カレッジの日本映画講義で取り上げられたので、仕方なく電書で買って読む。
この手の映画化前提みたいなクラスタの作品を読むのは時間のムダである。
一点、物語とはそれつつ挿入されいているオッサンのモノローグが、昔、飲み会でクライアントから聞かされた話とすごく似ていてビックリした。このリアルさは作者にも同様の経験があるのだろうか。気持ちは私にもよく分かる。
… 男にとっては、そういう見え透いたお世辞でも、心のどっかにずっと残っとることがあるとですよ。もっと言えば、その一言のおかげで自信持っておられるとですよ。こんな昔話すると、気持ち悪く思われるかもしれんけど、大学生のころ、テニスサークルの先輩やった女性に、「林くんって、真っすぐに人のこと見るよね。だからかな、一緒にいるとなんか自分が見透かされてるような感じがする」って言われたことがあるんですよ。なんてことない言葉なんやけど、不思議なもんで、それがその後、自分の拠り所みたいになってるんですよね。
ちなみにクライアント版は「サークルの女の子に『○○君って、他の人と違う』って言われたんや」という地味〜な自慢だった。ほんとにその一言を大事に大事にしてるんだって分かった。
立ち上がって、「ねぇ、どこ行く?」と佳乃が尋ねると、「鉄鍋餃子は?」と、こういうとき滅多に意見を言わない眞子が言った。
「あ、餃子食べたいかも」
すぐに沙里が賛成して、同意を求めるような目を佳乃に向けてくる。
中州の鉄鍋餃子に入ってからも、増尾談義は続いた。テーブルには手羽煮やポテトサラダ、そしてメインの餃子が並び、3人とも生ビールを飲みながら、眞子は彼氏のできた佳乃を素直に羨ましがり、沙里は嫉妬半分、浮気されないようにと忠告していた。
最後に1人前だけ注文した餃子を、佳乃たちはあっという間に平らげた。すでに4人前を完食していたので、1人平均13個を食べたことになる。
伝票に書かれた金額をきちんと3等分すると、佳乃は2人にその金額を告げた。餃子が1人前470円、ポテトサラダが520円で、手羽先、いわし明太などに生ビールを加えて、合計7100円だった。1人、2366円。その数字を読み上げると、沙里と眞子が財布から1円も過不足なく自分の分をテーブルに出す。
沸騰しそうな鍋の火を消し、魚の血で汚れたまな板を水につけた。
風呂から出た祐一がすぐに食べられるように、ブリの刺身を盛りつけ、夕方のうちに揚げておいたすり身と一緒に食卓に並べた。炊飯器を開けると、米もふっくら炊きあがっており、肌寒い台所に濃い湯気が立つ。
勝治が病に臥す前は、朝3合、夕方5合の米を毎日炊いた。男2人の胃袋を満たすのに、この15年、ずっと米を研いでいたような気さえする。
子供のころから、祐一はよくごはんを食べた。沢庵一切れ与えれば、それで軽々と茶碗一杯のごはんを食べるほど、炊きたての米が好きだった。「祐一はもうメシ食うたとか?」
時間をかけて寝返りを打った勝治が、這うように布団を出て、房枝が運んできた夕食の盆へ近づいていく。
「ブリの刺身、食べるなら持ってくるよ」
野菜の煮物とおかゆだけの食事に、勝治がため息をついたので、房枝は慌ててそう言った。風呂上がりの祐一が椅子にあぐらをかいて、ごはんを搔き込んでいた。よほど腹が減っていたのか、みそ汁もつがずに、ブリの刺身一切れに対して、ごはんをささっと二、三口、搔き込む。
「大根のみそ汁があるとよ」
房江は声をかけながら、ひっくり返して置かれたままだったお椀に、みそ汁をついでやった。
渡せばすぐに手にとって、熱いながらも音を立てて旨そうに啜る。
「ばあちゃんも一緒に行ったほうがいいやろか?」
房枝は椅子に座ると、顎に米粒を一つつけた祐一に尋ねた。
「来んでいいよ。五階のナースステーションに連れてけばいいとやろ?」
九州特有の甘い刺身醤油に、祐一がねりわさびをといていく。
祐一はぶたまんの次にケーキを買ってきた。来るたびに何か食べ物を買ってきて、狭い個室で一緒に食べた。徐々に慣れてきた美保も、祐一が来ればまずシャワーでなく、冷たい紅茶か、珈琲を出してやるようになっていた。
祐一が手作りの弁当を持ってきたのは、たしか五回目か、六回目、休日の午後だったと思う。
またいつものように何か持ってきたのだろうと、差し出された紙袋を受け取ると、中にスヌーピーの絵柄がついた二段重ねの弁当箱が入っている。
「弁当?」
思わず声を上げた美保の前で、祐一が照れくさそうに蓋を開ける。
一段目には卵焼き、ソーセージ、鶏の唐揚げとポテトサラダが入っていた。下の段を開けると、びっしりと詰まったごはんに、丁寧に色分けされたふりかけがかけてあった。
弁当箱を渡されたとき、一瞬、祐一には彼女がいて、その彼女が祐一のために作った弁当を、自分に持ってきたのではないかと思った。しかし、「これ、どうしたと?」と美保が尋ねると、照れくさそうに俯いた祐一が、「あんまり、旨うないかもしれんとよ」と呟く。
「……まさか清水くんが作ったわけじゃないよね?」
思わず尋ねた美保の手に、祐一が割り箸を割って持たせてくれる。
「唐揚げとかは、昨日の晩、ばあちゃんが揚げた残りやけど……」
美保は呆然と祐一を見つめた。テストの結果を待つ子供のように、祐一は美保が食べるのを待っている。
祐一が祖父母と三人暮らしだということは、すでに聞いていた。客の素性などなるべく知りたくないと思っていたので、もちろんそれ以上は訊かなかった。
「ほんとに、これ、自分で作ったの?」
美保はふんわりと焼かれた卵焼きを箸でつまんだ。口に入れると、ほのかな甘さが広がる。
「俺、砂糖が入っとる卵焼きが好きやけん」
言い訳するような祐一に、「私も甘い卵焼きが好き」と美保は答えた。「そのポテトサラダも旨かよ」
春の公演にいるわけではなかった。そこは窓もなく、ティッシュ箱の積まれた、ファッションヘルスの個室だった。
その日から、祐一は店に来るたびに手作りの弁当を持ってきた。
美保のほうでもシフトを訊かれれば素直に教え、「九時ぐらいが一番おなかが減るかな」などと、知らず知らずのうちに、祐一の弁当を当てにするようになっていた。
「誰かに習ったわけじゃなかけど、いつの間にか作れるようになっとった。ばあちゃんが魚を下ろすのを眺めとるのも好きやったし、ただ、後片付けは面倒やけど……」
祐一は派手なネグリジェ姿で弁当を食べる美保を眺めながら、そんな話をした。
実際、祐一の弁当は美味しくて、「この前のヒジキ、また作ってきてよ」などと、美保がリクエストすることも多かった。
茄子が安かったので漬物にでもしようと十本も買ってきたが、考えてみれば茄子の漬物を祐一があまり好きでないことを、今になって思い出し、後悔していた。
千円くらいで済むだろうと思っていたところ、総額で1630円になった。30円はまけてくれたが、それでも来週まで郵便局に下ろしにいかなくていいと思っていた財布の中身が心細くなっている。
房枝は椅子に座ったまま、ガスレンジに手を伸ばし、あらかぶの煮付けを温め直した。
「おじゃましまーす」
明るい一二三の声が聞こえてきたのはそのときで、房枝は立ち上がると、「あら、一二三くんと一緒やったとね?」と声を返しながら廊下へ出た。
さっさと靴を脱いだ一二三が、祐一を押しのけるように上がってきて、「おばさん、なんか旨そうな匂いやねえぇ」と台所を覗き込んでくる。
「何も食べとらんと? すぐ用意してやるけん、祐一おt一緒に食べんね」
房枝の言葉に、一二三が嬉しそうに、「食べる、食べる」と何度も頷く。キャベツが半玉、バラ豚肉が少しある。これらを炒めて、あとはうどんでも作ろうと決めて扉を閉めた。
「しかし、来年三十になる双子の姉妹が、こうやって美味しそうにうどんなんか啜っとって、いいわけ?」
とろろ昆布を麺に絡めながらそう呟いた珠代に、光代は七味をふりかけながら、「ちょっと茹で過ぎたかもしれんよ」と注意した。
佳男は座卓から目を逸らすと、来々軒に電話をかけて野菜ラーメンを二杯注文した。相手はいつもの親父だったが、「あ!石橋さん? はいはい、すぐに持っていくけん」と、対応はひどくぎこちなかった。
土曜日、朝食を済ませると、祐一はどこへ行くとも告げずに出かけた。どうせまたドライブにでも出かけ、夕食には戻ってくるのだろうと思っていた清水房枝は、祐一が好きな肉団子を作って待っていたのだが、祐一は戻って来ず、仕方なく一人で少し甘すぎた肉団子を食べた。
三万円を財布に入れて、光代はレジで温かいお茶を二本とおにぎりを三つ買った。
「そこって、イカ料理だけ?」
何かを吹っ切ったように祐一が明るい声で尋ねてくる。光代は、「ううん」と驚きながらも頷き、「最初が刺身で、脚はから揚げとか、天ぷらにしてくれて……」と説明した。
そのとき、とつぜん襖が開いて、割烹着姿のおばさんが、大きな皿を抱えて入ってくる。
「すいませんねぇ、お待たせして」
おばさんが重そうな皿をテーブルに置く。皿にはイカの活き造りが盛られている。
「そこの醤油、使うて下さいね」
白い皿には色鮮やかな海藻が盛られ、見事なイカが丸一匹のっている。イカの身は透明で、下に敷かれた海藻まで透かして見える。まるで金属のような銀色の目が、焦点を失って虚空を見つめている。まるで自分だけでも、この皿から逃れようと、何本もの脚だけが生々しくのた打っている。
「脚やら残ったところは、あとで天ぷらかから揚げにしますけんね」
おばさんはそれだけ言うと、テーブルをポンと叩いて立ち上がった。
そのまま姿を消すかと思えば、ふと振り返り、「あら、まだ飲み物ば訊いとらんやったねぇ」と愛嬌のある笑みを浮かべる。
「ビールか何か持ってきましょか?」
年越しそばもおせち料理も初詣でもなく、三が日が過ぎようとしている。博多の大学生が犯人ではないと知らされて以来、台所にも立たなくなってしまった妻、里子のために、石橋佳男は駅前のほか弁で幕の内弁当を二つ買ってきた。
湯を沸かして茶を入れて、里子の前に出してやると、力のない指先で箸を割りながら、「弁当屋は正月でも開いとるっちゃねぇ」と呟く。
「結構、客おったぞ」
里子は一瞬何か言葉を返そうとしたが、それも面倒なようで、人参の煮物に箸を突き刺した。
もちろん最初は、ぎこちなかったですよ。でもやっぱり親子やけん、会って話せばどこかで繋がるとですよ。あのとき、二人で食べたうどんの味は今でもはっきり覚えてますよ。祐一があんまりいっぱい七味をかけるもんやけん、驚いて理由ば訊いたら、「ばあちゃんの味付けがいつも薄かけん、七味も、カラシも、マヨネーズもケチャップも山ほど使う」って。その話を聞いたとき、なぜか、ああ、祐一はあの家で大切にされてるんだなぁって安心して。
吉田修一「悪人」