たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

戦時中の東京『天鵞絨物語』

ひと息ついて婦人用につくられたペパーミント色の甘い飲み物に手を伸ばす。これにはアルコールが入っていない。もちろん隣りのテーブルの男たちのためにつくられた酒を選ぶことも出来たのだが、これはなかなか勇気のいることだった。品子の家では、たまに娘たちにもワインを飲ませてくれることがあったが、外ではお酒を一滴も飲めないふりをしなくてはならない。いくら避暑地でもそのあたりに厳格なルールがあった。

レッスンの後は、本物のお茶が出た。イギリス風のマフィンをいただきながら紅茶を飲む時間が以前は嬉しかったのだが、今はまるで支給のおやつを食べているようだとふと思う。

岩田が連れていってくれたところは、同潤会ビルの裏手にあるレストランだ。がっしりしたテーブルや椅子が、山小屋のような雰囲気をつくり出している。二人はビーフカツレツとサラダ、それに温かいスープを注文した。
「ビールはやめておきましょう、レディと一緒だから」
岩田が「水」と注文すると、顔見知りらしい若いボーイはニヤッと笑った。岩田も苦笑いして、テーブルは急になごやかになった。

父の故郷のやり方で、野菜がやたらと入っている雑煮と屠蘇で祝った後、品子はひとり洋間へ行きレコードをかけた。

品子はこのオーブンを使ってパンを焼く。何度か酒巻家のコックに聞いたりしたが、その後はうまく焼けるようになった。今まで手にしたこともない「主婦の友」も料理ページを開くのもこの頃の楽しみだ。といってもこの雑誌は「代用品」「倹約」という文字が目立つようになった。出来るだけ節約をしようとどのページも提唱しているが、この家ではバターやジャムや泰治の好きな葡萄酒といったものは、日本橋の明治屋から届けさせている。

テーブルの上には、品子の好物の「凮月堂」のクッキーと、紅茶の茶碗が置かれている。

買い物に行くのとまったく同じ調子で約束が出来上がった。岩田はてきぱきとその後の食事のことまで口にする。
「近くに美味い鰻屋があります。帰ってさっそく行きましたが、この時節柄でも味は落ちていませんでした。そこにご案内しますよ」

 林真理子著『天鵞絨物語』

 今回、「たぶん過去に読んでるだろうな」と思いつつ、Kindle版を買って読んだのだが、読書メモを見たら、10年以上前に次いで3度目だった。それも、新潮文庫、光文社文庫で読んでいた。大した作品ではないのに、ほそぼそと読み継がれているらしい。