携帯食としてザックに入れて登ったんですけど、開けたら凍ってかちんかちんになっていて、あれは失敗でした。あとはコーンコロッケ。インスタントのマッシュポテトの粉と缶詰のコーンを混ぜて、揚げたてを食べたのはおいしかったです」
淳子の言葉に小森佐智が頷いている。
「そうそう、とにかく寒いから、熱々を食べられるのは嬉しかったな。あと、ホットケーキの素をスープに落としてすいとん風にしたのがあったでしょう。あれもおいしかった。だから日本に帰って作ってみたんですけど、実はとんでもない味でびっくりしました」
あちこちから笑い声が上がった。次は大里恭子だ。
「混ぜごはんのジフィーズは欠かせませんでした。やっぱりお米はエネルギーになりますよね。あとは氷河で冷やして作ったプリン。私、スリップして肋骨を痛めたでしょう。あの時、痛くて何も食べられなかったけれど、プリンだけは喉を通ったから、ほんと忘れられない味です」
それを引き継ぐように、今度は紺谷真理子が言う。
「私なんか腸チフスに罹っちゃって、あの時はみなさんにご迷惑をおかけしました。ずっとC1の別テントでおかゆみたいなものばっかり食べていたから、登頂祝いでシェルパが出してくれたお赤飯が死ぬほどおいしかった。つい、三杯もおかわりしてしまって」
「そうですねん、ほんで私にはお茶碗に半分しか回ってきませんでした」
広瀬小百合が大阪弁で返して、どっと笑いが起こった。
「私は朝起きた時にシェルパが持って来てくれる甘いミルクティがいちばん心に残っています。あのティを飲むと今日一日も頑張ろうって気になりますさかい。チョコレートやウエハースは大好きやったけど、山では羊羹やぬれ煎餅の方が有り難かったなぁ。やっぱりパサパサするもんは食べにくかった」
それから、小百合は岡江公子に顔を向けた。
「岡江さんは地酒のロキシーがお気に入りやったよね?」
それまでうつむき加減だった公子が、ようやく顔を上げた。
「何で私だけお酒なのよ」
「だって、ドクター榊原とよく一緒に飲んではったもん」
「まあ、確かにおいしかったけど、それは別にして、私はコンビーフの缶詰かな。肉って体力を付けるにはもってこいの食べ物だってよくわかりました。翌日の目覚めが違うの。それに玉ねぎのスライスもおいしかった。唯一の生野菜だったせいもあるでしょうけど」
「ねえねえ、みなさん知ってます? 岡江さんとドクター榊原、お酒のつまみによくサキイカをつまんでいたんですよ。それもカビたのをせっせと洗って」
公子が言い返す。
「だって、ロキシーにはサキイカがいちばん合うんだもの。でも今になると、よくお腹を壊さなかったなって」

「俺は平気だよ、俺の娘なんだ、おんぶして当然だ。それより、野菜売り場の前で近所の奥さんに教えてもらったんだ。カレーは男爵イモよりメークインの方が煮崩れしなくておいしいんだってな。ぜんぜん知らなかった。別の奥さんには隠し味にインスタントコーヒーを入れると旨くなるって言われたよ。確かに入れたらいつもより旨い気がする。俺、結構、奥さんたちに人気あるみたいだ」

七五三のお参りを済ませてから駅前の洋食屋に入った。外食なんて久しぶりだ。梢はお子様ランチを、正之はハヤシライスを、淳子はオムライスを食べた。

ついにエベレスト。

出発する隊員のためにすでに朝食は用意されていて、今朝はバターで焼き、海苔を巻いたお餅だ。これは淳子がコックに教えた一品だった。香ばしい匂いに食欲がそそられた。

今日はC4から更に上部へとルートを延ばす予定だ。9時になってようやく陽が射し始め、シュラフを出た。朝食のメニューはお餅とインスタント味噌汁、そしてチーズ。
そのチーズを切るために淳子は首に下げた登山ナイフを手にした。

賑やかな夕食が始まった。その頃にはC2にも食料が十分に運び込まれるようになっていて、缶詰の肉や野菜スープ、オムレツやデザートといった豪華なメニューが並べられた。まともな夕食を食べるのが久しぶりの隊員たちは、上部でのエネルギー不足を取り戻すかのようによく食べた。淳子もアルファ米を3杯もおかわりした。

最終テントC6に入って、すぐに飲み物を作った。とにかくたっぷり水分を補給して、高度障害に備えなければならない。コンロに火を点け、雪を溶かして湯を沸かし、紅茶やコーヒー、緑茶、ホットジュースと立て続けに6杯も飲んだ。
食べ物は十分とはいえない。その日の夕食は、インスタントライスと乾燥野菜を入れた味噌汁だけだ。

ここでふたりは酸素ボンベを新しいものと交換した。淳子は40気圧、アン・ツェリンは110気圧が残っていた。それを岩場の影にデポ(残置)してから、魔法瓶に入った紅茶を飲んだ。まだ少し温かみが残っていて嬉しい。ビスケットとチョコレートも食べたが、甘さがあまり感じられないのは、寒さのせいなのか、疲れのせいなのか。

唯川恵著『淳子のてっぺん』から

アウトドアでの甘い紅茶の美味しさ、キャラバンでの楽しい食事の様子は、彼女たちのような極限状態を経験したことのない私にもよーく伝わってきた。

もうひとつ、「(登れる、というパートナーの励ましの)言葉こそがザイル」、「ザイルを通してパートナーの思いや意図が伝わってくる」といった記述は私とジーザスとの関係そのものでもあって、ものすごく理解できる感があった。

山への扉を開いてくれた唯川先生に感謝したい。

先生も取材を通して山女になったご様子。

読み終わって田部井さんの著書を(古本しかなかろーなーと期待せずに)調べたら、わりと電子版が揃っていて感激。 山と溪谷社さんナイス。 彼女の震災復興のアクションについては全く知らなかった。早速順番に読む。