たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

ポケベルが鳴らなくて 山本文緒『ブラック・ティー』

ポケベルや固定電話の留守電の使い方について知りたい人はこの短編集を読もう。

ちょうどやかんのお湯が沸いたようなので、僕は台所へコーヒーを淹れに行った。彼女はブラックが好きなのだ。ミルクと砂糖をたっぷり入れないと飲めないと僕は違う。
ゆっくりとドリップでコーヒーを淹れると、僕は彼女のお気に入りのペンギン柄のカップにそれを入れて持って行った。

「お腹空いたよ。ハンバーガーでいいから食べさせて」
私はマクドナルドの明かりを指して言った。母はこっくりと頷くと、私と肩を並べて歩きだした。いつの間にか、母の肩は私よりも低いところにあった。
母と私は口もきかずに、もそもそとハンバーガーを食べ、薄いコーヒーをすすった。

「お帰り。夕飯、食った?」
彼が言う。私は上着を脱ぎながら、そっと頷いた。
「軽く食べてきたわ」
「ケーキ、買ってあるんだけど」
「ありがとう。お茶淹れるわ。いっしょに食べましょう」
彼は立ち上がり、「俺が淹れてくるよ」と言ってキッチンに向かった。私はその背中を黙って見送る。暴力をふるった次の日は、別人のように優しかった。
彼はイタリアンフルーツ模様のカップにミルクティーを淹れて持って来た。ケーキはミルフィーユ。私の好きなものばかりだ。カップは1度割れてしまったので、同じものを彼が捜して買ってきたのだ。
リビングのソファに並んで座り、私と彼はケーキを食べた。

「ほら、ご飯だぞ」
ぼくは缶詰と、カレイの煮物の入ったタッパーを鞄から出した。
「どうしたの、その魚」
「缶切りを取りに家に帰ったら、お鍋の中にあったんだ。たぶん今晩のおかずなんだろうけど、ネコって魚が好きなんだろう。かわいそうだから、せめておいしいもん食べさせてやろうと思って」
ルミはぼくの言葉に「ふうん」と呟いた。ぼくは煮魚がきらいだ。このにおいがいやなのだ。本当はぼくが食べたくないから持って来たのだけれど、ネコはそれが気に入ったらしく、ぺろりと平らげた。
「よしよし、おいしいか」
ぼくはネコの頭を撫でてそう言った。
(中略)
ぼくはテーブルの上の夕飯が、コロッケだということに気がついた。ネコに持っていった魚の煮物は1匹で、まだ鍋の中に余っていたのに。
「今日、お魚じゃないの?」
「え?」
「あのお鍋の中にあったじゃない」
ぼくはレンジの上の鍋を指さした。
「ああ、あれは先週煮たやつよ。もう悪くなってるから捨てなきゃ」
それを聞いて、ぼくは立ち上がった。
「悪く、なってるの?」
「勝也、まさか食べたの? だってひどいにおいよ。どうして気がつかないの」
「腐ったもんをいつまでも取っとくなよ!」
ぼくは大きな声を出した。お母さんの驚いた顔を後にして、ぼくは家を飛びだした。

「おばちゃん、ボク、アイス食べていい?」
屈託なく、その子は私に聞いた。
「......君んちのアイスだもん。どうぞ、食べて」
「あの中」
その子は冷蔵庫の前に立って、上のほうを指さした。そうか。冷蔵庫の上部にある冷凍庫に、彼は手が届かないのだ。私はちょっと笑って、冷凍庫からアイスキャンディーを取り出してあげた。
(中略)
「おばちゃん? 誰かに苛められたの?」
私は手の甲で涙をぬぐい、首を振った。
「おばさんね、風邪なの。それで鼻がぐずぐずするの」
ふうん、と彼は納得したように呟いた。そして、半分溶けてべとべとになったアイスキャンディーを私に出し出す。
「くれるの?」
彼はこっくり頷いた。子供の食べかけのアイスなんて、普段だったら私は絶対口にしないだろう。けれど、こんな子供が私を慰めようとしているのが分かって、何だか胸が詰まった。私はその小さな手からアイスを受け取って口に入れた。
(中略)
「澄子。悪いけど、私そろそろ帰るわ」
「え? お夕飯食べて行ってよ。スキヤキしようと思って用意したのよ」
「ごめんね。やっぱり具合が悪くて」

そして駅前のクリーニング屋に寄って妹のワンピースを受け取り、彼女が好きなチョコレートパイを買った。
(中略)
「......ワンピース、取って来たよ。すぐ返さないで本当にごめんね。もうあんたに洋服借りないから。あんたの好きなチョコレートパイ買ってあるから食べてね」

「あなた、何でこんな店で働いてんの?」
店の開店前、社長の弟が作ってくれた賄いの食事を調理場で食べていると、ふらっと現れたミファさんがそのハスキーな声で聞いたのだ。
「食事付きだし」
今まさにキムチ入りのいやにおいしいチャーハンを飲み込んだところだったので、私はそう答えた。
(中略)
私は正午から夕方の4時まで、歌舞伎町の中にある焼鳥屋で仕込みのバイトをしている。鶏肉やネギを串に刺す仕事だ。開店前の薄暗い焼鳥屋で、私は自分の母親ほどの年齢であろうおばさんと2人で、黙々と焼鳥の串を作る。
山本文緒著『ブラック・ティー』