たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

10年ぶりの即席ポテトグラタン 林真理子著『ウェイティング・ルーム』

ポテトグラタンについては昔の食堂にも掲載した(だから、覚えていたのだろう)林真理子の『怪談』改題『ウェイティング・ルーム』。
最近、彼女の短編集がぼつぼつ新装版でタイトルを変えて発売されている。駅の書店で手に取りやすいのよね。私も分かっててKindle版を買った。酒井順子のしょもない解説がついているのもお約束。
思い出アルバムを作り、それを人に見せることに熱を燃やす女性が出てくる。スマホ、インスタなき時代の話なのだということが分かるが、どの短編にも特に違和感はないのはすごいことなのかも。

なんでもその日、支部会でかぼちゃを持ちよって、かぼちゃ料理の講習会があったそうだ。フリッターやパンプキンパイといった、なにやら舌を噛みそうなハイカラな料理を、近くの専門学校の先生が来て教えてくれることになった。

夏になって、ひやむぎの中に、彼女は缶詰のミカンを入れる。色どりがいいからって、氷の中にふたつ、みっつ、入れる。するとあなたは思い出すの。昔はミカンの缶詰がすごい貴重品だったって。病気の時にだけ、おふくろが開けてくれた。ガラスの皿に十個だけ入れて、上からそっと蜜をかけてくれる。それが嬉しくて、嬉しくて、ミカンの缶詰開ける、ギイギイっていう音を聞くと、とび上がるほどはしゃいだもんさってあなたは言う。すると彼女はすごく不思議そうな顔をするの。あなたのうちって、すごく貧乏だったのね。あたしなんか、食べたいと思ったら、ミカンの缶詰なんか毎日食べられたわって。

それより不思議なのは赤坂で鯛飯の夕飯を摂りながら、今夜はそんな気分じゃないとさんざん言っていた美砂が、あらかじめちゃんと泊まる用意をしていたことだ。

やがてまな板を叩く音が聞こえる。コーヒーとトーストだけでいいといったのだが、手早くサラダをつくっているらしい。
(中略)
トースターから四角いパンが音をたててとび出した。木元はそれにマーガリンを塗る。本当はバターにしたいのだが、妻は植物性とかカロリー半分とかいう表示のあるマーガリンしか買ってこない。それをパンになすりつけるのは、朝いちばんのいらだちというものだ。しかし今日は丁寧に四角の隅々まで黄色がいきわたるようにする。そうしたらとても落ち着いて穏やかな声が出た。
(中略)
木元はマーガリンを塗った時の数倍の早さでパンを噛みくだいた。これ以上テーブルに座っていることの危険を感じとったからだ。
「あ、コーヒーもサラダもいらないよ。もう出かけるから」
「おかしな人。人が急いでつくってるのに。ほら、もうコーヒーが沸いたわよ」
「勇太の牛乳を飲んだからいいさ。とにかく一刻も早く会社に行って資料を見たいんだ」
さきほどの宗教の勧誘というのが80点ならば、これは40点ぐらいの言いわけかもしれないと木元は思った。
ドレッシングをかけた野菜の皿を持ちながら、妻があきらかにふふんと鼻で笑ったからだ。今日はよく女に嗤われる日だ。

 このマーガリンの話も時代がかっているかもしれない。うちも子どもの頃からずっとマーガリンを食べてきたが、外国から来た義兄が「マーガリンは体に悪い」と言ったのをきっかけに、バターしか買わなくなった。子どももいなくなり、食べる量が減ったというのもあるだろうけど、何より、一度バターのトーストに慣れるとマーガリンには戻れないよね。味が全然違うし。

中島の妻は料理が得意なので、きっと夕食をつくっただろう。あの自慢のビーフシチューを3人でさんざん食べたに違いない。

「ドレッシングにニンニクは入れないでちょうだいね」
君子がオリーブの実をつまみながら言った。
「それからサラダにコリアンダーは絶対に嫌よ。私、あのにおいを嗅ぐと、馬のおしっこを思い出しちゃうのよ」
「あら、馬のおしっこってそんなにおいなの」
「ずっと前、競馬場に行ったことがある。その時、そんな感じがしたのよ」
君子はオリーブの実をもうひとつつまむ。オードブルの皿に並べてと頼んだのだが、それが終わると瓶の中から、いくつもいくつも取り出し、口に運んでいる。
(中略)
「チョコレートケーキを持っていって。デザートに多めにつくっといたから、後でタッパーに入れとく」
「サンキュー」
(中略)
2か月に一度ほど行くゴルフの帰り、野鳥料理を食べたり、ソバのうまい店に寄ったりするのも、最近のならわしだ。
(中略)
「ちょっと君子、シャンパングラスをとってくれない」
「あら、シャンパンとは豪勢ね」
「違うわよ、オードブルに蟹のカクテルを出そうと思って」
大ぶりの缶切りを君子の掌に置いた。
「グラス出したら、蟹の缶詰を開けてね」
(中略)
外から戻った恭一が、苦労して手に入れた大吟醸の一升瓶をどさりとテーブルの上に置いた。まずはビールで喉を濡らして、栗田が持ってきたワインを飲る。そして食事が終わりかけた頃から、本格的に大吟醸をという腹づもりらしい。
(中略)
男達は、いち時にいろいろな種類の酒を飲むのが好きだ。今夜の料理はワインにも日本酒にも合うように、ごくあっさりしたものにしている。
(中略)
まずはオードブルの皿を出した。ひとかかえもある備前の皿に、買ってきた既製品を彩りよく並べてある。メインの料理は手間をかけるが、こうした冷たい料理は簡単にすませるのが香苗のやり方だ。
スモークサーモン、煮たアワビを薄く切ったもの、ニシンの昆布巻き、菜の花の芥子あえ、ミョウガの薄切りをちまちまと並べてある。
オリーブの実は、わずかに数粒しか飾られていない。後は君子がつまみ食いしたのかと、香苗は何やらおかしくなる。
痩せているくせに、君子は気に入ったものはいくらでも口に入れる習慣があった。しかしさすがにオリーブを食べ過ぎたらしく、皆の前で小さなげっぷをした。
(中略)
香苗はキッチンに入り、蟹のカクテルを盆に載せた。すぐに出来るこの一品は豪華に見えてとても気がきいている。案の定、テーブルに載せたら小さな歓声が上がった。
「僕は、じゃワインにしよう。栗田さんからおいしい白をもらったから」
「わりといいシャブリだよ。うちの冷蔵庫でいったん冷やしたのを持ってきて、すぐお宅の冷蔵庫に入れてもらったから、もう飲めると思う」
(中略)
「香苗の料理をひきたててやるために、ワインを抜いてるんじゃないか。ちょっとこげたハンバーグもさ、ワインが横にあるとそれなりに見えるもんさ。それに―」
ワインは催淫剤の役割もするんだぜと声をひそめて言う。ビールはすぐにトイレに行きたくなる。日本酒はぐっすり眠ってしまう。
(中略)
「次はお肉よ。和風のローストビーフというのを焼いてみたの、お醤油味でとてもおいしいの」
そりゃあいいねと、恭一と栗田が同時に叫んだ。天火の中で温めていた肉に、クレソンをたっぷりと飾った。これにレタスのサラダを添える。
(中略)
恭一が出張した同僚に買ってきてもらったという広島の銘酒は、口あたりのいい分、酔いが早い。ワインを1本空け、その一升瓶も、もう半分になっている。
下げた食器を流しに重ねていると、恭一が近づいてきた。声をひそめて言う。
「この後の料理、何」
「え、もうこれで終りよ。後はデザートのお菓子と果物」
「あのさ、ちょっと少ないような気がするんだけど」
ローストビーフの肉塊は少々小さいような気もしたが、各自に2枚ずつはいき渡っているはずだ。
「でももの足りないんだよな」
恭一はこういうところに非常に気がまわる。それは妻にとって、そう気分のいいものではない、ということには気づいていない。
「じゃ、私、急いでもう一品つくるわ」
「そうしてくれよ。酒がうまいせいか、なんかものがどんどん入るんだよな」
(中略)
今日の買い物のついでに買ってきた牛のひき肉があった。それをフライパンにぶちまけ、手早く炒めた。少し濃い目に醤油で味をつける。
乾物入れを覗くと、マッシュポテトの箱もあった。久しく使っていないので不安だったが、ビニールの口はきちんと洗濯バサミで閉じられていて、なんのさしさわりもない。これを湯とミルクでもどし、ひき肉の上に重ねた。チーズをふりかけ天火に入れる。上にうっすら焼けこげがついたら出来上がりだ。
自分の思いつきに、香苗はすっかりはしゃいでいた。ミトンで耐熱皿を持ち、走るようにしてテーブルに運ぶ。
「さっ、さっ、熱いうちに召し上がれ。即席ポテトグラタンよ」
(中略)
俺は田舎育ちだから天火の使い方などわからないと栗田は言った。香苗の家も東京ではないが、料理好きの母親は天火をきちんと使いこなしていた。見よう見まねで、焼きリンゴをつくったら、それはなかなかうまくいった。ローストビーフの肉などとても買えなかったが、ミートローフぐらいはすぐにつくれるようになった。そして料理の本で見て、香苗なりに工夫したのがこのポテトグラタンだったのだ。
「うまいんだよな、これ。ポテトの味がほくほくしちゃって」
栗田はくんくんと鼻を鳴らす振りをする。
「香苗の得意料理だったわけね」
(中略)
ポテトグラタンとワインで夕食をとった後、香苗と栗田はベッドに入った。
(中略)
「君子はものすごくエスニック料理が好きだったわ。香辛料や香菜に目がないの。それがある時からいっさい口にしなくなった。恭一はね、においにとても神経質だわ。セロリにだって嫌な顔をする。おかしいなあって思ったのはその時からよ」

「そうね、デザートにチョコレートケーキもあるわ。君子の子どものためにも多めにつくっておいたの。男の子だから。とてもたくさん食べるの」
食後酒はいらないだろう。デザートの後で、高らかに終了を告げようと香苗は決心した。

林真理子著『ウェイティング・ルーム』から