たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

三浦綾子『愛と信仰に生きる』

神のもとに帰ろうとするとき、聖書とともに氏の文章を読んで信仰の先輩たちの姿に励まされている。
『道ありき』と重複しているが、食べもの以外のメモも含めて上げておきたい。

この頃、戦時中の慰安婦が問題になっている。戦時中の日本軍のやり方は、人買いよりも恐ろしいものであった。今の今まで家族と一緒に食事をしていた妻が、突然踏みこんで来た男たちによって連れ去られる。母のふところに抱かれて、すやすや眠っていた赤子が引離される。「妻を返せ」と追って来る男が殴りつけられる。泣き叫ぶ子女たちは怒鳴りつけられる。
連れ去られた女たちは、人妻や娘の別もなく、兵隊や軍人軍属の相手を強いられ、時には1日何十人も相手にしなければならなかったという。戦後50年、この人たちに日本政府はいったい何をしたのか。いまだにろくに謝罪もせず、何の補償もしていない。もし私たちの1人1人の胸に、この痛ましい事実が自分のこととして感ずることができるなら、政府ももっと速やかに謝罪をし、補償に力を尽くさずにはいられなかったのではないか。
私は思う。戦後50年、日本の経済は豊かになったと聞く。しかし人間にとって、最も豊かなるべきものは、思いやりであり、優しさであろう。隣人のために、共に涙を流す優しさであろう。
私たちは慰安婦の現実を知らなかった。だから何も心を痛めなかった。だが、今はかなりの人々がそれを知っている。とは言っても、真に心を痛めている者はまだ決して多くはない。

戦争のために、おとなも子供も、腹一杯食べるということは、決してなかった。戦争が激しくなるにつれて、米が次第に不足になった。だから弁当を持ってくることのできない子もいた。いもやかぼちゃや、でんぷん団子を持ってきた子もいた。
お菜もむろんじゅうぶんではない、たくあん漬をふたきれか、みきれしか持ってこない子もいた。

もう一つ考えたことは、みそ汁給食である。いまは給食は珍しくはないが、当時、日本のどこにも給食はなかった。いってみれば、わたしのクラスが日本で初めて給食を始めたことになる。
その方法は簡単であった。当時どこの家でも、朝はみそ汁をつくった。そのみそ汁の実を、ほんのひとつまみずつ学校に持ってくる。ついでにみそも、ほんの少々持ってくる。というわけで、ダシもみそ汁の実も容易にそろった。それを、お昼近くになると大きな鉄鍋に入れて、教室のストーブにかける。弁当の時間にはみんなが持ってきたお椀に、でき上たった熱いみそ汁を盛りわけるのである。
これは大成功であった。何しろ、みそ汁の実がいろいろだ。大根あり、じゃがいもありというわけで、たくさんの実から出る味が、何ともいえないおいしいみそ汁をつくった。だから、自分の家では絶対みそ汁をのまない子が、大のみそ汁好きになったものだ。

ある日、胸の上におかれた食膳を手鏡にうつして、そこに二切れのカボチャの煮つけを見いだした時、
「ああ、秋になったのだわ」
と、わたしは、涙のこぼれる思いがした。
それはわたしをキリスト教に導いて下さった西村久蔵先生が召天なさった年の秋である。(中略)
しかし、先生を思いながら食べたそのカボチャが、俗にいうまさかりカボチャで、粉を吹いたような実に美味しいカボチャだった。こんなに逝った人を悲しんでいるのに、カボチャがこれほど口に美味しいとは、何と無情なことだろうと、思わずにはいられなかった。
先生がなくなってから、はじめて奥様が訪ねて下さったのは、10月も半ば頃であったろうか。
「西村のことをいろいろ憶えていて下さる方が、あちらこちらにいらっしゃって。昨日西村の好きなマツタケを送って下さった方も、一度もお会いしたことはないんですよ」
奥様はわたしのためにマツタケ飯をつくって持ってきて下さった。わたしはふとんをかぶって泣き、しばらくして顔を出すと、奥様もまぶたをあかくはらしていらっしゃった。
先生がお好きだったというマツタケ飯を、わたしは夕食の時にいただいたが、何の香りも味もなかった。あんまり泣いて嗅覚がすっかりにぶっていたのだろう。あれはいかにも身にしみて、わびしい秋の味覚ではあった。
サケ、バレイショ、トウキビなど、まことにおいしい秋のものではあるけど、わたしが舌の先ではなく、心の底にうけえとめた秋の味覚は、以上のカボチャとマツタケ飯であった。

結婚しても、わたしは500メートルぐらいしか歩けなかったし、ひるはほとんどねて暮らした。しかし、弁当だけは心をこめて作ったものである。紅しょうがで、ミツヨなどと白いご飯の上に文字を作ったり、
「光世さん、ごくろうさま、きょうのお魚ちょっとこげてしまったの。ごめんなさい。綾子」
と手紙を書いたりした。
彼もときどき、空き弁当に手紙を入れてくれた。
「綾子、きょうの煮付けの味は傑作だった。いかの塩からを入れたビニール袋をしばった黄色いリボンに、綾子の優しさを感じたよ」
そんな手紙をみると、わたしは飛びあがって喜び、そして日記帳にはりつけた。(中略)

しかし、わたしたちは、2人だけが仲よければよいという家庭を、作るつもりはなかった。むしろ、2人だけが仲よくすればよいというつもりなら、結婚することはないと思っていた。
結婚とは、2人がお互いにお互いをみつめ合うことではなく、2人で同じ人生の目標をみつめ、他の人々のために生きる家庭をつくることだと、わたしは思っていた。だから、わたしたちは何人かの病気の人に毎日のようにキリスト教の文書を送ったり、ハガキを書いたりした。2人が書く手紙はすべて、「三浦光世・綾子」と書いたものであった。

洗礼を受けてからどんなふうに変わったかと申しますと、たとえば、毎日、人のために祈るようになったということですね。

私たちの心も、他の人のために動いている状態にあることが、私、ほんとうの意味で生きている状態じゃないかと思います。
(中略)
私はそのときはただ寝てるだけしかないみたいでしたけれども、とにかく人のことを考えはじめましたら、なんていいますか、私の病室もまた、変わってきたんですね。
それまではあまり人のよりつかないような病室だったんですけれども、絶えず人が集まってくるようになりました。
考えてみるとおもしろいことだと思います。健康人が私を見舞いにくるというのなら、わかりますけれども、病人の私に慰めを求めにくるんですね。私が寝ているのですから、私が慰められるというのですと、まあ、ふつうかもしれませんけれども……。
(中略)
それまでは、ほんとうに私という人間は、なんといいますか、じっと自分の胸の中だけ、心の中だけをみつめていて、ああ、こんな生き方じゃつまらない、こんな人生じゃつまらない、死んだほうがいい、などという気持ちを持っていました。
けれど、人のために祈ろうと思い、神に向かって祈りはじめたときに、その私の心の中にあるものが、不思議なことに、他の人につたわっていったのです。

心というものは目に見えないもののようでありながら、実は一番敏感に、伝わるものであるということをつくづくと、私は感じました。だれも私に寄ってこない状態というのは、いったいどういう状態なのでしょう。それは、私がだれにも必要とされない存在であることを意味していると思います。私が自分のことばかり考えていて、人のことを考えてあげなかったときは、私はだれにも必要とされなかったわけなんです。

人を生かすということは、結局は、その人のよいものに目を向けてやることじゃないかと思います。つまり愛のまなざしを向けることではないかと思います。
三浦綾子著『愛と信仰に生きる』から