たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

インスタントコーヒーにドーナツ 篠田節子著『恋愛未満』

印鑑の記述、やっぱりナンセンスよね...。署名文化の国にいる私も、「本人の代わりにマネしてサインする」とか普通にある。小さな会社では、留守の多い社長のために、何人か代筆していいことになってる人がいたり笑。同じナンセンスなら、署名のほうがいいよ。

恋愛未満

「取りあえず生、グラスで。それからザーサイと餃子」
付き合って初恵もビールを注文する。
一応は、有名広東料理の老舗の看板を掲げたメインダイニングのウェイターが、町のラーメン屋のような注文を受け、慇懃無礼な態度で復唱してから去っていく。それでも生ビールを中ジョッキでなくグラスで、というのはいかにもひとみらしい。

「何、入ってる?」
愛菜が中身を取り出しローテーブルに置く。
チェーン系高級パン屋のサンドイッチとサラダだった。具はターキーとオニオン、フルーツと生クリームの2種類だ。
「あんな、好みをチェックされてるね、あのオヤジに」とひとみが鋭い口調で言う。
さらにレトルトパックのおかゆが三食分。自分より気が利く、と初恵は軽い劣等感を覚える。
一番下はリボンのかかった箱だ。中身は愛菜の大好きなフォションのマカロンらしい。
「あの、今、紅茶を」と立ちかけたのをひとみが止め、「お湯、沸かしていい?」とキッチンを指差す。
(中略)
愛菜はミニ食器棚からマグカップを3つ出し、それぞれに紅茶のティーバッグを入れる。
「あ、もったいない。1個で3杯分出るから」と初恵は反射的に2つを箱に戻す。

主婦の本能というべきか、反射的に中身を確認していた。
ブロッコリ―とハム、ミルク、食パン、野菜ジュース。1人暮らしが板についた学生だというのがわかる。
「ううん」と愛菜は「少年」を見つめて首を横にふる。
媚も甘えもなく、「作って作って。ヒロ君、作った方が絶対、おいしいから」と普通に言ってのける。

「スキッドの間に、食べ物と水とアルミ毛布があるので取ってください」
津田の声でドローンがしゃべる。
地面に接地した四角い枠のような足の間に、プラスティックのケースがくくりつけてあった。銀色のものを収めた袋とペットボトル入りの水、チョコレート菓子、それにビスケットが入っていた。
「重い物は運べないのでそんなものでごめんなさい」

原因はチョウセンアサガオによる食中毒。稲荷山の麓付近に自生していたチョウセンアサガオのつぼみをバーベキューで焼いて食べたものです。山上で出会った別の登山者のブログがあるので読みます。『遭難した子供連れの一行は狭い頂上でバーベキューをしながらビールを飲んで騒いでいて、ゴミを散らかして、とても迷惑だった。俺はそこで焼いているものが、下の休耕地に生えているチョウセンアサガオではないか、と疑問を持ったので尋ねてみた。すると母親が、来る途中のコンビニの駐車場に生えていたオクラだ、と言う。毒草のおそれがあるから食べない方がいいと注意したが、そんなことないと笑っている。

「今、ネットで見ているけれど確かにチョウセンアサガオのつぼみとオクラは写真で見る限りよく似ているね」
「スーパーでパック入りしか見たことのない人たちは間違えるんだよ」と無意識に応じ、話し続ける。「今の子供たちも若いお母さんも、そういうのに触れることなく育つから。野菜も他の食べ物も、高いとか安いとか、おいしいとかまずいとかっていう次元でしかとらえないし、部分しか見てないんだよ。それがどんな風に作られているかとかちゃんと知らないからそういうことが起きるんだよね」
(中略)
「だけど普通、味がおかしいと気づくよね。グルメブームとか言うけれど、本当の意味での味覚が育っていないんだと、私、思う。そもそも……」
「ビールで酔っ払って味がわからなかったのかもしれないね」
「それもあるけど、手抜きのバーベキューって、甘ったるくてアミノ酸味たっぷりのどろどろの焼き肉のたれをまぶして食べるじゃない? あれじゃ野菜の味なんかわからないよ。本来のバーベキューってそういうものじゃないんだから」
「自然毒の場合、たいてい刺激的な味や臭いがあるから、口に入れても吐き出して大事に至らないものなんだけど、感覚が鈍くなっているというのはそこでロックがかからないってことだから怖いんだ」

「ああ……スムージーのお店」
「駅前でチラシもらったのよ、一緒に行きましょう」
お店に入ってテーブルの前に座ると、田村さんは「荷物見ててね」と言い残しカウンターに行ってグリーンスムージーを2つ買ってきて、とん、と置いた。財布を取り出そうとすると「何してるの、いいのよ」と、ベージュのマニキュアをした指で美佳の手をぎゅっ、と押さえた。

そう、あの日曜日、夫たちは入谷の朝顔市に出かけた。それから何とかいう老舗の蕎麦屋で、卵焼きで昼酒を飲んで、軽く食べて、まだ陽が高いうちに帰宅した。

「そうよ。アメリカ人のお宅にうかがったときなんか、あなた、クラッカーとグミと紅茶だけよ。みんなソーサーに各自のお茶やお菓子を置いて、フローリングにあぐらかいておしゃべりしていたわ」
けれど……。
「私、ローストビーフとか焼けちゃうんですよ、和食も得意だし、ケーキとかもささっと作れるし」

「うどん屋って、あの美郷?」と高級うどんすき店の名を言うと、「とんでもない」と大介はかぶりを振り、自販機で食券を買い、セルフサービスで汁まで入れるのが売りの激安讃岐うどん屋の名を答える。
(中略)
「あのおうどん屋さんよりましよ」
「第一、君がたいへんだ、揃って大食らいだし」
「何言ってるの、手際はいい方よ、オージービーフでローストビーフを焼けば、あとはサラダくらいで、あながた前もってワインを見繕っておいてくれれば」

「ほい」
大介はにこにこ笑って紙袋を手渡した。
近くのショッピングモールに入っているカフェのデニッシュペストリーだ。
美佳と息子の大好物だが、とてつもなくハイカロリーだからもう食べない、と先日、食卓で宣言したばかりだ。妻の話を覚えていないし、そもそも聞いてもいない。

1時間ほどそのままにした後、冷めきったパスタとおかずを1皿にまとめて電子レンジにかけ、息子を呼んで、「パパに持っていって」と頼んだ。

しかもステーキコースにデザートやコーヒーがついて2000円足らずという信じられない値段だった。

大介はタブレットの画面上に忙しなく指を走らせていたかと思うと、妻に口を挟ませる間も与えず、都心のビジネスホテルにあるレストランのビュッフェを予約してしまった。
それも格安。総菜中心で、焼き鳥からケーキまであるけれどローストビーフはないような、大会場の、ビュッフェというより「食べ放題」と言った方がぴったりのところだ。そこの割引クーポンまでプリントアウトしている。金沢の「たまには大人同士で」のニュアンスなど完全無視だ。

「フランスパンなんか屋台にあるの?」と潮田に質問されると、金沢の妻は「はい」と答え、「屋台のは食べませんでしたが、ホテルの朝食会場のサンドイッチはおいしかったです」と夫の友人の目を見ることもなく、蚊の鳴くような声で答える。

「それで何のお料理を?」
金沢の妻が、遠慮がちに、しかし興味津々といった様子で尋ねる。
「とんかつですよ、とんかつ。決まってるじゃないですか」
「ご主人にどうしても食べさせてあげたかったんですね、すてき」
「いや、自分で食べたかったんですよ」と智子は豪快に笑う。

ホテル近くのダイナーで、松沢先生が選んだハイライナー・ピノワールを飲みながら食べたロースト鴨肉は絶品だった。

翌朝、ブーゲンビリアの咲き乱れる中庭で素知らぬ顔で3人は食卓を囲んでいた。
自分の所作がどうにもぎくしゃくしていることを紗智子は意識していた。オムレツを食べ損なってナプキンの上にこぼし、フルーツフォークを芝生の上に落とした。

彼岸を前に、だだっ広い台所で精進ちらしのためのかんぴょうを刻んでいた母が、ふらつきながら布団の中に戻っていくのが見えた。

買い置きのうどんだけで夕食にした後、入院のための書類を書き始める。

彼が片手に提げているものに初めて気づいた。
袋入りのドーナツだった。先ほど自販機で買ったものらしい。
MRIで充電しているアンドロイドなどではない。スタッフオンリーの扉の向こう側で、愛用のマグカップに入れたインスタントコーヒーにドーナツを浸しながら待機している姿が目に浮かぶ。

そのとき、金木犀の枝陰から探していた彼の姿が見えた。
ベンチに腰掛け、降り注ぐ陽光の下で伸びをしている。
手にした紙袋から、今日の昼食と思しき三角おにぎりを取り出した姿はひどくわびしげだが、わずかな時間を見つけて心置きなくくつろいでいるようにも見える。
(中略)
小さな白い封筒に入れた小銭とともに、亜希子は携えてきた袋を差し出す。
今朝ほど揚げたオールドファッションドーナツだった。
「お夜食に、皆様と」
今度こそ技師はひどく動揺した様子で、視線を亜希子と紙袋の間に行き来させる。
(中略)
食べかけの昼食とドーナツの袋を片手に抱え、PHSを耳に当てたまま亜希子に向って黙礼し、騎士は急ぎ足で立ち去っていく。


篠田節子著『恋愛未満』から

 北カリフォルニアからLAにアムトラックで行こうとする珍しいシーンが出てくる。あの路線はとてもいいのでおすすめ。といっても、旅客列車が復活するのはいつのことやら...。