たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

栄養士が見た70年代のニューヨーク『朝子ニューヨークへ翔ぶ』

夕方は待望の"紅花"レストランへ火鉢焼きを食べに行く。"紅花"は、全米どこでも有名で、私が後にワシントンD.C.やシカゴに行ったとき「"紅花"がよいとタクシーの運転手にまですすめられた。

鉄板焼きのえびには皆大喜びであったが、上質の牛肉の霜ふりには神経質であった。全部食べたのは私とブロンドのレーヌだけで、あとは考え、考え、残す。ご飯は、私とおばあ様を除いて、みんなお代りして、みそ汁、着け物がおいしいと言う。生野菜のサラダがつくことだけがアメリカ風だが、まさに今風の日本料理である。

1杯のカクテルでご機嫌の彼女らを連れて、ウリス劇場へ。

朝食を近所の食堂からとり寄せることになったが、これもひとさわぎである。40キロのおばあ様と18歳のアメリーちゃんは、菓子パンとコーヒー(もちろん砂糖を入れて)とすぐ決まったけれど、他はなかなか決まらない。菓子パンやドーナッツの好きなアメリカ人は多い。道を歩きながら、あるいは汚い地下鉄の階段にすわって、朝からそれをパクつく。地下鉄の駅の構内かトラック(プラットフォームのこと)には、ドーナッツや菓子パン、それに、コーヒーやコーラ、ポテト・チップスやポップコーンを売る店がたいていある。

さて、リオナたちはトーストにすると言うが、バターはダメで、マーガリンならよいとか、ジャムをどうするかとひともめする。太るからあれはダメ、これはダメとやかましい。

朝食が届いて、彼女らは食べるのに夢中になる。アメリカン・コーヒーは、うすくて量が多い。300ccはたっぷり入る紙コップ入りコーヒー1杯では、足りない人が多い。私は、最初のうちはもてあましていたが、いつのまにかそれが適量となり、湿度の高い日本へ帰ってからも、300ccくらい飲まないと満足できず、つい飲みすぎるようになった。

その変な芝居は、7時からえんえん11時までかかった。2人とも疲れて、マークスが「チャイニーズ・フーズを食べるか」と聞くので、とぼとぼついて行った。1ドルのワンタンを食べながら、ふと聞こえてくる日本語に見上げると、なつかしや森繁久弥のTVドラマである。

私はお盆にサラダとフルーツ・マフィン、カテージチーズをとり、お金を払うのもそこそこに、彼女たちのいるテーブルに行った。

サラリーマンや学生のランチといえば、アメリカにおいても日本と同じで、お世辞にも上等とは言いがたい。しかし、アメリカン・ランチのほうが、日本のランチよりも実質的であるようだ。一番安いのはドーナッツ(25〜50セント)とコーヒー(30〜35セント)、あるいはピザ(55セント)とソーダ(コーラまたはソーダ水40〜50セント)である。

ドーナッツは大きくて、1個で満腹する。ピザは日本製と同じようなものだが、一切れが大きいから割安である。全米でピザの一番おいしいところは、シカゴと言われている。N・Yにも、六番街(本当はアヴェニュー・オヴ・アメリカというのだが、アメリカ人はシックス・アヴェニューという)の11丁目という下町に、シカゴピザ店がある。

食いしん坊で、情報通のデイヴィッドから教わって、私はユキエと一緒に暑い夏の日にシカゴピザを求めて出かけた。行列しているくらいだから、おいしいに違いない。やや酸味のきいた、カリッと焼けたピザを、汗だくになって食べた。

ランチは立ったまま食べる人が多いが、中には"テイク・アウト(お持ち帰り)"の人もいる。しゃれたスーツの堂々たる紳士でも、テイク・アウトしたり、歩きながら食べたり、N・Yの生活は、東京と同じで忙しい。とくにマンハッタンのブロードウェイや五番、六番、七番街、レキシントン街、パーク街ソーホー地区などでは、昼頃の食堂は大入り満員である。

ドーナッツ屋や、コーヒーとポップコーン、ポテト・チップスを売る店は、街角ばかりでなく、地下鉄のプラッフォトームにも、スーパーの一角にもある。スーパーはよいとしても、世にも汚ない、空気の悪い地下鉄の構内での食事は敬遠したいが、彼らは案外平気である。乾燥した空気の下では、食品はたやすく腐敗したり、かびたりはしない。

もう少し上等なランチとなると、サンドウィッチやハンバーガー、ホット・ドッグということになる。後の2つは、屋台にも見られる。サンドウィッチは、日本の小型食パンよりやや大きな食パンか、丸パンの二つ切りに、具をはさむ。ハムなら薄切りを約10枚、まぐろやいわしは1罐(1/4ポンド)、チーズなら大型数枚に、レタスやトマトなどの野菜をはさむ。

「ホワイト、ハム、バター、マヨネーズ、マスタード、レタス、ピクルス」

「ブラックまたはホール(全粒)、ツナ、コールスロー、オリーブ」

「バンズ、アメリカンチーズ、レリッシュ、トマト、レタス、マーガリン」

などと大声でわめくと、その通り作ってくれる。ホワイトやブラック、バンズはパンのこと。コールスローは生キャベツの糸切りのマヨネーズ和えで、アメリカ人好みのサラダの1つ。レリッシュは、キャベツの酢漬けみたいなもので、ハンバーガーによくついてくる。

ハンバーガーは冷凍品を使い、日本でもおなじみのマクドナルドのチェーン店に、小メーカーのキングの店が追いつこうとしている。ホット・ドッグには、サワークラウト(酸っぱいキャベツ)がつきもの。感心するのは、ホット・ドッグでも、サンドウィッチでも、それに使うソーセージやハムが豚肉100パーセントのもので、まぜ物があっても、それぞれ得体が知れていて、ごまかしがないことである。

ワシントンは、公務員の町である。ランチには、町のコーヒーハウス(いわゆる食堂であって喫茶店ではない)よりも、最高裁、商務省、国務省などの官庁のカフェテリアのほうが評判がよい。(中略)

最高裁はお休みだが、各官庁はニュー・イヤーズ・デー以外は休まないから、用事のあった商務省と国務省のカフェテリアでランチをとった。

入口でお盆をとり、好きなものをとり揃えて、ナイフとフォークをとり、最後にお金を払う。(中略)

価格の点では、町のコーヒーハウスやランチ屋と同じようなものであるが、量がたっぷりしていて、味も悪くない。

肉料理が一皿1~4ドルくらいだから、サラダ、パン、コーヒーを組み合わせて2~6ドルくらいで立派なランチとなる。厚切りのハムステーキにシナモン風味のさつま芋のつけ合わせ、そのステーキにはワインと干ぶどうを使ったソースもたっぷりかかる。もちろん、ビーフステーキやハンバーガー、チキンなど20種くらいは揃っている。

大学のカフェテリアも、なかなか立派である。いずれも早朝から夜まで営業しているが、お昼が一番にぎやかである。サンドウィッチのほか、肉や魚料理、ケーキ、パイ、果物、サラダ、牛乳、ヨーグルト、カテージチーズ、コーヒー、紅茶など、町のレストラン顔負けのメニューで、値段も町の3分の2くらいである。

コロンビア大学は、ユニヴァーシティーのほか、ティーチャーズ・カレッジとバーナード・カレッジがあるが、カフェテリアの味のよいのはティーチャーズ・カレッジ、お部屋のよいのはバーナード・カレッジであった。ここでは、ご飯をつめた小さなとりの丸焼きや魚の蒸し煮などは、“スペシャル”と言っていた。小さなパウンド型で焼いた、リンゴや杏、バナナあるいはナッツの入ったケーキは、甘味がうすく、私はまずいパン(どうもアメリカのパンは私にとってはおいしくない)より、こちらをよく食べた。

かつて、海藻を食べたのは、日本人と朝鮮半島の人、それにアイルランド人だけであって、中国人も食べなかったし。しかし、最近はアメリカ人はドイツ人は、つとめて海藻をとるようになったし、フランスの一流レストランでも、“ヌーベル・バーグ”のお料理(新フランス料理)をうたうところでは、ほとんどと言ってよいほど魚の海藻蒸しのような料理を出す。

必ずしも全部ではないが、大部分の小学校には給食がある。小学校のランチのメニューは、

“ピーナッツバターのサンドウィッチ、グリンピース・ポタージュ、キャベツのサラダ、インスタントのチョコレート・プディング、牛乳”

“野菜スープ、ウインナーとじゃが芋の油炒め、マーガリンつきパン、アイスクリーム、牛乳”

といった具合である。(中略)

先生方の中には、ハンバーガーやホット・ドッグを食べる人もいるが、概してカテージチーズかヨーグルトとレタス、あるいはオレンジといったところである。牛乳を飲んでいたのでは動物性脂肪が多すぎる。すべて脱脂乳にという指示に従って、脱脂乳や、それから作るカテージチーズやヨーグルトを食べることになる。

ある日、小さな小学校の先生のお誕生日会に招かれた。この日は、先生方も、小学生と一緒に食堂で召し上がったわけだが、生徒たちの食事とは対照的なものであった。2メートル近くあるジャンボのフランスパンの横を切って、ローストビーフ、ハム、ソーセージ、チーズ、トマト、レタス、ピメントなどを10センチ厚みにはさんだサンドウィッチに、りんごの100パーセント果汁とダイエット・コーラ(砂糖なし)。デザートはチョコレートとチェリーのプディング(インスタントではない)とコーヒーという次第であった。

どの美術館も、たいていカフェテリアやコーヒースタンドがあり、1日中いることもできる。

メトロポリタン美術館では、大池をかこんで、噴水と彫刻を見ながら、サンドウィッチやカテージチーズのサラダ(ダイエット・サラダとしてどこにでもある)を食べるのは、その頃の私の楽しみであった。

 

食事の話なら私はわかるので、もっぱら食事療法の話に決めた。彼女はけっしてお菓子を食べないという。私は大いに感心し、お世辞でなくその若さをほめた。彼女は高校の英語教師を定年退職し、個人レッスンをしている。日本人も何人か教えているので、ジャパニーズ・イングリッシュはよくわかる。

ある土曜日、コンサートが終った後、私は図書館で本を借りたり、返したりしてから、すぐ近くの“カフェ・オペラ”という店へ入った。そこは、比較的おいしいケーキとちょっとした軽いスナックの店である。

アメリカン・コーヒーはあまり好きでない私は、何よりも、ここでエスプレッソを飲めるのがお気にいりだった。

その日もエスプレッソを飲みたくて入ったのだが、私は眼を疑った。68歳(ロゼリンダ)女史がいるではないか。それも大きなオレンジ・ケーキをパクついているのである。悪いところを見たと思って、出ようとしたとたん、彼女を眼が合ってしまった。彼女は、眼を白黒させて、はずかしそうに、

「ときに、たまらなく甘いケーキが食べたくて。今日も飛び込んでしまった」

それ以来、68歳女史はいっそう打ちとけ、息子や娘たちに、つまみ食いをして見つかった話などを聞かせてくれた。

私がニュートリショニストだと言うと、

「トーフはまずい。なぜまずいか」

と聞いた。何のことかと思ったら、公務員をしている彼の奥方は、大変スマート(賢いということ)な女性なのだが、唯一の欠点は自然食狂であることだと言う。毎日のように、豆腐を食べさせられるが、何も調味せず、そのままスプーンですくって食べているらしい。

私はおかしくなった。日本人はそんなふうにして食べない。

そこで、私は彼の家に行き、奥方に油で焼くことや、サラダにすることを教えた。しかし、今度は油は体によくないと言って聞かない。私は、植物油は大丈夫であることを、脱コレステロール量のグラフを見せたりして、いささか頑迷な夫婦に説明をつけ加えた。

そのお料理名人のごちそうは、いささかショッキングだった。焼きすぎるほど充分に焼いたステーキ、塩もこしょうもなく、味がない。つけ合わせは罐詰のほうれん草で、水煮した黒っぽい緑の葉がぐちゃっとしている。サラダは4つ割りのレタスで、チャールスは、マヨネーズをどろっとかけて食べている。私が、

「ドレッシングを」

と言ったら、酢と油のびんが出される。チャールスの「おいしい、おいしい」と言う声をよそに、飲み下していると、スープが出た。あきらかに罐詰のヌードルと野菜のスープをあたためたもので、一口吸うと生ぬるく、その塩からさには涙が出そうになった。

「デザートは?」

ときたから、もうお腹がいっぱいと断ったら、“86歳”さんは、

「私の焼いたパンプキンだから、ぜひ食べて」

と言う。チャールスも、

「それは、ぜひ食べなさい。それこそママのワンダフル・バイだ!」と、そばkら口を添える。

2週間ほど前に、あるアメリカ人の家のパーティーで食べたパンプキンパイは、なかなかおいしかった。しかし、このパンプキンパイは、テリブル(恐ろしい)そのものであった。頭にくる甘さ、何ともいえぬ香料。ニコニコして見守っている“86歳”さんには何も言えず、生ぬるいインスタント・コーヒーの助けを借りて、まさに涙とともに飲み下したのであった。

七面鳥と南瓜のパイ(パンプキンパイ)はできたけど、サラダがまだできていない、とサリーとその娘や従妹は大忙しの最中であった。先客の日本人のカップルと、数人の外国人はうろうろしているし、娘がサラダの野菜をぶちまける、見かねて私が野菜を拾い始める、サリーは雑巾でふく、と大さわぎである。(中略)

その日のディナーはすばらしかった。私は七面鳥はアメリカ産の冷凍しか食べたことはなかったが、フレッシュの七面鳥はとてもおいしかった。お腹には、りんご、干しぶどう、栗、パンがつめてあり、サリー式の風味豊かな味つけであった。(中略)

それだけお料理好きのサリーでも、七面鳥にかけるクランベリー・ソースは罐詰であり、つけ合わせのグリンピースは冷凍品、マッシュポテトはインスタント食品というわけで、そのあたりがアメリカの食生活である。

ギョーザ300個とか、パウンド・ケーキ6本などと言われると、恐れをなす人が多いらしいが、私には大したことではなかった。私の助手が見たら、ひどいギョーザの包み方をしているとか、パウンド・ケーキのふくれ方が均等でないと思ったかもしれないが、当の相手は喜びしてくれた。1個のケーキを焼くには、卵を泡立てるのに、フォークでも何とかなったが、商売(?)ともなるとそうもいかず、泡立器も買った。水盤で卵を泡立てたり、めん棒がなくて反物が巻いてあった紙筒を使ったりしたけれど、何とか作り上げた。

「アサコのケーキは、箱(インスタントのミックス)ではなくてワンダフルよ」

「チャイニーズの作るギョーザよりおいしい」

ということになって、モテモテのアサコが始まったわけである。

一緒に炒飯やサラダを作って食べ、午後は夜のパーティーに持参するミートパイを作ったりするうちに、お互いに打ちとけてきた。パーティーが終って夜帰って来たら、白岩夫人は、風邪をひいたらしく、熱があり、頭が痛いと言う。私は、足を温め、頭や首をもんであげ、レモネードを飲ませた。

「サラダやトーストくらいできなくてどうするの」と口では怒ったけれど、結局は、ハルエにドレッシングの作り方を教えることになる。

酢、塩、こしょう、からしと油をびんに入れておけば、塩は自然にとけて、使うときにふればよい。ただそれだけのことができなくて、びん詰のドレッシングを買う人は、アメリカ人ばかりか、日本人にも多くなった。

私は、そのドレッシングに、しょうゆを少し加えた。アミノ酸の旨味がかくし味程度に加わっただけで市販のものにはない“ヘヴンリー”な味となったのであろう。(中略)私の作った菜の花のごま和え(アメリカ人向きに油も加えたが)を、彼らはとてもナチュラルな味だと言って喜んでくれたものである。

芸術家であることを誇るチンクシャは、美しさと健康を保つことは大事だからと、たばこはすわず、アルコールは週末ボーイフレンドとの1杯だけである。不規則な生活は悪い、正しい食事をしなくてはならない、適度な運動をしなくてはならない、これらは歌の練習や、よい音楽を聴くことと同じに実行しなくてはいけないことだと、常に言っていた。したがって外食することはなく、つとめて家庭で食事をしていた。

朝食は、100パーセント果汁、トースト1枚、マーガリン、チーズ、果物、コーヒー。

昼食は、トースト1枚、マーガリン、生野菜(きのこが好きでよく使っていたが、すべて生)のサラダ約250グラム、ラムかチキンが約100グラム、果物、コーヒー。

夕食は昼と同様で、ラムの代りにゆで卵2個、ときどきブロッコリーやカリフラワーのスープ煮を果物代りにとる。昼と夕方は入れかわることもあった。

ふだんは米を食べないチンクシャも、週末は必ずご飯を炊いた。若々しいので、ボーイフレンドのお姉さんにしか見えないが、それでも嬉しそうにバタバタと食事を運んでいる様子は、お母さんのようなところもある。ご飯は、白いご飯のときもあるが、ピラフのときもある。

私が最も感心したピラフは、焼き豚とザー菜とねぎが入ったものである。もちろん味をみたわけではないが、台所が同じなので、みんなわかってしまう。

チンクシャは、ある日どこからかベージュの“ゆきひら”を買ってきた。日本でも珍しくなったものを、どこで探したのだろう。いつもはパイレックスの鍋で炊いていたのに、その日は、その“ゆきひら”で炊いた。でき上がりがよほどおいしかったとみえて、

「やっぱり日本のものはよい」

と喜んでいる。

彼女のセンスに、私は舌を巻いたのであった。

ある週末に、私はクリームチーズと野生のぶどうでアイスクリームを作った。チンクシャがジョーとTVを見ながら、食事をしているところへ持っていき、

「どうぞ、デザートに」

と言った。彼女はびっくりして聞いた。

「どうして作ったの?」

「だって、今夜は暑いから」

ジョーは吹き出し、彼女は赤くなって「暑いなんて!」と照れていたのは、ほほえましかった。私は麦畑君にもおすそわけして、今夜は暑いから作ったと言うと、麦畑君も「本当にそうだ、今夜は暑い暑い!」と笑いころげた。

ピーターは1晩泊まって、翌朝、麦畑君とともに、それぞれ5個の卵でスクランブルエッグ(いり卵)を作り、1枚のトーストとコーヒーをがぶ飲みして帰った。

若者たちのスクランブルエッグは、すぐ5個くらい卵を使うたくましいものであるが、チンクシャは、

「ピーターも、そろそろ卵を減らさなくてはならないのに」

とよく言っていた。

アメリカ人はいつも肥満やコレステロールの蓄積を恐れている。私が、ほとんど家で食事を作り、それもとり肉や魚と植物油を使い、サラダをたくさん食べるのを見て、「やっぱりニュートリショニストらしい食事をする」とチンクシャは感心していた。

ときどき頼まれてお菓子を作る機会があると、私は余分に作って、チンクシャをはじめ、親しくなった人たちに配った。

パウンドケーキを12本と小さなチーズケーキを50個も焼いたりするので、彼女はびっくりしていたが、私が忘れかけると火を細めたり、止めたり、しまい忘れた道具の片づけなどを手伝ってくれた。

私は、東京でも八百屋へ行くと、料理写真の撮影のために、あるいは自分が好きなので、“つま野菜”をよく買う。

ある八百屋さんは、「つまばかり買ってどうするの?」と言うし、知っている八百屋さんは、「また、写真かい?」と珍しいものをとってくれる。

N・Yでも同様、スーパーはそっけないが、インド人や韓国人の八百屋さんは、私が通るのを見つけると、大声で叫ぶ。

「Hey! Endive arrived!(ヨオッ、エンダイヴが入ったよ)」

これでは、高くても買わざるを得ない。1個50セントも80セントもするのにと思ったが、東京へ帰ってきて、あらためて見たら、1個450円! やっぱりN・Yは安かった。

ヘルス・フーズの店では、よくくるけど、めったに買わないお客と思っていただろうか。あるとき、スペイン語なまりの強い英語で話しかけられた。

「ツナは、どれがよい?」

「そりゃ、日本製よ。決まっているわ」

私が自信を持って答えたので、その男は、日本製ツナを買って帰った。罐詰ツナ(まぐろ)は、ヘルス・フーズである。牛脂や乳脂はよくないが、魚脂はよいというのは、今や定説になった。その上、少しでも油脂を減らして低カロリーにしたいために、アメリカでは、オイル漬けの魚罐詰はなく、すべて水煮(ブライン)である。

2、3日たって、またその男に会った。

「先日買ったツナ、おいしかった。やっぱりメード・イン・ジャパンはよい。サンキュー!」

彼はツナの罐詰を全部買いとると言う。

「なぜ、そんなにたくさん買うの?」

「ドクターは、『牛肉を食べるな』と言った。ツナばかり食べている」

「いつから?」

「ウーン、今年の初めから」(中略)

私は、ついお節介に、ツナの食べ方を、その男に教えてやった。すぐ油を使えと言うと、また混乱するから、油を使わない“おろし和え”、“きゅうりとツナの酢のもの”、“ツナご飯”、“ツナスープ”等々。

その男は、仲間を連れてきた。「牛肉をやめてツナにしなさい」と言われた中年男女は、たくさんいるわけだから、栄養指導(?)の相手には事欠かなかった。

店の主人は大喜びで、私に定期的に店に来てすわっていてくれと言うのである。

「あなたがいるとツナがよく売れる。小麦胚芽や胚芽油もうまくすすめてくれ。パート・タイムのお金は払う」

ミス・キャッツは、いそいそと花茶を入れ、ナッツケーキを切ってくれる。

「これはザバブスのケーキよ。N・Yで一番おいしいわ」

ブロードウェイの86丁目にあるザバブスで、ハムやそーセージ、ローストビーフ、酢漬けのにしんなどと並んで、不細工だけれど味のよいドイツ菓子を売っていることは、とっくに私は承知していた。

私は、軽いケーキを焼き、上を果物とゼラチンで固めた。クリームで飾るよりも、健康的に作ったのである。

朝食は、コーヒー、オレンジ、無添加ピーナッツバターつきポンせんべい3、4枚。

昼食は、100パーセント果汁またはレモンジュース、ドライフルーツ、ナッツ、種実(

これらはヨガのすすめ)。

夕食は、チェダーかサムソなどのチーズ50~60グラム、生野菜数種。

インスタントコーヒーはケミカルだから危険であるとして、レギュラーコーヒーばかり。無添加と断ったのは、現在のアメリカでは、塩も砂糖も添加物で、彼女は1日の食塩3グラム以下(食品中のものも含めて)というアメリカ上院の勧告を厳かに守っている。

低脂肪、低カロリー食品としてのお米も、ふつうのご飯では食べすぎてしまうからと言って、1粒1粒のふくれたポンせんべいにする。

夜の生野菜は、無農薬のキャベツ、トマト、きゅうり、ズッキーニ、ピーマン、にんじん、カリフラワー、ブロッコリーなどを無塩で、もちろんドレッシングの類もかけない。油は高カロリーだからというのである。

よくこれでお腹がすかないと思うのだが、ドライフルーツやナッツをときどき食べるのは、ヨガの教えもさることながら、空腹をまぎらわすためではないだろうか。

そのほかには、コーヒーとアルファルファ・ティーか、フラワー・ティーをときどき飲むだけである。

ここまで徹底している人は少ないが、ヨガのグループの人や、いくらか狂信的な自然食主義者の中には、こうした食事をとる人が少なくない。彼らは海藻やきのこを好み、しばしば使用している。ドロシアも、海苔でチーズを包んで食べながら「アイ・ラヴ・ノリ」である。

ドロシアは、バッグの中からポリ袋とびんをとり出した。プルーン(干しすもも)のジュースでヴィタミン剤を飲むというのである。小さなコップに100ccくらいのジュースをついで、ヴィタミン剤を飲みだした。

朝食をとりに、食堂へ飛んで行く。

レモネード、セロリの葉とにんじん、レタスのサラダ、豆腐の油焼き、全粒パン、ピーナッツバター、種実とドライフルーツをまぜてミルクをかけたもの、フラワー・ティー、これがヨガの朝食であった。

ところが、ドロシアは、レモネードだけにすると言う。全粒パンは食べすぎるし、ピーナッツバターは、ふだん自分の使っているのとは違う。豆腐は心配だし、サラダはドレッシングを使っているかも、というわけである。

最初に訪れたときに、一かけのチーズと生野菜一皿で一夜を過ごしたことに恐れをなして、次のときには、親しくなったハルエと中華料理を食べてから出かけた。

また、下に住む家主さん夫妻も一緒に、私の作る牛肉のオイル焼き(ただし、ドロシアだけは大根おろしレモンをかけたものばかり食べていた)を楽しんだこともあった。

次の週の金曜パーティーは、“スパゲッティとカンツォーネの夕べ”であった。その日午後、コロンビア大学のティーチャーズ・カレッジで、白髪が出てきたと終始こぼしているギョロ目のデーカス嬢に話した。

「今日は、イタリアの夜を過ごす」

「スパゲッティがあるなら一緒に行く。私は、スパゲッティ・クレイジーなの!」

日本人がアメリカ人をお客として連れて行くのは、あまりないことらしいが、それにしても、デーカスは大喜びで、何回スパゲッティをお代りしたろうか。メンバーが1ドル、お客2ドルなら安いものだ。しかし、カンツォーネは楽しかったが、ぐちゃぐちゃスパゲッティには閉口した。私ならもう少しましにゆでるのに、ミートソースだって、もう少し“おとなの味”に作ってみせると思ったのである。

今夜のパーティーには、炒麺を出すという。炒麺というから炒め中華そばかと思ったら、ご飯の上に、肉と野菜のあんをかけ、揚げた中華そばを飾るのだという。その大事なご飯がこれでは、60人はくるパーティーもめちゃくちゃだ。

「アサコ、ご飯作れる?」

ご飯ぐらい炊けなくてどうしよう。新しい米を出し、水につけている時間もなかったので、初め弱火にして、何とか炊き上げた。そして例のぐちゃぐちゃご飯は上のほうだけを別の鍋にとり、白ワインをかけ、ペーパータオルをたくさんのせ、大きなタライをかぶせて蒸らすことにした。こげくささをとるには酒で蒸らし、ぐちゃぐちゃご飯の水とりにはすり鉢をかぶせるのがコツなのだが、それに準じて、とっさにしてみたのである。

新しく炊いたご飯は、カリフォルニア米だからなかなかおいしい。例のぐちゃぐちゃご飯も、何とか、さまになった。アンちゃんもボブ氏も大喜び。私たちは今夜のパーティーには1ドル出さなくてもよいと言う。日本では1ドル=200円は大したこともないが、N・Yでは、1ドルでコーヒーが3杯も飲める。貧しい留学生にとっては1ドルでもありがたい。

行きがかり上、私は手伝うことになったが、帰りには残ったご飯やくずあんをわけてくれた。いらないと言ったけれど、「とてもおいしいから持って帰れ」である。私は、揚げそばのほうがよいと言ったら、それもまた包んでくれた。

あるとき、クラシックの豆のスープを作ったら、おいしいとほめられ、アンコールがかかり、それ以来センターのお料理担当になったそうだ。

月に2、3回くらいならと思って、つい引きうけてしまった。少なくとも、私ならぐちゃぐちゃスパゲッティや黒こげご飯、テリブル・プディング(強火で蒸して穴だらけ)は作らないから、1ドルや2ドルの会費の節約よりも、少しはおいしいものが食べたかった。

「今度はアイリッシュ・シチューとライス・プディングよ。どうするの?」

「羊肉と野菜を煮込み、ハッカを少し入れるの。ライス・プディングは、シナモンを入れましょう、アメリカ人好みだから。予算があまったら、レタスとトマトのサラダをつけては?」

「今度は、インドネシアの焼きとり(サチ)なのよ。グリルを借りなくちゃね。ソース知ってる? 私は知らない。作ってね。ガドガドって何? フーン、サラダなの。ピーナッツバターなら、私もらってくるわ。友だちがピーナッツバターの会社にいるの」

といった具合である。

7月初めのごちそうパーティーは急きょダンスパーティーとなり、ワインとポテト・チップスにクラッカーのみサービスをした。私はずっと手伝っていたし、マダム紫などは敬遠して、ヒロコとか、Mrs. Spinatch pie(ほうれん草パイの得意なおばあ様)、マジッククラブの先生で器用なボブ氏をはじめ、少なくともお料理のできる人たちでごちそうを作っていたから、アンちゃんがいなくても大丈夫であった。

彼女は、冷蔵庫からびん詰のカクテルを出し、ポテト・チップスやクラッカーなどをすすめ、ボツボツと語り出した。

ぐちゃぐちゃスパゲッティとイタリアン・アイスクリームを食べつつ、楽しいおしゃべりのひととき。

 東畑朝子著『朝子ニューヨークへ翔ぶ』

※ 誤訳というほどではないがこなれていない和訳セリフがあったのでメモ。

ニナが、ハイ・ヒールをベッドの上に乗せている間、私はピアノの部屋で待っていたのだが、糸巻きがピアノの上に散らばっていたので型づけ、持っていた折紙でお三宝を折って入れておいた。ニナは、それを見つけて大喜びであった。

「日本人は、一秒間に美しいものを作る」

「一秒間」ってたぶん、元のセリフは in a second あたりだと思うのだが、1秒ではなく、quickly, speedily, instantlyの意味で日本語にしたいところ。「ちゃちゃっと」「瞬時に」「あっという間に」作ってしまう...。

「強く生きていくんだ。CanのOppositeはないと言ったのを覚えているだろう。君が“書く”のを待っているよ」