三浦氏と奇跡の結婚を果たすまでを記した手記。
まだKindleストアジャパンの品ぞろえが薄かった頃に買い、6年ぶりに読んだがほとんど何も覚えていなかった。
今回はずっと深く感銘を受け、彼女をキリストに結び付けた人々の愛にむせび泣いてしまった。
わたしは決してやさしくはなかった。きびしいだけの教師であったかもしれなかった。けれども、弁当の時間、漬物しか持って来ない子供たちには、自分のお菜ひと切れずつでも分けてやった。分けてやらずにはいられないようなつながりが、教師と生徒というもののつながりではないだろうか。
そのうちに、わたしは校長の許可を得て、給食を始めた。その頃は勿論給食などのない時代である。生徒に、朝の味噌汁の実を、ひとつまみずつ学校に持たせてよこすようにした。それと、味噌をほんの少々。
豆腐あり、キャベツあり、大根あり、油揚あり、実にいろいろの実が、ひとつ鍋にぶちこまれる。それをズン胴のストーブにかけて授業をする。弁当の時間には、味噌入れて味をととのえ、各自持参のお椀に分ける。
この味噌汁は大好評で、家では決して味噌汁を食べなかった生徒も、味噌汁好きになった。食糧のない頃の、特に寒い旭川の冬のお菜として、この味噌汁は成功であった。
別れに際して、そんなこともかえって、悲しみの種となった。 (もうこの子たちに、味噌汁を作ってやることもなくなる)
何だかやめて行くことが悪いような気もした。子供たちは、どこまでも、どこまでもわたしを送って来て帰ろうとしない。とうとう、二十二、三町離れているわたしの家まで、子供たちは送ってきてくれた。
そして、その見舞は、彼のその後の何年間かの仕事となってしまった。ある月は、その月給の全額を、わたしの見舞に送ってくれたこともある。旭川に来ると、 「駄目だよ、そんなものを食べていては」 と、 筋子や肉などを沢山買いこんで来てくれたこともある。
その夜、一郎の母が心づくしに作ってくれたチラシズシはおいしかった。そのおいしいことが、わたしには不思議だった。 (これが最後の食事になるというのに、どうしてこんなにおいしいのだろう。人は生きるために食べるとか、食べるために生きるとかいうけれど、今夜のこの食事は、生きることとは何の縁もない食事なのだ)
わたしの誕生日は四月二十五日だった。その時たしかお祝に本をもらっていたはずである。彼はお菓子屋で、ギューヒ二個と桃山二個を買った。甘いものの好きなわたしのために、それをお祝に買ってくれたのかと思いながら丘に行った。
姉の百合子と、前川正が別れを告げに来てくれたし、同室の友人たちはわたしの好きな鶏のスープを、部屋の隅の七輪に火をおこして作ってくれた。
彼の母が、ハムエッグを作って持ってきてくださった。彼もこのハムエッグを食べて正月を迎えているのかと、彼と同じ病院で新しい年を迎えたという思いが、しみじみと湧いた。
やがて秋も深くなった頃、奥さんが松茸飯を炊き、松茸のみそ汁を作って持って来てくださった。奥さんの顔を見ただけで、わたしはふとんをかぶって泣いてしまった。その松茸は、京都のある方が、西村先生の人徳を伝え聞いて送ってくださったものだという。しかし残念ながら、その香りも味もわたしにはわからなかった。涙で鼻がすっかりきかなくなってしまったからである。
写真をいただいてから二カ月後の年の暮だった。クリスマスにプレゼントをくださった先生は、帰りがけにおっしゃった。
「何かほしいものがあったら、遠慮なく甘えてくださいよ」
「では、おねがいします。わたし鮭の焼いたのをいただきたいんです」
初めてお目にかかった時、見舞物などいらないと言って拒んだ、かたくななわたしだったが、こんなことも言えるように素直になっていた。
「それはまたお安いご用ですね」
そう先生はおっしゃった。そして大晦日の夕方、奥さまの心づくしの年越しの膳を、わざわざ運んでくださったのである。それには厚い焼鮭をはじめ、うま煮、煮しめ、黒豆、数の子などなどが並べられてあった。それは、同室の患者とわたしに、別々に盛りつけて持ってきてくださったのである。三浦綾子著『道ありき 青春編』より