「ねむらぬテレフォン」の一節で、この短編集は既読だと気づいた。
そして、鮮烈に記憶していたあるラストシーンが「夏の空色」のそれだったことも。
見終わった瞬間に忘れる映画、再読であることに気づかないまま読み終えてしまう(読書メモを見て唖然とする)ような本が大半の中で、一度読んでワンカットでも覚えているのはすごいこと。
それは作品の質だけでなく、自分側のタイミングもかかわっているはずだが、本作については2つのシーンをずっと忘れなかったのだ。
「アイスクリーム買ってきたよ。ストロベリーとチョコレート、どっちがいい?」
聞かれて彼女は「チョコレート」と呟いた。私が差し出したアイスクリームのカップを彼女が受け取る。その手首は小枝のように細かった。
私と彼女は黙ったままアイスクリームを食べた。主任は小さく頷くと、ちょうどやって来た野菜の煮物を私の前に置いた。私はそういうものを食べるのは久しぶりだったので、嬉しくてすぐ箸をつけた。
「おいしいです」
「そうか。よかった」
「最近は、コンビニのお弁当とかハンバーガーばかりで、こういうものって食べないんですよね」
最初に1杯だけ飲んだビールが効いているのか、私はいつもの5倍ははしゃいでそう言った。2カ月前とは、住人が変わったかのように見違える自分の部屋で、その日も私は通勤用のスーツを脱ぎ、主任の待つ食卓に座った。
「わあ、すごい。八宝菜?」
「うん。豚の角煮も作ったよ。午前中から煮込んだから柔らかくなった」
「おいしそう。ありがとう。食べましょう」そうだ、誰かが買って来た温泉饅頭がまだ残ってたよな。とりあえずそれを食べさせよう。
そう思って立ち上がった時、彼女が顔を上げて僕を見た。
「饅頭、食べませんか?」
「あの」
「先輩が温泉で買って来たやつで結構おいしいんですよ。中は粒餡で」
(中略)
狭い給湯室では、流しの前に立ったまま社長が一人で饅頭を食べていた。とりあえず、僕達は和やかに寿司を食べた。彼女は会社にいる時より笑顔を多く見せた。
何しろ、食事はまとめ買いをした冷凍食品を温めるか、缶詰を開けるだけだった私が、今は野菜やお肉を買って来て煮物やお味噌汁なんかを作ったりするのだから。
「後はやっておくから、もう寝てね」
「はいはい。おなか空いてたら、お鍋にスープが残ってるから」「早いな。コーヒー入ってるぞ」
私は無理に微笑んで「ありがとう」と言う。顔を洗って戻って来ると、テーブルの上にこんがり焼けたトーストと半熟卵が載っていた。朝型の父は、あまり体が丈夫でない母に代わって、皆の分の朝食まで作ってくれるのだ。父と向かい合って座り、私はそれをぼそぼそと食べた。目を開けると、長椅子の端に先輩の女性が座ってサンドイッチの袋を開けていた。
「あ、ごめんね。起こしちゃった?」
「朝ご飯ですか?」
彼女は答えず横顔で笑う。仕方なく、お世辞にもお洒落とはいえない古びた喫茶店に入る。おなかが空いてしまったので、スパゲティーと紅茶を注文した。
テーブルに届いたスパゲティーを私は口に入れた。ケチャップがかかりすぎたそれは、一口で食欲をなくすような味だった。それでも食べないとまた貧血を起こしそうで、何とか半分ほどはおなかに入れた。
その夜、私は久しぶりに家族と一緒にテレビを見ていた。ごくごくたまに惑星が一列に並ぶ時があるように、何の打ち合わせもなく家族4人(私には兄がいる。でも彼も家に寝に帰って来るだけだ)が夕飯の席で顔を合わせることがある。食後に母が出して来たアイスクリームを食べながら、皆でテレビを見た。あまり下品ではない国営放送のクイズ番組。
私が見ているのに気づかず、弟はふたり分のハンバーガーとジュースを買った。女の子がお金を払おうとするのを止めて、弟がお金を払った。
私は曖昧に笑って椅子に座り、購買部で買って来たサンドイッチの袋を開けた。斜め後ろでは、昼食を食べ終えた男の子が参考書を読んでいた。誰かがふざけて甲高い声で笑ったが、彼はちらりとも視線を上げない。私はもそもそとパンを齧った。
持って来た紙袋から、私は缶の飲み物を取り出した。林檎味のとろりと濃いジュース。プルトップを開けて一気に半分ほど飲む。
すりおろした林檎とお砂糖とアルコールが入ったそれは、実はジュースではなくれっきとしたお酒である。ただ缶がどこから見てもジュースなので、学校や外で飲むのに重宝しているのだ。喉が渇いていたので、生ビールを注文した。今日は何度も“黄金の最初の一日”が味わえて、私はすごく嬉しかった。
でも考えてみれば、私は今日朝からずっと飲んでいる気がする。恐るべし、私のタフな肝臓。
龍一はつまみをバカバカ頼んでバカバカ食べた。私はその場でバカバカと焼酎を飲む。彼女の作ったとてもおいしいカレーライスを食べ終わり、彼女の手作りのデザートを食べている時、突然男の子が部屋に押しかけて来たのだ。
(中略)
私はゼリーを食べるスプーンを持ったまま、ぽかんとその男を眺めた。両目に涙を浮かべ、ぶるぶると頬を震わせている。目を開けるとビールの入ったグラスを彼女がこちらに差し出して笑っていた。左手には自分用に、大きなソフトクリームを持っている。
(中略)
バニラと苺の縞模様のソフトクリーム。赤くてふくよかな唇がそれを嘗めとっていくのを私は見つめていた。私達は、プールサイドにあるレストランで遅めのお昼を摂ることにした。
美波はピザとシーフードサラダとアイスココアを注文し、私はリゾットアイスティーを注文して食べた。
(中略)
彼女は話しながらもよく食べた。油でねっとりと濡れた唇がよく動く。言葉を発し、笑い声をたて、ピザを頬張り、ココアをすすった。私は何となく食欲をなくし、リゾットを半分ほど食べてスプーンを置いた。
「そんな少しで足りるの?」
美波が小首を傾げて聞いてくる。私が曖昧に笑うと彼女はピザの最後の一口を口に入れて言った。
「体重維持するの大変でしょう」私はそっと立ち上がってキッチンに行った。冷蔵庫からおつまみ用のハムを出して包丁で切る。ふたりが何やら楽しそうに話しているのを、私はじっと聞いていた。
私の味噌汁だけ変なのかと首を傾げながら、今度は魚のフライを口に入れてみた。奥歯で二度ほど噛む。突如私はそれを吐き出したい衝動にかられたが、かろうじて我慢し飲み込んだ。
お菓子の棚を見ているうちに、チョコレートが目に入る。私は新製品が出ると必ず買って試すぐらいチョコレートが大好きで、ほぼ毎日食べているのだ。萎れかけていた食欲がカカオの風味と共に蘇ってきた。
チョコレートなら大丈夫かもしれない。そんな思いがこみ上げてきて、私は最近気に入ってよく食べているシュガーレスチョコレートを手に取り、レジでお金を払った。膝の上でチョコレートの包装を開ける。銀色の紙をぱりぱりと剥がし、指に力を入れてひとかけら割った。おそるおそるそれを口に持っていく。ものを食べるのに、こんなに緊張したのは初めてだ。
チョコレートは舌の上でとろけ、甘い味がした。いつもとは味が違うように感じたが、先程の味噌汁とフライほどじゃない。
私は安堵の息を吐いた。そして次々とチョコレートを割って口に入れる。太るしニキビもできるから、いっぺんに板チョコを食べるようなことは普段はしないけれど、今日はお昼のかわりなのだからと自分に言い訳し、全部食べてしまった。ほとんどの食べ物にまったく味を感じないのだ。肉も魚も野菜も、全部まずいこんにゃくを食べているようだ。仕事柄どうしても会食の機会が多く、それを避けたら仕事にならないので、私は週に2回も3回も高級なレストランでこんにゃく味のフルコースを食べているというわけだ。
(中略)
どうしてだが、甘味だけは比較的ましに感じることができて、ここのところ私はチョコレートやケーキや牛乳で生き永らえているといえる。「僕が学生の頃からあるんだよ。ケーキもここのおばちゃんが作っててね。垢抜けてるとは言えないけどすごくうまいんだ」
3種類しかないケーキの中から私はチョコレートケーキを選び、彼はチーズケーキを選んだ。すぐに運ばれて来たそれは、まるで母親が子供のために作ったような、素人っぽい外見をしていた。
「おいしい」
早速一口食べて、私は思わずそう言った。そしてはっとする。食べ物を見て食欲が湧いたのも、おいしいと心から思ったのも本当に久しぶりだった。
「お姫様みたいな高級なケーキもいいけど、こういうのはほっとするだろう? 佐伯さんが気に入ってくれて嬉しいよ。あなたみたいなグルメに食べさせて、ださいケーキって馬鹿にされるかなって少し心配だったんだ」
私より一回り以上年上の男がにこにこしてケーキを食べながらそう言った。「この前、生まれて初めてレトルトのシチューを食べてみたんだけどね。一口食べてうえってきたよ。金属が入ってるとしか思えない味がして、僕にはあれが食べ物だと思えなかったな。でも皆は平気らしい」
私は返事の代わりに紅茶をすする。いつも家で飲む、缶入りの紅茶とは違う飲み物のようだった。「チョコレートケーキ、お土産に買って帰れるかしら」
「ああ、大丈夫ですよ。そんなに気に入りましたか?」
「ええ。もともとチョコレートは大好きなんです。いけないと思っても毎日食べちゃうの」
彼は楽しそうに笑ってウェイトレスにチョコレートケーキのテイクアウトを頼んだ。すると、先程のものが最後の1個だったと言われてしまい、私より南雲の方がしきりに残念がった。
「今度沢山買って持っていきますよ」山本文緒著『シュガーレス・ラヴ』より