たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

雪冷え、花冷え、涼冷え、日向燗、人肌燗、ぬる燗、上燗、熱燗、とびきり燗『ファースト・プライオリティー』

日本酒を飲みたくなること必至。まるで真水のような質の高い日本酒を。

「お、いい匂い。今日は何?」
姉がいつもの時間に帰って来て、台所を覗きそう聞いてきた。
「小鰺のよさそうなのが売ってたから南蛮漬けにした。あと、そら豆とエビの炒め物と、カボチャとアーモンドのサラダ」
「じゃあ風呂入ってくる」
姉は道着を全自動の洗濯機に放り込んでから(あとで干すのは私の仕事だ)ゆっくり風呂に浸かり、上がってきて冷蔵庫からビールの大瓶を出した時に料理が全部できあがっていないとものすごく不機嫌になる。
(中略)
「これ、うまいじゃん」
私がぬか床から出してきた茄子の漬け物をつまむと姉はそう言った。
「まだ浅漬けってとこだけどね」

老舗のインドネシアレストランで炒め物を食べながら僕はふと思い出して聞いた。
(中略)
エビにナンプラーを派手にかけ、彼女はそれにかぶりついた。おいしそうに咀嚼する。

アッサムのアイスティー、挽きたてのコーヒー豆、散歩の途中のショコラ、食後の煙草とブランデー、眠る前のカカオリキュール。

駅裏の路地にある点心の店は課長のお気に入りで、今日もそこに入った。点心といってもそこはどこかの高級中華料理店のコックが歳をとって始めた店で、昼でも2人で5千円以上かかる。でもそのせいで、いつ行っても席があるし、静かでゆっくりできる。
とろとろのフカヒレをれんげですくいながら、私は「あー楽だあ」と改めて思った。お金の心配をしないでいい楽、彼の機嫌を気にしないでいい楽、どうやって彼を結婚におびき寄せるか悩まないでいい楽、おいしいものを邪念なくおいしく食べられる楽。
「もうすぐバレンタインだなあ。チョコレート買ってくれた?」
昼間から2杯ビールを飲んで課長は言った。男の人の方からバレンタインのことを言いだされたのは初めてで私は笑った。
「買ってあるよ。デメルの猫チョコ」

「足りた? ドラ焼きあるけど食べる?」
「いらない」
(中略)
リビングには私と息子2人きりで、昼食後テレビを見ながらプリンを食べていた。

昼休み、その辺にあったクッキーを齧って机に突っ伏していると、同僚達が社食からどやどや帰って来た。

平日、毎朝6時に起きてアパートで飼っている老猫にエサをやり、ご飯を炊いて納豆をかけて食べ、夕飯の残りのおかずで弁当をこしらえて出勤する。

スチュワーデスに手渡される紙コップのコーヒーが私は好きだ。羽田で買ったデニッシュを取り出して食べる。子供が前の席から立ち上がって欲しそうに見ていたが知らん顔をした。

西郷さんの像を見て、桜島がよく見える浜辺へ行き、運転手さん推薦のラーメン屋に連れて行かれた。一緒に食べましょうよと言ったのに、彼ははにかんだ顔をして1時間ほどしたら迎えに来ると言ってどこかへ行ってしまった。ラーメンはすごくおいしかった。お店の人に尋ねられて「東京から来た」と言ったら、何故だか蜜柑と焼き芋をくれた。訳が分からず可笑しかった。

「差し入れのエクレアあるよ」
「いや、甘いもんは……」
「パンでも買ってきてあげようか」
お前は付き人か。レコード会社の社長と対等にメシ食える売り出し中のアイドルだろうが。
「いいって。食堂行って蕎麦でも食うから」

局内の喫茶店の一角に陣取って、私達はそれぞれ蕎麦だのスパゲティーだのカツ丼だのを頼んで言葉少なに食べた。
「ハナさん、後半ちょっと走り気味じゃない。あれじゃ、ミクリが歌いにくそうだよ」
若いわりに保守的なキーボーディストが、食べ終えたカツ丼の割り箸を放り出すようにして言った。

私の好きな数の子と伊達巻を母はとっておいてくれて、それを仕事始めの朝に母の小言を聞きながら食べた。

雑誌じゃジュースや頼んでいないのに私の分まで肉まんを買って。私はお茶を淹れ、ソファに並んで座ってそれを食べた。

午前中の11時だというのに、私は待ち合わせのファミレスで迷わず生ビールを注文した。天気はよくても師走の風は冷たく、本当は冷えていない酒が飲みたかったが、アルコールがそれしかなかったので仕方ない。起きぬけでまだ何もおなかにいれていないことを思い出しサラダも注文した。

「(中略)本来なら正克が来ないといけないのに、急に仕事が入ったそうで本当にすみません。あ、オニオンリング少しどうですか?」

入った蕎麦屋は特に高級でも凝った造りでもなかったが、暖房がきいていて、お昼を過ぎたせいか空いていたし、店の人も感じがよかった。
「何を飲みますか?」
酒のメニューをこちらに見せて義父が笑っている。もしかして私がアルコール依存気味だと息子に聞いているのだろうか。
「じゃあ熱燗を」
「いいねえ。じゃあ、わたしもそうしよう」
彼は店の奥さんに慣れた様子で「熱燗とつまみを適当に」と頼んだ。
(中略)
お銚子と共に出てきたつまみは塩こんぶと佃煮と焼き海苔だった。さささどうぞ、と彼が酒を注いでくれる。口をつけると毛細血管まで一気に日本酒がまわった気がした」
「うー、沁みる」
「うまいだろう。ここの燗は熱すぎなくていい温度なんだ。人肌燗ってやつだ」
「そうなんですか」
「なんだ、酒呑みのくせにそんなことも知らないのか」
「家でレンジでチンするだけですもん」
お義父さんはこの日はじめて厳しい顔になって、日本酒の温度について説明してくれた。冷といっても、雪冷え、花冷え、涼冷えとあり、お燗も日向燗、人肌燗、ぬる燗、上燗、熱燗、とびきり燗とあるそうだ。
「一番熱くても55度までだよ。それ以上にしたら酒じゃない」
やたらおいしい焼き海苔を齧りながら私は苦笑いをした。同じ酒呑みでも私は彼と違って、アルコールならなんでもいいという最低レベルだ。
(中略)
2人でお銚子を3本あけて、お義父さんに勧められるまま牡蠣の天ぷらが載ったお蕎麦を食べた。

彼は大晦日の午前中からマンションに来て、簡単なお節を作ってくれた。
(中略)
お義父さんが温めたお酒はぬるめで、日向燗という30度くらいのものだった。ゆず胡椒をそえた年越し蕎麦を作ってもらい、ソファに並んで座って行く年来る年を見ながら食べた。そのあとは喉が渇いたと言ってビールに切り替え、深夜まで飲み続けた。

やっと泊めてもらえるようになっても彼女は手料理なんか出してはくれない。食べさせてくれるのは買い置きしてある(でもすごくおいしい)パンやチーズくらいだ。

ダイニングテーブルの上に彼女が次々とおかずを並べはじめる。急に僕のために「おふくろの味」みたいな料理をするようになったのだ。本人はキッチンが広くなったので料理に目覚めたと言い訳しているが絶対変だ。と思いながらも、そのいい匂いについ口元がゆるんでしまう。「おいしそうだねえ」と言うと、彼女は一品一品指さして説明した。
「新玉ねぎとアスパラの天ぷら。春キャベツのレモン漬け。あさりの酒蒸し。山椒の木の芽で揚げたささみ。で、グリーンピースご飯も炊いてあるよ」
「こりゃースプリングですなあ」
誉めたのに、彼女は何故だかあまり嬉しそうでない。向かい合って座り「いただきます」と手をあわせて料理に箸をつけた。うまい。

寝ぼけてリビングに行くと昨日残した夕飯はすっかり片づけられ、コーヒーとトーストが用意されていた。寝ぼけ眼でパンを齧る。
「あーねむー。今日2人で会社休もうよ」
「なに言ってんの。早くパン食べて帰って」
はいはい、と呟いて僕はパンの耳を残して立ち上がった。
「あ、駄目じゃない。パンは耳が一番栄養があるとこなのよ」
大真面目に彼女はそう言った。

テーブルの上にはコンビニの袋が置いてあり、おにぎりと缶ビールが透けて見えた。

月曜の夜、嫌な接待があったとかで疲れて帰ってきた彼が、火曜日には私より早く帰ってきていて、しかもご飯を炊き、カレーなんかを煮込んでいたのでびっくりした。

全部聞いた後、夫は何も言わなかった。無表情のまま部屋着に着替え、頼んでおいたお寿司がちょうど届いて、お吸い物と簡単なサラダを作って出しても夫はそれを黙々と食べるだけだ。食事を終え、私が日本茶を淹れて持ってゆくと、ソファに座って口元を片手で覆っていた夫がやっと口を開いた。

恐る恐る反論してみたら、ランチの焼き魚定食の箸を私に向けて、彼女は間髪入れずに言い返してきた。

いつの間にか、というのは、鷹野さんにおいしい餃子の店があるからと誘われ、どうせ予定もないし1人でコンビニ弁当を食べるくらいならと軽い気持ちでついて行ったら、その餃子の店にうちの会社の人達が何人か現われ、みんな彼女に呼び出されたらしく「この状況はなに?」と思っているうちに、全員反強制連行の形で連れて来られてしまったのだ。

まだ暑さの残る東京で、深夜、バイト帰りにみんなで冷やし中華を食べていた時、私はそれを見てしまった。

「急に寒くなったから冷えたんじゃねえの。ホットレモン作ったから飲んで少し横になってなよ」

「オリジナルカクテルを作ってみたんですけど、味見して頂けませんか」
おじさんは驚いた顔をしたあと「それは是非」と言った。彼はウォッカベースのカクテルが好きなので、ココナツとレモンのリキュールを混ぜて抹茶の粉を少し振ってみた。甘口が嫌いだったら失敗だがどうだろう。
「うん、ほっとする味だね」

なんにも食べ物ないよと言うと、コンビニで肉まんでも買っていこうよと彼はあっけらかんと言った。近所までタクシーで行き、飲み物や食べ物を買い込んで外に出ると、暁が歩きながら食べようと、肉まんを袋から取り出した。
「お行儀悪いよ。家で食べよう」
「こういうのは寒いとこで、あったかいうちに食べるのがいいんじゃない」
まるで頓着せず、彼は肉まんを渡してくる。若いなあと苦笑しつつそれを齧ってみると思いのほかおいしく、学生の頃に戻ったようでなんだか妙に楽しかった。

ぼんやり起きた午後、パジャマのままベランダに出て、日差しの中で牛乳を飲んだら、何か憑き物が落ちたような気がした。静かで確かな解放感があった。

ばあさん同士がどうでもいいお喋りをするのを聞くともなしに聞き、具合がよくなってきたので冷たいコーヒー牛乳を買って飲み、昔のパーマ屋にあったような被る形のドライヤーで髪を乾かし、ついでにマッサージ椅子にも座った。
銭湯を出た頃にはどっぷりと日が暮れていて、唐突で爆発的な空腹に襲われ、私はすっぴんでノーブラのまま目についた蕎麦屋に入ってカツ丼を食べた。
(中略)
中学生と高校生の分(そういえば短大時代はよく寝ていた)、就職して働いていた10年間の眠い朝の分を取り戻すかのように、午後まで寝てぼんやりしてから銭湯に行き、帰りに天丼だのカツカレーだの石焼きビビンバだの今まで自分に禁じていた高カロリーな食事を平らげ、部屋に戻ってテレビを点けると1時間もしないうちにまた眠くなって寝た。

野口さんって誰だっけと思いながら手羽先を齧り、私は頷いた。

「どうだい、息子達よ」
新しいワインとグラスを手に戻ってきた親父は僕達にそう問いかけた。
「このチキン、うまいよ」
(中略)
「優しいし、カッコいいんじゃない」
鶏の煮込みの感想と同じような平坦さで、弟が新しい母親の感想を口にした。

駅ビルの適当な店でパスタを食べた。会話は当然ながら弾まず、私は勝手に自分の仕事の話ばかりしたように思う。

山本文緒著『ファースト・プライオリティー』より