この小説は何よりも、次の記述が白眉。
2学期の中間試験での隼子の成績は23位に上昇した。期末試験は18位だった。全学年に比してはるかに上がった。
セックスの体験は成績に現れた。テストの神聖なイメージに縛られ、答案用紙に向かうと、ぜったいにミスは許されないと神経質になり過ぎてケアレスミスばかりしていた彼女は、セックスを知ることで、テストが神聖ではないと見なす余裕を得たのである。
そっちにはまって他が疎かになる子、逆にはまる以前に相手を振り向かせようと成績が上がった子の話は聞いたことがある。が、セックスを知ったことでそれ以外の現実を俯瞰できるようになる、というのは斬新で、まるで出家のよう。かれらのセックスの高次元ぶり、真実ぶりがよく表れていて、膝を打った。
そしてお母さんは、遊びに来た全員に、紅茶とエクレアを出してくれた。ひとり2個ずつも出してくれた。エクレアが20個もずらりと机にならんだ光景を、統子は生まれてはじめて見た。
(中略)
京美の母が出してくれたエクレアを、隼子はひとくちしか食べず、あとはぜんぶ残した。食べへんなら、それちょうだいと言えなかったのが癪にさわる。いつでも自分のおやつはエクレアやから飽きてしまったと自慢したかったのにちがいない。
「お菓子は?」
そんなにデラックスなおやつを毎日食べているのなら、自分にも出してもらおやないの、そう思い、統子は要求した。
「お菓子出してくれへんの?」
「お菓子食べるの?」
「お客さんが来はったんやさかい、お菓子を出すんもんとちゃうの?」
(中略)
「ちょっと待ってて」
隼子は「勉強部屋」を出てゆき、しばらくするとデパートの包み紙がかかったままの箱を持ってきた。
「これ、お菓子やてお母さんが言うてはった」
御礼・厳島洋治。熨斗紙がついたままの箱を、隼子は破る。
「なんやろ」
統個は隼子とともに、破られた紙から出てきた箱を見た。三角帽をかぶった、尖った靴をはいた小人が、切り株にすわっている影絵のついた夢みるような箱。箱には『北国の恋人』と書かれている。
「ホワイト・チョコレートやて」
小冊子を読みながら、隼子は統子の前にさしだした。
「食べて」
統子はひとつ食べた。箱に描かれた影絵同様、夢みるように甘くてとろけた。
「おいしい」
24時間前の脱走を、統子はは仮釈放とした。
「ほんま?」
隼子の口もとにもホワイト・チョコレートが入る。すぐに出る。口から出したものを隼子はさっき破った包装紙をちぎって、そこに捨てた。エクレア、アイスクリーム、ホットケーキ、クッキー、ミルキー、タフィ、ミルクキャラメル、クリームマフィン、クリームソーダ、クリームパフェ、クリームシチュー、スパゲティ・カルボナーラ、それにとくにモンブランケーキが隼子の嫌いな食べ物で、今日、新たに『北国の恋人』が加わった。
「いちばん嫌い。モンブランより嫌い」
と、思った。
<これはお菓子やさかい、だれかお連れが家に来はったときに出したげ。あんたこういうもんは食べへんやろし>と母から言われていた包みだった。ぜんぶ持って帰ってくれた統子がありがたい。パーマ姉は、ちりめんじゃことお茶を出してくれた。
「おいしい」
『北国の恋人』より10倍、ちりめんじゃこはおいしい。ピアノのある応接間のソファにぎゅうぎゅうづめですわる全員に、京美ちゃんのお母さんは、経営しているベーカリーから持ち帰ったクロワッサンと、チーズかまぼこを大皿に盛って出してくれた。
それよりも隼子は「遅うなったさかい、給食は、食べられへんかったら残してええで」という先生からのお墨付きがうれしかった。お墨付きを楯に、パンを1枚食べてお茶をのみ、あとはミルクもおかずも残した。給食は嫌いである。
それが7時になると起きて、父親に朝の挨拶をしに奥の間に行き、玄関を掃き、コーンフレークにミルクをかけた朝食を食べ、歯をみがき、皿とスプーンを洗い、雑木林をポストのほうに向かって、いつものように歩いていった。
ぶすっとしている母の横で、隼子は黄色い飴を舐めた。回覧板をまわしにいってもらった直径5センチもありそうなぐるぐるまき模様の、棒のついた飴。甘味が強すぎてうまくない。舌を出して辛味のあるニッキの部分だけをぺろぺろ舐めていると、母はますます遠景に見える。
せっせと舌を動かす。飴の表面から、ぐるぐるまきの模様が消えた。残りをまるまるごみばこに捨てると、嘆きの母のうしろを通過して、玄関に向かう。ただし、膝の痛みはせっかくのゴールデンウィーク中の「ひとり暮らし」のあいだに、町をぶらぶら歩きまわるようなことを隼子にさせてくれず、庭の野菜や缶詰やインスタント麺で食事をすませ、本や漫画を読んだり、イアン・マッケンジーを中心に音楽を聴いたり、TVを見たり、あと問題集をしたりして英語は勉強した。
北陸の温泉への職場旅行で父母はまた不在になったから、手作りのサンドイッチを弁当にしようと前夜には意気込んでいたのだが、朝早く起きられず、校門のすぐ前にある「文具のコニー」でパンを買っていった。文房具も売っているが、パンと牛乳も売っている店だ。
午後にだれかが牛肉と焼き豆腐と蒟蒻と葱を買えば、翌朝にはその者がすき焼きを食べたことが知れわたる。
隼子の好きなものは心太とくだものとコーンフレーク。日本に輸入されてまもない実やかたちの変わった実を食べたがった。コーンフレークには砂糖はかけない。
(中略)
モンブランケーキを出してやったことがある。買ったのかと訊かれ、隣室に新しく越してきた住人からもらったと答えてわたした。わたすやいなや、<いらない>とごみばこにばさっと投げ捨てた。<嫌いだもん>。見向きもしなかった。思わず殴るところだった。
心太の味は河村が教えた。隼子の家では心太に黒蜜をかけて食べるのである。それを、『北国の恋人』もモンブランも嫌いな隼子は好まなかった。京都に越して来たばかりのころ、黒蜜をかける心太に驚いた河村は三杯酢を調合する方法をおぼえた。ヤって犯ったあと、はじめて隼子に出してやったとき、心太の代金を払ってから、それを食べ、ショーウインドーに飾られたいちばん大きな人形を買ってもらった小学生のような顔で<おいしい>と言った。8月30日に鞍馬山に行った。貴船神社なら知り合いに会うことはないだろうという河村の判断だった。蔵馬はもう涼しく、川床で食べる素麺ももうあまりうまくなかった。
(中略)
海苔と生卵と塩鮭と味噌汁の朝食を食べながら、河村は憮然として隼子と口をきかなかった。教育委員長の須貝さんが錦市場でカタマリを買うて、父親が好む、あぶらの少ない背の、赤い部分を分けてくれた寒ブリ。ぼくは腹んとこの、とろっとしたとこのほうが好きやのに。関川高校で校長をしながら味覚のおかしい父親もクズなら、そんな背中の赤いとこを恩きせがましう31日に持ってくる教育委員長もクズや。
「元気だよ。これ、うまいね。彼女が作ったの?」
昼食は父が解凍したシチューだった。
「ああ。料理もうまい」
「なんでもできるんだね」彼らは二日酔いのために、父と河村はめんどうくささのために、夜は蕎麦の出前をとって男4人はむさくるしくリビングにそろって麺をすすりながら、紅白歌合戦をながめた。
「元旦に、お雑煮のお餅、何個食べた?」
「みっつ…よっつだったかな」
「そんなに? 甘いのに?」
「甘い?」
関西の雑煮は白味噌を使うことが、正月には父と会うので関東式の醤油味の雑煮しか食べたことのない河村にはわからない。
「森本は?」
「ゼロ」
「1個も食べなかったの?」
「元旦は。ヤツガシラを食べるとおなかいっぱいになる」ふたりとも昼食をとっていなかった。どこの幹線道路にもあるような休憩用の施設に入った。そこでのサンドイッチとコーヒーの代金をいつものように隼子が支払うと言うのを河村は拒否した。
食事をできず、売店もなかった。弟の友人が新幹線のなかでくれた飴がポケットに入っていたのでそれを食事代わりにした。林檎の味のする飴は1個しかなかった。交互に舐めた。
棺の前にぽつねんとすわっていた喪主が愛をふりかえったころ、マミは放送局内の社員食堂で稲荷寿司を食べていた。
塔仁原はビールを1本飲んだあと、水割りを注文してくれているが、太田はグレープフルーツ・ジュースを注文したきり、<車やがな>と水ばかり飲む。なら、なにかつまみをとってほしいのだが<乾きもんがなんでこんなに高いねん>と、なにも注文してくれない。
「手が写ってへんけど、先生はサンドイッチを持ってはるんです…」
サンドイッチは隼子からのプレゼントだった。
「中3の2学期に入ったばかりのことです。お昼でした」
4時間目までを欠席し、京美の父母の経営するベーカリーでサンドイッチを買い、変速機付の自転車をコニーの電話ボックスのうしろの看板の陰に隠して登校した隼子は、サンドイッチをマミと愛にもすすめた。
小山内先生は自分の弁当には手をつけずにサンドイッチを食べ、弁当は、たまたま愛に、伊集院からの連絡をつたえにきた塔仁原と富重が半分ずつ食べた。丁子麩とにぎりめしをたくさん食べたらしい真島が愛の横にすわったので、愛は喪主に頭を下げた。
放課後はいつもお好み焼きかきつねうどんを食べた。そのあとも、勅使河原は自宅で、ほかの3人は寮で夕食を食べた。あのころはとにかくよく食べた。
電車通学で出会う女子校の生徒に片思いしていた勅使河原の手紙を首尾よく彼女にとどけ、デートまでセッティングしてくれた隼子に無理やり食べさせられた納豆蕎麦。
都区内にある鉄道模型の飾られたカレー屋で、鳥居は顔をしかめていた。うへ、まずい。カレーなんてもんは味が濃いき、だれが作ってもたいがいはサマになった味になるもんやが、どうしたらこんなまずいカレーになるがやろう。
そのとき鳥居は、串カツとかにクリームコロッケとちくわの磯辺あげとくじらベーコンを、河村が<青年が食べれば?>と、こちらが遠慮せずにすむすすめ方をしたのをいいことにすべて食べ、焼酎サワーをずいぶん飲み、煙草もずいぶん吸い、アルコールとニコチンの相乗効果で相当酔っていたはずだが、心太と豆腐を食べながら氷を入れた焼酎を飲んでいた上司の答えはよくおぼえている。
女子家庭科調理実習ではできあがった料理を担任に出すことになっていた。ステンレスの流し台と水道のついた台が6台ならんだ調理実習室に呼ばれて来た彼は、隼子の斜め前にすわって煮魚を食べた。その箸の使い方がきれいだったことをなつかしく思い出す。
アイラ島のウィスキーを、鳥居以外のふたりはストレートで飲んだ。鳥居は氷を入れて飲み、ふたりがひとくちも食べない木の実とクラッカーとチーズを食べた。
「森本さんはお酒強いんですね。このシングルモルト、好きなんですか?」
「嫌い。救急箱みたいな匂いがするから」
「え、嫌いなんですか。じゃ、ほかのものにすればよかったのに」
「鳥居さんが頼んだから、飲んだことなかったけど、じゃあ飲んでみようと思ったの。どんな味がするのだろうと思って」「本日金曜日はレディースデーですので、女性のお客様にはこれを「
花模様のついたガラスの器に盛られたアイスクリームが、隼子の前に置かれた。
店員が立ち去ると、河村は当然のように器を鳥居の前に移動させた。
当然のように隼子も、アイスクリームを見ない。
「ぼくが食べていいんですか? アイスクリーム」
鳥居は、当然のように自分の前に置かれたアイスクリームの不自然さにとまどう。
「ぼくが食べていいんですか?」
鳥居は再度、訊く。
「嫌いだから」
そう答えたのは、だが、隼子ではなく、河村だった。
(中略)
鳥居はなんだか知らないが目の前にまわってきた「アイスクリーム」を食べ、鯛焼きを思い出した。
「外房線にはひとつ、鯛焼きを食べられる駅があるんです」
そこでは餡入りの鯛焼きのほかにアイスクリーム入りの鯛焼きの2種が販売されているのだと鳥居はふたりに教えた。
姫野カオルコ著『ツ、イ、ラ、ク』より