たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

カニだ、肉だ、膜の張ったミルクだ<キライ 林真理子『断崖、その冬の』

食べることが好きな人なんだろうな。

「ちょっと」本を読む人、特に女性なら、一度は林真理子を読みまくる期間があるのではないだろうか。といっても、流行モンが書かれているだけに廃れるのも早く、描かれた女性も古くさく、これからはどうか分からない。御母堂のことを書かれた『本を読む女』や、「花子とアン」で知られるようになった『白蓮れんれん』なんかは少しは生きながらえるかもしれない。『葡萄が目にしみる』のラストとか共感したけどな。

とはいえ、私がいちばん面白いと思うのは「トレンディ」ギンギンの『星に願いを』。興味深い風俗小説。その魅力は、山田詠美による文庫版のあとがきで言い尽くされている。

エッセイは一時期文春、アンアンのを読んでいたけど、それらの雑誌卒業とともに縁が切れた。ときおり書籍化されているのを見るけど、だいぶ筆力は落ちている様子。

最近は、直接知り合いでもない事件の被害者を中傷したりして曾野綾子的ネオリベに走っていて、なかなか残念なことである。

「北燈亭」は、大正五年の創業という街でいちばんの老舗だ。昔繊維景気でこの街が沸いた頃は、芸者も入り窓から三味線の音が絶えなかったという。現在は高級割烹料理店として蟹が有名である。地元の者に言わせると、
「テレビのグルメ旅番組に出るようになってから、値段ばかり高くなった」
ということであるが、妙子はやはり蟹は北燈亭だと主張する。近くの港で水揚げされた蟹のうち、いちばんいいものは築地にいき、それ以下の二級品、三級品が街の店に出まわるという。ところが北燈亭だけは昔からの顔役であるのと金を惜しまないゆえに、築地と同レベルの蟹が運ばれてくるそうだ。
「だから高くても仕方ないのよ」
という妙子は、この年齢で働いている女がそうであるようにうまいものに目がない。毎年蟹の季節を待ちこがれているのだ。

この店では、蟹は黒い漆の高坏に盛られてくる。みずみずしい笹の葉を添えられ、越前蟹は優美な姿を横たえている。まるで盆景のように、すべてが過不足ない美しさだ。妙子にとっても「初蟹」だという。二人の女はしばらく箸をとらず、その黒と緑と赤の配色に見入っていた。仲居が声をかける。
「よかったら身をほぐしましょうか」
「違うのよ。見惚れてたのよ。今日は幾らとられるかなあっていう恐怖もあるし」
妙子が女を笑わせた。
「それに私は土地の者だから、蟹を食べるのは慣れてるわよ。もっとも私が子どもの頃は、蟹はしょっちゅう夕ごはんに茹でてくれるものだったけどね」
「え、お客さんの頃でそうですか。まだお若いんですもの、子ども時分は、もう高くなってたはずですよ」
「この店の人って、蟹ばっかりじゃなくて口もうまいんだから。それより冷酒、もう一本持ってきて」

(中略)
「西田さん、まずはこっちの方から片づけようよ。これはね『北光峰』の大吟醸でやるとたまらないよ」
妙子は高坏と一緒に運ばれてきた蟹味噌に手を伸ばした。綺麗にほぐしたそれは、切子のガラス鉢に盛られている。口にふくむと海胆のような甘みが舌に広がる。続いて蟹の方にも手を伸ばす。まだ少し早いのではないかと仲居は案じていたが、華奢な足をぽきりと折ると、中からよく締まった白い身が現れた。かすかに黄味をおびて濡れているそれを笛を吹くように口にくわえ、強く吸い出す。味噌よりもはるかに淡い甘みだ。
蟹を食べる人がそうであるように、二人の女はしばらく無言でしゃぶり続けた。この街の人たちは、蟹を食べる時に金属のスプーンを使ったりしない。唇と舌をうまく使えばいいのだ。もっと上級者になると、ハサミを使うことも邪道だという。まず前歯で殻をバリッと割り、舌で身のありかを確かめる。そうして唇をせり出すようにして、汁ごと吸い出すのだ……。
そんなことを教えてくれた男がいたが、もうあれきり会うことない。枝美子が、蟹から口を離すと、殻の赤と白の境いめあたりに、ピンク色の口紅がかすかについているのが見えた。自分はその男の肌にも、こんな風に、口紅を残したことがあるかもしれないとふと思った。
「ああ、おいしいわぁ……」
骨のような空の足を積み上げて妙子はうなった。
「今年は寮があんまりよくないなんて聞いてたけど、たいした蟹だったわよね」
「やっぱり、ここの蟹は高いだけあるわよねぇ……」
仲居が熱いおしぼりを替えに入ってきた。
「西田さん、この後お食事はどういたしますか。蟹鮨になさる方もいますし、蟹雑炊もあります。もちろん白いごはんもありますけど、西田さん、私はやっぱり蟹雑炊がおすすめだわ」
(中略)
もし自分がテレビに出ないようなことになると、あの色紙は即座にはずされるのであろうか。
そんなことを考えながら、枝美子はちりれんげを手にとり、蟹雑炊をすすった。妙子もそうだが、枝美子も食べるのが早い。取材に行った時など、とにかく食べられるものを大急ぎで腹の中に入れるという習慣がついているのだ。それに長い廊下を運んでくる間に、雑炊はちょうどほどよい熱さになっていて、吹いてさます必要はなかった。

何という馬鹿なことを考えたのだろうかと、枝美子はソファから立ち上がった。キッチンに向かう。寒いところからやってくる裕紀のために、コーヒーを淹れなければという余裕がやっと生まれてきていた。豆の缶に手を伸ばしかけたのだが、思い直して冷蔵庫を開ける。昨日、近くのスーパーに行ったばかりなので、大型の牛乳パックが封を切らないままで置いてあった。コーヒーよりもココアの方がいい。寒い夜に、女が二人しちめんどうくさい話をするのだ。コーヒーはすぐに冷めてしまう。それよりも、舌を火傷させるほどのココアは、人の心をどれほどなごませることだろう。戸棚を開けると、香辛料の奥に、ココアの缶は確かにあった。いつもそうだ。昨年の冬に買ったココアの缶が、使いきらずに残っている。だから次の冬の最初に、枝美子は少々風味の抜けたココアを飲むことになる。だが、ソーメンや、苺用のコンデンスミルクのように、たいていのものは季節の終わりに使いきることが出来ずに残るものだ。
(中略)
そして枝美子は牛乳を鍋に入れ、しばらく火にかけた。沸騰する直前まで温め、いったん火を止める。そして裕紀が現れたらもう一度吹きこぼれるほどに熱くする。その方が、冷たい牛乳を最初から温めるよりずっと早いだろう。
(中略)
「ちょっと待っててね。いまココアをつくるわ」
「あ、私、ココアはいいです。喉がエゴエゴしちゃって、昔から好きじゃないんです。それよりも日本茶をください」
「わかったわ」
レンジの前に立つと、わずかの間に牛乳はすっかり冷めていて、鍋の表面に白い膜をつくっていた。明日の朝、これにきっと砂糖を入れて飲むことになるだろうと思った瞬間、枝美子の手が勝手に動き、鍋の中身を流しにぶちまけていた。睡たげな甘いにおいが鼻をついた。

 

「コーヒーをお願いします」
ついでにモーニングサービスのトーストも付けて、といったら野田はやはり腹を立てるだろうか。目の前の野田はしきりに煙草を吸い始めた。確か最近禁煙に成功していたはずだが、そんなことは信じられないほど、次から次へとマイルドセブンに火をつける。まるで自分の怒りや苦悩を共有しようとしない枝美子に対するあてつけのようだ。この男の前で、焼きたてのトーストをがりりと噛み、ゆで玉子の殻をむいたらどれほど気分がいいことだろう。

 

「ところで何を食べますか」
メニューを広げる。
「ここってフライドチキンやピザが、なかなかいけるのよ。この後、何か食べに行ってもいいんだけど、このあたりは閉まるのが早いのよ。だからこの店で何か食べた方がいいと思うわ」


結婚披露宴も出来る、このあたりでは一流といわれている中華レストランだ。ランチも高い値段で、枝美子たちもそうしょっちゅう訪れているわけではない。しかし、ちょっと贅沢をしたかったり、込み入った話をする時はこの店は大層便利である。顔が知られたアナウンサーたちに気を遣って、個室に入れてくれたりするのだ。
エビのチリソース煮と、豚の角煮といったランチのメニューを選び、取り分けて食べた。真美は奇妙な箸の使い方をする。箸のあいだに中指を入れることなしに、ぎこちなくものをつまむのだ。番組の中で、時々ものを食べることがあるので、枝美子はそれとなく注意したことがある。
(中略)
真美は力を込めて、豚の角煮を切断し、それを自分の皿に運ぶ。夏から秋にかけてずうっと続けていたダイエットは、この雪の中、どうやらやる気を失っているらしい。自分で小さな櫃から飯をよそった。
(中略)
ここでデザートの杏仁豆腐が運ばれてきたので、真美は話を中断した。コンパクトを取り出すこともなく、口紅の具合を直した。親指の先で、半ば開けた唇をなぞっていく。いかにも女だけの寛いだ様子だ。
こんな風にして、北陽放送始まって以来のセクハラ事件は語られるのだと枝美子は思った。自分のように意識し、努力した気楽さとはまるで違う。真美にとっては、豚肉を食べる間に喋る程度のことなのだ。

毎日旅館の料理だけでは飽きる。すき焼を食べさせてくれと言ったのは男の方だ。
枝美子はスーパーに寄り、少々迷いながら牛肉を一キロと野菜を買った。ざっと部屋を片づけ、卓上コンロの用意をしようとしている時にチャイムが鳴った。

男の箸遣いは、真美よりも危なっかしいぐらいだ。長い菜箸だとするりとネギが逃げてしまう。それなのに男は自分で鍋を差配しようとする。だし汁に醤油と砂糖を加え、それを煮立てていくやり方は関東のものだ。
(中略)
腹立たしげに肉を鍋に散らしていく。上等な霜ふり肉だ。魚が美味いこの街では、どうしても肉はないがしろにされる。だからわざわざ遠くの大きなスーパーへ行って買った肉だ。
「この"上"のすき焼肉を一キロ」
と告げた時の店員の表情をまだ憶えている。若者と中年とのちょうど中間といった年齢の彼は、枝美子が誰だかすぐに気づいたようだ。一キロという数字に、彼は話しかけるきっかけをつくろうとする。
「パーティーか何かですか」
「ええ、そうなの。だから一キロね」
(中略)
ショッピングカートに肉の包みを入れると、四方から人々がそれを見ているような気さえした。男を部屋に入れるのも大変な気苦労があるが、大量の牛肉を運び入れるのもそれ相応の緊張感があったのだ。
「もうそろそろ、いいんじゃないかな」
男は菜箸で肉をつまみ上げ、それを枝美子の皿に入れた。
「オレは玉子使うの嫌だけど、あんたは好きなんだろ。テーブルの上に出てるよ」
男は思いのほか饒舌であった。大学の合宿所でとんでもない料理をつくった話をしては枝美子を笑わせる。
- なにしろ食い盛りのガキばっかりだぜ。合宿所の夕飯だけじゃとても足りないんだ。だから金を出し合って電気コンロ買ったんだ。お湯を沸かして、カップラーメンつくってるぐらいはよかったけど、お好み焼きやろうなんて言い出した馬鹿がいる。


男のために一昨日鍋を用意した。白身の魚の上に、どっさりと大根おろしを入れるこの地方の名物だ。しかし男は、こんな食事では食べた気がしないと不満そうに言う。
「肉を喰わせてくれよ、肉を。こんな白っぽい鍋はさ、六十過ぎてから喰うことにするよ」
今日は休みでもあるし、男のために少し凝った料理をつくらなくてはならないだろう。
猪鍋にしてみようかと枝美子は考える。この街にやってきた最初の冬、普通の食肉店に猪が下がっているのを見て、息が止まるのではないかと思うほど驚いたものだ。が、このあたりでは冬になると、ごく普通に食べるものだという。味噌仕立ての鍋にして何回か食べたが、独特の臭みも慣れるとなかなか旨い。やみつきになる、というほどでもなかったが、冬になると一度は食べてみようかと思い出す味だ。今晩男にあれを出してみよう。案外珍しがって喜んで食べるかもしれない。が、それならばいつも行くスーパーではなく、古い通りの食肉店に行かなくてはならないだろう。


「ここは魚がうまい替わりに、肉がいまひとつなんだよなあ。このあいだステーキを食べたら、味も焼き方もひどかったぜ」
「ここから歩いてすぐのところにいい焼肉屋さんがあるわ。韓国人が経営していてとってもおいしいの。あそこならあなたも満足すると思うけど」
「わかったよ。あんたのベロを信じるよ」
(中略)
大雪のせいか、焼肉屋は客がまばらだった。枝美子の顔を見た店員は、窓際の席へ案内してくれる。二重ガラスのこちら側はほかほかと暖いが、外の灰色はさらに濃くなるばかりだ。雪が結晶となって恨めし気に、二、三階ガラスにへばりついた。
男はビールの中瓶と、特上ロース、特上カルビをそれぞれ三人前ずつ注文した。
「そんなに食べきれるかしら」
「たぶんオレがひとりで食うよ」
「すごいわ……」
「そんな、たいしたことないよ。野球選手なんて、黙ってりゃひとり十人前ぐらいぺろりと食べるさ」
「本当」
「本当さあ。チームの奴らと焼肉を喰う時なんか、それこそ店員がひとりつきっきりで肉を運んでくれる」
「他の人たちもそうなの」
「そりゃあ、そうだ。オレたち、食うことにそりゃあ金を遣うよ。これが商売だからね」
(中略)
赤い花のようなかたちに盛られ、肉が運ばれてきた。枝美子はそのひと切れを箸でつまみ、網の上に載せた。
「さあ、秀才さん、召し上がれ」

枝美子は、女から無言で渡されたサンドウィッチを頬張る。パンの間からの冷気が歯に浸みた。最近になって枝美子が知ったことがある。それは世の中に、プロ野球ファンが実に多いこと、そして彼らの間で、志村が結構知られいていることであった。

林真理子『断崖、その冬の』より