本書で、犬養さんが療養していたサナトリウムが近所にあったことが分かって驚いた。
<アメリカ>
アメリカに行ったら、浴びるほど飲もうと楽しみにしていたアイスクリーム・ソーダも、ついぞ口に入る見込みはない。外出すれば、食事は一番安い10セントのトマト・サンドウィッチのほかはむつかしい。
その夜、かるい夜食をすませてから、私も交えた一家総動員で、七面鳥のつめものをこしらえ、野菜を切り、デザート用の粉をねった。居間につづく台所には、赤と黒のししゅうをほどこした白いアイルランド・リネンのカーテンがかかっていた。食器も、手ふきも、ふきんも、すべて赤と黒でそろっていて、中々しゃれた好みを見せていた。
シスター・ローザはこんな会話のあいまに、瀬戸ひきのボールやアルミのフォークを甲斐甲斐しく盆にならべて、私のための昼食をととのえてくれた。冷たいミルクが1杯、チーズのふりかけてあるスパゲッティが1皿、桃が1個。私が食べはじめると、2人はそばに坐りこんで、あごをヒジで支えながら、熱心にいろいろな質問をくり出しはじめた。
どこから来てどこに行くのか。
何を勉強したいのか。
ヒロシマの原爆のあとを見に行ったことがあるか。ヒロシマでどう思ったか。
尋ねまわってやっとさがしあてた養老院では、マーガレットさんが心配して待っていた。コカコラの瓶を1本ひざの上に大事そうにのせて。
「あつかったでしょう」と彼女はやさしく私をいたわった。「どこに行っていたの、用心しなければこのへんは危いのですよ」
私は冒険のことは黙っていた。
「もう帰る頃だと思ったから、冷たいコカコラを買って来ておきました」とマーガレットさんは行った。私はびっくりして彼女の不自由な足を見た。
「あなたが自分で買いにいらしたの」
「なに、遠くまでは行きません。ほんのそこまで」
それから瓶を開けてストローをつけて、私に手渡しながら言った。
「1本じゃ足りないでしょうね。でも、私にはダイムしかもちあわせが無かったのです。もっと他のものを買って上げたかったけれど」
「あなたの分は?」
「私はいらないのです。だって汗びっしょりになってスラム見物をしたのはあなたですもの」
その晩、マーガレットさんはシスター・ローザに頼んで、台所から卵とバターとミルクとをもらいうけた。私が疲れていると見て取って、台所まで食事のために出てゆかなくてもすむように、部屋でオムレツをつくってくれるというのである。ダイム1枚しかゆとりのないマーガレットさんが、そのダイムを私のためにはたき出し、そればかりかこうやって、不自由な足をあちこちに運んでお皿をそろえたりオムレツを焼いたりしてくれるのを見ているうちに、私は胸が熱くなって来た。疲れているだろうから休んでいろと、無理にも長椅子に私を寝かしつけるマーガレットさんの手を振りきって、私はもう一度町に出た。そしてたった1枚の1ドル紙幣を景気よくなげ出して、コンビーフとサラダと果物とを買った。おつりのいくらかで花も買った。
「マーガレットさん、今夜のごちそう」
そう言って買って来た品を見せた時の彼女の喜び方は涙ぐましいほどであった。子供のように手を叩いて口笛をふいた。食事はおいしかったし、話ははずんだし、彼女はすっかり悦に入って、とうとう黒人霊歌を歌いはじめた。私はマリアン・アンダーソンの霊歌を聞いたことがある。しかしあの有名な歌手の歌もあの晩少し調子はずれにマーガレットさんが歌った霊歌ほど感動的ではなかったと思う。
<オランダ>
11月、ニシンの味がよくなる時、北の海辺にニシン獲りの舟が忙しく出入りする。酢づけニシンを食べさせる屋台が出る。1年中出ているがこの頃になるとぐっと数を増やすのである。通勤の人たちが、自転車をとめて、おやつがわりにこれを食べる。生ま臭いこの味に親しもうとしない人は、いくらオランダに長くいても所詮よそものの域を出ない。
ウリケは栄養士だったし料理が中々うまいので、家を掘り出す仕事ではなしに、作業中の人々におべんとうを作って配る仕事を与えられた。
ようやく復興の活気に溢れて来た村の道を山ほどサンドウィッチをいれた大きなバスケットを両手にさげた金髪娘が、日に何回となく往復する。
ドイツ青年のタフさを私は殆ど讃嘆の目で眺めずにはいられなかった。彼等はこの激しい労働にもかかわらず、黒パンのかたまりをミルク1杯で平然としている。どんなにひといギャラージの床の上でも平気で熟睡するのである。一晩寝れば1日の疲れから完全に立ち直るらしい。
それにくらべると、アメリカ人のタフさはちょっと変っていた。彼等は実に骨惜しみなく働くし、力仕事も平気だったが、食べるものだけはちゃんと食べないと参ってしまうのである。アメリカ娘は非常に割り切った態度で、だって私たちがへばってしまったらどうにもならないのだから、と言って、食事時になると、さっさと何処かに消えてしまった。何処にゆくのだろうと思って観察してみると、彼女たちは、となり村のある修道院まで出かけて行って、そこの修道士から、菜園の野菜や、貯蔵室のチーズや卵をわけてもらって、ちゃんとカロリーの計算に合った上等な食事を取っていた。別に抜けがけをするとか、人の裏をかくとか、そんな気持はないのである。こうしなければ参ってしまうから、となり村まで足を運んで補給するのである。うすいソーセージをはさんだパンだけでは、血のしたたるビフテキで育った彼女たちには全然足りないのはあたりまえである。
今朝早く、南オランダの農場からアムステルダムの私たちのアパートに来ている娘が作ってくれたおべんとうがまだそのまま手提袋の中に入っている。これを、例の7人が眠っている間に食べてしまおう、眼をさまして私が食べているのを見たら彼等はきっとまた何かしゃべり出したり、手の平を見せろと言ったりするにちがいない、これは一刻も早くこっそりと食べるに越したことはない、こう考えて、私はおべんとうを取り出した。
オランダの中流家庭で常食にしている黒パンに、チーズと黒砂糖とをはさんだ貧しいサンドウィッチである。黒パンといっても、東京のレストランでみかけるような上等な黒パンではない。戦時中配給になっていたネバリのつよい味のよくない、どすぐろいパンに似たひどいものである。私が一しょにアムステルダムで暮していた連中は、みな似たりよったりの素寒貧だったから、クリスマスや復活祭以外の時は白いパンなど食べないのである。黒砂糖は安く手に入るので、ジャム代りにこれを使っていた。飲みものは明けても暮れても、牛乳一点ばりで、私のべんとう袋の中にも、一合瓶に入った白い液体がおさまっていた。
おなかがすいていたので、私は夢中で、このあまり香ばしくない夜食にかぶりついた。
(中略)
「メシュウ、マダムは御機嫌が悪いんです。このひどい黒パンのせいかもしれませんね」
そう言って出て行った。
7人は代る代る大あくびをしたりノビをしたりしながら、私の方を見て陽気に笑った。それから言いあわせたように身体を乗り出して、私の食べかけのサンドウィッチを眺めたのである。
「全くこれはひどい」
と1人が言った。
「馬の食いものじゃねえか」
ともう1人が相づちを打った。
(中略)
しかし、彼等の関心は再びパンに戻っていった。
「そういうパンを日本人は食うのかね」
(中略)
「いいえ」
「じゃそのパンはどこのだね」
私は話題がパンのことに止まっている間はまず安全と見て取ったから、出来るだけ長くパンの話をさせるために、こう言った。
「あててごらんなさい」
学のある男がうでをのばして私の手から食べかけのサンドウィッチをうばい取った。一寸なでて見て、それから匂いをかいで、顔をしかめて、次に渡す。次の者も同じようになでてみて、顔をしかめた。こんな具合で、私の哀れなサンドウィッチは、7人の手を順々に渡って、あげくの果てには座席の下にほうり出されてしまった。
私はびっくりして抗議をもち出した。
「私のお弁当を勝手に棄ててしまって、いったい何というひどい人たちなのでしょう」
(中略)
1人の男はこう言った。
「あれはドイツのパンにちがいない。ドイツにはライ麦が沢山とれるから」すると1人がこう反駁した。「ドイツ人はなるほどライ麦の黒パンをどっさり食べる。けれどもドイツの黒パンは、ドイツビールの相の手として恥ずかしくないだけの味覚は持っている筈だ。だから、あの、馬の食べもののようなひどいパンは、ドイツのパンではない」
(中略)
自分がそこに生まれそこに育った土地を、この上もなく愛し懐かしむヨーロッパの人にとって、その土地の独特のパンは、最も懐かしい最も誇らしい食べ物なのである。ドイツのパンは重厚で歯ごたえがあり、ライのほろ苦い香気にみちているし、ベルギーのパンは大きくて丸くて、見た目が大そう美しい。きれいなもの好きで、いかにも都会趣味の濃いベルギー人に似つかわしいパンである。
(中略)
黒パン用の麦は、ラインの河に沿って一ばんよく穫れるのではないか、それなら、ラインが流れて海に入る直前に横切る土地を考えてみればいい、きっとその土地には黒パン用の麦がよく育つにちがいない。
「その土地はオランダだ」
と、誰かが相の手を入れた。
「あのパンは、ではオランダのパンなのだ」
とみんなが言った。私はそうですと答えて、これでパン論争はおしまいになるものと考えた。けれどもそうではなかったのである。なぜ、同じラインの同じ麦を使いながら、オランダ人はドイツ人ほど上手によいパンをつくらないのだろう、なぜあんなひどいパンをこしらえるのだろう。7人はそれを不思議に思いはじめたのである。
(中略)
彼の意見は次のようなものであった。オランダ人は、性格的にいって2つの面を持っている。1つの面はゲルマン的なもので、その証拠はどのオランダ人にもみられるゲルマンのあの強さと深さと粘りである。言葉までも、ゲルマン語の方言が主幹となっている。ところで、もう1つの面はといえば、それはアングロサクソンの性格といってよいだろう。何事につけても実際的で、ことにじっくりと腰をおろして注意ぶかく商売をはじめるあの手堅さは、どう見てもアングロサクソンのやり方である。ファンタジイなどというものの片鱗さえ持たないオランダ人の実直さは、海をへだてたあの商業国の人々からわけてもらった性質なのだ。だからオランダ人は、ラインの上等なライ麦をもとに使っても、ちょうど実際的なイギリス人がぜいたくな食べ物を好まないように、その麦で上等な高価な黒パンをつくることは好まないのだ。イギリス人に取って食べ物はまず第一に「餌」である。こう言っては少し酷かもしれないが、彼等はフランス人やイタリア人のように食べ物を芸術と見るにしてはあまりにも実際的であり、そうかといって食べ物を人生の楽しみと考えるにしてはあまりにもお高くとまっているのである。
(中略)
たしかに、オランダ人にはアングロサクソンの性格が多分に入っている。彼等の言葉も、ゲルマン語に英語をからませてつくり上げたものなのだから。
(中略)
彼は微笑をつづけながらあなたの大切なパンをみんなで棄ててしまったおわびに、自分のパンを進呈しましょうとつけ加えた。私はおなかもまだ空いていたし、それに、この男の持っているパンはきっと白くて上等にちがいないと思ったから喜んで両手をさし出した。
7人はそわそわと立ち上って、アミ棚から大きな汚らしい袋をおろすと、その中からまっ白なフランスパンを取り出した。いつのまにか、フラスカティのブドウ酒と、ねっとり黄色いチーズも出ていた。フラスカティはローマから東に30キロばかり行った所にあるブドウの名産地で、そこでとれる酒は非常に名高い。コハク色の美しい液体が、高い香気と一しょに小さなスズのコップにそそがれた。すすめられるままに、私は一息に飲み干したが、まるで輝いているイタリアの太陽の味かと思われるほどに、さわやかでおいしかった。
「ヴィヴァ・イタリア!」思わず私はそうつぶやいた。まつげの影の濃い、大きな目を見開いて、じっと私を見つめていた7人は満足気にほほ笑んだ。
「イタリアのパンでなくて残念です」
(中略)
「どうか1日も早くイタリアに来て、私たちのパンを味わって下さい。ロマノの平野で取れる麦の味です」
「シニョリーナ、イタリアに来ることがあったらぜひ私の家に来て下さい」
と、いれずみの男尾が言った。
「シシリーのはずれです。私たちは貧しいから、何の御馳走も出来ません。けれども、イタリアのパンとイタリアのチーズとイタリアのブドウ酒はいつでもあります。それに、本当のことを言えば、いいパンといいチーズは、この地上で一番の御馳走なんですからね」
私は世の中のまことしやかなうわさ話を真にうけて、シシリー人なら気をつけなければならないものと思いこんでいた自分を恥ずかしく思わずにいられなかった。そしてまた、あの時オランダのパンを取り出したばかりに、こんな楽しい夜食の仲間入りをすることが出来たのを幸福に思った。
汽車は全速力で南に向って走っている。警笛が風に乗って流れていった。
<ドイツ>
それで、私はヴァイオリンの男に頼んで、一番大きなコップを取りよせてもらい、それにビールをなみなみとついでもらった。コップは優に一尺の長さがあった。うすい灰色の地に藍色で花が描いてある。ビールの白い泡がコップの口もとから香気と一しょに流れおちた。私は右手でコップを高くさしあげ、左手をみんなの方にさしのべて言った。
「友よ」
拍手が湧く。無数のコップが高くあがる。
(中略)
音に聞えたミュンヘンビールは実においしかった。味にコクがあって、香りもまたすばらしい。泥焼きのコップの口あたりも中々よいものだった。私たちはビールを飲んでから、豚のあぶり肉を注文したが、そのツマについて来たじゃがいものお団子は何とも言えずまずかった。生のじゃがいもをすりおろしたものと、マッシュポテトとを、半々にねりあわせて、湯の中で煮るのだそうだ。ミュンヘンにいる間中、3人姉妹からこのお団子を食べさせられて、1週間目にはとうとう完全な胃病を起してしまったほど、それはひどい食べ物だった。
(この「じゃがいものお団子」、手が込んでいるのにそんなにまずいのは悲しすぎないか)
マリアはハーグで会い、ティルテンベルグの丘で話しあって、すっかり仲よくなった初秋の日のことを話し、「友情の記念のため」にぜひ自分に御馳走をさせてくれ、翌日の夕方迎えにゆくからと言ってくれた。じゃがいも団子に辟易していたところなので、私も大よろこびで承諾し、翌日の夕方になるのを待ち兼ねて、マリアと一しょに大そうりっぱなあるレストランに出かけたのである。マリアはメニューを見ながら、あなたは何時もお金の心配ばかりしているらしいから、今夜は何の気がねもなく、このメニューの中で一番高いものだけえらんで食べて下さいと言った。自分も下宿の身でそう金持ではないけれども、あなたにおごる位のものは大丈夫持っているから、と言った。私は正直に言って、このような大まかな招待を受けたことは、留学以来一度もなかったので、すっかり喜んで、言われるままに、料理の名を見るよりはまず値段を見て、一番高価なものだけ3品あつらえた。マリアもそれにならった。極上のミュンヘンビールを景気よく抜いて、私たちは大満悦で飲んだり食べたりした。豚のカツレツというものがバヴァリア独特のお料理であるのを知ったのもこの時である。
私たちは7、8人の子供たちと一しょに、ビスケットを食べた。
食卓の上にはライ麦のパンと、ぺパミントのお茶と、バタがあるだけである。これがこの一家の夕食かと、私は何となく淋しかった。前からわかっていたら、ソーセージの1つも買って来たのに。バタつきパンが出来上り、ぺパミントのお茶が湯気をたてはじめると、靴直しの一家は椅子から立ち上った。イゾルデは小さいので、立ち上ると身体は全部食卓の下にかくれてしまった。金色の巻毛だけが白いテーブルかけの上にのぞいている。一家の者は十字を切った。
Unser Vater in dem Himmel
Dein Name werde geheiligt...
食事がはじまると、靴直しはこんなことを言った。
「Unser Vater(われらが父)と口には祈りながら、互いに殺しあったり傷つけあったり。戦争は嫌でしたねえ」
ほんの一言、チョコレートが好きだと口をすべらしたばかりに、町中の人々から山ほど贈られたチョコレートをもてあましながら、私はボンに向って出発した。
<フランス>
公園の片隅のマロニエの木陰には、いつものように飴屋の屋台が出ていた。
油じみた黒のアルパカを羽織ったおばさんが、とろとろと燃える薪の上に、古風な鉄鍋をかけて、キャラメルを煮つめていたが、そのあまったるい匂いは、風に乗って、私の腰かけているベンチのあたりまでただよって来る。
こたえられない匂いだった。
「この娘さんに」と、部長は私の方をあごでしゃくって、「コンビーフの特大のカン(それはドラムカンほどもあった)10個。粉ミルクと乾燥卵とバターそれぞれ5カンずつ。これからまた来るかもしれないから、顔をよくおぼえておけ」
(中略)
これに気をよくした私は、コンビーフと卵ばかりではしようがないから、ついでに何とかしてチーズも手に入れてやれ、と欲を出した。ヴィダと2人、鳩首協議の結果、私たちは大学に出かけていって、学生名簿を借り出した。チーズの産地であるノルマンジーの、チーズ製造業者を親にもつ学生をさがし出して味方にひき入れ、親父からチーズを提供させようというねらいである、この案はうまく当った。チーズ業者ばかりはなく、シードル酒の醸造元にまでわたりがついて、一夏かかって食べてもあまるほどのチーズとのみきれないほどのシードルをもらいうけることが出来た。
「乾燥卵」...どんな代物なのか想像もつかないが、substituteの液体並みにまずそうである。素朴なシードルは飲んでみたい。
<イタリア>
せまいカフェである。一方にはスタンド、フカフカしたパネトーネ(カステラの一種)や丸パンがならんでいる。一方にはテーブルが5つばかり。どれもこれも先客で一ぱいである。予想した通り、客は菜ッ葉服の男たちとバスの制服をつけた運転手である。カフェラッテを前にして、煙草を吸いながらやかましく話しあっていたが、まっ赤な帽子をかぶって妙な袋をぶらさげた毛色の少しちがう女の子が入って行くと、みなびっくりして話をやめた。スタンドの後でコーヒーを入れていたじいさんも手を休めて私を見た。私は大きな声でこう言った。
「ボン・ジョルノ!」
「ボン・ジョルノ! シニョリーナ、ボン・ジョルノ!」
運ちゃんたちは口々にそう答えた。5、6人がわれがちに立ち上って私に席をすすめた。イタリアの男たちはエトランゼに対してまことに親切である。
(中略)
驚いたことには、私がグラーチェと言って腰をおろすより早く、1人の菜ッ葉服の青年が、湯気のたつカフェラッテと、ジャムをそえたパネトーネとを勝手にスタンドからはこび出して、私の前にならべてくれた。
男たちはみんな椅子をひきずって、私のまわりに輪をつくって坐っていた。
(中略)
私は彼等を喜ばせたくなったので、フロレンスは私の心を奪ってしまった、フロレンスの空気の中には人を酔わせる何かがある、と言った。案の定、彼等は手を叩いてよろこんだ。
「世界の道はローマに通じる。しかし世界の心はフロレンスに通じる」
と1人が叫んだ。
「乾杯!」
「ちっちゃなベアトリイチェ」
とバスの運ちゃんが話しかけた。
「ダンテを読んだことがありますか。われらのダンテを」
幸いに私は「神曲」の一節をイタリア語で覚えていたから、怪しいアクセントでそれを暗誦してみせた。
地獄篇に出て来るフランチェスカとパウロのエピソードの一節である。
一座はおどろきのあまりにシンとなった。同時に少しがっかりしたようでもあった。
(中略)
しかし、スタンドのいじさんは、フロレンスが誇る大詩人の名作の一部を、東洋の果ての島から来た女の子が暗記しているという事実に、ひどく感動してしまった。そしてその感動を行為であらわそうとして、もう1杯カフェラッテをついで持って来てくれた。
「若いうちは、十分にラッテを飲まなくちゃ」
と彼は言った。そしてこれはタダですと付け加えた。
1958年刊。やはり、巻末に「今日の医療知識や人権擁護の見地に照らして不適切と思われる語句や表現がありますが...」のことわりがある。「運ちゃん」はそれに該当しないかもしれないが、誰かが、ましてや「教養がある」と思われた人が口にしたらビックリすると思う。
手塚治虫は自伝マンガで、1度だけ母親が「運ちゃん」とタクシーの運転手を呼んだことをひどく驚いた記憶として描いていた。
私たちは日だまりになっている崖の突っ鼻まで来ていた。おどろいたことには、崖に枝をさしのべているミモザの木には、もう黄金色の花が満開に咲いていた。私たちはそこに柔かい草をみつけたので、腰をおろして、ポケットにしのばせて来たチョコレートを出して食べた。エドガーはよほど愛好しているらしいブラウニングのことを話し出した。ドス・パソスやスタインベックばかり読まれて、ブラウニングなどのあの味が今のアメリカの若い人々に忘れられがちなのは遺憾だと、綿々として話していたが、私は足もとにひろがる夢のように淡い色調のトスカナの早春に気を奪われて、ブラウニング談義には半分も耳を貸さなかった。
私はかなたに横たわるルネッサンスの花の町(フロレンス)を眺めながら、ゲーテのいう「より高きより純なるものへの渇望」を祈りの中に深めようとするこれらの若い人々の心に、今のヨーロッパのルネッサンス(新生)も宿っているのではあるまいかと考えた。小さなカフェでカプチーノとよばれるコーヒーを飲んでから、私たちは再びバスに揺られてフロレンスに帰った。
とにかく菓子箱はみんなの手で(その手の中には郵便屋のじいさんの手もまじっていた)裸にされた。中からは赤や金や緑のリボンにかざられた、それこそ直径1メートルもあるほどの上等とびきりのパネトーネというカステラがあらわれた。
<フランス>
私たちの「夕べ」も9時半からということになっていた。ブドウ酒の瓶を10本ばかりならべて、チーズをひとかたまり机の上におけば、それで準備はととのうからホステスも気らくであった。
だいたい外国人というものは、極めて手がるに人を招くのが常である。財布が乏しくてチーズとパンしか買えない時でも、よろこんで友達を呼ぶし、招かれた方でもそれを妙に受け取ったりはしないのである。
午後おそくまで講義がある寒い冬の日など、これからあの部屋に帰ってマキを燃やすのはやりきれないなどと、侘しく思いながら帰って来てみると、10人の中の誰かが留守の間にやって来てストーブを焚きつけておいてくれたりした。暖かいチョコレートが鍋の中にトロトロと煮えていることもあった。
「マドモアゼル、いらっしゃい、いらっしゃい。地玉子はうまくて安いよ。うさぎはどうです、リンゴはどうです」
そんな呼び声の四方から聞える市場で、熟れたリンゴと土地のチーズを買った。
(中略)
私は市場が好きだ。有名な、北フランスで、否、ヨーロッパで、世界で、一番美しいあのシャルトルの伽藍のそばの、中世の趣をそっくり残す市場で、鳩やブドウを売る村人と共に、地べたに腰をおろしてパンをかじった思い出は、稀代のステンドグラスに酔って坐りつくした思い出に優るとも劣らず貴重なものである。
(中略)
カフェのような一隅をみつけて、私たちはそこに入り、さっき求めたリンゴとチーズを、そまつなテーブルの上にひろげた。オルレアンのブドウからしぼった白い酒を1杯、やかましい叩き売りや客よせの呼び声を聞きながら傾けていると、ドヤドヤと入って来て、となりの席に腰をおろした8人ばかりがあった。
あの聖堂(サン・ブノア)は、田舎の静けさと、朝陽の輝きと、小鳥の歌と、人々の祈りとが、渾然と1つになるように特別につくられたものなのだ―こういってからおっさんは、私の前に置いてあったブドウ酒の瓶をのぞきこんだ。
「干さんかね」
「干したらノビてしまう」
「フーン」とおっさんは私の顔を見た。「金を払っておきながら残すとはヤボな娘だ。こっちにかしな」
彼はうまそうに、のどを鳴らして瓶を干した。
「オルレアンの味よ」と彼は言った。「ブルゴーニュがうまいの、ボルドーがうまいの、シャンペンがうまいの、何といったって、酒はその土地のものが一番うまいで。酒は土地の心なんだから。心は味わわにゃわからない、酒も愛して味わわにゃわからない。酔うために酒を飲む阿呆どもは、文化も教養ももちあわせのねえ奴よ」
近づいてのぞいてみると、暗い土間に、人のよさそうなかみさんが忙しく何かを料理している。何かと聞くと、今朝カゴに一杯とれたばかりの、ロアール名物の魚だという。大よろこびで中に入って、土間の一角に陣どった。レストランではありません、というのを、無理にたのんでおそい昼食をとることにきめた。
幾十年前のものかといぶかしい大きな石のストーブに、マキをどんどん放りこんで、碧い澄んだ眼が印象的な、ローランサンの絵にでもありそうな美しい若いかみさんは、愛想よく、いますぐですからと言いながら、黒い小魚(ポアソン・ノアール)を手早く揚げて、地酒1瓶と一しょに出してくれた。からくちの強い赤(ルージュ)だった。あいにく白は切れているとkかみさんは言いわけをした。
「でも、じきに、ルージュにあうものを出してあげますよ」
飛びこみにも嫌な顔を見せず、かみさんは奥の方から大きな鍋をもって来てあたためてくれた。中には、野鴨の胆を犢(こうし)の肉で巻いた煮込みと、とろけそうな玉ねぎが入っていた。フランス人の料理のセンスは、いっそ芸術的とよびたい程だ。こんな漁師の家でさえ、ロンドンの目抜通りのレストランの料理より、百倍もコクのあるうまい味つけのものを出す。これでおしまいかと思ったら、山もりのサラダと、数種類のチーズと、リンゴを詰めた手焼のパイと、香りの高いコーヒーを御馳走して、700フラン頂きますと言った。パリでこれくらい食べたら、サンミシェルの学生街でだって、1人1,000フランは見なければなるまい。
私たちが有頂天で食べている間中、かみさんの末っ子という男の子が、私たちのまわりをうろうろしていた。
いくつときいたら2歳半だという。このへんの古い習慣だといって、3歳くらいまでは女の子の服を着せておくのだそうだ。上がみんな女の子だからとても助かります、とかみさんは笑っていた。「おさがりがみんなこの子にまにあいます」
ドミニクというこの子は、のどがかわいていた。さいしょは揚げものにいそがしくて、とりあわなかったかみさんも、とうとう手を休めて、大きなコップを棚から出して来た。それ、ドミニク、おとなしくするんだよ、そういってかみさんは調理台の上のブドウ酒をポンとぬいて、コップになみなみついでやった。2歳の子供が息もつかずにつよい地酒をのみほすさまをながめて、私は仰天した。つよすぎるんじゃない、マダム、そうたずねたが、かみさんは平気だ。「水がわるいんでね、このフランスという国は」
テレーズはランフォルマシオン誌が、こんど子供のアル中問題をとりあげるのだ、といって、フランスの子供たちの多くが小学校卒業前に半分「お月様」(少し頭がへんになること)になってしまうこと、そしてそれは飲料水の高価であることとブドウ酒の安さとに根をおくのだと話してくれた。実際、エビアンやヴィシーのような飲料水は大ビン80フランもするが、市場でタルから買うブドウ酒は大ビン20フランからある。ブドウは南フランス至るところにふんだんにとれるから、ブドウ酒ほど手がるに安く口に入るのみものはない。マンデス・フランスはミルクを奨励したが、それではブドウ酒づくりが上がったりになるので、南フランス全体のつよい反対にあって、結局彼は失脚してしまった。
犬養道子著『お嬢さん放浪記』より
マリー・アントワネットの『ヴァレンヌ逃亡』の記述にも、逃亡用の馬車に飲み水がわりのワインが大量に積んであったと書いてあったな。のどの渇きがすっきり癒えなさそう...。