たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

仙台の芋煮会 内館牧子『養老院より大学院』

この本は文庫2回、電書1回買ってしまった「特定のエピソードのために読み返したくなる」エッセイ。
今読むと、院試の英語試験を「これでもかの意訳」で乗り切った、と繰り返してあるのが気になる。
どうも「意訳」を原文に不誠実なネガティブな仕事だと思っている人が多いようだが、実は逆で本来は翻訳の真髄であって、それができるならむしろいいんですよ。

内館氏の著作は『想い出にかわるまで』(!)から、『ひらり』などのドラマまでかなり楽しませていただいたが、最近のエッセイを試し読みしたらすっかり頭のかたい人になっていて残念だった。
米大統領選についてかなり的を外したことが得々と説かれていたのだが、米国の政治のしくみをおさえず、現在の日本のメディアしか見てない人が有料媒体に米国政治についてコメントしないでほしいと思う。

私も最初はびっくりしたのだ。と言うのも、ケヤキが色づき始めた頃、突然、どのコンビニでもどのスーパーでも、店の前に薪が並んだのである。突然である。何ごとかと院生に訊いたら、
「ああ、芋煮会用だよ」
と言われ、また驚いた。仙台の人たちが、広瀬川の川原で芋を煮て食べる「芋煮会」をやると聞いてはいたが、こんなに大々的に薪を売り出すほど盛んとは思ってもいなかったのである。
聞けば、花見よりも気合いが入るとかで、その季節になると広瀬川のほとりは朝から「場所取り」で大変だという。あっちでもこっちでも薪の煙があがり、大鍋で芋を煮て、サンマやイカを焼いて酒盛りだという。
やがて何と、宗教学研究室の掲示板にも「芋煮会のお知らせ」が貼り出された。ああ、これぞ東北の大学の醍醐味! きっと午後からの授業は休講で酒盛りだわと手を叩いたら、「午後の授業は午前中に行う」と隣に貼り紙があった。
(中略)
当日はくっきりと晴れた秋空にやや冷たい風が吹いて、川原で焚き火をするには最高の日和。学生たちは鍋や薪を自転車の荷台にくくり、手に手に芋や食材や酒を抱え、みんなで大学から広瀬川まで歩く。
川原は聞きしにまさる賑わいで、あっちでもこっちでも芋を煮る煙とサンマを焼く匂いの饗宴である。私たちは大鍋に2種類の味を作った。私はこれも初めて知ったのだが、ひとつは芋煮の本家「山形風」で「里芋、牛肉、醤油味」である。もうひとつは「仙台風」で「里芋、豚肉、みそ味」だ。両方ともコンニャクや野菜やキノコなども加わって、熱い芋煮と冷たいビールのおいしいことと言ったらない。色づいた木々を眺めながら、川原に吹く風を受けることの何という気持ちよさ。

内館牧子著『養老院より大学院』より

 パンデミックの中でも屋外の秋風の中での芋煮会ならギリギリできるかな...。
私は豚汁の「仙台風」のほうが好きだな。

ヨーロッパあちらこちら 犬養道子『お嬢さん放浪記』

本書で、犬養さんが療養していたサナトリウムが近所にあったことが分かって驚いた。

<アメリカ>

アメリカに行ったら、浴びるほど飲もうと楽しみにしていたアイスクリーム・ソーダも、ついぞ口に入る見込みはない。外出すれば、食事は一番安い10セントのトマト・サンドウィッチのほかはむつかしい。

その夜、かるい夜食をすませてから、私も交えた一家総動員で、七面鳥のつめものをこしらえ、野菜を切り、デザート用の粉をねった。居間につづく台所には、赤と黒のししゅうをほどこした白いアイルランド・リネンのカーテンがかかっていた。食器も、手ふきも、ふきんも、すべて赤と黒でそろっていて、中々しゃれた好みを見せていた。

シスター・ローザはこんな会話のあいまに、瀬戸ひきのボールやアルミのフォークを甲斐甲斐しく盆にならべて、私のための昼食をととのえてくれた。冷たいミルクが1杯、チーズのふりかけてあるスパゲッティが1皿、桃が1個。私が食べはじめると、2人はそばに坐りこんで、あごをヒジで支えながら、熱心にいろいろな質問をくり出しはじめた。

どこから来てどこに行くのか。

何を勉強したいのか。

ヒロシマの原爆のあとを見に行ったことがあるか。ヒロシマでどう思ったか。

 

尋ねまわってやっとさがしあてた養老院では、マーガレットさんが心配して待っていた。コカコラの瓶を1本ひざの上に大事そうにのせて。

「あつかったでしょう」と彼女はやさしく私をいたわった。「どこに行っていたの、用心しなければこのへんは危いのですよ」

私は冒険のことは黙っていた。

「もう帰る頃だと思ったから、冷たいコカコラを買って来ておきました」とマーガレットさんは行った。私はびっくりして彼女の不自由な足を見た。

「あなたが自分で買いにいらしたの」

「なに、遠くまでは行きません。ほんのそこまで」

それから瓶を開けてストローをつけて、私に手渡しながら言った。

「1本じゃ足りないでしょうね。でも、私にはダイムしかもちあわせが無かったのです。もっと他のものを買って上げたかったけれど」

「あなたの分は?」

「私はいらないのです。だって汗びっしょりになってスラム見物をしたのはあなたですもの」

その晩、マーガレットさんはシスター・ローザに頼んで、台所から卵とバターとミルクとをもらいうけた。私が疲れていると見て取って、台所まで食事のために出てゆかなくてもすむように、部屋でオムレツをつくってくれるというのである。ダイム1枚しかゆとりのないマーガレットさんが、そのダイムを私のためにはたき出し、そればかりかこうやって、不自由な足をあちこちに運んでお皿をそろえたりオムレツを焼いたりしてくれるのを見ているうちに、私は胸が熱くなって来た。疲れているだろうから休んでいろと、無理にも長椅子に私を寝かしつけるマーガレットさんの手を振りきって、私はもう一度町に出た。そしてたった1枚の1ドル紙幣を景気よくなげ出して、コンビーフとサラダと果物とを買った。おつりのいくらかで花も買った。

「マーガレットさん、今夜のごちそう」

そう言って買って来た品を見せた時の彼女の喜び方は涙ぐましいほどであった。子供のように手を叩いて口笛をふいた。食事はおいしかったし、話ははずんだし、彼女はすっかり悦に入って、とうとう黒人霊歌を歌いはじめた。私はマリアン・アンダーソンの霊歌を聞いたことがある。しかしあの有名な歌手の歌もあの晩少し調子はずれにマーガレットさんが歌った霊歌ほど感動的ではなかったと思う。

 

<オランダ>

11月、ニシンの味がよくなる時、北の海辺にニシン獲りの舟が忙しく出入りする。酢づけニシンを食べさせる屋台が出る。1年中出ているがこの頃になるとぐっと数を増やすのである。通勤の人たちが、自転車をとめて、おやつがわりにこれを食べる。生ま臭いこの味に親しもうとしない人は、いくらオランダに長くいても所詮よそものの域を出ない。

 

ウリケは栄養士だったし料理が中々うまいので、家を掘り出す仕事ではなしに、作業中の人々におべんとうを作って配る仕事を与えられた。

ようやく復興の活気に溢れて来た村の道を山ほどサンドウィッチをいれた大きなバスケットを両手にさげた金髪娘が、日に何回となく往復する。

 

ドイツ青年のタフさを私は殆ど讃嘆の目で眺めずにはいられなかった。彼等はこの激しい労働にもかかわらず、黒パンのかたまりをミルク1杯で平然としている。どんなにひといギャラージの床の上でも平気で熟睡するのである。一晩寝れば1日の疲れから完全に立ち直るらしい。

それにくらべると、アメリカ人のタフさはちょっと変っていた。彼等は実に骨惜しみなく働くし、力仕事も平気だったが、食べるものだけはちゃんと食べないと参ってしまうのである。アメリカ娘は非常に割り切った態度で、だって私たちがへばってしまったらどうにもならないのだから、と言って、食事時になると、さっさと何処かに消えてしまった。何処にゆくのだろうと思って観察してみると、彼女たちは、となり村のある修道院まで出かけて行って、そこの修道士から、菜園の野菜や、貯蔵室のチーズや卵をわけてもらって、ちゃんとカロリーの計算に合った上等な食事を取っていた。別に抜けがけをするとか、人の裏をかくとか、そんな気持はないのである。こうしなければ参ってしまうから、となり村まで足を運んで補給するのである。うすいソーセージをはさんだパンだけでは、血のしたたるビフテキで育った彼女たちには全然足りないのはあたりまえである。

 

今朝早く、南オランダの農場からアムステルダムの私たちのアパートに来ている娘が作ってくれたおべんとうがまだそのまま手提袋の中に入っている。これを、例の7人が眠っている間に食べてしまおう、眼をさまして私が食べているのを見たら彼等はきっとまた何かしゃべり出したり、手の平を見せろと言ったりするにちがいない、これは一刻も早くこっそりと食べるに越したことはない、こう考えて、私はおべんとうを取り出した。

オランダの中流家庭で常食にしている黒パンに、チーズと黒砂糖とをはさんだ貧しいサンドウィッチである。黒パンといっても、東京のレストランでみかけるような上等な黒パンではない。戦時中配給になっていたネバリのつよい味のよくない、どすぐろいパンに似たひどいものである。私が一しょにアムステルダムで暮していた連中は、みな似たりよったりの素寒貧だったから、クリスマスや復活祭以外の時は白いパンなど食べないのである。黒砂糖は安く手に入るので、ジャム代りにこれを使っていた。飲みものは明けても暮れても、牛乳一点ばりで、私のべんとう袋の中にも、一合瓶に入った白い液体がおさまっていた。

おなかがすいていたので、私は夢中で、このあまり香ばしくない夜食にかぶりついた。

(中略)

「メシュウ、マダムは御機嫌が悪いんです。このひどい黒パンのせいかもしれませんね」

そう言って出て行った。

7人は代る代る大あくびをしたりノビをしたりしながら、私の方を見て陽気に笑った。それから言いあわせたように身体を乗り出して、私の食べかけのサンドウィッチを眺めたのである。

「全くこれはひどい」

と1人が言った。

「馬の食いものじゃねえか」

ともう1人が相づちを打った。

(中略)

しかし、彼等の関心は再びパンに戻っていった。

「そういうパンを日本人は食うのかね」

(中略)

「いいえ」

「じゃそのパンはどこのだね」

私は話題がパンのことに止まっている間はまず安全と見て取ったから、出来るだけ長くパンの話をさせるために、こう言った。

「あててごらんなさい」

学のある男がうでをのばして私の手から食べかけのサンドウィッチをうばい取った。一寸なでて見て、それから匂いをかいで、顔をしかめて、次に渡す。次の者も同じようになでてみて、顔をしかめた。こんな具合で、私の哀れなサンドウィッチは、7人の手を順々に渡って、あげくの果てには座席の下にほうり出されてしまった。

私はびっくりして抗議をもち出した。

「私のお弁当を勝手に棄ててしまって、いったい何というひどい人たちなのでしょう」

(中略)

1人の男はこう言った。

「あれはドイツのパンにちがいない。ドイツにはライ麦が沢山とれるから」すると1人がこう反駁した。「ドイツ人はなるほどライ麦の黒パンをどっさり食べる。けれどもドイツの黒パンは、ドイツビールの相の手として恥ずかしくないだけの味覚は持っている筈だ。だから、あの、馬の食べもののようなひどいパンは、ドイツのパンではない」

(中略)

自分がそこに生まれそこに育った土地を、この上もなく愛し懐かしむヨーロッパの人にとって、その土地の独特のパンは、最も懐かしい最も誇らしい食べ物なのである。ドイツのパンは重厚で歯ごたえがあり、ライのほろ苦い香気にみちているし、ベルギーのパンは大きくて丸くて、見た目が大そう美しい。きれいなもの好きで、いかにも都会趣味の濃いベルギー人に似つかわしいパンである。

(中略)

黒パン用の麦は、ラインの河に沿って一ばんよく穫れるのではないか、それなら、ラインが流れて海に入る直前に横切る土地を考えてみればいい、きっとその土地には黒パン用の麦がよく育つにちがいない。

「その土地はオランダだ」

と、誰かが相の手を入れた。

「あのパンは、ではオランダのパンなのだ」

とみんなが言った。私はそうですと答えて、これでパン論争はおしまいになるものと考えた。けれどもそうではなかったのである。なぜ、同じラインの同じ麦を使いながら、オランダ人はドイツ人ほど上手によいパンをつくらないのだろう、なぜあんなひどいパンをこしらえるのだろう。7人はそれを不思議に思いはじめたのである。

(中略)

彼の意見は次のようなものであった。オランダ人は、性格的にいって2つの面を持っている。1つの面はゲルマン的なもので、その証拠はどのオランダ人にもみられるゲルマンのあの強さと深さと粘りである。言葉までも、ゲルマン語の方言が主幹となっている。ところで、もう1つの面はといえば、それはアングロサクソンの性格といってよいだろう。何事につけても実際的で、ことにじっくりと腰をおろして注意ぶかく商売をはじめるあの手堅さは、どう見てもアングロサクソンのやり方である。ファンタジイなどというものの片鱗さえ持たないオランダ人の実直さは、海をへだてたあの商業国の人々からわけてもらった性質なのだ。だからオランダ人は、ラインの上等なライ麦をもとに使っても、ちょうど実際的なイギリス人がぜいたくな食べ物を好まないように、その麦で上等な高価な黒パンをつくることは好まないのだ。イギリス人に取って食べ物はまず第一に「餌」である。こう言っては少し酷かもしれないが、彼等はフランス人やイタリア人のように食べ物を芸術と見るにしてはあまりにも実際的であり、そうかといって食べ物を人生の楽しみと考えるにしてはあまりにもお高くとまっているのである。

(中略)

たしかに、オランダ人にはアングロサクソンの性格が多分に入っている。彼等の言葉も、ゲルマン語に英語をからませてつくり上げたものなのだから。

(中略)

彼は微笑をつづけながらあなたの大切なパンをみんなで棄ててしまったおわびに、自分のパンを進呈しましょうとつけ加えた。私はおなかもまだ空いていたし、それに、この男の持っているパンはきっと白くて上等にちがいないと思ったから喜んで両手をさし出した。

7人はそわそわと立ち上って、アミ棚から大きな汚らしい袋をおろすと、その中からまっ白なフランスパンを取り出した。いつのまにか、フラスカティのブドウ酒と、ねっとり黄色いチーズも出ていた。フラスカティはローマから東に30キロばかり行った所にあるブドウの名産地で、そこでとれる酒は非常に名高い。コハク色の美しい液体が、高い香気と一しょに小さなスズのコップにそそがれた。すすめられるままに、私は一息に飲み干したが、まるで輝いているイタリアの太陽の味かと思われるほどに、さわやかでおいしかった。

「ヴィヴァ・イタリア!」思わず私はそうつぶやいた。まつげの影の濃い、大きな目を見開いて、じっと私を見つめていた7人は満足気にほほ笑んだ。

「イタリアのパンでなくて残念です」

(中略)

「どうか1日も早くイタリアに来て、私たちのパンを味わって下さい。ロマノの平野で取れる麦の味です」

「シニョリーナ、イタリアに来ることがあったらぜひ私の家に来て下さい」

と、いれずみの男尾が言った。

「シシリーのはずれです。私たちは貧しいから、何の御馳走も出来ません。けれども、イタリアのパンとイタリアのチーズとイタリアのブドウ酒はいつでもあります。それに、本当のことを言えば、いいパンといいチーズは、この地上で一番の御馳走なんですからね」

私は世の中のまことしやかなうわさ話を真にうけて、シシリー人なら気をつけなければならないものと思いこんでいた自分を恥ずかしく思わずにいられなかった。そしてまた、あの時オランダのパンを取り出したばかりに、こんな楽しい夜食の仲間入りをすることが出来たのを幸福に思った。

汽車は全速力で南に向って走っている。警笛が風に乗って流れていった。

 

<ドイツ>

それで、私はヴァイオリンの男に頼んで、一番大きなコップを取りよせてもらい、それにビールをなみなみとついでもらった。コップは優に一尺の長さがあった。うすい灰色の地に藍色で花が描いてある。ビールの白い泡がコップの口もとから香気と一しょに流れおちた。私は右手でコップを高くさしあげ、左手をみんなの方にさしのべて言った。

「友よ」

拍手が湧く。無数のコップが高くあがる。

(中略)

音に聞えたミュンヘンビールは実においしかった。味にコクがあって、香りもまたすばらしい。泥焼きのコップの口あたりも中々よいものだった。私たちはビールを飲んでから、豚のあぶり肉を注文したが、そのツマについて来たじゃがいものお団子は何とも言えずまずかった。生のじゃがいもをすりおろしたものと、マッシュポテトとを、半々にねりあわせて、湯の中で煮るのだそうだ。ミュンヘンにいる間中、3人姉妹からこのお団子を食べさせられて、1週間目にはとうとう完全な胃病を起してしまったほど、それはひどい食べ物だった。

 (この「じゃがいものお団子」、手が込んでいるのにそんなにまずいのは悲しすぎないか)

マリアはハーグで会い、ティルテンベルグの丘で話しあって、すっかり仲よくなった初秋の日のことを話し、「友情の記念のため」にぜひ自分に御馳走をさせてくれ、翌日の夕方迎えにゆくからと言ってくれた。じゃがいも団子に辟易していたところなので、私も大よろこびで承諾し、翌日の夕方になるのを待ち兼ねて、マリアと一しょに大そうりっぱなあるレストランに出かけたのである。マリアはメニューを見ながら、あなたは何時もお金の心配ばかりしているらしいから、今夜は何の気がねもなく、このメニューの中で一番高いものだけえらんで食べて下さいと言った。自分も下宿の身でそう金持ではないけれども、あなたにおごる位のものは大丈夫持っているから、と言った。私は正直に言って、このような大まかな招待を受けたことは、留学以来一度もなかったので、すっかり喜んで、言われるままに、料理の名を見るよりはまず値段を見て、一番高価なものだけ3品あつらえた。マリアもそれにならった。極上のミュンヘンビールを景気よく抜いて、私たちは大満悦で飲んだり食べたりした。豚のカツレツというものがバヴァリア独特のお料理であるのを知ったのもこの時である。

 

私たちは7、8人の子供たちと一しょに、ビスケットを食べた。

 

食卓の上にはライ麦のパンと、ぺパミントのお茶と、バタがあるだけである。これがこの一家の夕食かと、私は何となく淋しかった。前からわかっていたら、ソーセージの1つも買って来たのに。バタつきパンが出来上り、ぺパミントのお茶が湯気をたてはじめると、靴直しの一家は椅子から立ち上った。イゾルデは小さいので、立ち上ると身体は全部食卓の下にかくれてしまった。金色の巻毛だけが白いテーブルかけの上にのぞいている。一家の者は十字を切った。

Unser Vater in dem Himmel

Dein Name werde geheiligt...

食事がはじまると、靴直しはこんなことを言った。

「Unser Vater(われらが父)と口には祈りながら、互いに殺しあったり傷つけあったり。戦争は嫌でしたねえ」

 

ほんの一言、チョコレートが好きだと口をすべらしたばかりに、町中の人々から山ほど贈られたチョコレートをもてあましながら、私はボンに向って出発した。

 

<フランス>

公園の片隅のマロニエの木陰には、いつものように飴屋の屋台が出ていた。

油じみた黒のアルパカを羽織ったおばさんが、とろとろと燃える薪の上に、古風な鉄鍋をかけて、キャラメルを煮つめていたが、そのあまったるい匂いは、風に乗って、私の腰かけているベンチのあたりまでただよって来る。

こたえられない匂いだった。

 

「この娘さんに」と、部長は私の方をあごでしゃくって、「コンビーフの特大のカン(それはドラムカンほどもあった)10個。粉ミルクと乾燥卵とバターそれぞれ5カンずつ。これからまた来るかもしれないから、顔をよくおぼえておけ」

(中略)

これに気をよくした私は、コンビーフと卵ばかりではしようがないから、ついでに何とかしてチーズも手に入れてやれ、と欲を出した。ヴィダと2人、鳩首協議の結果、私たちは大学に出かけていって、学生名簿を借り出した。チーズの産地であるノルマンジーの、チーズ製造業者を親にもつ学生をさがし出して味方にひき入れ、親父からチーズを提供させようというねらいである、この案はうまく当った。チーズ業者ばかりはなく、シードル酒の醸造元にまでわたりがついて、一夏かかって食べてもあまるほどのチーズとのみきれないほどのシードルをもらいうけることが出来た。

 

「乾燥卵」...どんな代物なのか想像もつかないが、substituteの液体並みにまずそうである。素朴なシードルは飲んでみたい。

 

<イタリア>

せまいカフェである。一方にはスタンド、フカフカしたパネトーネ(カステラの一種)や丸パンがならんでいる。一方にはテーブルが5つばかり。どれもこれも先客で一ぱいである。予想した通り、客は菜ッ葉服の男たちとバスの制服をつけた運転手である。カフェラッテを前にして、煙草を吸いながらやかましく話しあっていたが、まっ赤な帽子をかぶって妙な袋をぶらさげた毛色の少しちがう女の子が入って行くと、みなびっくりして話をやめた。スタンドの後でコーヒーを入れていたじいさんも手を休めて私を見た。私は大きな声でこう言った。

「ボン・ジョルノ!」

「ボン・ジョルノ! シニョリーナ、ボン・ジョルノ!」

運ちゃんたちは口々にそう答えた。5、6人がわれがちに立ち上って私に席をすすめた。イタリアの男たちはエトランゼに対してまことに親切である。

(中略)

驚いたことには、私がグラーチェと言って腰をおろすより早く、1人の菜ッ葉服の青年が、湯気のたつカフェラッテと、ジャムをそえたパネトーネとを勝手にスタンドからはこび出して、私の前にならべてくれた。

男たちはみんな椅子をひきずって、私のまわりに輪をつくって坐っていた。

(中略)

私は彼等を喜ばせたくなったので、フロレンスは私の心を奪ってしまった、フロレンスの空気の中には人を酔わせる何かがある、と言った。案の定、彼等は手を叩いてよろこんだ。

「世界の道はローマに通じる。しかし世界の心はフロレンスに通じる」

と1人が叫んだ。

「乾杯!」

「ちっちゃなベアトリイチェ」

とバスの運ちゃんが話しかけた。

「ダンテを読んだことがありますか。われらのダンテを」

幸いに私は「神曲」の一節をイタリア語で覚えていたから、怪しいアクセントでそれを暗誦してみせた。

地獄篇に出て来るフランチェスカとパウロのエピソードの一節である。

一座はおどろきのあまりにシンとなった。同時に少しがっかりしたようでもあった。

(中略)

しかし、スタンドのいじさんは、フロレンスが誇る大詩人の名作の一部を、東洋の果ての島から来た女の子が暗記しているという事実に、ひどく感動してしまった。そしてその感動を行為であらわそうとして、もう1杯カフェラッテをついで持って来てくれた。

「若いうちは、十分にラッテを飲まなくちゃ」

と彼は言った。そしてこれはタダですと付け加えた。

 1958年刊。やはり、巻末に「今日の医療知識や人権擁護の見地に照らして不適切と思われる語句や表現がありますが...」のことわりがある。「運ちゃん」はそれに該当しないかもしれないが、誰かが、ましてや「教養がある」と思われた人が口にしたらビックリすると思う。

手塚治虫は自伝マンガで、1度だけ母親が「運ちゃん」とタクシーの運転手を呼んだことをひどく驚いた記憶として描いていた。

 

私たちは日だまりになっている崖の突っ鼻まで来ていた。おどろいたことには、崖に枝をさしのべているミモザの木には、もう黄金色の花が満開に咲いていた。私たちはそこに柔かい草をみつけたので、腰をおろして、ポケットにしのばせて来たチョコレートを出して食べた。エドガーはよほど愛好しているらしいブラウニングのことを話し出した。ドス・パソスやスタインベックばかり読まれて、ブラウニングなどのあの味が今のアメリカの若い人々に忘れられがちなのは遺憾だと、綿々として話していたが、私は足もとにひろがる夢のように淡い色調のトスカナの早春に気を奪われて、ブラウニング談義には半分も耳を貸さなかった。

 

私はかなたに横たわるルネッサンスの花の町(フロレンス)を眺めながら、ゲーテのいう「より高きより純なるものへの渇望」を祈りの中に深めようとするこれらの若い人々の心に、今のヨーロッパのルネッサンス(新生)も宿っているのではあるまいかと考えた。小さなカフェでカプチーノとよばれるコーヒーを飲んでから、私たちは再びバスに揺られてフロレンスに帰った。

 

とにかく菓子箱はみんなの手で(その手の中には郵便屋のじいさんの手もまじっていた)裸にされた。中からは赤や金や緑のリボンにかざられた、それこそ直径1メートルもあるほどの上等とびきりのパネトーネというカステラがあらわれた。

 

<フランス>

私たちの「夕べ」も9時半からということになっていた。ブドウ酒の瓶を10本ばかりならべて、チーズをひとかたまり机の上におけば、それで準備はととのうからホステスも気らくであった。

だいたい外国人というものは、極めて手がるに人を招くのが常である。財布が乏しくてチーズとパンしか買えない時でも、よろこんで友達を呼ぶし、招かれた方でもそれを妙に受け取ったりはしないのである。

 

午後おそくまで講義がある寒い冬の日など、これからあの部屋に帰ってマキを燃やすのはやりきれないなどと、侘しく思いながら帰って来てみると、10人の中の誰かが留守の間にやって来てストーブを焚きつけておいてくれたりした。暖かいチョコレートが鍋の中にトロトロと煮えていることもあった。

 

「マドモアゼル、いらっしゃい、いらっしゃい。地玉子はうまくて安いよ。うさぎはどうです、リンゴはどうです」

そんな呼び声の四方から聞える市場で、熟れたリンゴと土地のチーズを買った。

(中略)

私は市場が好きだ。有名な、北フランスで、否、ヨーロッパで、世界で、一番美しいあのシャルトルの伽藍のそばの、中世の趣をそっくり残す市場で、鳩やブドウを売る村人と共に、地べたに腰をおろしてパンをかじった思い出は、稀代のステンドグラスに酔って坐りつくした思い出に優るとも劣らず貴重なものである。

(中略)

カフェのような一隅をみつけて、私たちはそこに入り、さっき求めたリンゴとチーズを、そまつなテーブルの上にひろげた。オルレアンのブドウからしぼった白い酒を1杯、やかましい叩き売りや客よせの呼び声を聞きながら傾けていると、ドヤドヤと入って来て、となりの席に腰をおろした8人ばかりがあった。

 

あの聖堂(サン・ブノア)は、田舎の静けさと、朝陽の輝きと、小鳥の歌と、人々の祈りとが、渾然と1つになるように特別につくられたものなのだ―こういってからおっさんは、私の前に置いてあったブドウ酒の瓶をのぞきこんだ。

「干さんかね」

「干したらノビてしまう」

「フーン」とおっさんは私の顔を見た。「金を払っておきながら残すとはヤボな娘だ。こっちにかしな」

彼はうまそうに、のどを鳴らして瓶を干した。

「オルレアンの味よ」と彼は言った。「ブルゴーニュがうまいの、ボルドーがうまいの、シャンペンがうまいの、何といったって、酒はその土地のものが一番うまいで。酒は土地の心なんだから。心は味わわにゃわからない、酒も愛して味わわにゃわからない。酔うために酒を飲む阿呆どもは、文化も教養ももちあわせのねえ奴よ」

 

近づいてのぞいてみると、暗い土間に、人のよさそうなかみさんが忙しく何かを料理している。何かと聞くと、今朝カゴに一杯とれたばかりの、ロアール名物の魚だという。大よろこびで中に入って、土間の一角に陣どった。レストランではありません、というのを、無理にたのんでおそい昼食をとることにきめた。

幾十年前のものかといぶかしい大きな石のストーブに、マキをどんどん放りこんで、碧い澄んだ眼が印象的な、ローランサンの絵にでもありそうな美しい若いかみさんは、愛想よく、いますぐですからと言いながら、黒い小魚(ポアソン・ノアール)を手早く揚げて、地酒1瓶と一しょに出してくれた。からくちの強い赤(ルージュ)だった。あいにく白は切れているとkかみさんは言いわけをした。

「でも、じきに、ルージュにあうものを出してあげますよ」

飛びこみにも嫌な顔を見せず、かみさんは奥の方から大きな鍋をもって来てあたためてくれた。中には、野鴨の胆を犢(こうし)の肉で巻いた煮込みと、とろけそうな玉ねぎが入っていた。フランス人の料理のセンスは、いっそ芸術的とよびたい程だ。こんな漁師の家でさえ、ロンドンの目抜通りのレストランの料理より、百倍もコクのあるうまい味つけのものを出す。これでおしまいかと思ったら、山もりのサラダと、数種類のチーズと、リンゴを詰めた手焼のパイと、香りの高いコーヒーを御馳走して、700フラン頂きますと言った。パリでこれくらい食べたら、サンミシェルの学生街でだって、1人1,000フランは見なければなるまい。

私たちが有頂天で食べている間中、かみさんの末っ子という男の子が、私たちのまわりをうろうろしていた。

いくつときいたら2歳半だという。このへんの古い習慣だといって、3歳くらいまでは女の子の服を着せておくのだそうだ。上がみんな女の子だからとても助かります、とかみさんは笑っていた。「おさがりがみんなこの子にまにあいます」

ドミニクというこの子は、のどがかわいていた。さいしょは揚げものにいそがしくて、とりあわなかったかみさんも、とうとう手を休めて、大きなコップを棚から出して来た。それ、ドミニク、おとなしくするんだよ、そういってかみさんは調理台の上のブドウ酒をポンとぬいて、コップになみなみついでやった。2歳の子供が息もつかずにつよい地酒をのみほすさまをながめて、私は仰天した。つよすぎるんじゃない、マダム、そうたずねたが、かみさんは平気だ。「水がわるいんでね、このフランスという国は」

テレーズはランフォルマシオン誌が、こんど子供のアル中問題をとりあげるのだ、といって、フランスの子供たちの多くが小学校卒業前に半分「お月様」(少し頭がへんになること)になってしまうこと、そしてそれは飲料水の高価であることとブドウ酒の安さとに根をおくのだと話してくれた。実際、エビアンやヴィシーのような飲料水は大ビン80フランもするが、市場でタルから買うブドウ酒は大ビン20フランからある。ブドウは南フランス至るところにふんだんにとれるから、ブドウ酒ほど手がるに安く口に入るのみものはない。マンデス・フランスはミルクを奨励したが、それではブドウ酒づくりが上がったりになるので、南フランス全体のつよい反対にあって、結局彼は失脚してしまった。

犬養道子著『お嬢さん放浪記』より

マリー・アントワネットの『ヴァレンヌ逃亡』の記述にも、逃亡用の馬車に飲み水がわりのワインが大量に積んであったと書いてあったな。のどの渇きがすっきり癒えなさそう...。

アメちゃん 山本文緒『あなたには帰る家がある』

20年ぶりに改訂版を再読。とても良かった。
自宅外での食べ物の気軽なやりとりがしにくくなって、「アメちゃんコミュニケーション」は簡単ではなくなってしまいましたねえ...。
教会の屋外礼拝に行ったら、そうはいってもリフレッシュメントはあるんだけど、コーヒーポットのレバーを引くのも、お砂糖の袋を取るのも、手袋をはめた担当者にやってもらうスタイルになっていた...。大変やで。

「朗はどっちを食べたんだい?」
「パーン」
「じゃあ、お父さんはご飯だ」
「どうして?」
「朗が食べなかったから、ご飯が余ってるんだろう?」
そう言いながら、彼はテレビの前の長男の隣に腰を下ろした。
「慎吾。食べる時は台所のテーブルで食べなさいと言っただろう?」
長男は答えない。牛乳とコーンフレークの入った皿を抱え、テレビを見ながらスプーンを口に運んでいる。

きんぴらごぼうに夫が少ししか箸を付けないので、彼はきんぴらが嫌いなのだと考えていたら、ある日「君の作るきんぴら、辛いよ」と夫がぽつりと漏らした。そういうことは最初に言ってくれればいいのにと思った。作ってもあまり食べてくれないメニューが他にもいろいろある。知り合ったばかりの頃、僕は食べ物にはうるさくないから何でもいいよと言ってたのに嘘つきね、と真弓は思う。
(中略)
「私には向いてないのよ」
そう呟きながら、真弓はスーパーで買ってきた酢の物のパックを開けた。小鉢に移し換えて冷蔵庫に入れようとした時、娘の麗奈が声を上げた。

彼は曖昧に頷いて箸を持った。出来合いのトンカツに、たぶん切って売っているのだろうと千切りキャベツ。酢の物も漬物もきっとスーパーで買ったものだろうと秀明は思った。けれど彼は文句を言ったりしない。

「お茶飲むでしょう? お腹は空いてるの?」
「何か食べるものあるの?」
「秀明さんが持って来たケンタッキーのチキンがあるけど」
「あ、それちょうだい」
母親は急須とフライドチキンの箱を持ってリビングに戻って来た。真弓の向かいに腰掛けると、湯飲みに番茶を注ぐ。チキンを見て麗奈が「あー」と声を上げた。
「この子、夕飯に何か食べた?」
「ご飯をちょっとと冷凍のグラタンを半分ぐらいかしら」
「それはどうもすみません」
「どういたしまして」
(中略)
真弓はチキンを小さく千切り、娘の口に入れてやった。冷ました番茶を少し飲ませると、ネジが切れたようにあっけなく娘は眠りに落ちた。

そこで助手席の真弓が話しかけてくる。
「うん」
「のど飴と梅キャンディーとどっちがいい?」
真弓はいつもバッグに飴玉やらチョコレートやらを入れている。それが可愛いと思った時もあったなと秀明は思った。
真弓の顔をちらりと見ると、掌にキャンディーをのせてにこにこ笑っている。秀明は溜め息をついた。嫌いではない。この女を俺はまだ好きなんだろうなと彼は思った。
「梅の方下さい」
「はい、口開けて」
包み紙を開けて、真弓が彼の口に飴を放り込んだ。甘酸っぱい味が食欲を刺激する。

「あれー、佐藤さん、最近お弁当じゃないんですねー」
出前のかつ丼の蓋を開けたところで、森永祐子がすっとんきょうな声を出した。
「そんなに驚かなくてもいいでしょ」
パチンと箸を割って、秀明は力なく言う。
「奥さん、ご病気ですか? それとも実家に帰っちゃったとか?」
興味津々という感じで聞いてくる祐子に、同じくかつ丼を前にした竹田課長が文句を言った。
「昼飯ひとつできゃんきゃん言うな。さぼってないで掃除でもして来い」

支部長は手に持ったケーキの箱を上げてみせた。
「頂き物なんだけど食べない?」
(中略)
お先にと言ってやよいが消えてしまうと、真弓はケーキの箱を開ける支部長に言った。
「お茶を淹れてきましょうか」
「あら、ありがとう。ついでにお皿とフォークもいいかしら」
(中略)
「待ち合わせって、ご主人とお食事でもするの?」
ショートケーキを口に運びながら、支部長が聞いてくる。

真弓は空になった華奢なグラスを見つめた。今飲んだカクテルは1杯1,000円する。1,000円といったら夫の昼食代だ。それをもう真弓は3杯飲んでいた。目の前に置かれた生ハムもチーズも、カクテル以上の値段だ。

その日の茄子田家の夕餉は、鯖の味噌煮だった。古い台所に置いた大きな丸いテーブルの上には、焼き豚、ひじきや漬物、残り物らしいサラダ、煮豆、海苔などが所狭し置いてある。小さい方の息子の前にだけ、魚の代わりにハンバーグが置いてあった。
具が沢山入った味噌汁を啜りながら、秀明は実家の食事を思い出していた。母親は特に料理上手というわけではなかったが、とにかく細かいものをいろいろ作った。洋風和風おかまいなしに、あるものを全部テーブルに並べて食べるのだ。
(中略)
「さ、お茶にしましょうか。佐藤さんがクッキー持って来て下さったのよ。みんなで食べましょう」
(中略)
せめてもの救いは、茄子田家で食べさせてもらったおいしい鯖の味噌煮だった。

「そうですね。安いのに旨いですよね、このツクネなんか」
「そうだろう? ほら、祐子ちゃん。どんどん食べたいもの頼んでいいよ」
「ええ。でも、もうおなか一杯です」
(中略)
ひとりになった秀明は、不気味な味がするツクネを齧りながら、今度生まれてくる時は絶対女に生まれようと思った。

「おやつ食べる? ゼリー作ったわよ」

「ほっとしたら、お腹が空いちゃったわ。ね、真弓さん、ご飯食べない?」
ステーキのいい匂いが、隣のテーブルから流れてきえちた。支部長は悪戯っぽく隣に視線をやった。
「ええと、でも……」
ここで夕飯など食べたら、いくらかかるか分からない。

茄子田は学生や買い物帰りの主婦達の嬌声を気にかける様子もなく、にこにこ笑ってウェイトレスにプリン・アラモードを頼んだ。
「プリン、ですか?」
(中略)
やけくそな気持ちになって真弓もプリンを頼む。

課長はひとりでどんどんお酒を空ける。板前が何か握りましょうかと声をかけてきた。
「うん、握って握って。俺、嫌いなものないからね。森永は? 光りものは駄目?」

「あきらー、おやつ食べるかい?」
下から祖母の声が聞こえた。朗は仕方なく「はーい」と返事をする。祖母が出してくれるおやつは、いつも饅頭や羊羹だ。朗は和菓子も祖母も苦手だった。
下りて行くと、案の定テーブルの上にきんつばと日本茶が待っていた。
(中略)
「さあ、どうかねえ。もうひとつ食べるかい?」
「いらない」
「かりんとうもあるよ」
「いらない。お母さんがきっと何か買ってきてくれるから」
朗の言葉に、祖母の顔から笑みが消えた。
「まったく、あんたのお母さんはちゃらちゃら遊んでばっかりで。ケーキ買ってくれば済むと思ってるんだから」
朗がそれに答えないでいると、祖母はさすがに文句を引っ込めた。

昼休み、茄子田太郎は職員室の机で、弁当の蓋を開けた。
結婚してから10年、妻は仕事に行く彼に欠かさず弁当を持たせてくれている。料理上手な妻の作る弁当は、いつでも工夫が見られ、茄子田の好物ばかり入っていた。
しかしその日、彼は弁当箱の蓋を開けたまま、箸も持たず腕組みをしていた。
やはり、おかしい。
茄子田はそう思った。少し前から何か変だなと思っていたが、今日は決定的だった。
綾子は決して食事に関しては手を抜くようなことはしなかった。それが、どうしたことだ。彼はじっとアルミの大きな弁当箱を見下ろした。
今日の弁当のおかずは、茄子田の嫌いな冷凍食品のハンバーグだった。そして昨夜の残り物の煮物も入っている。
何ヵ月か前から、弁当に同じおかずが続いたり、冷凍食品らしい物が入るようになっていたのは気が付いていた。

真弓は帆立のマリネを口に入れて、じっと茄子田の顔を見た。
(中略)
パンにバターを塗っていた茄子田が顔を上げる。
(中略)
そう言って、バターを塗りたくったロールパンを、茄子田はゆっくり齧った。その唇を見て、真弓はフォークを持ったまま硬直してしまった。

先程綾子が卵酒を作ってくれた。それを飲んだら、日本酒の熱燗を飲みたくなってしまったのだ。
(中略)
慎吾は唇を尖らせ、つまみのイカの燻製に手を出す。
(中略)
「ねえ、お母さん最近変だと思わない?」
猪口の酒をくっと飲み干して慎吾が言う。
「お前もそう思うか?」
「うん。最近、お弁当に冷凍食品が入ってるんだよね」
「そうか。そう言えば、この前は水加減を間違えたとかで、えらく固いご飯が出てきたもんんだ」

「私、このスペシャル・トロピカル・パフェというの食べてもいいですか?」
席に座ったとたん、祐子が聞いてきた。
「いいけど……この寒いのにパフェ?」
「若いから平気です」
あっそ、と真弓は思う。
(中略)
真弓はコーヒーを頼む。パフェはコーヒーの3倍の値段だった。
(中略)
そこでパフェとコーヒーが届く。祐子は頂きますも言わず、スプーンを手にして食べ始めた。
(中略)
ぱくぱくパフェを食べながら、祐子は冷たく返事をする。

買い物を済ませた後、ドライブに出た。冬の海でさざえの壺焼きを食べた。

秀明は冷蔵庫を開けてみた。あいかわらずガラガラな冷蔵庫だ。冷凍庫を開けてみると、肉まんを見つけた。秀明はそれをひとつ取り出すと、ラップでくるんで電子レンジに入れた。
キッチンの椅子に腰を下ろし、秀明は肉まんがぐるぐる回るのをぼんやり見ながら、新婚の頃を思い出した。
(中略)
そうだ、あのミルク粥はおいしかった。どうやって作るのだろう?
電子レンジで温めた肉まんは、手で持てないほど熱かった。秀明は自分でお茶をいれ、肉まんが少し冷めるのを待って食べた。
(中略)
肉まんひとつでは、腹はいっぱいにならなかった。ミルク粥を作ってみよう。秀明はそう思って立ち上がった。

「どうしたの?」
真弓は思わず彼に聞いた。秀明の笑顔を見たのは久しぶりだった。
「別に。昼飯まだだろう? ミルク粥作ったんだけど食う?」
「え、ええ?」
「そんなに驚くことかよ。でも、作り方分かんなくて適当だから、あんまりうまくないよ」
そう言いながらも、秀明は茶碗にお粥をよそっている。真弓は首を傾げながら、買ってきた物を冷蔵庫に入れた。
(中略)
久しぶりに、真弓達は親子3人で食卓を囲んだ。秀明の作ったミルク粥は、確かにおいしくはなかった。
「これ、出汁かコンソメ入れたの?」
「あ、そういうの入れないといけないの?」
真弓の問いに、秀明は聞き返す。
「そうねえ、塩こしょうだけじゃちょっとね」
「ふうん。じゃあ次は入れてみる」

山本文緒著『あなたには帰る家がある』より

田辺聖子『女の日時計』から

「…まあ、その話は止そう。肉が美味い……。空気がいいからよけい美味いのかな」
彼はよく食べた。沙美子にも炭火で焼いた肉や野菜がおいしかった。そのことが、気持ちを楽にした。運転するからと、彼は酒を飲まなかったが、それもよかった。
「沙美子さんて、ふしぎな名前ですね」
メロンが最後に出たのを彼は銀のスプーンで一気に食べて、とぎれめもなく話している。

黒いセーターに、チェックのスカートをはき、エプロンをつけて、えつ子はぜんざいを煮ていた。
「そんなこと、えつ子さんにできるの?」
「これでも女のハシクレよ。ブルジョワの奥さまとはちがいますよ。何さ、ぜんざいぐらい……」
(中略)
その話がうちあけたかったのかと、沙美子は驚いて箸をおいたが、えつ子は笑いをうすく浮かべながら、熱いまったりした味のぜんざいを、美味しそうに吹いている。

「器の見料ともいうて……ええ器を使うさかい、高うなります。けど、そこが京の味でええとこもありますの」
車の運転を控えているので、酒もほんの唇を湿す程度に、食事をはじめた。うどに胡瓜、とうふ、湯葉、それに鯉のあらい……。若い毬子には淡泊すぎて物足らぬらしく、早々と食べ終わる後、庭下駄を穿いて出てしまう。
(中略)
夫人はそこで食べものの調理について話を更えた。突き出しに工夫がこらしてあったが気がついたか、ここの湯葉と豆腐ほど美味なものがほかにあるか、だしのかげん、火の通り工合。本当の茶懐石の味をもっている店はここのほかにどこどこがあるか……。
食い道楽らしい夫人の饒舌を聞きながら、沙美子は心もここになく、相沢のあとばかり追っている。

バスの停留所のよろず屋でアイスクリームを買い、食べながら歩いた。

沙美子はお君さんと一緒にせつの食事を運んでいった。黒塗りの角膳の上に、清水焼の茶碗があり、雪のように白い粥がつややかに光っている。
「ほんのひとくちでお気の毒やね。でもまだ今はたくさん召し上がったら、あかんのやそうですよ」

田辺聖子著『女の日時計』

ほとばしる食欲 山本文緒『自転しながら公転する』

人間同士をつなぐ、そして人間の本能を呼び覚ます(無心に箸を動かす描写多し)会食の場面がいっぱい。そして、空気を変える甘味の時間も折々に。

ものすごく美味いんだと連れて行かれた店は、バラックと見紛うような小屋で、テーブルにかけられたビニールクロスはお世辞にもきれいとは言いかねた。
盛り付けも何もないような、ただ皿に入れただけのような青菜の炒め物が出てきた。でも鼻孔をくすぐるハーブの匂いに暴力的な食欲が込み上げた。目の前の恋人は日本にいるときと違って大きな口を開け、がつがつとそれを搔っ込んだ。つられるように口に入れると、うま味が口の中で弾けた。
日本で食べていたベトナム料理とは全然違った。
野菜も肉も新鮮だというのもあるだろう。ハーブとスパイスが何種類も使われているせいもあるだろう。化学調味料がほんの少し入っているせいもあるかもしれない。その食べ物には、私の常識を覆し、それまでの自分を解放するようなものがあった。
夢中で何皿も注文して食べた。美味しい以外の言葉が出てこず、胃がいっぱいになっても舌と歯がもっともっと欲しがった。どうしてこんな深みのある味がするんだろうと独り言のように呟くと、タレが違うんだよと彼が何でもないことのように言った。タレの配合も店によって違うし、ナンプラーも塩もエビペーストも地元で作っていて、日本では手に入らないものだからねと笑った。
激甘のデザートも平らげて、勘定をした。店で働いているのは意外にも若い人ばかりだった。皆、さっぱりした身なりをして、フランクな接客をしている。オープンになっているキッチンでは若い女性がフライパンを振っているのが見えた。
彼が店主と話していたので、私は先に店の外に出た。
Tシャツの胸のあたりに今食べたものの油が少しついていた。
それを見ながら私は敬虔したことのなかった感覚に体中がしびれて放心していた。

エリザベス・ギルバートのEat, Pray, Love 『食べて、祈って、恋をして』のイタリアパートを髣髴とさせる。彼女もイタリアの食べ物を食べまくってうつ状態の中からすっかり自分(の体重)を取り戻したのだ。

今朝は寝坊をしたので駐車場に車を停めてから手早くメイクをし、フロントガラス越しに大仏を見ながら豆乳をストローですすった。家の冷蔵庫から取ってきたそれは既に生温かくなっていて、紙パックが少しふやけてたわんでいる。
2年前まで朝の習慣は駅ビルのカフェに寄ることだった。隣の人と肩が触れ合いそうなほど窮屈なカウンター席で、足早に行き交う都会の人々を眺めながらソイラテを飲んだ。

仕方なく受け取ると次々と皿を渡された。長谷部と分け合って割り箸でつまんで口に入れ、ゆっくりと噛みしめる。寿司を食べたのは久しぶりで、確かにこう暑いと酢飯の風味が嬉しかった。シャリは大きくてネタはそこそこ肉厚だ。サービスランチは寿司10貫に加え巻物とみそ汁が付くようなので、男の人でも満足する量だろう。だが味は期待してしまった分、落胆が大きかった。スーパーの総菜売場で売っているものとそう変わらない。
かつて食べた青山の高級寿司の味がふと蘇る。幸せな記憶とは言いがたいが、宝石のような寿司だった。あんな美しくて衝撃的においしい寿司を口に入れることはもう一生ないかもしれない。
今日はなんだかよく東京でのことを思い出すなと、都は口元を手でおさえ大きなシャリを咀嚼した。
(中略)
少し空腹が落ち着くと、回転寿司は回転寿司というジャンルであってこれはこれでいいものだというふうに気持ちが持ち直してきた。

「あ、これ、おいしいね」
鶏肉のソテーがいつもと風味が違っていて都はそう言った。
「ヨーグルトで漬けてみたんだ、うまいだろ」
「なにパパ、どこでそんなの覚えたの」
「朝のテレビでやってた。まだあるから明日の弁当に入れていっていいぞ」
得意げな顔で父は笑った。

灯りを落とそうとして、果物籠に入れておいた梨をしばらく見つめる。ひとつ手に取り、果物ナイフで櫛形に切り、剝いてタッパーへ入れた。冷蔵庫の前面に貼ってあるマグネット式の小さいホワイトボードに母へのメッセージを書く。

  • ママへ。ピンクの蓋のタッパーに梨が入っているから食べてね。

病院を出ると車でスターバックスに寄った。病院の帰り、母の調子が良ければほんの少しドライブし、どこかカフェに寄るのが習慣になっていた。ケーキと飲み物を買って向かい合うと、母の表情は家を出た時に比べて見違えるほど明るく、都はもう嬉しさを堪えきれずに言った。
(中略)
「ううん、ちゃんと言ってなかったもんね。でも焦らないでゆっくり治していこうね。私もパパもついてるから。さあ、ケーキ食べよう!」
母は微笑んでいた。都も笑い返す。喜びと痛みが皿の上のマーブルケーキのように入り混じっていた。

都はバンダナでくるんだ弁当を広げた。父が夕飯に作る総菜の余りがあれば、それに自分で焼いた不格好な卵焼きを合わせて弁当を詰めてくる。料理が不得意な都にはそれだけのことでも億劫で仕方なかったが、毎日コンビニで昼食を買うと馬鹿にならない出費になる。

どきどきしながら様子を窺うと、彼は自動販売機でたこ焼きを買っていた。都が座っている場所から四角い休憩室の対角線上になる位置に、彼は横顔を向けて座った。ペットボトルの茶を飲みつつ、たこ焼きをつまんでいる。

「チャーハンでいいよね。昨日の焼き豚入れるね」
「玉ねぎ少しにしてね」
父が昨日買ってきた焼き豚と野菜を刻んで冷や飯を炒める。何が悪いのか昔母が作ってくれたようにはできず、べちゃっとしてしまう。自分で作っておいておいしくなさそうだと思う。それを汁物と一緒に出した。
「なにこの味噌汁、どろっとして」
椀から口を離して母は言った。
「ネットで見て、とろろを入れてみたの」
「ふーん。あまり好きじゃないかも」
「長イモはホルモンのバランスを整えるんだって」

エスニックはよくわかんねーと彼が言うので都が料理を注文した。春巻きや青菜の炒め物やバインセオを頼む。虎の顔のラベルが貼ってあるビールで乾杯した。
(中略)
料理がやってきて、貫一は一口食べると「なんだこれ美味いな!」と大きく言った。先日は宴会だったのでじっくり味わえなかったが、都もこの店の料理は抜群に美味しいと改めて感じた。添えてあるパクチーは新鮮で柔らかく、素材もいいものを使っているのだと思った。
(中略)
貫一は炒め物の皿に残っていたうずら卵を楊枝で刺し、それを顔の前でぐるぐる回した。

服を見立ててもらったお礼に夕飯をご馳走したいとそよかが言って街へ出た。時々行く店があるのだと連れて行かれたのは、路地の奥にあるログハウス風の設えのシチューの店だった。
「可愛いお店だねー」
「でしょう。すごく美味しいんですよ。でもこの前彼氏を連れてきたら、恥ずかしいからもう来たくないって言われました」
確かに店員もお店もほとんどが若い女性だ。シチューセットのドリンクの中にグラスワインがあったので都は白ワインを頼んだ。

木製の薄いドアを開けると、一気に出汁の匂いと湯気に包まれる。彼はガス台に向かって何か作っていた。
(中略)
鍋の中身はおでんだった。
「これ友達がくれた」
都がそう言って差しだした袋を覗き込むと「お洒落パン」だと貫一は言った。帰り際にそよかが、お礼だと言って渡してきたものだ。
「おでんじゃパンは合わないよね」
「別にいいじゃん。うまそう」
(中略)
炬燵の上に鍋ごとのおでんと、ドイツパンと、焼酎のお湯割りのグラスがふたつ置かれた。
(中略)
グラスをぶつけ合って口をつける。匂いが強い芋焼酎が最初はいやで飲まなかったが、あまりに部屋が寒いので少しずつ口をつけるようになり、だんだんおいしく感じるようになってきていた。冷えたつま先は炬燵であっという間に暖まった。石油ストーブの上のやかんがひゅんひゅん蒸気を上げて、カーテンのかかっていない台所の窓は真っ白になっている。
そよかと夕飯を食べたばかりだったが、大根があまりにもおいしそうに煮えていたのでもらった。さすが綺麗に面取りしてある。口の中が熱くてやけどしそうだ。
「おー、このパンうめーな」
そよかがくれた、ドライフルーツやナッツがみっちり練り込んであるドイツパンを一口食べると貫一はそう言った。

車内が少し暖かくなると強い空腹感が込み上げてきた。なんでもいいから温かいものを食べたくなって、街道沿いの大きなスーパーに車を停めた。スーパー自体は24時間営業だが、フードコート店はあと30分ほどで閉店になる。そのせいか客はちらほらとしかいなかった。そこでうどんを注文した。割り箸を真ん中で割るのに失敗してしまい、偏って持ちづらい箸で食事をした。

父はそのあとすぐ、毎日夕飯の材料が宅配されるサービスを見つけてきた。既に切ってある野菜や肉や魚が夕方届き、ついている簡単なレシピに従って材料を炒めたり煮込んだりするだけで立派なおかずが出来上がる。献立を考えたり買い物に行ったりしないでいいのは楽だった。
休みの日や、早番で帰宅したときは、都がその総菜キットを使って調理した。

診察が終わって薬をもらうと、娘に誘われて車でスターバックスへ行った。甘い飲み物とケーキを買って向かい合う。さきほど医師にだらだら不定愁訴を訴えたが、今日は比較的体調はよい。カフェの椅子に座っていられるくらいだったら、桃枝の中ではかなりましなほうだった。
(中略)
娘とピンク色のケーキを分け合って半分ずつ食べる。
「さくらシフォンって桜が練り込んであるのかな」
都が真面目な顔で言うので桃枝は笑った。
「さくらに味なんかないでしょ。それにこんな桃色じゃないし」
唇を尖らせて早速娘はスマホで検索をする。
「あ、本物の桜の花や葉を使用してるって書いてあるよ」
「あら、そうなの」
「上に載ってるのは桜の花の塩漬けだって」
「へー、どれどれ」
小さな桃色の塊を口にする。懐かしい塩辛さだ。
「桜の塩漬けなんて久しぶりにお目にかかった。結婚式のとき、控室で桜湯を頂いたの思い出したわ」
「それってママの結婚式?」
「そうよー」

はじめに読んだとき、本文中に「シェアする」という言葉が使われているのに違和感があったが、その手前に「分け合って」という記述もあるので、繰り返しを避けたのかなと思った。もちろん、ここでの「シェアする」には単にモノを分けるのではなく、濃厚につつきあうというニュアンスもあるので、想定読者にはこのほうが伝わるだろうと判断したのかもしれない。(うちのばあさんには多分伝わらない)

夫がインターネットで探してきた、具材が切ってあり、炒めるか煮るかするだけの総菜キットは、メニューを考えて買い物に行って下ごしらえして、という手間がない。それなのにちゃんと料理をした気になるので最初は感動した。けれど続けて食べているとメニューも味も画一的で飽きてしまった。何も言わないが夫もきっとそう思っているだろう。

前菜の皿を持ってきたウェイターにも、時子は「素敵なお店ね~、今度は結婚記念日にも来ちゃうわ」と勢いのまま話しかけた。無表情だったウェイターがにこりと笑う。
冷製のトマト煮を口に入れると、野菜の濃い味がした。最近宅配の総菜の単調な味ばかり口にしていたので、舌の使っていなかった部分を刺激されたようで驚いてしまった。
「おいしい」
思わず呟いた。
「ねー! すっごくおいしいわよね! 感激! こんなの家じゃ食べられないわよね!」
時子が大きな声で同意してきて桃枝はつい笑ってしまった。
(中略)
彼女の問いに、桃枝は魚のポワレにナイフを差し込んだまま、曖昧に首を傾げた。

「おいしい」「うまい」に表記のゆれがあるなー。意図はなさそう。

「パパ、お昼食べる?」
後ろから声をかけると夫が振り向いた。
「なんだ、起きたのか」
「なんにもないから、おうどんくらいしかできないけど」
「うん、いいよそれで」
(中略)
うどんを茹でていると外から夫が戻って来たので、桃枝は娘の職場までこれから届け物をすることを伝えた。何か言うと思ったら、夫はじっと黙り込み、無言でうどんをすすった。食事を済ますと「じゃあ車で送る」と言い出した。

サンドイッチに齧り付いたところだった都は、思わずそのまま動きを止めた。パンを口にしたまま目を見開いて母の顔を見つめる。

ガス台に乗った鍋の蓋を開けると、鈍い黄金色でおいしそうな照りのぶり大根が入っていた。
「わー、おいしそう。私、おなかすいちゃった」
貫一は黙ったままで都の顔を見つめている。
「どうかした? なんか疲れてる?」
「いや、なんでもない。飯食おう、飯。冷蔵庫に昨日作ったひじきが入ってるから出して」
3月いっぱいで無職になった貫一は、頼んでもいないのに都が早番の日はこうして夕飯を作ってくれるようになった。おかずは乾物や豆を煮たり、魚をただ焼いたり素朴なものばかりだが、母親や父親が作るものより美味しかった。
(中略)
冷蔵庫からひじきの小鉢をだしてテーブルに置く。炊きあがってそれほど時間がたっていないらしく、まだ温かい白米を自分の茶碗によそった。貫一は流しの下に置いてある瓶に入った糠床に手を入れて漬物を出している。
「おいしそう。いただきますー」
(中略)
こたつ布団を取り外したテーブルで、テレビを眺めながら食事をした。都は白いご飯で、貫一は焼酎でぶり大根をつつく。

夕食のバイキングは都が想像していたよりずっと豪華だった。見渡す限り、大皿に盛られた食べ物の山が続いている。洋食も和食も中華も、サラダも肉も魚もデザートも、およそ思いつく限りのご馳走が並んでいた。
寝足りた貫一はハイテンションで、次々と食べ物をとってきてテーブルに並べた。天ぷらやローストビーフ、刺身やカレーライス、本職のはずの寿司も平気な顔で持ってきた。食べ合わせがめちゃくちゃで、最初は面食らってどう楽しんだらいいかわからなかったが、広いレストラン中、大勢の人間が同じ浴衣姿で、欲望のまま食べ物を咀嚼しているその熱気に呑まれて、だんだん背徳感のようなもものが麻痺していくのを感じた。とっくに満腹のはずなのに、違う味、違う食感への欲求が止まらなくなり、いくらでも胃に入った。

朝食の席で、都は機嫌を損ねたまま納豆を混ぜた。前の晩と同じレストランで、やはりバイキングだったが、夢から覚めたように現実的な食事が並んでいた。

ショップから一番遠い休憩室に杏奈を連れていき、テーブルを挟んで向かい合った。都は持ってきた弁当を、杏奈はコンビニで買ってきたらしいサンドイッチを広げた。
(中略)
すっかり食欲は失せていたが、食べないのも悔しいので、都は炒めたソーセージや卵焼きを次々と口に入れた。

見物を済ますと、敷地内にある美しく整備された公園のベンチに腰を下ろした。新緑で溢れ、木陰を抜ける風がミニバラの枝を小さく揺らしていた。
するとニャン君がリュックからマグボトルに入ったアイスティーと手作りだというサンドイッチを出して、ピクニックのようになった。ベトナムのバインミーというサンドイッチだという。パクチーとお酢の風味が効いていてとてもおいしかった。
「ニャン君、まめだね」
「そうですか、このくらいフツーです。ボク料理がスキなので」

おなかが空いていたがつまみもあらかたなくなっており、サラダの残りを皿に取って口に入れた。

恐縮する都をそよかはソファに座らせ、ミルクティーを淹れてくれた。彼氏のことは写真で見せてもらったことはあったが、実物は写真の何倍も感じがよく、聞いていた年齢よりずっと若く見えた。
ふたりは新婚夫婦のように都を気遣ってくれた。そよかはソファに一緒に座って当たり障りのない話をしたり、昨日焼いたというシフォンケーキを勧めてくれた。

「なんか、メニューが結局お好み焼きになって」
「へー、お好み焼き」
「ママがあれこれ作るって計画したみたいなんだけど、貫一が料理入だって聞いたら考えすぎちゃってパンクして、パパがそんなんだったら出前にしろって怒って喧嘩になって。結局ホットプレートでなんか作って食べれば気まずさも薄れていいんじゃないかってことになって」
「ハハハ。俺が焼くよ」
(中略)
テーブルの上には簡単なつまみやサラダができていて、ホットプレートも準備されている。父は貫一にビールをすすめ、彼はグラスを両手で持ってそれを受ける。

「そろそろお好み焼き、作りましょうか。貫一さん、ご馳走じゃなくてごめんなさいね」
「いえ、お好み焼き、大好きです。最近食べてなかったんで嬉しいです。僕が焼きましょうか」
「あら、でもお客さんにやってもらうわけには。ちょっと、都がやりなさいよ。ぼうっとしてないで」
「えー、私?」
「あ、都さんよりは僕が焼いたほうがまだ安全だと思いますよ。調理師免許あるし」
貫一の軽口にみんな笑った。そらぞらしい笑いだった。
彼は立ち上がって、切ってあった野菜と粉と卵を混ぜホットプレートに流し入れた。手早く形を整えて豚バラを乗せ、蓋をした。別に難しいことをやっているわけではないが、動きに迷いがなくて桃枝は見入ってしまった。
「やっぱり手つきがいいわねえ」
桃枝がついそういうと、夫が「ハッ」と皮肉に笑った。
「うちの女たちは本当に料理がダメでね。面目ない」
(中略)
貫一ははにかんだ様子で笑い、ホットプレートの蓋を外した。焼け具合を確かめてから、コテでお好み焼きを器用にひっくり返す。香ばしい匂いが部屋の中に漂ったが、その匂いさえ何か場違いな感じがした。
(中略)
桃枝がテーブルに戻ると、貫一は立ち上がってお好み焼きをもう一度ひっくり返し、ソースとマヨネーズを塗った。四等分に切って、青のりと鰹節をかけ、それを皿に取り分ける。
よく知らない男の焼いたお好み焼きは、いつも桃枝が作るのと同じ材料なのに、ふっくらとして驚くほど美味しかった。

確かに日本のお好み焼きは不思議な料理だ。今でもは母のが一番美味しいと思う。家を出てから初めて材料を聞いたら、小麦粉と水だけ(時々卵も)と聞いてとても驚いた。出汁さえ入れていなかったのだ。

慌ててついて行くと、浅草口を出て少し歩いたところにあるホテルの1階にある店に連れていかれた。パリのビストロ風と言ったら言い過ぎだが、上野とは思えないような洒落た外見の店だった。広々としたフロアは8割ほど埋まり賑わっていた。こげ茶を基調としたパブ風の内装で、かしこまったレストランではないがいかにも美味しそうな雰囲気だ。メニューを見ると、この店の看板料理はローストチキンらしい。こんがり焼けた鶏肉の写真を見ただけで食欲が刺激された。
「わー、これ、おいしそうだね」
「おみや、鶏肉好きだろ」
「うん。だから連れてきてくれたの? よくこんなお店知ってたね」
(中略)
あたりから漂う香ばしい匂いと喉を刺激するビールに、一刻も早く塩気のきいた鶏肉が食べたくなってきた。チキンは時間がかかるというので、パテやサラダをゆっくりつまんだ。
(中略)
やっとローストチキンがテーブルにきた。ハーフを頼んだのに驚くほど大きい。てらてらと黄金色に光っている。
「わー、おいしそう」
「うまそうだな」
貫一は鋸刃付きのステーキナイフを持ち、当たり前のように切り分けてくれた。食べやすい部分を都の皿に入れてくれたので、塊肉をフォークで突き刺し口に入れた。皮目はパリパリしていて中はふっくらとジューシーだ。口の中が一気に幸せになる。
「おいしいねー」「うまいなー」と同じことをと馬鹿みたいに何度も繰り返して言いながら、ふたりは鶏を咀嚼した。

貫一がコンビニに寄るというので、付き合って都も入った。
少し胃がこなれて甘いものが食べたくなり、デザートの棚を眺めた。新製品のお試しフェアでプリンがひとつ100円だった。先ほどレストランで割り勘にして4,000円も使ってしまったので節約しなくてはいけないが、100円ならいいだろうという気になる。レジに持っていくと、ちょうど貫一が会計をしているところだった。彼は「一緒に払ってやるよ」とプリンを取り上げた。

仕事を終えて家に帰ると、父親がエプロンをして何か作っていた。
「なに作ってるの?」
「鶏のつくね」
「ふーん。ママは?」
「部屋で休んでる」
「具合悪いの?」
「悪いってほどでもないみたいだけど、ちょっと寒気がするんだってさ。急に寒くなったからじゃないか」
父親はボールの中の挽肉をこねながら振り向かずに言った。
(中略)
「なんか食欲ない。私もここのとこ体がしゃきっとしなくて。風邪のひきはなかな」
「つくねにいっぱい生姜入れたから、少し食べて早く寝ろ。この家は病人ばっかだな」
(中略)
母が自室から降りてきて、3人で言葉少なに鍋をつついた。
生姜の効いたつくねはおいしくて、特別いい家族だとは思わないが、家で作ったものをみんなで食べるのはやはり体も気持ちもほっとするなと思った。3人とも鶏肉が好きで、そういうのも遺伝なのか、それとも子供の頃からの食生活だから慣れているだけなのかとぼんやり考える。

「遅くなりました。1回家に戻って、作っておいたおかず取ってダッシュできました」
絵里は彼女から渡された紙袋からいくつもタッパーを取り出す。
「わー、いっぱい作ってくれたんだね。なにこれ、おいしそう」
「これは鰯のトマト煮で、これはクスクス。この冷凍してあるのが牛肉のしぐれ煮です。あとスコーン焼いてきました」
「すっごいね。助かるー」
ふたりは賑やかに話している。大人が総菜の話で盛り上がるのを眺める子供のような気分になった。自分が買ってきた袋菓子が幼稚に思えて恥ずかしくなってくる。
(中略)
「はーい、できたよ」
皿を持って絵里が戻ってくる。鰯のトマト煮にはガーリックトーストが添えられていて食欲をそそった。空気が和んで、それを皆で口にした。
(中略)
「なんか真面目な話になっちゃったね。そよかが焼いてきてくれたスコーン食べようか? ふたりともなに飲む? お酒がよかったらいろいろあるよ。つまみにチーズもあるし」
「絵里さんが飲んでるの、なんですか? おいしそう」
「これコーン茶だよ」
「私もそれください」

ウェイトレスが来て、ふたりが食べたハンバーグ定食の重そうな鉄板を下げて行った。
(中略)
「ん-、もうちょっと待ってみようか。与野さん、なんか甘いものでも食べる? 本当は飲みたい気分なんだけど車だしなー」
そう言いながら仁科はメニューをよこした。巨大なパフェの写真に気を取られたが、昨日の激しい生理痛を思い出し、冷やさないほうがいいんだろうなと思い直す。
「私、このワッフルにします」
「じゃあ、私はこの秋の味覚パフェっていうのにしようかな」
(中略)
そこへワッフルとパフェが運ばれてきた。両方ともこってりと生クリームが乗っていていかにも甘そうだ。

おしぼりを持ってきてくれた女の子にレモンサワーと、黒板に書いてあった今日のおすすめを上から2品頼んだ。さっきハンバーグ定食とワッフルも食べたのに、びっくりしてエネルギーを使ったからかもう空腹を感じていた。
(中略)
ふうと都は息を吐き、サワーに口をつけた。缶のものより炭酸もレモンも強くてきりっとしていた。

モールの中に都心に本店がある人気の中華料理店ができていて、そこの辛い担々麺を食べようということになった。
運ばれてきた麺は写真で見るよりさらに赤く、恐る恐るすすると、確かに辛いけれど複雑な旨味があって箸が止まらない。もうすぐ12月だというのに、食べ終わるとふたりとも額に汗が滲んで、なんだか運動したあとのように爽快だった。
口直しにマンゴープリンを頼んで、それを食べながらひといきついた。

途中で腹ごしらえをしようと、貫一はサービスエリアに車を入れた。
北関東に住んでいるとほとんど神奈川県に来ることがなく、お祭りのような大混雑のサービスエリアに入ると、旅に来た感覚が湧き上がった。名物だという鰺の唐揚げやメロンパンを買って食べた。

そこで次の料理が届く。当館名物の金目鯛のしゃぶしゃぶだと給仕の女性が言う。薄桃色の魚の身を小鍋で湯に通し、口に入れた。
「わー、繊細だね」
(中略)
そこでメインの和風ステーキが運ばれてきた。給仕の女性が目の前でわさびを下ろしてくれるのを、都はただ見ていた。
都と貫一は黙ったままそれを食べた。美味しいはずのものが、口の中で粘土みたいな味しかしなかった。

飲み物も空になり、ふたりは冷えてしまった焼き鳥をつまんだりした。
「都さん、お代わりします?」
「うーん。ねえ、甘いものでも頼もうか」
そよかは一瞬きょとんとし、「そうしましょうか」と微笑んだ。
ファミレスのような大きなメニューの最後には、何種類もデザートが載っていて、それを選んでいると少しだけ華やいだ気分になった。そよかは少し表情を柔らかくして言った。
「都さん、今度は昼間会いましょう」
そよかは言った。
「ぱーっと体動かしませんか。卓球でもテニスでもボウリングでも。日帰り温泉でもいいかな」
「そういえば、最近うちの母親が山登りにハマってて」
(中略)
大きなパフェがやってきて、都は殊更派手に歓声をあげた。悩み事などないという顔をして、スプーンに生クリームを大盛にして口に入れた。

ウェイターにうやうやしくメニューを渡され、都は舞い上がってしまい、期間限定だと勧められた2,000円近くする桃のカクテルをおたおたと頼んだ。
大きなガラスの向こうには東京の夜景が広がっている。普段目にしない眩い夜景に目を奪われているうちにカクテルがきた。ひとくち飲むと驚くほど美味しい。それでやっと気持ちが落ち着き、都はカウンターに軽く頬杖をついた。

パスタでも茹でる? と旦那さんが言い、絵里がピザでも取ろうと言い返す。じゃあどっちも食べましょう、パスタは私が茹でますとそよかが手を上げた。そよかと旦那さんがキッチンへ行って、都は渡されたタブレットで宅配ピザのサイトを開ける。
(中略)
注文したピザはあっと言う間に来て、そよかがさっと作ったペペロンチーノと冷蔵庫の中のものを適当にテーブルに出し、わいわいと食事をした。

名古屋に着いたら折り返して帰ろうかと思いはじめたとき、車内販売のワゴンが通りかかったのでコーヒーとチョコレートを買った。それらを口にすると少し落ち着いた。

女性スタッフが都に気づき、ここどうぞと隣を示してくれた。腰を下ろし、リュックから菓子パンを出して開けた。
少し食べたが、口の中がぱさぱさして食欲が湧かず、もっと水分のあるものを買ってくるのだったと後悔した。

10分もしないうちに彼は戻ってきた。手には小さな白い箱を持っていて、どう見てもそれはケーキの箱だった。
「そこでプリン、買うてきた」
「え、プリン?」
隣にどすんと座ると、彼は箱を開けて瓶に入ったプリンを出した。ひとつ取って都に差し出す。戸惑って目を丸くした。どうしてプリンなど買ってきたのだろう。
「嫌いか?」
「好きですけど」
彼は無言で自分の分のプリンを食べだした。仕方なく都も、小さなプラスティックスプーンを使ってプリンを食べた。昔ながらの硬めのもので、舌に甘みが染み渡った。

荷物を下ろして足元に置く。白木のカウンターに、ネタの入った冷蔵ケース。椅子がないだけで普通の寿司屋と変わりなかった。酢の匂いが食欲を湧き立たせる。
「お飲み物は?」
「お茶……、いえ、生ビールお願いします。一番小さいの」
「はいよっ。お好きなもの握りますよ。セットもあるからね。メニュー、そこにありますからゆっくり見てください
(中略)
つけ台の青々とした笹の上に、ぽんと寿司が1貫置かれて、都は早速口に運んだ。
噛むと頬の傷が少し痛んだが、寿司は夢のようにおいしかった。シャリは小さめで、ひんやりした生魚を噛み切る感触と控えめな山葵の風味が口の中に広がる。食べれば食べるほど、もっと食べたくなって、都は次々と置かれる寿司を無心に口にいれた。
(中略)
「これでセットは終わりです」
穴子がひょいと置かれて、都は「じゃあ追加で」と、黒板に書いてあるおすすめを上からふたつ頼んだ。
(中略)
「ラストオーダーです」
不機嫌そうに貫一はそう言った。目の縁が赤い。
「……最後に1貫食べたいんですけど、おすすめありますか?」
「コハダは召し上がりました?」
「いえ」
貫一は鈍く銀色に光る包丁ですらりと魚を切り、素早く寿司を握って、都の前に置いた。
それをつまんで口に入れた。彼の握った寿司は先ほどの職人よりシャリが小さくふんわり握ってあり、口の中でほどけた。咀嚼して飲み込む。「おいしいです」と都は言った。

ベトナムにも寿司店はいくらでもあるが、やはりそう安くはない。だから父の前には沢山の人が列を作って寿司が供されるのを待っていた。父は今朝、ニャンさんの店で働くコック長と市場へ行き、魚を仕入れたそうだ。珍しい白身の魚が手に入ったと嬉しそうにしていた。
おしゃべりをしながら寿司を口に入れた人々が、そこで一瞬止まるのが見える。みんなびっくりした顔をする。美味しい! と誰の顔にも書いてある。

ニャンさんは東京にもう何店舗も店を持っていたが、そこは隅田川沿いの再開発エリアにできた、ベトナム料理を中心に東南アジアの料理を出す店だった。
そこで私は生まれて初めてアジア系のエスニック料理を食べ、未知の味に衝撃を受けた。父は和食かごく一般的な家庭料理しか作らなかったので、アジアの調味料も米粉でできた麺も口にするのは初めてで、言葉を失うほど美味だった。
もう一度食べたくて、レシピを検索して料理を再現してみた。恐る恐る父に出してみたら、美味い美味いと平らげた。別にアジア料理が嫌いなわけじゃないのだとほっとした。
もっと味を試して見たくて、検索したベトナムやタイやインドネシア料理を片っ端から作ってみたが、材料が手に入らないものもあったし、食べたことのないものばかりなので料理が再現できているかもわからない。食べ歩きができるような小遣いをもらっているわけではなかった私は、ひとつのアイディアを思いついた。
自分があの店でアルバイトをすればいいのだ。
(中略)
私は夢中になった。ベトナム料理は知れば知るほど奥深かった。中国とフランスの植民地時代の影響が大きく、それぞれの食文化が取り入れられていて複雑で、高度に洗練された料理だった。
山本文緒著『自転しながら公転する』より

これまでで一番美味しかったベトナム料理は三宮の小さなお店。夜などは予約をしなければ入れないくらい人気で、この小説にも出てくるような青菜の炒め物が衝撃のうまさだった。

つくづく料理は愛、会食は礼拝だよね。メリークリスマス。

カレーとコンビニサンドウィッチ 奥田英朗『沈黙の町で』

この小説にはいくつものシチュエーションでカレーライス、コンビニのサンドウィッチが登場する。どちらも日本の庶民生活に欠かせないことがわかる(天皇の好物もカレーらしいが)。
コンビニのサンドウィッチは悪くないけど、いったん薬品の匂いに気づいたら最後、食べられなくなるんだよね...。
そもそも食事に興味がなく、母のおにぎりが美味しいかどうかも考えたことがなかった子どものころに、コンビニのおにぎりも初めて食べたときは、「なんてうまいんだ!」とビックリしたけど、工場ドキュメンタリーで薬液で米を研いでいるのを見てから食べるのをやめた。あれだけいろいろ入っていれば「うまい」わけである。

非番だったのでアパートで久し振りに自炊し、キッシュを焼いて食べた。ワインの小瓶を開け、1人で飲んだ。あとは風呂にゆっくりと浸かり、好きな海外ミステリーでも読んで1日を終えようと思っていた。

これから会社を出るという携帯メールが届いたので、蒸籠で野菜と豚肉を蒸し始めた。ポン酢で食べれば余分な油をとらなくて済む。アサリの味噌汁を温め、もう一品、ポテトサラダを用意した。台所にいい匂いが立ち込める。

いつも工場でシャワーを浴びてくるので、この夜もすぐに食卓についた。缶ビールを開け、ポテトサラダをつまみにしておいしそうに飲む。

飯島は食卓に移動し、焼き魚と味噌汁の朝食をとった。

茂之がもう起きるというので、食事の支度をするため、キッチンへ行った。朝作った味噌汁を温め直し、塩鮭を焼くことにした。

時間が早かったが、顔を洗い、支度をして官舎を出た。地検までは歩いて行ける距離だ。途中のコンビニでサンドウィッチとサラダと牛乳を買った。毎朝の日課だ。検事になってから、自炊したことはない。

心配した妻がお粥を作ってくれ、朝はそれを食べて登校した。

何も手に着かないので、夕食は冷凍のチキンライスを温め、卵にくるみ、オムライスにして友紀に食べさせた。恵子自身は牛乳すら喉を通らなかった。

署長が手配するのだから、料理屋の豪華な弁当かと少し期待したが、出てきたのはありふれた仕出し弁当で、しかも冷めていた。いかに食中毒が怖いとはいえ、ハンバーグなど焼き過ぎである。

「ダイエット中。炭水化物を控えてるんです」
「おまえにそう言われると、おれの立場はどうなる」
駒田は自分の突き出た腹を一瞥すると、冗談とも思えない声色で凄み、エビフライを口に放り込んだ。

古田が書類の山を前にして、コンビニのサンドウィッチを食べながら言う。家で朝食を食べてこなかったのか、それとも泊まり込んだのか。

部屋の外からカレーの匂いが漂ってきた。今日の給食はカレーらしい。廊下でチャイムが鳴った。隅の椅子に腰かけているケースワーカーを見たら、口の端だけで微笑んだ。

坂井百合は自宅で、息子のための弁当を作っていた。弁護士の堀田を通じて警察に頼んだら、弁当の差し入れがいとも簡単に認められたからだ。やはり弁護士の力は凄いと思った。自分だけなら何を言っても相手にしてもらえない。
奮発してトンカツとエビフライを揚げた。ポテトサラダとフルーツを添え、大きなおにぎりを4個握った。瑛介は家では毎晩2合のご飯を食べる。母子2人暮らしなのに、10キロの米がすぐになくなるのだ。
瑛介の逮捕以来、食欲はまったくなかった。口に入れたのは、コンビニで買ったサンドウィッチとヨーグルトぐらいだ。

豊川康平は、近所の蕎麦屋からカツ丼の出前を取り、後輩の石井と2人で遅い昼食をとっていた。

手のこんだ料理を作れる心境ではないので、ご飯を炊き、豆腐と揚げの味噌汁を作り、レトルトのハンバーグを温めることにした。あと1品、ポテトサラダを作りたかったが、気力が湧かないのであきらめた。友紀にはゴメンと心の中で詫びた。
(中略)
下りてきた娘は、当然ながら元気がなかった。テーブルの料理を見て、母親の手抜きをすぐに見破り、余計に口数が少なくなった。

 子どものとき、母親の料理の「手抜きをすぐに見破」ったことなどない。一度だけ、「人が来て時間がなかった」と言いながら出してくれた冷凍ミックスベジタブルのみのカレーのまずさに閉口したのを覚えているが、母のことなので絶対にサラダもついていたはず。ましてやカップ麺を放り投げられたわけでもない。そもそも上記みたいな献立だったら全然手抜きではないではないか...。この子は大変な育ち方をしているなぁ。

3年生たちもその努力を認めてくれ、特別にお好み焼きを奢ってくれた。

「晩飯、食った?」
「ううん。まだだけど」
「裏の喫茶店、食事もやってるところなんだけど、カツカレーが旨いんだ。行かない? 警察官だらけだけど。今節電で暑いから、みんなそこに避難するんだ」
(中略)
飯島はカツカレーを半分ほど食べたところで、手を休めていた。「無理するな。残していいぞ」豊川が言うと、微苦笑し、スプーンを置いた。
残りは豊川が食べることにした。

県警の記者クラブでデータ整理をしていたら、一国新聞の長谷部が衝立からぬっと顔を出し、「高村君、昼飯食った?」と聞いた。
「いえ、まだですけど」高村真央が答える。
「長寿庵から出前を取ったんだけど、取った人間が急用でデスクに呼び出されて、余っちゃったのよ。カツ丼だけど。ダイエット中じゃなきゃただであげる」
「あ、払います。おなか空いてたし」
「いいよ、うちで奢るよ。カツ丼ぐらい」
(中略)
昼食の場は共有スペースのテーブルである。ここにはテレビもあり、記者たちが社を超えて集う場所だ。行くと、長谷部はざる蕎麦を食べていた。
「長谷部さんがざる蕎麦で、女のわたしがカツ丼ですか。人が見たら何か言われそう」
「おれは明日、健康診断があるの。前日に脂っこいものを食べたり、酒を飲んだりすると、中性脂肪とコレステロール値にてきめんに出ちゃうんだよね。おれももう若くねえな」
30代半ばの長谷部が鼻に皺を寄せて言う。24歳の高村にはまだ実感できない分野の話だ。今はどれだけ食べても1グラムも増えない。早速カツにかぶりつく。
(中略)
「高村君、いい食べっぷりだねえ」
5分でカツ丼を食べ終えたら、長谷部にからかわれた。記者になって早食いが習慣になってしまった。

橋本が冷えたスポーツドリンクを差し出すと、健太はお礼を言って受け取り、喉が渇いていたのか500ミリを一気に飲み干した。
「おう、凄いな。もう1本いるか」
「いえ、いいです」手の甲で口を拭っている。

濡れた髪のまま台所に立ち、炊飯器のスイッチを入れようとしたところで気が変わり、食パンを焼くことにした。味噌汁を作る気力がないのだ。

牛乳とトーストと目玉焼き、リンゴを剝いてテーブルに並べた。

坂井百合は、特大のおにぎりを4つ持たせた。米2合分である。息子の弁当を作っているときは、なんだか心が癒された。

テントを設営すると、昼食の時間になった。班で輪になって弁当を広げる。瑛介は拳大のおにぎりが4つもあった。

各班、再び本部に呼ばれ、今度は夕食の食材と、火を焚く薪が配給された。いよいよ晩御飯だ。献立はカレーライスと野菜サラダ。作り方の指導があると思っていたら、簡単な手順を書いたプリントを渡されただけだった。
「うっそー。生徒だけで作るの?」朋美は言った。家庭科の実習で調理の基本は習ったが、計量カップやガスコンロがあっての話だ。自分たちは火の起こし方も知らない。

出来上がったカレーは少し水っぽかったが、逆に御飯が堅かったので、混ぜると丁度よかった。御飯を担当した健太が、「こうなると思って堅めに炊いたんだよ」と威張るので、女子でブーイングを浴びせた。普通の市販のカレールーなのに、びっくりするほどおいしい。きっと自分たちで作ったからだ。

「冷たいこと言うなよ。あ、そうだ。おまえ、朝飯まだ食ってないだろう。コンビニでサンドウィッチでも買って来させようか。おにぎりでもいいぞ」

父はダイニングテーブルでお茶漬けを食べていた。怒っている様子はない。

「それ何よ」愛子が聞いた。
「冷やしたポカリスエット。水道の水ってまずくね? ぬるいし」

検事の橋本英樹は、出前で取ったアイスコーヒーにミルクだけ入れ、ストローでかき回しながら聞いた。机を挟んで対するは、二中の生徒・市川健太だ。
「だって、あとをついてくるし……」
健太は曖昧な返事をし、自分のアイスコーヒーを静かにすすった。

「そうです。学校帰りに瑛介や藤田たちとコンビニの前を通ったら、名倉君が1人でスポーツドリンクを飲んでたから、藤田が『てめえ、学校帰りに買い食いしていいと思ってんのか』って文句をつけたら、『よかったら奢るけど』って言うから、奢ってもらいました」
「ずいぶん意志の弱いシカトだな」橋本は苦笑した。
「だって、喉が渇いてたし……」
「それで毎日奢らせることにしたと」

気になったので、おやつを理由にして声をかけることにした。丁度近所からケーキをいただいたばかりだ。夕食前だが、少しくらいならいい。
恵子は階段の下に行き、2階に向かって声を上げた。
「健太、友紀、ケーキあるけど食べない?」
「食べる、食べる」
(中略)
恵子は仕方がないので友紀だけにショートケーキを与え、自分はアイスティーを飲んだ。
(中略)
ケーキと飲み物を用意し、「取りに来て」と言うと、健太はだるそうに歩いて来た。
(中略)
健太は三口でケーキを食べ、ジュースを一気に飲んだ。テレビを消し、立ち上がり、皿とコップを流しに運び、自分の部屋へと引き上げて行く。

口を滑らかにしてやるために、自腹でジュースとスナック菓子を買って与えたら、あっと言う間にポテトチップスを1袋食べてしまった。
「おまえ、朝飯は食ってねえのか」
「食パン1枚食ったけど」

焼き鳥とサラダが運ばれてきて、しばらくそれを食べた。飯島は食欲が戻っているようで、つくねに卵黄をからませ、かぶり付いていた。
(中略)
豊川は、午後9時に小料理屋を出て飯島と別れ、一度署に戻った。店の女将が「当直のみなさんに」と差し入れのおにぎりを持たせてくれたからだ。

昼時に呼んで、昼食をふるまうことにした。ここのところ、昼は1人で素麺をすするだけなので、少しぐらい変化をつけたかったのだ。馴染みの寿司屋に自分で電話をし、上握りを2人前注文した。出前は女将が直々に来て、「早く元気になってくださいね」と、恐縮しながら励ましてくれた。寛子はうれしくて涙が出そうになった。
(中略)
応接間に通し、寿司を勧めると、こちらも大袈裟に恐縮しつつ、箸をつけた。若いから女でも食べっぷりがいい。寛子が3貫食べるうちに全部片付けてしまい、はたと自分の早食いに気づいたのか、可愛らしく赤面していた。

奥田英朗著『沈黙の町で』より

過去の風習、おすそ分け 奥田英朗著『向田理髪店』

「おすそ分け」っていいよね。アメリカでも、キャセロールなんかを届けるのはよくある風景。
でも、感染症のために素人が自分で作った食べ物を届けるなんて、到底不可能になってしまった。
誕生日の子が学校にカップケーキを持って行くのも中止に。
ドネーションのためのバザーも難しくなった。
「さあ、今日からはいいよ!」とは誰もまず言えないわけで、習慣自体が廃れてしまうかもしれない。

ママがかばった。「ほら、若い衆。サービス」と唐揚げを供している。
青年団の面々は、ヤケ酒なのか、テーブル席で乱暴にビールのラッパ飲みを始めた。

恭子が腰を上げ、台所へ行った。息子のために味噌汁を温め、煮物をレンジでチンする。

「おい、観光課長さんよ。車で来てる人もたくさんいるのに、甘酒しかねえのはどういうことだべ。ほんとオメは子供の頃から気が利かねえな。コーヒーぐらい出しとけ」
いかにも小馬鹿にした口調である。桜井はさっと顔色を変えると、「館内には自販機があるべ。コーヒーぐらい自分で買ってくれ。シュウちゃんは昔からケチだったもんなあ」と負けずに言い返した。

「あの、キュウリが採れたから、おすそ分けにと思って。結構瑞々しいから、塩で揉んで食べるとうまいよ」
「そうか。ありがとう」

恭子に話すと、稲荷寿司と野菜の煮物をこしらえ、お重に入れて持たせてくれた。ただし、張り切って作ったという感じではなかった。

「逮捕までは交代で見張るみてえだな。もう町民とは顔見知りよ。うちの婆さんも餡ころ餅を差し入れて、お礼に拳銃を撃たせてもらってたさ」

奥田英朗著『向田理髪店』より