船酔いしないのは「揺れに対して抵抗しないから」ではないか、という考察は興味深い。
午後1時札幌を発ち、4時半登別着、登別では中級の五色旅館に泊まった。この宿はこのちに焼失した。もし焼けなければ2人で再訪したことであろう。この旅館で夕食にブリの刺身が出た。翌25日の朝食にもまたブリの刺身だった。昨夜の残りではないかと思った。朝食を摂らぬ私は、このブリの刺身は食べず、綾子だけが食べた。
大きな客船であった。乗客たちはみな吐きつづけていた。私も苦しくて横になって耐えていた。
が、1人綾子は平気で、弁当の海苔巻きであったか、旨そうに食べていた。おそらく子供のように、揺れに対して抵抗しないからではないかと思った。6時、燭火礼拝と注文の親子どんぶりで、ささやかにクリスマス・イブを祝う。
しかし、朝からの準備は何といっても大変だ。食事担当のスタッフたちも忙しい。昼食は店屋ものの握り飯を出す。が、20人からの味噌汁、ポテトサラダ、ハムなどを添えなければならない。この昼食時がまた楽しい。
食物には副作用はなく、綾子は何でもよく食べた。彼女が絶対に嫌ったものは、何であったろう。なかったような気がする。麺類も好きで、ソバ、ウドンも好んだ。私にはさほどうまいと思えないスパゲッティも好物のようで、取材でイタリヤに行った時、巧みにフォークを絡ませて食べていたのを覚えている。
トロロも好きなものの一つだったので、私はよく長芋を擂りおろし、熱いタレをかけて搔きまぜ、本格的なトロロ汁を時々作ってやった。むろん、彼女自身、私に作ってくれた料理も、テンプラをはじめ少なくない。私の姪隆子が一緒に住んでいた頃は、むろんこの姪に何でも作らせていた。握り鮨も姪は中々上手に作り、綾子は実によく食べた。
私が作ってやったものの中では、蟹味噌の味噌焼がある。毛蟹の甲羅の中に味噌がある。この部分が一番うまいが、これに等量より少なめの生味噌を混ぜ、お湯を数滴垂らして火にかける。甲羅からもじわじわと脂が出て、実にうまい味になる。ご飯の上に少しずつ載せて食べると絶妙だ。綾子は喜んでよく食べたものだ。
朝食の粉ミルク以外は、昼食夕食共、七分搗き米の飯軽く一膳、味噌汁、野菜の煮付、ポテトフライ等であった。時にはパン食と、ポタージュスープを摂ることもあった。
ところで、綾子も私も果物が大好きであった。この点、実に似た者夫婦と言えた。バナナ、リンゴ、スイカ、サクランボ、ミカン類、アンズ、パパイヤ、メロン、イチゴ等々、果物であれば何でもよかった。間食には食べなかったものの、食後のフルーツとしてよく食べた。綾子の好きなものに、トウモロコシ、南瓜、そして馬鈴薯があった。馬鈴薯は保存がきくので、毎日のように食べた一時期があった。(中略)
「ここで勤めさせていただいて、全く文句はなかったけど、只一つ、毎日じゃがいもの塩煮を食べさせられたのには、参りました」
そう言えば、ほとんど毎日馬鈴薯の塩煮が昼食に出た。わが家に勤務する者は当時から現在に至るまで、スタッフたちは皆、わが家の提供する昼食を摂ってきた。それにしても、来る日も来る日も、馬鈴薯の塩煮を食わされては、さぞかしうんざりしたことであろう。その後、唐揚げ、イモサラダ、塩煮に澱粉を混ぜた団子など、変化することになったが、裕子秘書の率直な一言はありがたかった。食事の担当者は当時から現在までで4人目となる。どうしたわけか、3人目までの担当者たちは肉ジャガを作ったことがない。
わが家では、私が時に料理を作ることは先にも書いた。その中に掻き卵がある。綾子はこれが好きで、よく作ってやった。料理というほど大げさなものではなく、ダシ汁を小さな鍋に適当に入れ、コンロにかけ、煮え立ってきたところへ、といてあった卵をさっと散らす。半熟そこそこで火をとめる。これででき上がり。これを飯の上にかけてもよいし、お菜として食べてもよい。これを綾子は好んで食べた。
三浦光世著『綾子へ』