たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

老人ホームの食事 林真理子著『我らがパラダイス』

日米で4か所の高齢者施設に見舞いや外出の手伝いで行ったことがある。
この本に出て来るような高級施設ではないので、だいたい小学校の給食献立表のような1か月の「普通食」メニューが食堂前に貼ってある。
祖母の暮らしているところはカレーが多い。月に2度カレーである。それこそ給食だ。
加州の施設に行くと、ちゃんと感謝祭には七面鳥(といっても小さな切り身)が出ていた。
不思議なんだけど、食堂ってなぜか飽きるんだよね...。家で食べるのと同じように人が作ってくれているはずなのに。

冷蔵庫から玉子を2つ取り出す。
フライパンに油を引いて割った玉子を落とす。この頃ごく自然に目玉焼きを2つつくってしまう。そんな自分がまいましくてたまらない。だから田代朝子54歳は、乱暴に皿を取り出し、ひとつの目玉焼きを叩きつけるように盛った。
トーストはちょうど焼けている。それを取り出しマーガリンを塗り、インスタントコーヒーと共に齧り始める。
(中略)
「こげてる」
と言った。目玉焼きのことらしい。
「どうしたら毎日こんなにこげて焼けるんだ。オレは黄身が、ふにゃっとやわらかいのが好きなんだ」
「あんたね」
朝子はコーヒー茶碗を手にしたまま、思いきり睨んだ。
「起きてまず目玉焼きのことを言うワケ? その前に、お母さんのこと聞かないの?」

ひとつ口が増えると、これほど生活が苦しくなっていくのかと、朝子は次第に空おそろしくなっていく。
今までは朝に白米を1合炊くと、母娘ふたりで1日もった。昼間はうどんやひや麦をゆで、残りもののおかずで済ませればよかった。しかし慎一が同居してからというもの、朝、米を2合炊く。それにおかずにも気をつかった。干物や煮物では体がもたないというので、週に何回かは肉料理をつくってやらなくてはならない。慎一は風呂にも毎日入るし、夜遅くまで起きている。ガスや電気代の増加はすさまじい。

今日はハワイアンデーなので、チーフはあれこれ考えたらしい。ハワイアン・ハンバーグと名づけてパイナップルソースをかけたものがランチ定食となっている。それ以外にも、たき込みご飯やとろろそば、といったものが数種類メニューにのっている。
そもそもここセブンスター・タウンは、美味しい食事が売り物だ。夜は刺身や天ぷらといった和食、ローストビーフ、フライ、といった洋食から選べるようになっている。予約はいらない。朝食は500円、昼は1000円、夜は1500円といった値段だ。
最初は好きなものを自室のキッチンでつくっていた者も、ダイニングで食べた方がはるかに安上がりで味もいいとわかるのだろう。たいていは1階におりてくるようになる。
(中略)
8時からの開店には、ウエイターの1人が交替でバーテンダーとなり、ほぼ原価でウイスキーや日本酒を飲ませる。自分のボトルを持ってくれば、わずかな氷代で楽しむことが出来た。
月に何度かはワイン会が開かれる。好きな者たちがこれぞといった1本を持ち込み、ダイニングに用意してもらったチーズやナッツと共に楽しむのである。
ワインは「2万円以下」という制限をつけるらしいが、時々誰からがものすごいものを持ち込むことがあるようだ。

「お帰り。ご飯まだだよね」
「ちょっとだけ貰う。今さ、高橋酒店寄ってビール飲んできたら、おばさんが煮物をおまけしてくれた」
「まあ、いい年の娘が立ち飲みして……なんていう年でもないけど、さ、さっちゃん、お酒には気をつけなよ」
(中略)
「そんなこと言ってないで手をちゃんと洗いな。さあ、ご飯にしよう」
夕食は鱈と豆腐の鍋、里芋とイカの煮物、白菜の漬け物などである。
ヨシ子は料理がうまい。里芋はほっくりと甘辛く、さつきの大好物であった。
「鍋とくると、やっぱり欲しくなるよねえ」
さつきは冷蔵庫を開け、缶ビールを取り出した。
「あんた、さっき高橋さんとこでひっかけてきたんだろ。また飲んで……。アル中になっても知らないよ」
「いいさ、いいさ。さっちゃんは今日も1日働いてきたんだ。ビールぐらい飲んだって構わないよ」
貢は目を細める。
(中略)
リリーはヨシ子の膝にのり、何かくれとねだっている。貢は好物の白菜の漬け物を口に入れ、今年もよく漬かっているとつぶやいた。こんな時、さつきは結婚しなくて本当によかったと思うのだ。いつまでもこの幸せが続くと考えるほど馬鹿ではない。が、出来るだけ引き延ばしたいと考えるようになっている。

「お帰り」
母は言った。
「メロン冷えてるよ」
「えー、メロンだって」
「そうだよ。お父さんが森口さんから貰ったんだよ」
しょっちゅう土産をくれる父の得意客だ。
「森口さんも人から貰ったらしいけど、メロンなんて高いものくれるなんて有り難いよね」

朝は炊きたてのご飯に、海苔に納豆、鮭に煮豆もつけたさ。嫁にきて朝飯の用意したら、姑は私に怒鳴ったんだよ。お大尽じゃあるまいし、なんて贅沢をするんだよ。このうちはさ、朝にご飯は炊くけど、味噌汁にたくあんだけさ。私は19歳だったから、もうお腹が空いて、お腹が空いてたまらなかったもんだよ。もう戦争なんかとっくに終わってたけど、どうしてこんな思いしなければいけないのかって泣いたもんだ。親も不憫がって、家でこっそり食べさせてくれた」

ついこのあいだまで、さつきはヨシ子がつくる弁当を持ってきていた。甘辛い卵焼きにカラ揚げ、煮物といったありきたりのものであるが、料理人のチーフがつまんで、
「これはうまいや」
と、誉めてくれたぐらいの腕前だ。
しかし今日のさつきの弁当は、コンビニで買ったサンドウィッチと牛乳である。もう台所用品も荷づくりしているためだ。5日間続けたら飽きてしまった。白米のお弁当を一度買ったことがあるけれど、どうしても口に合わない。
(中略)
なんとか牛乳にストローをさし、チュッと吸った。そのとたん、つつぅーと涙が出てきた。
その時だ。ドアが開いて細川邦子が入ってきた。さつきは思わず「あっ」と声をあげた。邦子が手にしていたのが、近くのコンビニのレジ袋だったからだ。中に入っているのがサンドウィッチだというのは、形からでもわかる。
「それ、不味いよね」
思わず問うた。
「他の店に美味しいのあるけど、うちの近くにはあそこしかないから」
「本当に不味い」
細川邦子は、ふうーっとため息をついた。
「私、卵のサンドウィッチ好きなんだけど、ここのは酢が入ってるから嫌い。たぶんいたまないようにするだめだろうけど」
「きっとそうだよ」
とさつき。
「ハムはまあまあいけるけど」
「まあね」

「丹波さん、チョコレート好きですか」
「大好きですよ」
「さっき倉田さんがくださったの。細川さん、この頃すごく疲れているみたいだからって」
このあいだ邦子が倒れた時、心配してくれた老婦人だ。スカートのポケットから板チョコを取り出した。
「半分こずつしましょう」
「ありがとう」
珍しい包装のチョコは、外国製に違いない。割るとカカオの香りがぷんとした。
「倉田さんって、本当にやさしい人だね」
「本当にあの方はやさしいわ」
チョコを口の中で溶かしていくと、その甘さでまた涙がこぼれた。

「私ね、今日は8時まで働いているの。でもその間に何度か来るから。6時半ぐらいにね、女の人が食事を運んでくれるはず。さつきさんといって、とてもいい人よ。今日の夕ご飯は牛肉のワイン煮だって。お父さんはお肉が好きだから、よかったね」
(中略)
「いいですか。6時半頃、女の人が夕飯を持ってきます。白身魚のあんかけと野菜の天ぷらよ」
「肉じゃないのか」
父親の反応に邦子は安堵する。さっき言ったことをちゃんと憶えていたのだ。
「急にメニューが変わったのよ。お魚でも我慢してね」

さつき、ヨシ子、邦子の女3人は、居間でビールを飲み始めた。
「とても飲まなきゃやっていられない」
ということで、さつきが近くのコンビニでビールと日本酒を買ってきたのである。
アルコールはどちらかというと苦手な邦子だが、母娘につられて缶ビールに口をつけた。サキイカも齧る。自堕落なうまさが、口惜しさをほんの少しやわらげてくれるかのようであった。
「本当に何もなくて悪いねぇ」
ヨシ子がしきりに言う。
「調理器具もほとんど荷つくりしちゃったから。本当だったら、いろいろつくっといたのに」
「そうだよ。うちのお母さんの料理って、わりといけるよ。手羽を甘辛く煮込んだのとか、ニラの餃子とかさ」
「ヤダよこのコ、安上りの料理ばっかりじゃないか」
母と娘は顔を見合わせて笑った。邦子は羨ましくて仕方ない。
(中略)
ゆるゆると涙が出てくる。涙と一緒にサキイカを口に入れる。さらにしょっぱくなった。

駅前の雑居ビルの1階に、小さな鮨屋がある。チェーン店でもないが高級店でもない。ごくふつうの鮨屋だ。
朝子はここに2度ほど寄ったことがある。母親の今後や、弟の不甲斐なさを思うと、1杯飲まずには帰れなかったからだ。
もちろんカウンターに座ったりしない。隅のテーブルに座り、握りの“上”とビールを頼んだ。
今夜は夫人から貰ったお金を遣うことが目的なので、メニューを見て刺身の盛り合わせと酢のものを頼んだ。
「お疲れー」
「お疲れさまでした」
まずはビールで乾杯した。訓子がいける口なのは知っているので、日本酒の2合瓶も頼んだ。
(中略)
朝子は酒を訓子のグラスに酌いだ。常温の辛口はいくらでも入る。もう1本お願いしますと、白衣の若い男に声をかけた。

「朝ちゃん、お弁当よろしくね」
「わかった」
「シンちゃんには、鮭焼いてやって。鱈はあんまり好きじゃないから」
あの母の姿を見ていた娘が、親不孝になるはずはないではないか。

プレイルームは食堂も兼ねていて、8人ほどの老人たちが食事の最中であった。車椅子の老婆に、エプロンの姿の若い男が匙で食べさせている。ちらりと見ると、白身魚にカボチャの煮つけであった。

テレビの搬入の日取りなどを話していると、中年の女がお茶を持ってきてくれた。大福がついている。
「まあ、すみません」
「うちのおやつタイムですよ。洋菓子と和菓子がかわるがわる出ます」
所長の頭が例のごとくぴかっと光った。朝子は大福を手にとる。包装からして、コンビニで売っているレベルのものだなと思った。チヅは甘いものに目がない。虎屋の羊かんが大好物だし、うさぎやのどら焼きが手に入ったりすると、いっぺんに2個食べる。
これからは来るたびに、何かおやつになるものを買ってこなければならないだろうと思った。プレイルームに人影はない。どうやらおやつは、みんな自分の部屋で食べるようだ。

認知症の老人もいるが、きちんとティーカップとお菓子が出される。今日は水羊かんで、これは麹町の老舗から運ばせたものだ。

「今日のランチは鶏の中華風煮込みと、カボチャのスープです。かき揚げうどんもご用意出来ますけど」
「それじゃあ、うどんの方を頼もうかな……」
「はい、あかりました」
(中略)
「今朝は洋食セットにして、トーストを2枚召し上がりましたよ」
(中略)
「うん……。僕は糖尿の気もあったりするんで、医者がとてもうるさいんだよ」
「えー、言ってくださいよ。うちは白米じゃなくて、五穀米に替えることも出来るんですから」
「そうだね、今度からそうするよ。ありがとう」
かき揚げうどんを、時間をかけて遠藤は食べ始める。

時間がある時につくって冷凍にしているものに、邦子は細かい指示をしておいた。
「ハンバーグはそのままじゃなくて、煮込みハンバーグにして」
「豚肉はチルドに戻してあるから、それをキャベツで炒めて」
が、たいていは守られていない。コンビニ弁当の空があることもしばしばだ。

2人はアハハハと声を合わせて笑った。
「だけどさ、最高だよね。こうして2人でさ、柿の種とポテトチップでビール飲みながら、テレビぼーっと見てるのはさ」

倉田夫人は綺麗にネイルした手で、鮨桶のラップをはずした。出前を頼んだものらしい。あとはサキイカ、ナッツといった簡単なものに、ビールとワインが並んでいる。
「そう、これはチーフからの差し入れ。どうしても来られないからって」
シャンパンであった。
(中略)
鮨桶はすぐに空になった。ほとんどさつきがたいらげた。
「やっぱり美味しいですねぇ」
ごくんとビールを飲み干す。
「私がいつも食べている持ち帰り鮨とはまるで違います。やっぱり松鮨はおいしいですねぇ」
松鮨というのは、セブンスターのすぐ近くにある高級店である。銀座並みの料金をとるということで、もちろんさつきは行ったことがない。出前もしない方針であったのだが、顧客が次々とセブンスターに入居したことで、ここだけは特別に届けてくれるのである。

遠藤を外に出さないために、部屋の中で料理をした。好物のパスタとサラダを出すと、
「本当に申しわけありません」

「お母さん、今日の夕ご飯どうだった?」
「白身の煮つけに、キノコの炊き込みご飯、カブの味噌汁に青菜のおひたし、豚の角煮がひと切れ、デザートは苺のゼリーだったよ」
「へえー、すごい豪華版だね」
「私のは普通食だから。隣の爺さんのをちらっと見たら、まずそうなお粥だった」
「関さんだね。関さんはもうお年だから、咀嚼力が弱まってる」
「ここのご飯は本当に美味しいよ。なにしろさ、前の晩に、明日の朝食は洋食がいいか和食がいいかって聞いてくれる。洋食なら紅茶、コーヒー、カフェオレ、ハーブティーの中から選んでくれって言われた時はぶったまげちゃったけど」
「ここは食事もウリだもの。ホテル並みのものを食べれるって」

さつきが話す間、テーブルにはペペロンチーノとシーフードグラタンが運ばれてきたが、手をつける者は誰もいない。

「食べ物を分けてくれない。2、3日分」
「そっちは何人いるんだ」
「えーと、みんな合わせて20人ぐらいかな」
「オッケー、パンと乾麺、冷凍のもん、いろいろ持ってきな。上の階には確か電子レンジとガスコンロあるはずだよ」

午後になった。パトカーの音はまだ聞こえてこない。皆でパンにハムとチーズをはさんだものを食べ、コーヒーを飲んだ。さきほど下から運んできたものである。

林真理子著『我らがパラダイス』より

 前にも別の本であった気がするが、「たまご」の表記がゆれている。