たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

ナオミとカナコの飯

小田直美は、ヨーグルトとフルーツだけの朝食を手早く済ませ、出勤の身支度に取りかかった。

ダイニングテーブルで加奈子の作ったアスパラガスとベーコンのパスタを食べた。味付けは塩胡椒だけなのに、プロが作るようにおいしい。
「相変わらず料理がうまいこと」直美が褒めると、加奈子はそれには答えないで、「一人分だと面倒くさいだけだけど、二人分だと作る気になるね。直美が来てくれてよかった」と言って薄く笑った。

「食べなくてはいけません。中国では礼儀に反します」
盗人のくせに、言うに事欠いて—。直美は声を荒らげそうになるのを懸命に堪えた。
「明日は必ず返しますね。たから午後一時にまた来てください。そうでなかた場合は弁償します」
朱美がシューマイを頬張りながら言う。
「ちょっと上司に電話で相談します」
(中略)
朱美は呑気に小籠包を食べている。この図太さはいったい何なのか。
(中略)
「うん、わかりました。書く。ねえ小田さん、熱いうちに食べて。冷めるとおいしくないのことですよ」
用が済んだ以上同席したくないのだが、まったく箸を付けないわけにもいかないので、点心をいくつかつまんだ。不本意ながらおいしかった。直美は一度香港に行ったことがあるが、その時食べた料理を思い出した。この界隈の店は日本人向けの味付けはしていない様子だ。

晩御飯はすき焼きだった。帰省するとたいていそうだが、娘がいるときぐらいでないと食べられないからだろう。

湖畔の売店でスポーツドリンクを買って飲んだ。平日とあって人影はどこにもない。車も走っていない。
「おなか空かない? おにぎりあるけど」加奈子が言った。
「作ったの?」
「うん。直美ばかり働いてるから、わたしも少しは役に立たなきゃと思って」
「食べる、食べる」
直美は加奈子の気遣いがうれしかった。
加奈子がバッグから包みを取り出す。すぐ先に芝生があったので、そこに腰を下ろすことにした。太陽の光が降り注ぎ、湖面がキラキラと輝いている。山では鳥が鳴いていた。
包みを広げた。おにぎりだけではなく、唐揚げとポテトサラダもあった。鮭のおにぎりを頬張る。
「おいしい」
「空気が澄んでるね。遠足みたい」

「奥様、わたし、フォションのクッキーを持参して来たんですが、ご一緒に食べませんか? 紅茶も用意しますけど」
直美がバッグから袋を取り出し、提案する。
「あら、クッキーなんてうれしい。紅茶はわたしが淹れるわ。ちょっと待っててね」

「晩御飯はちゃんと食べたの?」
「ううん、実は昨日の昼にお蕎麦を食べたきり」
「じゃあ無理してでも食べようよ。これからも重労働が待ってるんだよ」
加奈子の言うことももっともなので、直美は差し出された玉子サンドを頬張った。手作りらしい。マヨネーズが多めでおいしかった。
テーブルにつき、ひとつつまんだら、なんとなく後を引いて、ハムサンドも食べた。これで充分だ。

トーストだと簡単なのだが、達郎は和食しか許さなかったので、ご飯を炊き、味噌汁を作り、魚を焼き、もう一品何かを用意した。ときどき手抜きをしてゆうべの残り物を出すと、「続けて同じ物を食わせるのかよ」と、朝から尖った声を浴びせられた。

直美は海老炒飯、加奈子は天津麺を注文し、半分食べたところで交換した。食後は甘いものが欲しくなり、デザートに胡麻団子と杏仁豆腐を追加オーダーした。二人とも食欲は旺盛だ。

夕食は部屋で食べた。豪勢な和食のフルコースだ。つきだしに始まり、お造り、焼き物、煮物、全部揃っている。地元の漁師料理、かぶす汁が胃に沁みた。お酒も飲んだ。
いつか直美が言っていたことを思い出した。あんな、おいしい水を飲みたくないの? 加奈子はその願いが叶ったと思った。もう水まで苦い日々とは永遠に別れられる。
いくらでも食べられそうなので、焼き牡蠣も追加注文した。簡易コンロの網の上で、蓋を開けられたばかりの牡蠣が身悶えしている。
「きゃーっ」「かわいそう」「でも食べるんだもんね」

そこへ寿司の出前が届いた。一目見て上等であることがすぐにわかった。お吸い物も、その場でポットからお椀に注いでいる。お茶は加奈子が淹れた。夫の実家だから、湯呑の場所ぐらいは知っている。
「食欲ない」と言う義母を、義父が「一貫でも二貫でもいいから」と説得し、みんなで食べ始めた。
いったい一人前いくらだと言いたくなるほど、寿司はおいしかった。鮪など北陸の旅館で出されたものより艶っぽい。雲丹は軍艦巻きの海苔から溢れている。

加奈子の知る限り、服部家は食通だった。米と味噌は産地から取り寄せたもので、野菜は有機野菜だった。家の奥にはワインセラーがあるし、供されるクッキーはいつも帝国ホテルのものだ。

達郎もまた食べ物にはうるさかった。ハンバーグやトンカツの皿に二品以外の付け合わせがないと、「手を抜くな」とすぐに怒った。親からの影響なのだろう。
そういえば結婚したとき、義母に実家に呼ばれて、服部家の味噌汁の作り方を教えられたことがあった。そこに嫁の味付けを尊重するという姿勢は微塵もなかった。あのときから、加奈子はいやな予感がしていたのだ。

「これはどういう調味料?」加奈子が聞く。
「これは蒜蓉豆鼓醤(ソンヨウトウチジャン)といって、豆鼓とニンニクを胡麻油で合わせたものです」従業員がレクチャーしてくれる。
「どういう料理に使うの?」
「蒸したアサリや貝柱にかけるとおいしいです」
「そう。じゃあこっちは?」
「これは沙茶醤(サーチャージャン)です。潮州料理でよく使います。串焼きのタレですね」
加奈子はメモを取り、ひとつひとつ日本語のポップを作っていった。

「何か注文ありますか?」壁のメニューを指して聞く。
「いらない…。あ、そうね、冷たい烏龍茶を3つちょうだい」と直美。
「わたしおなかが減てます。隣の食堂に潮州炒飯を頼んでもらえますか」
林竜輝がしれっと言った。
「あんたねえ、自分の立場わかってるの」直美が声を荒らげる。
「お詫びにわたしが御馳走します。あなたたちも食べませんか」
直美は怒鳴りつけそうになるのを堪え、加奈子を見た。「どうする?」
「食欲ないけど…。でも何か入れておいたほうがいいだろうし…。じゃあ二人で半分ずつ食べようか」
「それがいいですね。では同じ物をふたつ」
(中略)
そこへ出前の炒飯が届いた。大盛りかと思うほどの量で、二人で一人前にしてよかったと思った。
林竜輝が皿を手に持ち、むしゃむしゃと口の中にかき込んでいく。
「直美、先に食べて」
「わかった」
(中略)
林竜輝が黙り込み炒飯に口をつける。今度は静かに食べた。加奈子も食事に取りかかった。こんなときでもおいしいから中華料理は困る。

昨日は食欲がなくて、ほとんど食べていなかったせいもあるのだろう、加奈子は急いで御飯を炊き、ジャガイモと玉葱の味噌汁を作り、缶詰の鰯のかば焼きをおかずに二膳食べた。

「警察でお弁当食べたけど、味がしなかったから食べ直す」
加奈子が答えた。瑞々しい生野菜が食べたかった。冷えた飲み物も欲しい。
加奈子はサラダとチキン・カレーを注文した。直美はハンバーグ・セットだ。
(中略)
注文の品が届き、二人で食べた。瑞々しいレタスが口の中に気持ちいい。

奥田英朗著『ナオミとカナコ』