たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

ほとばしる食欲 山本文緒『自転しながら公転する』

人間同士をつなぐ、そして人間の本能を呼び覚ます(無心に箸を動かす描写多し)会食の場面がいっぱい。そして、空気を変える甘味の時間も折々に。

ものすごく美味いんだと連れて行かれた店は、バラックと見紛うような小屋で、テーブルにかけられたビニールクロスはお世辞にもきれいとは言いかねた。
盛り付けも何もないような、ただ皿に入れただけのような青菜の炒め物が出てきた。でも鼻孔をくすぐるハーブの匂いに暴力的な食欲が込み上げた。目の前の恋人は日本にいるときと違って大きな口を開け、がつがつとそれを搔っ込んだ。つられるように口に入れると、うま味が口の中で弾けた。
日本で食べていたベトナム料理とは全然違った。
野菜も肉も新鮮だというのもあるだろう。ハーブとスパイスが何種類も使われているせいもあるだろう。化学調味料がほんの少し入っているせいもあるかもしれない。その食べ物には、私の常識を覆し、それまでの自分を解放するようなものがあった。
夢中で何皿も注文して食べた。美味しい以外の言葉が出てこず、胃がいっぱいになっても舌と歯がもっともっと欲しがった。どうしてこんな深みのある味がするんだろうと独り言のように呟くと、タレが違うんだよと彼が何でもないことのように言った。タレの配合も店によって違うし、ナンプラーも塩もエビペーストも地元で作っていて、日本では手に入らないものだからねと笑った。
激甘のデザートも平らげて、勘定をした。店で働いているのは意外にも若い人ばかりだった。皆、さっぱりした身なりをして、フランクな接客をしている。オープンになっているキッチンでは若い女性がフライパンを振っているのが見えた。
彼が店主と話していたので、私は先に店の外に出た。
Tシャツの胸のあたりに今食べたものの油が少しついていた。
それを見ながら私は敬虔したことのなかった感覚に体中がしびれて放心していた。

エリザベス・ギルバートのEat, Pray, Love 『食べて、祈って、恋をして』のイタリアパートを髣髴とさせる。彼女もイタリアの食べ物を食べまくってうつ状態の中からすっかり自分(の体重)を取り戻したのだ。

今朝は寝坊をしたので駐車場に車を停めてから手早くメイクをし、フロントガラス越しに大仏を見ながら豆乳をストローですすった。家の冷蔵庫から取ってきたそれは既に生温かくなっていて、紙パックが少しふやけてたわんでいる。
2年前まで朝の習慣は駅ビルのカフェに寄ることだった。隣の人と肩が触れ合いそうなほど窮屈なカウンター席で、足早に行き交う都会の人々を眺めながらソイラテを飲んだ。

仕方なく受け取ると次々と皿を渡された。長谷部と分け合って割り箸でつまんで口に入れ、ゆっくりと噛みしめる。寿司を食べたのは久しぶりで、確かにこう暑いと酢飯の風味が嬉しかった。シャリは大きくてネタはそこそこ肉厚だ。サービスランチは寿司10貫に加え巻物とみそ汁が付くようなので、男の人でも満足する量だろう。だが味は期待してしまった分、落胆が大きかった。スーパーの総菜売場で売っているものとそう変わらない。
かつて食べた青山の高級寿司の味がふと蘇る。幸せな記憶とは言いがたいが、宝石のような寿司だった。あんな美しくて衝撃的においしい寿司を口に入れることはもう一生ないかもしれない。
今日はなんだかよく東京でのことを思い出すなと、都は口元を手でおさえ大きなシャリを咀嚼した。
(中略)
少し空腹が落ち着くと、回転寿司は回転寿司というジャンルであってこれはこれでいいものだというふうに気持ちが持ち直してきた。

「あ、これ、おいしいね」
鶏肉のソテーがいつもと風味が違っていて都はそう言った。
「ヨーグルトで漬けてみたんだ、うまいだろ」
「なにパパ、どこでそんなの覚えたの」
「朝のテレビでやってた。まだあるから明日の弁当に入れていっていいぞ」
得意げな顔で父は笑った。

灯りを落とそうとして、果物籠に入れておいた梨をしばらく見つめる。ひとつ手に取り、果物ナイフで櫛形に切り、剝いてタッパーへ入れた。冷蔵庫の前面に貼ってあるマグネット式の小さいホワイトボードに母へのメッセージを書く。

  • ママへ。ピンクの蓋のタッパーに梨が入っているから食べてね。

病院を出ると車でスターバックスに寄った。病院の帰り、母の調子が良ければほんの少しドライブし、どこかカフェに寄るのが習慣になっていた。ケーキと飲み物を買って向かい合うと、母の表情は家を出た時に比べて見違えるほど明るく、都はもう嬉しさを堪えきれずに言った。
(中略)
「ううん、ちゃんと言ってなかったもんね。でも焦らないでゆっくり治していこうね。私もパパもついてるから。さあ、ケーキ食べよう!」
母は微笑んでいた。都も笑い返す。喜びと痛みが皿の上のマーブルケーキのように入り混じっていた。

都はバンダナでくるんだ弁当を広げた。父が夕飯に作る総菜の余りがあれば、それに自分で焼いた不格好な卵焼きを合わせて弁当を詰めてくる。料理が不得意な都にはそれだけのことでも億劫で仕方なかったが、毎日コンビニで昼食を買うと馬鹿にならない出費になる。

どきどきしながら様子を窺うと、彼は自動販売機でたこ焼きを買っていた。都が座っている場所から四角い休憩室の対角線上になる位置に、彼は横顔を向けて座った。ペットボトルの茶を飲みつつ、たこ焼きをつまんでいる。

「チャーハンでいいよね。昨日の焼き豚入れるね」
「玉ねぎ少しにしてね」
父が昨日買ってきた焼き豚と野菜を刻んで冷や飯を炒める。何が悪いのか昔母が作ってくれたようにはできず、べちゃっとしてしまう。自分で作っておいておいしくなさそうだと思う。それを汁物と一緒に出した。
「なにこの味噌汁、どろっとして」
椀から口を離して母は言った。
「ネットで見て、とろろを入れてみたの」
「ふーん。あまり好きじゃないかも」
「長イモはホルモンのバランスを整えるんだって」

エスニックはよくわかんねーと彼が言うので都が料理を注文した。春巻きや青菜の炒め物やバインセオを頼む。虎の顔のラベルが貼ってあるビールで乾杯した。
(中略)
料理がやってきて、貫一は一口食べると「なんだこれ美味いな!」と大きく言った。先日は宴会だったのでじっくり味わえなかったが、都もこの店の料理は抜群に美味しいと改めて感じた。添えてあるパクチーは新鮮で柔らかく、素材もいいものを使っているのだと思った。
(中略)
貫一は炒め物の皿に残っていたうずら卵を楊枝で刺し、それを顔の前でぐるぐる回した。

服を見立ててもらったお礼に夕飯をご馳走したいとそよかが言って街へ出た。時々行く店があるのだと連れて行かれたのは、路地の奥にあるログハウス風の設えのシチューの店だった。
「可愛いお店だねー」
「でしょう。すごく美味しいんですよ。でもこの前彼氏を連れてきたら、恥ずかしいからもう来たくないって言われました」
確かに店員もお店もほとんどが若い女性だ。シチューセットのドリンクの中にグラスワインがあったので都は白ワインを頼んだ。

木製の薄いドアを開けると、一気に出汁の匂いと湯気に包まれる。彼はガス台に向かって何か作っていた。
(中略)
鍋の中身はおでんだった。
「これ友達がくれた」
都がそう言って差しだした袋を覗き込むと「お洒落パン」だと貫一は言った。帰り際にそよかが、お礼だと言って渡してきたものだ。
「おでんじゃパンは合わないよね」
「別にいいじゃん。うまそう」
(中略)
炬燵の上に鍋ごとのおでんと、ドイツパンと、焼酎のお湯割りのグラスがふたつ置かれた。
(中略)
グラスをぶつけ合って口をつける。匂いが強い芋焼酎が最初はいやで飲まなかったが、あまりに部屋が寒いので少しずつ口をつけるようになり、だんだんおいしく感じるようになってきていた。冷えたつま先は炬燵であっという間に暖まった。石油ストーブの上のやかんがひゅんひゅん蒸気を上げて、カーテンのかかっていない台所の窓は真っ白になっている。
そよかと夕飯を食べたばかりだったが、大根があまりにもおいしそうに煮えていたのでもらった。さすが綺麗に面取りしてある。口の中が熱くてやけどしそうだ。
「おー、このパンうめーな」
そよかがくれた、ドライフルーツやナッツがみっちり練り込んであるドイツパンを一口食べると貫一はそう言った。

車内が少し暖かくなると強い空腹感が込み上げてきた。なんでもいいから温かいものを食べたくなって、街道沿いの大きなスーパーに車を停めた。スーパー自体は24時間営業だが、フードコート店はあと30分ほどで閉店になる。そのせいか客はちらほらとしかいなかった。そこでうどんを注文した。割り箸を真ん中で割るのに失敗してしまい、偏って持ちづらい箸で食事をした。

父はそのあとすぐ、毎日夕飯の材料が宅配されるサービスを見つけてきた。既に切ってある野菜や肉や魚が夕方届き、ついている簡単なレシピに従って材料を炒めたり煮込んだりするだけで立派なおかずが出来上がる。献立を考えたり買い物に行ったりしないでいいのは楽だった。
休みの日や、早番で帰宅したときは、都がその総菜キットを使って調理した。

診察が終わって薬をもらうと、娘に誘われて車でスターバックスへ行った。甘い飲み物とケーキを買って向かい合う。さきほど医師にだらだら不定愁訴を訴えたが、今日は比較的体調はよい。カフェの椅子に座っていられるくらいだったら、桃枝の中ではかなりましなほうだった。
(中略)
娘とピンク色のケーキを分け合って半分ずつ食べる。
「さくらシフォンって桜が練り込んであるのかな」
都が真面目な顔で言うので桃枝は笑った。
「さくらに味なんかないでしょ。それにこんな桃色じゃないし」
唇を尖らせて早速娘はスマホで検索をする。
「あ、本物の桜の花や葉を使用してるって書いてあるよ」
「あら、そうなの」
「上に載ってるのは桜の花の塩漬けだって」
「へー、どれどれ」
小さな桃色の塊を口にする。懐かしい塩辛さだ。
「桜の塩漬けなんて久しぶりにお目にかかった。結婚式のとき、控室で桜湯を頂いたの思い出したわ」
「それってママの結婚式?」
「そうよー」

はじめに読んだとき、本文中に「シェアする」という言葉が使われているのに違和感があったが、その手前に「分け合って」という記述もあるので、繰り返しを避けたのかなと思った。もちろん、ここでの「シェアする」には単にモノを分けるのではなく、濃厚につつきあうというニュアンスもあるので、想定読者にはこのほうが伝わるだろうと判断したのかもしれない。(うちのばあさんには多分伝わらない)

夫がインターネットで探してきた、具材が切ってあり、炒めるか煮るかするだけの総菜キットは、メニューを考えて買い物に行って下ごしらえして、という手間がない。それなのにちゃんと料理をした気になるので最初は感動した。けれど続けて食べているとメニューも味も画一的で飽きてしまった。何も言わないが夫もきっとそう思っているだろう。

前菜の皿を持ってきたウェイターにも、時子は「素敵なお店ね~、今度は結婚記念日にも来ちゃうわ」と勢いのまま話しかけた。無表情だったウェイターがにこりと笑う。
冷製のトマト煮を口に入れると、野菜の濃い味がした。最近宅配の総菜の単調な味ばかり口にしていたので、舌の使っていなかった部分を刺激されたようで驚いてしまった。
「おいしい」
思わず呟いた。
「ねー! すっごくおいしいわよね! 感激! こんなの家じゃ食べられないわよね!」
時子が大きな声で同意してきて桃枝はつい笑ってしまった。
(中略)
彼女の問いに、桃枝は魚のポワレにナイフを差し込んだまま、曖昧に首を傾げた。

「おいしい」「うまい」に表記のゆれがあるなー。意図はなさそう。

「パパ、お昼食べる?」
後ろから声をかけると夫が振り向いた。
「なんだ、起きたのか」
「なんにもないから、おうどんくらいしかできないけど」
「うん、いいよそれで」
(中略)
うどんを茹でていると外から夫が戻って来たので、桃枝は娘の職場までこれから届け物をすることを伝えた。何か言うと思ったら、夫はじっと黙り込み、無言でうどんをすすった。食事を済ますと「じゃあ車で送る」と言い出した。

サンドイッチに齧り付いたところだった都は、思わずそのまま動きを止めた。パンを口にしたまま目を見開いて母の顔を見つめる。

ガス台に乗った鍋の蓋を開けると、鈍い黄金色でおいしそうな照りのぶり大根が入っていた。
「わー、おいしそう。私、おなかすいちゃった」
貫一は黙ったままで都の顔を見つめている。
「どうかした? なんか疲れてる?」
「いや、なんでもない。飯食おう、飯。冷蔵庫に昨日作ったひじきが入ってるから出して」
3月いっぱいで無職になった貫一は、頼んでもいないのに都が早番の日はこうして夕飯を作ってくれるようになった。おかずは乾物や豆を煮たり、魚をただ焼いたり素朴なものばかりだが、母親や父親が作るものより美味しかった。
(中略)
冷蔵庫からひじきの小鉢をだしてテーブルに置く。炊きあがってそれほど時間がたっていないらしく、まだ温かい白米を自分の茶碗によそった。貫一は流しの下に置いてある瓶に入った糠床に手を入れて漬物を出している。
「おいしそう。いただきますー」
(中略)
こたつ布団を取り外したテーブルで、テレビを眺めながら食事をした。都は白いご飯で、貫一は焼酎でぶり大根をつつく。

夕食のバイキングは都が想像していたよりずっと豪華だった。見渡す限り、大皿に盛られた食べ物の山が続いている。洋食も和食も中華も、サラダも肉も魚もデザートも、およそ思いつく限りのご馳走が並んでいた。
寝足りた貫一はハイテンションで、次々と食べ物をとってきてテーブルに並べた。天ぷらやローストビーフ、刺身やカレーライス、本職のはずの寿司も平気な顔で持ってきた。食べ合わせがめちゃくちゃで、最初は面食らってどう楽しんだらいいかわからなかったが、広いレストラン中、大勢の人間が同じ浴衣姿で、欲望のまま食べ物を咀嚼しているその熱気に呑まれて、だんだん背徳感のようなもものが麻痺していくのを感じた。とっくに満腹のはずなのに、違う味、違う食感への欲求が止まらなくなり、いくらでも胃に入った。

朝食の席で、都は機嫌を損ねたまま納豆を混ぜた。前の晩と同じレストランで、やはりバイキングだったが、夢から覚めたように現実的な食事が並んでいた。

ショップから一番遠い休憩室に杏奈を連れていき、テーブルを挟んで向かい合った。都は持ってきた弁当を、杏奈はコンビニで買ってきたらしいサンドイッチを広げた。
(中略)
すっかり食欲は失せていたが、食べないのも悔しいので、都は炒めたソーセージや卵焼きを次々と口に入れた。

見物を済ますと、敷地内にある美しく整備された公園のベンチに腰を下ろした。新緑で溢れ、木陰を抜ける風がミニバラの枝を小さく揺らしていた。
するとニャン君がリュックからマグボトルに入ったアイスティーと手作りだというサンドイッチを出して、ピクニックのようになった。ベトナムのバインミーというサンドイッチだという。パクチーとお酢の風味が効いていてとてもおいしかった。
「ニャン君、まめだね」
「そうですか、このくらいフツーです。ボク料理がスキなので」

おなかが空いていたがつまみもあらかたなくなっており、サラダの残りを皿に取って口に入れた。

恐縮する都をそよかはソファに座らせ、ミルクティーを淹れてくれた。彼氏のことは写真で見せてもらったことはあったが、実物は写真の何倍も感じがよく、聞いていた年齢よりずっと若く見えた。
ふたりは新婚夫婦のように都を気遣ってくれた。そよかはソファに一緒に座って当たり障りのない話をしたり、昨日焼いたというシフォンケーキを勧めてくれた。

「なんか、メニューが結局お好み焼きになって」
「へー、お好み焼き」
「ママがあれこれ作るって計画したみたいなんだけど、貫一が料理入だって聞いたら考えすぎちゃってパンクして、パパがそんなんだったら出前にしろって怒って喧嘩になって。結局ホットプレートでなんか作って食べれば気まずさも薄れていいんじゃないかってことになって」
「ハハハ。俺が焼くよ」
(中略)
テーブルの上には簡単なつまみやサラダができていて、ホットプレートも準備されている。父は貫一にビールをすすめ、彼はグラスを両手で持ってそれを受ける。

「そろそろお好み焼き、作りましょうか。貫一さん、ご馳走じゃなくてごめんなさいね」
「いえ、お好み焼き、大好きです。最近食べてなかったんで嬉しいです。僕が焼きましょうか」
「あら、でもお客さんにやってもらうわけには。ちょっと、都がやりなさいよ。ぼうっとしてないで」
「えー、私?」
「あ、都さんよりは僕が焼いたほうがまだ安全だと思いますよ。調理師免許あるし」
貫一の軽口にみんな笑った。そらぞらしい笑いだった。
彼は立ち上がって、切ってあった野菜と粉と卵を混ぜホットプレートに流し入れた。手早く形を整えて豚バラを乗せ、蓋をした。別に難しいことをやっているわけではないが、動きに迷いがなくて桃枝は見入ってしまった。
「やっぱり手つきがいいわねえ」
桃枝がついそういうと、夫が「ハッ」と皮肉に笑った。
「うちの女たちは本当に料理がダメでね。面目ない」
(中略)
貫一ははにかんだ様子で笑い、ホットプレートの蓋を外した。焼け具合を確かめてから、コテでお好み焼きを器用にひっくり返す。香ばしい匂いが部屋の中に漂ったが、その匂いさえ何か場違いな感じがした。
(中略)
桃枝がテーブルに戻ると、貫一は立ち上がってお好み焼きをもう一度ひっくり返し、ソースとマヨネーズを塗った。四等分に切って、青のりと鰹節をかけ、それを皿に取り分ける。
よく知らない男の焼いたお好み焼きは、いつも桃枝が作るのと同じ材料なのに、ふっくらとして驚くほど美味しかった。

確かに日本のお好み焼きは不思議な料理だ。今でもは母のが一番美味しいと思う。家を出てから初めて材料を聞いたら、小麦粉と水だけ(時々卵も)と聞いてとても驚いた。出汁さえ入れていなかったのだ。

慌ててついて行くと、浅草口を出て少し歩いたところにあるホテルの1階にある店に連れていかれた。パリのビストロ風と言ったら言い過ぎだが、上野とは思えないような洒落た外見の店だった。広々としたフロアは8割ほど埋まり賑わっていた。こげ茶を基調としたパブ風の内装で、かしこまったレストランではないがいかにも美味しそうな雰囲気だ。メニューを見ると、この店の看板料理はローストチキンらしい。こんがり焼けた鶏肉の写真を見ただけで食欲が刺激された。
「わー、これ、おいしそうだね」
「おみや、鶏肉好きだろ」
「うん。だから連れてきてくれたの? よくこんなお店知ってたね」
(中略)
あたりから漂う香ばしい匂いと喉を刺激するビールに、一刻も早く塩気のきいた鶏肉が食べたくなってきた。チキンは時間がかかるというので、パテやサラダをゆっくりつまんだ。
(中略)
やっとローストチキンがテーブルにきた。ハーフを頼んだのに驚くほど大きい。てらてらと黄金色に光っている。
「わー、おいしそう」
「うまそうだな」
貫一は鋸刃付きのステーキナイフを持ち、当たり前のように切り分けてくれた。食べやすい部分を都の皿に入れてくれたので、塊肉をフォークで突き刺し口に入れた。皮目はパリパリしていて中はふっくらとジューシーだ。口の中が一気に幸せになる。
「おいしいねー」「うまいなー」と同じことをと馬鹿みたいに何度も繰り返して言いながら、ふたりは鶏を咀嚼した。

貫一がコンビニに寄るというので、付き合って都も入った。
少し胃がこなれて甘いものが食べたくなり、デザートの棚を眺めた。新製品のお試しフェアでプリンがひとつ100円だった。先ほどレストランで割り勘にして4,000円も使ってしまったので節約しなくてはいけないが、100円ならいいだろうという気になる。レジに持っていくと、ちょうど貫一が会計をしているところだった。彼は「一緒に払ってやるよ」とプリンを取り上げた。

仕事を終えて家に帰ると、父親がエプロンをして何か作っていた。
「なに作ってるの?」
「鶏のつくね」
「ふーん。ママは?」
「部屋で休んでる」
「具合悪いの?」
「悪いってほどでもないみたいだけど、ちょっと寒気がするんだってさ。急に寒くなったからじゃないか」
父親はボールの中の挽肉をこねながら振り向かずに言った。
(中略)
「なんか食欲ない。私もここのとこ体がしゃきっとしなくて。風邪のひきはなかな」
「つくねにいっぱい生姜入れたから、少し食べて早く寝ろ。この家は病人ばっかだな」
(中略)
母が自室から降りてきて、3人で言葉少なに鍋をつついた。
生姜の効いたつくねはおいしくて、特別いい家族だとは思わないが、家で作ったものをみんなで食べるのはやはり体も気持ちもほっとするなと思った。3人とも鶏肉が好きで、そういうのも遺伝なのか、それとも子供の頃からの食生活だから慣れているだけなのかとぼんやり考える。

「遅くなりました。1回家に戻って、作っておいたおかず取ってダッシュできました」
絵里は彼女から渡された紙袋からいくつもタッパーを取り出す。
「わー、いっぱい作ってくれたんだね。なにこれ、おいしそう」
「これは鰯のトマト煮で、これはクスクス。この冷凍してあるのが牛肉のしぐれ煮です。あとスコーン焼いてきました」
「すっごいね。助かるー」
ふたりは賑やかに話している。大人が総菜の話で盛り上がるのを眺める子供のような気分になった。自分が買ってきた袋菓子が幼稚に思えて恥ずかしくなってくる。
(中略)
「はーい、できたよ」
皿を持って絵里が戻ってくる。鰯のトマト煮にはガーリックトーストが添えられていて食欲をそそった。空気が和んで、それを皆で口にした。
(中略)
「なんか真面目な話になっちゃったね。そよかが焼いてきてくれたスコーン食べようか? ふたりともなに飲む? お酒がよかったらいろいろあるよ。つまみにチーズもあるし」
「絵里さんが飲んでるの、なんですか? おいしそう」
「これコーン茶だよ」
「私もそれください」

ウェイトレスが来て、ふたりが食べたハンバーグ定食の重そうな鉄板を下げて行った。
(中略)
「ん-、もうちょっと待ってみようか。与野さん、なんか甘いものでも食べる? 本当は飲みたい気分なんだけど車だしなー」
そう言いながら仁科はメニューをよこした。巨大なパフェの写真に気を取られたが、昨日の激しい生理痛を思い出し、冷やさないほうがいいんだろうなと思い直す。
「私、このワッフルにします」
「じゃあ、私はこの秋の味覚パフェっていうのにしようかな」
(中略)
そこへワッフルとパフェが運ばれてきた。両方ともこってりと生クリームが乗っていていかにも甘そうだ。

おしぼりを持ってきてくれた女の子にレモンサワーと、黒板に書いてあった今日のおすすめを上から2品頼んだ。さっきハンバーグ定食とワッフルも食べたのに、びっくりしてエネルギーを使ったからかもう空腹を感じていた。
(中略)
ふうと都は息を吐き、サワーに口をつけた。缶のものより炭酸もレモンも強くてきりっとしていた。

モールの中に都心に本店がある人気の中華料理店ができていて、そこの辛い担々麺を食べようということになった。
運ばれてきた麺は写真で見るよりさらに赤く、恐る恐るすすると、確かに辛いけれど複雑な旨味があって箸が止まらない。もうすぐ12月だというのに、食べ終わるとふたりとも額に汗が滲んで、なんだか運動したあとのように爽快だった。
口直しにマンゴープリンを頼んで、それを食べながらひといきついた。

途中で腹ごしらえをしようと、貫一はサービスエリアに車を入れた。
北関東に住んでいるとほとんど神奈川県に来ることがなく、お祭りのような大混雑のサービスエリアに入ると、旅に来た感覚が湧き上がった。名物だという鰺の唐揚げやメロンパンを買って食べた。

そこで次の料理が届く。当館名物の金目鯛のしゃぶしゃぶだと給仕の女性が言う。薄桃色の魚の身を小鍋で湯に通し、口に入れた。
「わー、繊細だね」
(中略)
そこでメインの和風ステーキが運ばれてきた。給仕の女性が目の前でわさびを下ろしてくれるのを、都はただ見ていた。
都と貫一は黙ったままそれを食べた。美味しいはずのものが、口の中で粘土みたいな味しかしなかった。

飲み物も空になり、ふたりは冷えてしまった焼き鳥をつまんだりした。
「都さん、お代わりします?」
「うーん。ねえ、甘いものでも頼もうか」
そよかは一瞬きょとんとし、「そうしましょうか」と微笑んだ。
ファミレスのような大きなメニューの最後には、何種類もデザートが載っていて、それを選んでいると少しだけ華やいだ気分になった。そよかは少し表情を柔らかくして言った。
「都さん、今度は昼間会いましょう」
そよかは言った。
「ぱーっと体動かしませんか。卓球でもテニスでもボウリングでも。日帰り温泉でもいいかな」
「そういえば、最近うちの母親が山登りにハマってて」
(中略)
大きなパフェがやってきて、都は殊更派手に歓声をあげた。悩み事などないという顔をして、スプーンに生クリームを大盛にして口に入れた。

ウェイターにうやうやしくメニューを渡され、都は舞い上がってしまい、期間限定だと勧められた2,000円近くする桃のカクテルをおたおたと頼んだ。
大きなガラスの向こうには東京の夜景が広がっている。普段目にしない眩い夜景に目を奪われているうちにカクテルがきた。ひとくち飲むと驚くほど美味しい。それでやっと気持ちが落ち着き、都はカウンターに軽く頬杖をついた。

パスタでも茹でる? と旦那さんが言い、絵里がピザでも取ろうと言い返す。じゃあどっちも食べましょう、パスタは私が茹でますとそよかが手を上げた。そよかと旦那さんがキッチンへ行って、都は渡されたタブレットで宅配ピザのサイトを開ける。
(中略)
注文したピザはあっと言う間に来て、そよかがさっと作ったペペロンチーノと冷蔵庫の中のものを適当にテーブルに出し、わいわいと食事をした。

名古屋に着いたら折り返して帰ろうかと思いはじめたとき、車内販売のワゴンが通りかかったのでコーヒーとチョコレートを買った。それらを口にすると少し落ち着いた。

女性スタッフが都に気づき、ここどうぞと隣を示してくれた。腰を下ろし、リュックから菓子パンを出して開けた。
少し食べたが、口の中がぱさぱさして食欲が湧かず、もっと水分のあるものを買ってくるのだったと後悔した。

10分もしないうちに彼は戻ってきた。手には小さな白い箱を持っていて、どう見てもそれはケーキの箱だった。
「そこでプリン、買うてきた」
「え、プリン?」
隣にどすんと座ると、彼は箱を開けて瓶に入ったプリンを出した。ひとつ取って都に差し出す。戸惑って目を丸くした。どうしてプリンなど買ってきたのだろう。
「嫌いか?」
「好きですけど」
彼は無言で自分の分のプリンを食べだした。仕方なく都も、小さなプラスティックスプーンを使ってプリンを食べた。昔ながらの硬めのもので、舌に甘みが染み渡った。

荷物を下ろして足元に置く。白木のカウンターに、ネタの入った冷蔵ケース。椅子がないだけで普通の寿司屋と変わりなかった。酢の匂いが食欲を湧き立たせる。
「お飲み物は?」
「お茶……、いえ、生ビールお願いします。一番小さいの」
「はいよっ。お好きなもの握りますよ。セットもあるからね。メニュー、そこにありますからゆっくり見てください
(中略)
つけ台の青々とした笹の上に、ぽんと寿司が1貫置かれて、都は早速口に運んだ。
噛むと頬の傷が少し痛んだが、寿司は夢のようにおいしかった。シャリは小さめで、ひんやりした生魚を噛み切る感触と控えめな山葵の風味が口の中に広がる。食べれば食べるほど、もっと食べたくなって、都は次々と置かれる寿司を無心に口にいれた。
(中略)
「これでセットは終わりです」
穴子がひょいと置かれて、都は「じゃあ追加で」と、黒板に書いてあるおすすめを上からふたつ頼んだ。
(中略)
「ラストオーダーです」
不機嫌そうに貫一はそう言った。目の縁が赤い。
「……最後に1貫食べたいんですけど、おすすめありますか?」
「コハダは召し上がりました?」
「いえ」
貫一は鈍く銀色に光る包丁ですらりと魚を切り、素早く寿司を握って、都の前に置いた。
それをつまんで口に入れた。彼の握った寿司は先ほどの職人よりシャリが小さくふんわり握ってあり、口の中でほどけた。咀嚼して飲み込む。「おいしいです」と都は言った。

ベトナムにも寿司店はいくらでもあるが、やはりそう安くはない。だから父の前には沢山の人が列を作って寿司が供されるのを待っていた。父は今朝、ニャンさんの店で働くコック長と市場へ行き、魚を仕入れたそうだ。珍しい白身の魚が手に入ったと嬉しそうにしていた。
おしゃべりをしながら寿司を口に入れた人々が、そこで一瞬止まるのが見える。みんなびっくりした顔をする。美味しい! と誰の顔にも書いてある。

ニャンさんは東京にもう何店舗も店を持っていたが、そこは隅田川沿いの再開発エリアにできた、ベトナム料理を中心に東南アジアの料理を出す店だった。
そこで私は生まれて初めてアジア系のエスニック料理を食べ、未知の味に衝撃を受けた。父は和食かごく一般的な家庭料理しか作らなかったので、アジアの調味料も米粉でできた麺も口にするのは初めてで、言葉を失うほど美味だった。
もう一度食べたくて、レシピを検索して料理を再現してみた。恐る恐る父に出してみたら、美味い美味いと平らげた。別にアジア料理が嫌いなわけじゃないのだとほっとした。
もっと味を試して見たくて、検索したベトナムやタイやインドネシア料理を片っ端から作ってみたが、材料が手に入らないものもあったし、食べたことのないものばかりなので料理が再現できているかもわからない。食べ歩きができるような小遣いをもらっているわけではなかった私は、ひとつのアイディアを思いついた。
自分があの店でアルバイトをすればいいのだ。
(中略)
私は夢中になった。ベトナム料理は知れば知るほど奥深かった。中国とフランスの植民地時代の影響が大きく、それぞれの食文化が取り入れられていて複雑で、高度に洗練された料理だった。
山本文緒著『自転しながら公転する』より

これまでで一番美味しかったベトナム料理は三宮の小さなお店。夜などは予約をしなければ入れないくらい人気で、この小説にも出てくるような青菜の炒め物が衝撃のうまさだった。

つくづく料理は愛、会食は礼拝だよね。メリークリスマス。