たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

砂漠で朝食を アガサ・クリスティー 中村妙子訳『春にして君を離れ』

松本清張ばりに面白いユニークなサスペンス。発表当時はメリー・ウェストマコットという別のペンネームで出されたほど、誰も殺されず、誰も探偵のマネゴトをしない。で けれども日常にひそむ秘密、真実が、時には一番コワーイのである。人生に満足しきっている奥様ジョーン、娘のところに旅行し夫の元に戻る帰り、汽車が動かずひとり何もない砂漠でいく日も過ごすことになる。そこで彼女は自分の来し方をそれまで気づかなかった、あるいは気づかないふりをしていたプリズムを通して眺めるという緊迫のときを過ごすのであった…。

彼はマドモアゼル(婦人客を彼は一様にこう呼ぶらしかった)が無事に快適な旅行をなさるようにと挨拶し、出発の用意がととのうと大仰に一礼して、昼食用のサンドイッチが入っている小さな紙箱を手渡した。

ジョーンはレーンコートを羽織って車の外に出ると、紙箱を開いて、あたりを少し歩きまわりながら、サンドイッチを食べ食べ、二人の男がスコップで泥を掘ったり、ジャッキを投げ合ったり、用意してきた板を車輪の下にあてがったりする様子を見物していた。

朝食はコーヒーにミルク(缶入り)、卵の目玉焼、固い、小さなトースト幾枚か、ジャム、それにあやしげなスモモを煮たものだった。
食欲はかなりあった。食べているとインド人がまたやってきて、昼食は何時にしようかと訊ねた。ジョーンはともかくずっと後でいいといって、一時半ということに話を決めた。

昼食はオムレツ(火にかけ過ぎたのか、ふうわりといい具合にできているとは義理にもいえなかった)、卵のカレー炒り、缶詰の鮭、ベークドビーンズ、それに缶詰の桃。
いささか胸にもたれる食事を終えると、ジョーンは自室にもどってベッドに横になった。そして、四、五十分ほど眠って目を覚ますと、お茶の時間まで『ダイサート夫人回想録』を読んで過ごした。
紅茶(缶入りのミルクを添えて)を飲み、ビスケットを少しつまんでからしばらくその辺を歩き、帰って回想録を読みあげた。夕食はオムレツに鮭のカレー煮と米、卵焼き、ベークドビーンズ、缶詰のあんず。食後、推理小説を読みはじめ、床につく前にそれも読んでしまった。

ある午後レスリーは、パンにバタの塊、手作りのジャム、普段使いの茶碗や土瓶をみんないっしょくたにゴタゴタとお盆に載せて、お茶を振舞ってくれた。

昼食は、オムレツのまわりに豆をこってり盛った一皿と米をあしらった鮭の煮こみ、それに缶詰のあんずだった。食欲はあまりなかった。炎天下をほっつき歩いたせいで、暑気当りの気味なのだとすれば、一眠りしたら気分が’すっきりするかもしれない。 

「夕食、じき。とてもうまい夕食、奥さま」

インド人の言葉に、そう、それはありがたいわと返事をしたのだが、どうやらその予告は単に儀礼的なものだったらしく、献立は缶詰のスモモが桃に変わっただけでいっこう変わりばえがしなかった。うまいまずいはとにかくとして、三度三度ほとんど同じ献立というのはどうかと思われた。

家の中に入ると、レスリーは息子たちに手伝わせてお茶の用意をした。やがてお盆の上にパンとバタ、手作りのジャム、普段用の厚手の茶碗をごたごたとのせて、笑いさざめきながら運んできた。

… ご注文のスペイン風ラグーにはずいぶん骨を折りました。手のかかる料理でございますし。本にあるような献立はあたくしの好みじゃないんですが」
「あれは上出来でしたよ」

さあ、起きて、朝食をとろう。けさはポーチド・エッグにしてもらったら、少しは気分が変わるかも知れない。コツコツと固いオムレツにも飽き飽きした……。
こう思って食堂に行ったのだが、インド人はポーチド・エッグなどてんで試みる気がないらしかった。
「卵を湯にいれて煮る?それ、茹卵」
いいえ、茹卵とは違うのよ、とジョーンは説明した。宿泊所の茹卵はいつも茹ですぎだということを経験によって知っていたこともあって、ポーチド・エッグなるものを何とか科学的に説明しようとしたのだが、インド人はろくに耳にいれずに、頭を振った。
「卵を湯にいれる ― すぐくずれる。わたし、奥さまに上等目玉焼、あげる」
というわけで、食卓にのぼったのは白味が焦げ、黄味は白っぽく固まった、目玉焼で、オムレツの方がまだましなくらいだった。

それなのに彼女は砂漠のど真ん中のこんな白漆喰の牢獄で、薄のろのインド人、頭の弱いアラブ少年、明けても暮れても缶詰の鮭にベークドビーンズ、固茹での卵という食事を平然と食卓に並べるコックと、そんな連中を相手にむなしく日を送っているのだ。

思えば幸せな6週間であった。ワトキンズやミルズに会い、ハーグレーブ・テイラーとも一夕を楽しくすごした。ほんの2、3人の友人とのゆきき、日曜には多くの丘を渉猟して楽しい半日を送った。メイドたちがうまい食事を作ってくれ、それを好きなだけゆっくり食べた。ソーダ・サイフォンに本を立てかけて読みながら、食後、仕事をすることもあった。それからしばらくパイプをくゆらした。その上、話相手がほしくなれば、幻のレスリーを椅子に坐らせた。

アガサ・クリスティー 中村妙子訳『春にして君を離れ』

邦訳版はやっぱりタイトルがステキよね。(ただ、同じシーンの繰り返しで表記がゆれまくってるのが分かる。そのへん校正かけてないんだろうか)

英語の確かさに定評のあるクリスティー。ぜひ原書でも。