たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

ほんものの会食『夏物語』

この小説の登場人物たちはみな、食卓でもその他の場所でも、会えば「あれやこれやと話」「いろいろな話」をする。しかも、その内容が列挙されている。
「夜の姉妹のながいおしゃべり」と題された章があるほどだ。
祝福だよね、他人と話ができるって。

水分でお腹がだぶだぶになったら、つぎは食べもの。ウインナ焼きとか卵焼きとかオイルサーディンとか唐揚げとか、酒のつまみというよりは弁当のおかずみたいなものを、お腹すいたわあ、といって客に頼んで注文する。

壁にずらりと貼られたメニューをひとしきり読み、それからテーブルに置かれたメニューを念入りに見つめ、わたしと巻子は生ビール、烏賊料理をいくつかと、白湯麺、そのほかには分厚い皮の焼き餃子、そして緑子が指さした中華まんじゅうと、豆腐が縮れ麺になったようなものなどを注文してみんなで分けようということになった。

緑子が注文した中華まんじゅうが運ばれてきた。やってきた中華まんじゅうの何の意味もない白さ、鈍い温かさ、そしてその漠然とした膨らみをみていると、目のまわりが熱くなった。わたしは鼻から大きく息を吸いこみ、背すじを伸ばして座り直した。
「よっしゃ中華まんきたで、食べようで」
わたしはあつあつのまんじゅうをひとつ皿にとってやると、さあさあというように緑子の顔を見た。緑子は小さく肯いてから水をひとくち飲んで、皿に置かれたまんじゅうに目をやった。巻子もせいろに手を伸ばしてひとつを取った。そして緑子がまんじゅうの白い頭に小さく齧りつくと、それがまるで合図でもあったかのように ― 空気がふっと緩んだような気がして、そしてそれが気のせいでないことを証明するような気持ちでもって、わたしはジョッキのなかのビールをいっきに飲みほした。2杯目を注文した。ほどなくやってきた豆腐ちぢれ麺や白湯麺や烏賊の炒め物などでテーブルはいっぱいになり、テレビの雑音に、3人の咀嚼の音、水を飲む音、食器を打つ音などが混じって賑やかな感じになった。

緑子は反射的に怪訝な表情になり、巻子の顔をちらっと見た。それから新しい中華まんじゅうをひとつ手にとって、白い膨らみの真んなかあたりに両方の親指をあててめくるように割り、しばらく中身を見つめていた。具の出かかったところに醤油をつけ、それからそれを半分に割り、少し間を置いてそれをさらに半分にし、またそれにも醤油をつけて、黒くなったところをじっと見た。そんなふうに緑子が中華まんじゅうにくりかえし醤油をつけるので、醤油がぐんぐん滲みこんだまんじゅうは真っ黒になり、わたしもまんじゅうがいったいどこまで醤油を吸って真っ黒になるものなのかをじっと見ていた。

「夏子と飲むんなんか久しぶりやな」と巻子は言いながら、帰り道にコンビニに寄って買いこんだビールを冷蔵庫から数本とりだし、ちゃぶ台のうえにならべていった。飲も飲も、とわたしも言いながら柿ピーやらジャッキーカルパスなどのあてをざらっと皿にあけ、昼間は麦茶を入れていたガラスコップをさっと洗ってビールを注ごうとしたときに、きんこん、という耳慣れないベルの音が鳴った。

巻子に訊くと巻子もまだまだ飲めるというので、わたしはコンビニへ行って追加の缶ビールを7本とカラムーチョ、するめ、それからずいぶん迷ったけれど奮発して、6ピース入りのカマンベール・チーズを買ってきた。

「言われてみればそうやったな。いっつも電気ついてたな。おかんが帰ってくるまで明るくしてた。そっからごはん食べたりして、布団のうえで。ウインナ焼く匂いで起きたことあった」
「そうそう、ときどきおかん酔っ払ってて、起こされてチキンラーメン一緒に食べたわ」巻子は笑って言った。
「そうそう。夜中にウインナとかインスタントラーメンとか食べてた。せやからわたしあの時期、太ってたで」

「店な」トイレから戻ってきた巻子は言った。わたしはチーズおかきのあわさった2枚をはがし、チーズのついていないほうを齧りながらあいづちを打った。

わたしたちはそれぞれメニューに顔を近づけて吟味し、わたしはかき揚げ丼を、緑子はカレーライスを頼んだ。

みんなの話を聞きながら、しかしわたしはさっき食べたランチのことがどうにも気になっていた。というのも、誰が選んだのか、今日のランチというのがこれ、食べるのはもちろんその存在を初めて知ったガレットというもので、メインの食事という感じがまったくしないものだったのだ。おやつなのかデザートなのかぺらっとしたシート状のもので、貴重な外食1回分がこんなもので終わってしまったことに納得できないような気持ちだった。ガレット専門店というだけあって、ガレット以外のものは何もなかった。こんなもん何枚食べたとこでお腹いっぱいにはならないし、だいたいそれが何であれ、生クリームがのっかってる時点でそんなものは昼ごはんとは言えんやろう。

わたしはパソコンをスリープにして、台所へ行って納豆ごはんを作り、時間をかけてそれをゆっくり食べた。

それから今日のことを思いだしてみた。ガレット。そういえば、ガレットを食べた。茶色で、クリームがのっていて、味はもう思いだせない。それとも、味なんか最初からしなかったのかもしれない。優子の声がする。子どもがいるとこういうの食べられないから嬉しいわ。子どもがいるとさ、麺とかご飯ものばっかになるじゃん。ああそう、とわたしは思う。わたしは子どもはおらんけど、でも、そんなことは関係なしに、こんなものは食べたくない。

それから台所へ行って簡単なスパゲティを作った。ちゃぶ台に運んで、テレビをつけるとちょうど7時のニュース番組が始まり、今日あったいろいろなことをアナウンサーが伝えていた。

朝8時半に起きて食パンを食べてパソコンにむかい、昼食をレトルトのソースをかけたスパゲティで済ますと仕事に戻り、そして夕方に軽いストレッチをして、夜には漬物と納豆ごはんを食べた。

仙川さんは最近になって作れるようになったというボルシチをスープ皿によそい、なんとかいう有名なところで買ってきたパンを切り、外国のラベルのついたバターを切ってそれぞれの取り皿にのせてくれた。何が入ってるのか最後までわからなかったテリーヌ、珍しいちょっと酸味のあるクリーム、いろんな色とかたちをした豆のサラダなど、わたしがふだん食べないどころか食べたことのないものばかりがテーブルにならべられ、それらを食べながらわたしたちはあれやこれやと話をした。今日は母親に泊まりで来てもらってるから飲めるわと言って、遊佐はおいしそうにワインを飲んだ。わたしはちびちびとビールを飲みながら、しかし頭のなかではべつのいろんなことが気になっていた。

紺野さんは中ジョッキを空にするとお代わりを頼んだ。わたしたちはお通しで出された揚げだし豆腐をつつき、メニューを見ながらベーコンとほうれん草のサラダと刺身の盛りあわせを注文した。

刺し盛りが運ばれてきて、わたしたちは小皿に醤油をさした。思っていたよりも豪華なのがやってきて、わたしたちは小さく歓声をあげた。ぶりや赤身のひとつひとつの切り身を見ながらおいしそうだと言いあい、紺野さんはとっくりを1本空けてしまうとおなじものを注文した。新しいのが運ばれてくるとおちょこになみなみと注いで、ずずっと吸いあげた。

店員がやってきて漬物の入った鉢をテーブルに置いた。きゅうりとかぶと柴漬けがこんもりと盛りつけられていた。

甘いものを食べる印象のない仙川さんが、珍しくコーヒーと一緒にティラミスを注文して、それをおいしそうに食べながらいろいろな話をした。

そこで逢沢さんはコーヒーカップを持ち、中身がないことに気がついた。わたしのカップも空になっていた。逢沢さんは少し不安そうな表情で、まだこんな話をつづけてもいいのかなと訊いた。もちろん、とわたしは答えて、何か甘いものを食べようと言って店員にケーキのメニューをもってきてもらった。逢沢さんは椅子に座りなおして何か珍しいものでも見るように背中を丸めてメニューを覗きこみ、わたしはショートケーキを、逢沢さんはずいぶん迷ったあとに、カスタードプリンを注文した。

しばらくすると店員がやってきて、新しいコーヒーとカスタードプリンとショートケーキを置いていった。わたしたちは黙ったまま、それぞれ注文したものを食べた。クリームが舌にのった瞬間、唾液と混ざりあった甘さが脳内に広がって、わたしは思わずため息をついた。
「糖分が」逢沢さんも同じように感じたようで、何度か肯いて言った。
「こう……脳みその皺というかみぞというみぞに、じかに塗りこんでるんかっていうくらい効きますね」

それからわたしたちはコーヒーを飲み、それぞれのおやつを食べた。まえに食べたのがいつか思いだせないくらい久しぶりに食べたショートケーキは、とてもおいしかった。生地はふんわりとしてやわらかく、クリームは甘すぎず、このままいつまでも食べつづけられそうなくらいにおいしかった。

当日 ― 5月のよく晴れた日曜はまるで夏のように暑い日で、わたしは汗をかきながら家でだし巻き卵と春雨のサラダを作って、百均で買っておいたタッパーにつめた。遊佐の家がある緑が丘に着くと駅前のコンビニで500ミリの缶ビールの6本セットとジャッキーカルパスをみっつ買った。

「出た、関西人のだし巻き」
わたしがタッパーをとりだして見せると遊佐はうれしそうに笑った。「やっぱだしよな。これからはだしだよ。年いったらさらにそう思うわ。甘い味は、なんていうか体がもう無理」
「たしかに。考えかたにも影響しそうやな」わたしは笑った。
「わかるわ。ねたねたして、しつこくなって」
わたしたちは台所へ行って一緒にビールを冷蔵庫にしまった。丸いテーブルにはグリーンカレーがたっぷり入った鍋に、チキンサラダ、ハムとチーズ、それからまぐろの刺身が載ってあった。春雨のサラダもお皿に盛ってそこにならべた。遊佐がよく冷えたべつのビールをとりだして、わたしたちはテーブルについて乾杯した。
「すごいやん、遊佐これぜんぶ作ったん?」
「まさか。ぜんぶ東急ストア。あ、カレーとナンはインドカレー屋で買ってきた。ほかにもまだ準備してる。時間差で出すわ」

遊佐はわたしにグリーンカレーをよそい、ビール飲んでるからご飯はやめて、おつまみ的にこれでちょこちょこすくって舐めたらおいしいよと言って、わたしに子ども用の小さなスプーンを渡した。それから遊佐は、自分の近況についていろいろな話をした。ママ友たちの会話について、雑誌の対談企画で会った男の役者がいかに不愉快だったかについて、そしてくらと出かけた動物園で見たかわうそがどれくらい可愛かったかについて。

わたしたちはビールを飲んで、テーブルのうえに載ったいろんなものを少しずつ食べていった。どれもおいしかったけれど、遊佐はわたしの作っただし巻きをえらく褒めてくれた。遊佐がそのへんからつまみあげた大判のポストイットを差しだしてレシピを教えてくれと言うので、卵よっつ、白だし大さじ半分、塩ぱっぱ、醤油3滴、ネギあるとなおよし、と書いて渡した。遊佐はそれを冷蔵庫のドアに貼って、しばらくのあいだ満足そうに眺めていた。

くらは人見知りをしない子らしく、「食べる?」と訊きながらわたしがだし巻き卵をスプーンにのせて口に近づけると、当たりまえのようにぱくりと食べた。それからごく自然にわたしの膝のうえにのるとチーズが欲しいと言い、包み紙をはがしてやるとまた小さな口をああんとひらいた。

それからわたしたちはカレーを食べ、遊佐はくらに小さなおにぎりをみっつ作って食べさせた。わたしはまた畳の部屋に移動してくらとおもちゃのピアノで遊んだり、仙川さんと遊佐は仕事の話をしたりした。

巻子のアパートは笑橋からバスで20分くらいのところにあり、笑橋に着いたら巻子の好きな蓬莱の豚まんを買って、思いきって、明るく巻子に電話をしようと思っていたのだ。

少し進むとコンビニがあった。わたしはおにぎりをふたつと冷たい水を買って、汗をぬぐいながら通り沿いをまっすぐに歩いていった。

母が一生懸命に働いているところを見て、胸がいっぱいになって、ごちそうやのに、なんか泣きそうになって、うまくハンバーグが食べられなくなって、ごまかしながら一生懸命に食べて、でもすっごくおいしくて、わたしここで、母が働くのを祖母と見てたんです。お店の人に、そう言ってみるところを想像してみた。でも、もちろんそんなことはできなかった。わたしはペットボトルの水を飲んで、ひとりきりコスモスのドアを見つめたあと、街路樹の陰にあったベンチまで歩いていって、ゆっくり時間をかけておにぎりを食べた。

うちには電話もなかったから、公衆電話に。それで、あのうどん屋さんに素うどんをふたつ頼むんです。出前を。それでうどん屋さんがうどんもって来てくれたらわたしが出て、『お母さんいまおりません』って言うんです」
逢沢さんは興味深そうに肯いた。
「『お母さんおらんくて、お金も預かってないんです、帰ってきたら言うときます』って言うんです」
「そしたら?」
「うどん屋さん『あれえ、でもさっき電話あったんですけどねえ』って首かしげながら、困ったなあ言いながら、でもうどん置いていってくれるんです」わたしは言った。「母が言うには、食べもの屋さんはいっかい出前もってきはったら、もっては帰らへんからって。うどんの玉のびて、ほかのお客さんに出されへんでわやになるだけやろ、だから温かいものはぜったいに置いていってくれるねんでと。ちょっとずるいけど、ごめんな言うていただこう、お給料日なったらちゃんと返しにいくからなって。母は屋上からうどん屋さんが帰るのを見届けてから降りてきて、わたしらにお腹いっぱい食べやって言って食べさせてくれるんです。でもそのうどん屋、わたしの同級生やったから、それ思うとちょっと恥ずかしいですよね。

けっきょく、わたしたちが待ちあわせしたのは笑橋のお好み焼き屋で、巻子はすでにジョッキーの生ビールを半分まで飲み、緑子は麦茶を飲んでいた。こんにゃくを焼いたのやもやしを炒めたのやらが鉄板のうえでちりちりと音を立てて、店じゅうに甘辛いソースの懐かしいようなにおいを漂わせていた。わたしが頼んだビールがくると、誕生日おめでとう、と巻子が嬉しそうに声をあげて、わたしたちはあらためて乾杯をした。かしゃんというこそばゆい音がした。

お好み焼きと焼きそばがやってくるとわたしたちはそれぞれの皿にとりわけて、熱い、おいしいをくりかえしながら夢中になって食べた。

川上未映子著『夏物語』から