たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

林真理子著『食べるたびに、哀しくって…』

全体的に、指定の文字数いっぱいに伸ばすのに奮闘しているような印象のエッセイが続く。

京都の商家を模したといわれるその店は、店から裏庭に通じる路地があった。右側は倉庫、左側は畳敷きの仕事場になっていた。そこで働く祖母の傍にいると、ひょいとカステラの端を切ってくれたりする。そうでなくても、カステラを箱詰めにすると、切れ端が何本か出る。平べったいそれは、蜜がたっぷりのっていて、私の大好物だ。
「割り箸、割り箸」
と祖母が叫ぶのは、水飴をケースから瓶に小分けしている時だ。正直なことをいうと、べたべたとやたらと甘い水飴を、私はあまり好まない。それにせっかちな私はなめるのに飽きて、すぐに噛みつく。歯のうらにべとべととつく水飴を、私はそうおいしいものとは思えなかった。

昼寝からさめると、アンミツが用意されていた。寒天は自分の家で流し、采の目に切る。その上に、ギュウヒと、ミカンの缶詰めを少しずつ……。ミカンの缶詰めは、当時とても贅沢なものだったから、ほんの少しずつだ。そのかわり、こってりと餡をかける。その餡は、残り物のマンジュウを割ってとり出したものだから、丸いかたちのまま固い。
それを崩して寒天を一緒に食べると、かなり腹ごたえのあるものとなった。
あの頃私の食べるものは、こうした“廃品利用”が、かなり多かったはずだ。
四角い銀色の缶からビスケットをとり出すと、底の方に粉がたまっている。その茶色のさくさくした粉を、メリケン粉にまぜて焼く。
これは“ホットケーキ”とよばれ、私の大好物だった。バターと卵の味がふんわりとして、デパートで食べるものよりもずっとおいしいと思った。
私の生まれ育った地方には、“うす焼き”といわれる郷土食があり、これはメリケン粉(小麦粉というより、メリケン粉といった方が、ずっと感じが出る)を水で溶いて焼き、砂糖をまぶした、素朴なおやつだ。
友だちの家へ行くと、よくこれを出してくれた。卵は入れたり、入れなかったりする。文字どおり薄く、油で表面がてかてか光っているそれを口にしながら、うちの“ホットケーキ”の方が、ずっとおいしいといつも私は思う。
その“ホットケーキ”より、さらに私が好きなものがあった。
売れ残りの菓子パンを、朝、祖母か従姉がとどけてくれる。とどけてくれるといっても、隣りなのだから、庭づたいに20歩も歩けばすむことだ。
防腐剤や添加物がいっさい入っていない昔のパンは、すぐに固くなり売り物にならなくなった。おそらく、大人たちの溜息をさそったであろう、売れ残りのパンは、私にとっては大きな喜びだった。
母は炊きあがったばかりの飯釜の中に、それをほうり込む。朝食が始まる頃には、菓子パンはちょうどいい加減に蒸らされるのだ。
舌がやけどするほど熱い餡パンに、ジャムパン。米粒がまわりにくっついているから。それを舌でとりのぞくのはひと苦労だが、いったん綺麗にした後、注意深く割る。中から、まるで溶岩のように、餡やジャムがとろりと流れ出す。あれは、私が知っている限りの、最高の美味であった。
母がたんねんに、だしをとった味噌汁もおいしかった。山盛りにした白菜、そして生みたての白い卵……。
けれども、私の中で朝食といって思い出すのは、味噌汁やご飯のにおいではなく、ひたすら熱く甘い、餡パンとジャムパンのことなのだ。
やがて私は海苔をこっそりポケットにしのばせ家を出る。行くところは3軒先の時計屋だ。
「キーヨーミちゃーん、オーハーヨ」
2人で手をつないで学校へ向かう。
彼女の上着のポケットにも必ず海苔が入っている。角の床屋のへんで、私たちはそれを交換し合う。
もし、とり替えるものがあのホカホカ餡パンだったら、私は決して彼女と一緒に学校にいかなかっただろう。
朝の菓子パンのことを、私はいちばん大切な親友にもひたすら隠していた。

戦前に女専の家政学部を卒業した私の母は、この日のために腕をふるう。
チキンライスに、バクダンコロッケ。このバクダンコロッケというのは、コロッケの中にゆで卵が入り、それを半分に割り、切り口を見せたものだ。その他には、色とりどりのサラダに、フルーツ寒天が、いかにも子どもが喜びそうな配色で大皿に盛られている。

彼女の家は大きな農家で、座敷を開けはなして子どもたちに解放した。赤飯に煮〆、驚いたことにそれぞれ小さなお頭つきの鯛もついたのである。おそらく穫れたてだろうカリフラワーは、駅前の商店街に住む、“町っ子”の私には初めてといっていいほどのおいしさだった。それまで私はカリフラワーのことを“葉キャベツ”といって嫌っていたのに、ここで食べるカリフラワーは、かすかに甘く、噛みしめるとコクのある汁が出てくる。

だからたいていの人が、駅前のこの古くからある菓子屋で、“練り切り”やまんじゅうを買い、よそにもっていく。それらの和菓子は、とても上等なものとされていて、店のいちばん大きくて目立つケースに入れられていた。
客は、色どりよく菓子を選び、それを箱に詰めさせる。真白い箱に経木を敷き、伯母は注意深く、菓子バサミでつまむ。並べる、ふたをする。そして特徴ある緑の包装紙でていねいにおおうのだ。

「カステラ・ボール 100グラム30円」「砂糖小豆 100グラム40円」。今でもデパートの地下などで、ぐるぐるまわる菓子ケースから、客が自分で取って自分で量り、100グラムいくらというコーナーがあるが、あの種類の菓子は、昔、とてもよく売れた。
(中略)
役所や婦人会の会合というと、たいてい100円分の菓子が使われたと記憶している。セロファンにつつまれた小さな最中2個、ベビーチョコ3個、塩せんべい2枚というふうに、伯母は値段と重さ、そして味を見ながらコーディネイトする。

それは、セロファン紙でくるまれた、ひと握りの干菓子だった。
「いいですッ」
私はそれをただちに返そうとした。よその人から物をもらうことに抵抗もあったし、それにクリマンジュウとよばれたそれは、農家が作業の合間の茶受けに使うものだ。祖母の菓子屋では目にすることのない、あまり上等でない菓子だった。
(中略)
クリマンジュウは、パサパサとした舌ざわりで、中に入っている固い白餡はほのかに栗の味がした。

その床屋の前に、「つるや」という駄菓子屋があった。なめるだけで唇が真赤になるキャンディや、大きなラムネ菓子があたるクジが置いてある。

古びたビニールの買い物カゴの中に、2丁の鎌とタオル、そして2本の牛乳を伯母は入れた。伯母は森永の白い牛乳、私はコーヒー牛乳だ。店のケースの中から、伯母がそれを取り出すのを、ドキドキしながら私は見つめていた。
(中略)
「牛乳でも飲むけ?」
伯母が声をかけるまでだ。炎天下に置いた牛乳は、かなり生ぬるくなっているが、瓶のまわりについた水滴は消えていない。
「ああ、おいしい」
伯母はしみじみ喉を鳴らす。色白の伯母が牛乳を飲んでいるのは、とてもよく似合った。
「そんなコーヒー牛乳より、白い牛乳の方がずっと栄養があるよ」
タオルで汗をふきふき伯母が言う。
「白牛乳は甘くないから嫌い。コーヒー牛乳は甘いから好き」

江戸屋のコロッケはおいしいと誰もが言う。
肉はその真向いの店の方がいいというのは母の意見だが、やっぱりコロッケは江戸屋で買う。
昼どきともなれば短い行列ができるほどで、このおつかいは私の役割だった。買いに行く時は、必ず隣家の祖母のところにも声をかける。伯母や従姉たちも、ここのコロッケが大好物だった。
母に言われなくても、買う量はわかっている。コロッケは6個、トンカツは2枚だ。コロッケは15円だが、トンカツは80円もする。これは2枚とも父が食べる分だ。
(中略)
けれども父はごく当然のように、自分だけトンカツを食べる。私も食べたいといえば食べさせてくれるのかもしれないけれど、それよりもコロッケの方がずっと好きだった。
揚げたてのコロッケを包んだ包みは、ほかほかと温かい。しばらくすると、緑色の薄い包み紙から油がしみてくる。それはほんのわずかだけれど、幸福のしるしのように私には思われるのだ。
とにかく今日は父が家にいて、母の機嫌もいい。コロッケはたっぷりソースをかけて食べるととてもおいしい。ほくほくした芋の間から、ひき肉がたっぷりと顔をのぞかせるはずだ。
家に帰ると、母がキャベツの千切りをこさえてザルにあげている。鍋から湯気をたてているのは、たぶん豆腐の味噌汁だろう。けれども母は、熱いコロッケを1度も食べたことがない。私や父が食事をしている間、母は店番をしなければならないからだ。
父はテレビを見ながら、無表情にトンカツを食べる。1切れだって、私や弟にくれたことはない。父は漬け物が好きで、たいてい1皿を空にする。後から食事をする母親のことなど、1度も考えたことがないようだ。
こうして父はトンカツを食べ終わると、もう1枚のトンカツにびたびたとソースをかける。これは明日の朝、父が食べるものだ。なんでもこうして一晩ソースにひたしておくと格別の味になるのだそうだ。
次の日の朝食のテーブルにのる、その黒く盛り上がったトンカツは、ちょうど父親のエゴイズムの象徴のように私には思われた。
(中略)
その他の父の好物も、私はみんな嫌いだった。舟和の芋ようかんは、東京の大学へ進んだ時、父から土産に買ってくるように命じられたが、いつも忘れたふりをした。
食パンに黒蜜をたっぷり塗ったものも、父は目がない。私はなんて下品なのだろうと、悲しくなる。
(中略)
そんな時、私は池波正太郎さんのエッセイを読んだのだ。その中には、昔の下町の子どもの食べ物が、いきいきと描き出されている。
それによると、あの頃よく食べたおやつは、食パンに黒蜜をつけたものだったという。そしてトンカツをソースにひたし、ひと晩置いたものは、池波さんの好物でらっしゃるともいう。
(中略)
あのソースひたひたのトンカツを、もう2度と父は食べることができない。高血圧にソースは厳禁と固く医者から言いわたされているからだ。そのかわり、私が時々、“舟和の芋ようかん”を買って帰る。今のところ、父はそれで満足しているようだ。

「今日、お肉屋さんに行った時ね」
母が突然得意そうに言った。
「豚を四角く切ってもらったんだよ。そしたら、向かいの用品屋のおばさんが、この肉どうするんですかって聞くわけ。だから酢豚にしますって言ったら、へえーッ、そんな“ごっちょう”するんですかってもう目を丸くしてね……」
(中略)
「店が大変だからって、毎日のおかずはね、丼ご飯の上に魚肉ソーセージを切ってのっけたのだって。それを毎日食べるんだって。そのかわり、日曜日は毎週お寿司屋さんから出前をとって、お腹いっぱい食べるんだって」
「わー、マリコ、そっちの方がいい」
私は本気で思った。なぜならその頃、お寿司を山ほど食べたいというのは、私の大きな夢であったからだ。
「嫌な子だねえ」
母はなんと情けないことをいうのだというような目つきで私を見た。
「そんなの人間の暮らしじゃないんだよ。ご飯っていうのは、少しずつでもいいからおいしいものを毎日食べなくっちゃ」
家政学を学んだ母親は、やろうと思えばいつでもフルコースをつくれるというのが自慢だった。
「マリちゃんはかわいそうだね。おいしいものをなんにも知らないから」
そうかなあと思う。近所の人も認めるとおり、母は“ごっちょう”してくれて、夕方、ほんのわずかな時間に台所に入り、さまざまな料理をつくってくれたものだ。じゃが芋を細かく刻んだものに、ひき肉、玉ネギを混ぜたオムレツ、春にはちらし寿司、炊き込みご飯……もちろん、これらも勤め人の主婦から見れば簡単なものかもしれないし、ミリン干しや鮭の切り身を焼いたものが続く日もあった。

「店をやめたら、今度こそじっくりと本とつき合う。1日本を読んですごす。それが私の夢」
とたえず言っていた母は、自分のために、いくつかの全集は返品しないでおいたらしい。先日帰郷したら『昭和文化史』の第1巻が置かれていた。
「へえー、こんなもの読んでるの」
とひろげた私に、母が笑いながらクッキーをさし出した。
「私が焼いたのよ。40年ぶりだね、クッキーを焼くなんて」
その手づくりのクッキーは、私にとって初めての味だった。さくさくとしたバターの味を舌にうけとめながら、母の口癖だった「ふつうの暮らし」とは、実はこういうことだったのかと私は少しわかりかけたような気がした。

さて、高校第1日めの私のお弁当は、父親の白い大きなハンカチで包まれていた。中を開ける。そのとたん、私は、もう少しで笑い出すところだった。シソの葉と梅干しで、ご飯の上に人の顔が描かれているのだ。それはちょっと泣きベソをかいているような気がした。おかずは卵焼きとウインナソーセージ、そしてつくだになどが、彩りよく盛られていた。
(中略)
その中で1人、登山部の男の子の弁当は、いかにもうまそうだった。たぶん農家の子どもなのだろう、まだ時期には早いナスを焼いてソースをかけて、ご飯の上に敷いてある。天ぷらを煮たようなものもしっかりと色が濃い。甘辛い味まで想像できそうで、私は思わず唾を飲み込んだ。
(中略)
「あなたのお弁当いつもおいしそうだね」
しかし私が期待していたような反応はなかった。彼はジロリと横目で私を見て、何ごともなかったようにナスにかぶりついていった。
「明日からさ、私のお弁当、ご飯の上におかずのっけてくれない。私、おかずの味がしみ込んだの好きなの」
さっそくその夜母に言った。
(中略)
「そう。私はご飯とおかずが混じったのは昔から嫌いだから。だいいち品が悪いじゃない」
母は不満そうだ。そういえば、女の子は丼ものをあまり食べない方がいいとよく言われていた。大正生まれの母は、こういうところがひどく古風なのだ。
それからすぐ、私は自分で弁当をつくるようになった。そうはいっても、朝起きればご飯は炊き上がっているのだから、お菜をつくるだけだ。たいてい冷蔵庫の中にあるものを、フライパンひとつですむように考える。となれば、毎日卵焼きとウインナソーセージとなった。緑が欲しい時は、ピーマンを焼いたりする。ひき肉がある時は、三色ご飯もつくる。しかし、これはそぼろ卵が綺麗にいかず、ただの薄汚い、いり卵になってしまった。
(中略)
最初のうちは、弁当をつつむナプキンや、箸まで気をつかっていたのが、やがて昼休み、クラブの部屋で食べることを憶えると、弁当づくりはがぜんぞんざいになった。一緒に食べるのが、気のおけない女の子ばかりなのだ。冬になると、その子たちも私も、よくマグロのカス漬けを焼いてきた。あれは海のない山梨県ではとても好まれるもので、安いし、四角い形が弁当のおかずにとてもよい。
(中略)
小さい陽気をもう1個持ってきて、それにレタスやトマトのサラダを入れておくというのもみながしていた。そのために、小さなマヨネーズのチューブさえ持参するほどだ。

ひな祭りになると、母は巻き寿司をつくる。かんぴょうにシイタケに卵焼き、それにそぼろを入れた太巻きだ。
「そうら出来たよ。今年のは急いでつくったから、あんまりおいしくないかもしれない」
と毎年同じことを言う。そうして「どれどれ」と、コタツの中から甘酒を出してくれるのだ。
酒カスを使う甘酒はずっと後のことで、長いこと麹をコタツの中で発酵させ、それをのばしたものを私たちは甘酒とよんでいた。
(中略)
毎年三日になると、巻き寿司を詰めたお重と、甘酒を持って私たちは川原へと向かう。他の場所ではどうだか知らないが、私たちはひな祭りは川原へ行くものと決めていた。あたりの草はやわらかい緑になって、流れる水はキラキラしている。そして私たちは近くの石に腰をおろし、持ってきたお重をひろげるのだ。
お寿司はみなで交換する。他の友人たちもそうだろうが、私は自分の家の寿司がいちばんおいしいと思う。海苔も上等の真黒なものだし、かんぴょうもシイタケもしっかり煮しめているから味が濃い。もうこれ以上食べられないと思いながら、もうひとつもうひとつとてを出し、お重ぎっしりのお寿司を食べてしまう。
誰かの命日や祭りの日に、母はよくこの巻き寿司をつくったが、やはりひな祭りの日の、そぼろの桃色が多めの寿司がいちばん記憶に残っている。

々の親というのは、運動会となると、実にさまざまに心をくだいてくれた。まだ青いミカン、ゆでた栗など、秋のハシリのものも必ず用意してくれたはずだ。

ごく自然に二家族は一緒に弁当を食べたのだが、とても喉にとおるどころではない。フジハラ君のサンドイッチに比べると、母の巻き寿司はいかにも田舎くさく見えた。
「フジハラ君、こっちのお寿司も食べてちょうだい」
それなのに母はしつこく彼にすすめる。私といえば、ずっとおし黙っていた。
「これ、お婆ちゃんから」
母が思い出したように、平べったい包みを渡した。崩した毛筆で「真理子様」と書いてあった。中を開けると、今まで見たこともないほど大きなハーシーのチョコレートだった。

その日、私はS君の家の風呂に入り、カレーをご馳走になった。その後、私はよく葡萄園に手伝いに行くのだが、たいていメニューはカレーライスだった。それに刺身の大皿がつく。おかしな取り合わせだが、山国の人は刺身がいちばんのご馳走だと思っているところがある。
ごく最近、私はある人が、
「山梨の人って、すぐにお刺身を出してくれるのよね。それがちっともおいしくないの。あんなひどい刺身を出すんだったら、山菜を食べさせてくれればいいのに」
と言ったのを聞いて、少し腹が立ったことがある。刺身は最高のもてなしだと、みんなは信じているのだ。

どちらの家のカレーもとてもおいしかった。入っている肉はコマギレだが、じゃが芋もニンジンも新鮮でとろりと甘くくずれる。私はどんなに本場のカレーであろうと、水っぽいカレーは許せないところがあるのだが、農家のカレーというのは茶色のしっかりした粘度を持っている。お米もぴんと立って、流れていこうとするのをしっかりと防ごうとしているようだ。
赤い福神漬けをたっぷりのせると、赤い汁がしみ出し、それと白いご飯を混ぜ口直し的にとっておく。カレーの部分はひと息に匙で流し込む。やがて額のあたりに薄く汗がにじみ出し、やかんからもらう氷入りの水は3杯ぐらいおかわりする。
うちは料理自慢の母だったが、カレーだけはいまひとつだった。粘度が少なく、びそびしょと飯の下に沈んでいくのも気にくわない。私はA君やS君の家のカレーを説明し、
「うちもあんなふうにしてちょうだい」
としょっちゅうねだったものだ。すると母は、
「そこのうちはメリケン粉をやたら入れるからだよ。あれは舌感触が悪いから、私はあんまり好きじゃない」

さて、ラグビーをやっているS君もA君も、その食べっぷりは非常に気持ちいいものだった。皿をかかえ込むようにし、五口ぐらいでカレーを食べてしまう。そうかといって、母家へ行っておかわりを頼む気はないらしく、
「あーあ、腹いっぱいだァ」
とダミ声をあげては、畳の上にごろっと横になるのだ。

そんな時、先輩は「ハアーイ」と明るく声をあげ、器用にすぐさま焼きうどんなどつくってやるのだ。

「たまにね、お母さんが上京してめんどうをみるの。その時、お土産にバターをいっぱい持ってくるみたい。しばらくは彼、コンロを使ってお料理するからバターのにおいがいっぱいするのよ」
(中略)
それはバターがこげる香ばしいにおいだった。肉の脂のにおいもする。Mさんだとすぐに私はわかった。ふだんは外で食事をすませているらしいのだが、きっとお母さんがバターや肉をたっぷり持ってきたのだろう。

たぶん昔はカツなどというものは大変なご馳走で、それを卵でとじるのはなんともったいないと人は思ったのだろう。山梨のカツ丼は、たきたてのご飯の上にカツとキャベツを山盛りにのせ、ウスターソースをかけて食べる。
これはそうあたりはずれがない。ソースの量は多すぎても困るが、少し余分にかけておくと、カツを通過したソースは旨味を帯びて飯粒にしみ込んでいく。
(中略)
私は高校1年の夏休み、葡萄農園でアルバイトをしたことがあるが、食堂でこの“カツ丼”を出すと観光客は目をぱちくりさせる。
店の方もこころえたもので、
「じゃ、これ、卵でとじましょうか」
などとすぐにフォロウすることになっている。東京から車で1時間半という場所で、結構堅固にこの“カツ丼”圏は存在しているのだ。ちなみに、ふつうのカツ丼は、“煮カツ丼”といって、“カツ丼”より50円から100円高くなっているはずだ。
(中略)
母が家でカツを揚げた。あれは夏のことだ。つけ合わせはキャベツとトマトだったし、漬け物のキュウリの緑もはっきりと思い出すことができる。
父と弟、そして私のために、母は3枚のカツを揚げるとすぐに店に行った。店番の父と交替するためだ。
その後、ご飯をよそい、箸を整えたりするのは私の役目だった。母はおごったらしく、カツはぶあつくて、こげ茶色の油をじゅうじゅういわせている。
ふと思いつくことがあった。私は自分のカツの皿だけを持って台所に入り、手早く玉ネギを切り始めた。高校2年生の私は、もうそのくらいのことは十分にできた。フライパンに醤油と砂糖、ダシの素を入れる。煮たってきたら玉ネギ、その合い間に卵をとくことも忘れなかった。
こうしてできあがった私のカツ丼は、かなり成功したといってもいい。しかし、私の思いつきは、たちまち家族の非難をあびたのだ。
箸をとらないでいた弟は、ぶつぶつ私をなじる。
「なんだよ。台所でガタガタいってるから、まだおかずをつくってるんだと思って待ってたんじゃないかあ」
「自分勝手なことをするんじゃない」
と父。
母までが騒ぎを聞きつけてとんできて、
「嫌だね、せっかく揚げたてを食べさせようと、こっちが一生懸命やってるのに。カツはそのまま食べるのがいちばんおいしいのよ。そういう維持汚いことをするから太るんだよ」
と言う始末だ。

大学の正門前に、「増田屋」というありふれた名前のソバ屋があった。ここは私と友人の行きつけの店だったが、昭和47、8年当時、カツ丼は380円だったと記憶している。“上”は500円だった。
「よし、今日はブルジョワしちゃおう」
とみなでかけ声をかけなければ、まずカツ丼など注文しない。それよりも私たちが好んだのは、「タヌキ丼」というやつだ。これは“揚げ玉』をたっぷりと卵でとじている。240円でおみおつけもついてお腹いっぱいになった。
(中略)
それよりも、東京に出てきてから私の舌はさまざまなものを経験しはじめ、カツ丼を食べる金があったら、ピザやドリアの方を選んだ。それはいかにも都会の味で、セブンアップを一緒にピザを流し込むという行為は、他の2食を犠牲にしても、確保しなければいけなかったものだ。
(中略)
朝は学校の近くの喫茶店で一緒にモーニングサービスを食べる。昼間は学食かもしくは安いレストラン。テニスの練習が終わった後は、ビールを飲みながらスパゲッティやピザをつつく。

裏に和菓子の作業場があり、ショーウインドウには、大福や団子、きんつばなどが並んでいる。昼どきには、おにぎりやいなりずしも、アルミの盆にどっさり並べられていた。
テーブルが6つほどあって、客は好きなものをそこで食べることができた。
「アン団子1本、それにのり巻きを2本乗っけて」
と叫ぶと、白衣に三角巾の女店員が小皿に持ってきてくれる。お茶は飲み放題で、たいてい200円でお釣りがきた。
(中略)
そこの女店員はとても感じがよく、30円ののり巻き、40円のおにぎり1個といった注文にも決して嫌な顔をしない。時々は私たちと軽口をたたいたりする。
私はそこのクリームアンミツが大好きで、しょっちゅうそれを食べていたのだが、私の時はほんのちょっぴりおまけをしてくれていたような気がする。寒天は盛り上がるようになっているし、ギュウヒも他の人より多く入っているようだ。こういう甘味屋でのエコヒイキというのは、こちらも気がとがめなくていい。
ピンポン玉を半分に切ったようなかたちをして、餡とアイスクリームが並んでいる、それを匙で混ぜ合わせると、灰色に溶けていく。餡とアイスクリームというのは実によく合う。それでもまだ溶けていない純粋なアイスと餡の味をかわるがわる楽しみ、その合い間には寒天で舌を整える。最後には汁まですくってなめた。
ピザだ、ドリアだといっても、毎日食べるのでは飽きてくる。けれども、「丸福」のクリームアンミツは、3食食べても平気なような気がした。
講義が終わってテニスコートに行く前、ラケットを小脇によくこの店に寄った。のり巻きを2本とクリームアンミツをお腹に入れてから練習にのぞむのだ。
(中略)
けれども“禁おやつ”というのはつらかった。食事といえば、大学の寮で出してくれる丼飯に煮魚のようなものばかりだ。たまに先輩たちが差し入れてくれるケーキはあったが、分配されるので、好きなだけ食べるというわけにはいかない。

そのシナコさんと池袋で会った帰り、駅前のアンミツ屋でミツ豆を食べた。

ウエイトレスのコたちはテーブルに腰かけてお喋りを始め、私たち厨房に入っている女の子たちは、さっそく蜜の間などに腰かけてパーティを始める。自分の好きなものをつくって食べ始めるのだ。
なにしろ寒天も、アイスクリームも、果物の缶詰めも、売るほどある。(あたり前か)私など、「マリコ風スペシャルアンミツ」と名づけ、栗にバナナ、アイスクリーム、白玉を山のように飾っていただいたものだ。
(中略)
社長は不愛想な大男で、たぶん私のことを全く頼りにはしていなかったと思うのだが、それでも「フルーツアンミツ」のやり方を伝授してくれた。これができるようになると一応、厨房のことは任せたという証になるのだ。
りんごをウサギさんにむき、そのまわりをバナナやミカンの缶詰めで飾るのだが、その配置とウサギさんの背中の角度に、彼はひどくこだわった。
「こうして、包丁で円を描くようにするんだよ」
手にとって教えてくれた。やってみるとこれがひどくむずかしい。刃を途中で止めると、ウサギさんの背中は角ばってあまり可愛くないのだ。ひと息に丸くむけるようになるまで1か月はかかったと思う。なにしろ「フルーツアンミツ」は、店でいちばん高価なメニューなので、めったにオーダーがなく練習ができなかったのだ。
時々、社長は釜いっぱいのお湯を沸かすように命じる時がある。白玉をこしらえるのだ。さすがに慣れた手つきで白玉粉を溶き、それを丸めながらお湯の中に落とす。
(中略)
社長のシワだらけの手による白玉はかたちがよい。やや楕円形で、へんな表現かもしれないが気品があった。私がこさえるものはまん丸だ。ぽとっぽとっと湯の中に落とすと、やがて透きとおるように白い玉が浮き上がってくる。やった人はわかるだろうが、白玉づくりというのはとてもおもしろい作業だ。そしてつくりたての白玉のおいしいこと。これはもちろん、試食と称して、さっそく口の中に入れてわかったことだ。
私はぜんざいのつくり方もここで習った。厚手の鍋につぶし餡を入れる。こがさないように熱しながら、ひょいと手をのばし、近くで煮えている汁粉のつゆを入れる。ちょうどホワイトソースをつくるようにしながら、粘りとつやを出すのだ。そして湾の中に、焼きたてのモチを2切れ入れる。その上に餡をかけると、ジュッとかすかな音がして、香ばしいにおいが漂ってくる。今でもぜんざいを注文する時、あの私がつくったようなものを期待するのだが、たいていは餡を入れただけのものの方が多い。

彼女は食パンの上に納豆をかけて食べていたのだ。
「あ、マリちゃん、もう帰ってたの」
彼女は私に座布団をすすめてくれた。
「お茶飲む? 私、白湯なんだけどいいかな」

Bが来る時は、A子はもちろん白湯ではなくインスタントコーヒーを出し、せんべいやスナック菓子を並べていた。

あの事件があってから2か月たった頃だろうか、彼女はなんとフランクフルトドッグを20本近くビニール袋に入れて帰ってきたのだ。
「駅前のパーラーに、このフランクフルトを揚げるコーナーがあったのね。私、おととい友だちとそこへ食べに行ったら、バイトしてた男の子とすっかり仲よくなっちゃったの。いろいろ話して、またおいでって言われたから今日も行ったの」
なんでもカウンターの端っこに腰かけ、閉店までいたら、彼は売れ残ったドッグを全部くれたという。
「おいしいよ。マリちゃんも食べなよ」
皿に盛ってすすめてくれるので、私も1本口にしたが、固いドッグなど少しもおいしいと思わなかった。
(中略)
「食べきれないね、こんなにたくさん。明日の朝、フライパンで焼き直してたべよーっと」

納豆トーストを軽蔑するどころではない。毎日食パンに砂糖をつけて食するような生活が続いた後、なんとか盛り返して私はコピーライターになった。

「ところでお昼、何にする」
「なんでもいい」
「うちの近くに、フライドチキンがあるからそれにする?」
「フライドチキンってなんなの」
「結構おいしいわよ。食べてみない」
鎌倉のケンタッキーフライドチキンは、日本でも何番目かの店だったと思う。今から13年前、この地で私は初めてこれを口にしたのだ。
まだ客もそう多くなく、私たちはゆっくりと腰かけることができた。揚げたチキンがふた切れ、それにパンがついている。カラ揚げのようなものを予想してかぶりついた私だったが、香料をふんだんに使った味は、それまで経験したことがないものだった。よくしゃぶると、トリのうまみが舌にからみつくようだった。昔のケンタッキーフライドチキンの方がおいしいと思うのは気のせいだろうか。もっと大きかったように思うし、肉汁も多かった。喉が渇いて何度もごくごくとコーラを飲んだ。
フライドチキンとコーラは実によく合う。骨までしゃぶるように食べた後、私は小さな溜息をついた。鎌倉というしゃれた町で食べているせいか、このフライドチキンという食べ物はいっそう価値を増すような気がする。
「おいしいね、これ」
「そうお、東京にもあるはずだよ」

逗子マリーナには、「海賊しゃぶり骨」というメニューがあった。今のスペアリブだ。フライドチキンにしてもそうだが、私はしつこくしゃぶるような食べ物が好きだった。3人で歯をむき出しにしてかじる。皿の上に骨が山積みにされていく光景は壮観だったと思う。

私はいつもケンタッキーフライドチキンのスナックとコーラを買ってくることにした。よく飽きないと自分でも感心するほど毎日食べ続けた。
(中略)
「また、食べたの。これ添加物漬けのニワトリでつくってんだよ。毎日食べてると体に悪いよ」
そのかわりというわけでもないだろうが、糸井さんは時々おはぎや焼き芋を買ってきてくださった。

「冷やしソバでも外に食べに行こうよ」
「そうね。でもこのへんはおいしいとこはどこもないわよ」
「そうかあ……」
私はガラの悪い男が多い、このあたりの食堂を思い出した。
「あーあ、お鮨をお腹いっぱい食べたいなあ。カウンターで好きなものを握ってもらうのが私の夢なの」

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なみなみとそそいでくれたお茶は、濃くて大そうおいしかった。
やがて注文した中トロが私の前に置かれた。十分な厚さの上に、ちゃんとしたトロだった。グルグルまわる鮨の、紙のようなトロを想像していた私にとって、意外なことだったといっていい。
トロばかりではなく、その後頼んだイカも赤貝もアナゴも、ちゃんとした鮨屋で食べるものと遜色ないものだった。私はここで、初めてお腹いっぱいおいしい鮨を食べるという経験をしたのだった。
(中略)
その時の恨みを晴らすように私は食べ続け、最後の卵を口にする時は、気持ち悪くなるほどだった。それで値段は1200円。10年前とはいえ、信じられないような安さだった。
私はまるで宝物でも発見したような思いで、その「熊っ子鮨」に通い続けた。
(中略)
「熊っ子鮨」は、ビールなどいっさい出さない。客はさっと食べてさっと引き上げる。
(中略)
トロはやっぱり厚く、よく脂がのっていた。イカもぷるりと白い。鮨飯の加減といい、握りのやわらかさといい、場末の立ち喰い鮨とは思えないほどだ。
(中略)
「あの頃はお金がなくて、ここでお鮨を食べるのが唯一のごちそうだったの。昔から安くて本当においしかった……」

砂利道が続いているというのにサンダルをはき、毎朝コーポ・オリンピアの下の「サン・ジェルマン」までパンを買いに行ったのだ。
もちろん買うのは長めのバゲットだ。
(中略)
私の計画だと、カフェ・オ・レと、サラダにフランスパンを食べることになっていたのだが、出勤時間が迫っていることもあり、パンをひきちぎってマーガリンを塗るぐらいがせいぜいだった。
それでも焼きたてのフランスパンは、香ばしく実においしかった。若く丈夫な歯には、あの固さが嬉しく、中のふんわりしたやわらかい部分はつけ足しのような気がしたものだ。

私の知っている食パンを切ったサンドウイッチとはまるで違う。半分に切ったバゲットがどんと皿の上に横たわり、熱々のソーセージが間にはさまっていた。困惑しきっている私たちの表情を見てか、女主人がナイフとフォークを持ってきてくれたのだが、固くてどうしても噛み切れない。

初めて専門店のフランスパンを食べた時、これほどおいしいものだったのかとうなった憶えがある。気がつくと、30センチのバゲットを半分以上食べていた。いわば私にとって、フランスパンを好むかどうかというのは、都会生活のリトマス紙のようなものなのである。

中央線の中、ボストンバッグに入れたフランスパンは先っぽがはみ出していた。
「何もこんなものかついでこなくたって……」
母はあきれたように言った。
「これ、冷凍庫に入れといて。後でオーブントースターで焼くから」
その傍らで、まだ高校生だった弟が、さっそく手を出してかじっている。
「なんだよ、このパン。固くってまずいじゃないか」

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テーブルの上には確かオードブル、鳥のシギ焼き、牛肉の天ぷらなどがいっぱいのせられていたと思う。奥さんは料理が得意で、こういう人寄せの時はとてもイキイキしていたと思う。

コタツの上には、4分の1ほど食べたケーキがあった。彼はふんぱつしたらしい。生クリームに苺のケーキだ。コタツの熱で少し下の方が溶けている。

「平気だよォ。あんなもん誰にだってできるよ。それにむこうで食べる刺身定食のうまいこと、なあ」
「ああ、700円で刺身と天ぷらがつくんだけどさ、信じられないぐらい安いよな。それもできたてでさ、新鮮なのこのうえなし」

「さあ、メシだよォ」
おじさんが呼ぶ。床の上にはコンロが置かれ大きな鍋の中にはぐらぐら煮えたった味噌汁があった。そしてカツオの甘からく煮たもの、漬け物などがタッパーに入っていた。ジャーのご飯もつんとたったいい米で、私はなんと2杯半も食べてしまったほどだ。簡単なメニューだったけれど、味噌汁はつくりたてで腹わたにしみるほど熱く、早起きした私には素晴らしくおいしかった。

帰りはデザイナー達が絶讃した市内の定食屋に行った。ところが1年の間に、刺身定食は値上げされたうえにひどく味が落ちていたようだ。「食べきれないほど」の刺身や天ぷらなどどこにもなく、赤いマグロが数切れと、衣ばかりのさめた天ぷらがあっただけだ。

弁当だと嫌な会社の人間とランチをとることもなく、ゆっくりとお喋りができるのだ。
もちろん、私の弁当は卵焼きに冷凍のハンバーグぐらいの簡単なもので、Y子のいつもたっぷりと気前よく分けてくれるお菜が目的だ。
「これ、ママがマリコちゃんが好きだからってつくったのよ」
西京漬けも、お煮〆も、たっぷりと手間とお金がかかったものだ。デザートの果物まで用意されている。
(中略)
しかし、この私とて意地も義理もある。いつもご馳走になってばかりでは悪いと、私は見よう見まねでサバ鮨や筍飯をこしらえたものだ。

次の日は、いつもよりずっと早く起きて天ぷらを揚げる。専用の鍋などあるはずはないからフライパンだ。半月型の網をひっかけておけば、一人分ぐらいの揚げ物はこれでできた。油が少ないハンディを乗り越えて、カラッと揚げるために衣には注意する。必ず氷水を使い、かき回しすぎないようにというのは、母の手伝いをして知った。小エビやネギがあれば、余った衣でかき揚げができるのだが、一人暮らしではちょっと無理だ。
それでも大きめのタッパーに揚げたての天ぷらをかたちよく入れ、シソの葉を飾るとなかなかのものに見える。

高架の下がスーパーマーケットになっている。インストアで、サン・ジェルマンの焼きたてのパンもあれば、総菜屋やおにぎり屋もある。
食いしん坊の私は、クロワッサンを買った後、またつられて栗おこわを包んでもらったりするのだ。

その地方の一流ホテルは、1500円から高いところでは2000円もするくせに、今までおいしいと思ったところはあまりない。たいてい薄い鮭の切身に、袋に入った焼きのり、白す干しなどがつき、悪くするとご飯がぐちゃっとふやけていたりする。私はぴんと立っていないご飯を罪悪視しているので、それを見ただけでげんなりしてしまうのだ。

ルームサービスで、和朝食を出すところは珍しいが、あそこはちゃんとやってくれる。それも、すぐ隣りから運んできたようなできたてのやつだ。分厚い紅鮭は、表面の脂がまだじゅうじゅうと音をたてていたし、豆腐の味噌汁は舌がやけどするほど熱い。海苔も無粋な袋に入らず、真黒なバリッとしたやつが木の箱にたっぷりと入っている。

素朴といえば、湖での撮影をするために行った下諏訪の温泉で、不思議な朝ご飯を食べたことがある。分厚い一枚板の上で鍋がぐつぐつ煮えている。中に入っているのはキジ肉とソバの実だ。私たちはてっきり後でご飯が来るものとばかり思っていたが、それが主食だった。
ところがソバの実というのは、思っていたよりもずっと腹もちがいい。からだもあったまる。最初はけげんそうにしていた私たちも三杯汁を飲む頃には「うまい、うまい」を連発しはじめた。ひなびた、というには贅沢なだしをとってあって、濃くも薄くもなく本当にいい加減だった。四角い皿に、カマボコ2切れ、ワサビ漬けちょびっと、ビニール入りの海苔が並んでいる、旅館の朝食セット。
これにうんざりしていた私にとって、信州の山の味はとても新鮮なものに映ったのだ。

「あそこはいいよ。朝食がうまいもんな」
「そんなことねえべよ。ふつうのバイキングだったぞ」
「いやあ、筋子が山盛りになってるんだよ」
「本当かよォ、そいつはすごいなあ」
それを小耳にはさんだ私は、翌朝早起きをした。筋子がなくならないうちに食事にありつこうと思ったのだ。胸をドキドキさせながら、最上階のレストランに行くと、確かにキュウリもみと、つくだ煮にはさまれて、ごく目立たないように筋子の丼が置かれていた。

ずっと以前のこと、仲よしの男の子と一緒に、「ニュー・トーキョー」のバイキングに行ったことがある。ここは安いということで定評がある。確かその時も、1200円かそこらで食べ放題だったと思う。
大皿になにやらおいしそうなものが山盛りに盛られている。それだけで私は浮き足立ち、ふだんよく慣れているものをガツガツと食べ始めたのだ。焼きソバやチャーハンはすぐに腹を満たし、魚のあんかけ、チャーシューといったものを発見する前に、私はリタイアしてしまったのだ。

銀の皿には、スモークサーモンや数々のイワシ料理、タルタルステーキもある。鍋の中でぐつぐつ煮えているソース類、ビーフシチュー、デザートも数えきれないほどだ。
(中略)
冷肉にビーツのサラダをたっぷり盛った後、すぐ横で湯気をたてている煮込み料理からも目が離せない。
(中略)
ここに3度ほど行ってわかったことであるが、若い頃はどうしても肉料理の華やかさに目がいきやすい。しかし、つい半年前にここを訪れた時、スモーガス・ボードの本意というのはイワシではないかということに思いついたのだ。
イワシの酢漬けなどという料理が、こんなにおいしいものだということがそれまでわからなかった。日本でとれたイワシかもしれないが、西洋の酢と香辛料を使ってモダンな味になっている。私はこれをいっぺんに6匹食べてしまったほどだ。

私が知っている、いちばん豪華なパーティビュッフェは、茶ソバのキャビアがけだ。
(中略)
「うまい、うまいなあ」
はしゃいだ声に振りかえると、知り合いのディレクターが黒っぽい茶ソバをすすっている。よく見るとそれはキャビアの粒々だった。
「キミもやんなさいよ。ソバの中にキャビア入れるとうまいよオ。キャビアソバだよ」
私はひと山キャビアをすくい、ワンコ式になっている茶ソバの中に入れたが、あまりおいしいと思わなかった。

フグの料理というのはうまくできていて、華やかな前奏から入って、最後の満ちたりたフィナーレまで飽きさせることがない。白い大輪の花が開いたような前奏が私はいちばん好き。フグ刺の皿が並べられ、ヒレ酒が運ばれる瞬間というのは、確かにこれから始まる食事の幸福に酔う時だ。透きとおるような一切れ(私は三切れぐらいいっぺんにとるけどね)をつまみ、ポン酢の皿にひたす時の、わくわくするような気持ち。あれはヒラメやスズキでは絶対に味わえないものだ。
シンプルな店では、この後すぐ"フグちり"へといくが、この間に、中落ちのカラ揚げやアンキモを出してくれるところも多い。フグという繊細な味を、粗野なカラ揚げにするというのはちょっと乱暴なようだが、これがまたこたえられない。
(中略)
フグちりは、いい店とそうでない店とでは歴然とした差が出る。たっぷりと身を入れてくれるところでは、スープの味がまるで違うのだ。これは最後に雑炊をつくるといっそうはっきり分かるはずだ。
昨年の冬、有名なフグ料理の店に行ったところ、そこの主人がどんどん具を入れ、まだ煮えないうちにこちらの皿に入れる。驚いたことに、4分の1ぐらい野菜が残っている皿も、さっさと片づけてしまうではないか。きっと早くテーブルを空けてもらいたかったのだろうが、私はすっかり憤慨してしまった。きっとここの雑炊はまずいぞ、と覚悟していたらやはりそうだった。フグや野菜のうまみが、まだ飯粒にのりうつってこないのだ。けれど良心的な店だと、雑炊の味はとほうもなく深い。
「虎は死んで皮を残す」ではなく、「フグは消えて雑炊を残す」と言いたいほどだ。

肉よりも魚の方が好きになたのはいつ頃だろうか。
「山梨の人って、おサカナ食べたことあるの」
都会の人にこう尋ねられるまでもなく、山梨というのは海がない国だ。もちろん魚屋もあるにはあったが、私が幼い頃は、鮭の切身やカス漬けくらいしか売っていなかったように思う。そのかわり、ごちそうというと必ずマグロの刺身を出す。赤い冷凍ものだ。
今から20年ぐらい前は、輸送がそう発達していなかったのかもしれない。ミリン干しばかり食べていたような記憶がある。
(中略)
そういえば、庶民の味サンマも、山国の子どもにとってはなかなかのごちそうだった。夕飯が近くなると、庭で母が七輪の火をおこす。そこにサンマをのせると、まるで火事のような煙が出た。向こう側が何も見えないほどだった。
1匹を半分に切って皿に盛る。大根おろしをたっぷりとつけるところは、全国共通かもしれない。

「今夜はしゃぶしゃぶにしましょう」
と言って、突然スリ鉢を出したのには驚いた。ゴマをすって、タレをまずつくり始めたのだ。そしてテーブルにガスコンロを置き、大きな銅の鍋をのせた。しゅんしゅんと音をたて始めると、湯の中に固型ブイヨンを3、4個落とした。
冷蔵庫からとり出した肉は、見たことがないほど薄いものだ。それでもそこの家族には不満だったらしい。
「ダメね、あそこの肉屋さん。しゃぶしゃぶにするんだってあれほど念をおしたのに」
まだまだしゃぶしゃぶは珍しい時代だった。それをうちで食べるなんて……と、私はあらためて東京山の手の豊かさに目を見はったものだ。
さっきつくったタレが私の前におかれたが、食べ方がわからない。しばらく見て、みなのやるように箸で持って泳がしてみた。
「あら、マリちゃん、そんなに長く持ってなくてもいいわよ。さっと火が通れば」
とはいうものの、豚肉ばかりで牛肉をあまりそれまで食べたことがない私は、半分赤身のままというのには不安がある。しかし、上等な牛肉はするりと口の中にいくらでも入った。ゴマダレではなく、ポン酢で食べるとさっぱりとしてずっとおいしい。

「社長、今日の肉を見てよ」
大きな塊をこちらに向ける。
「いいねえ……」
桜色のそれは、最上等の米沢牛だという。主人はそれをスライナーの上に置いた。昔の氷水の機械のようなものだ。それが回転すると、「シュッシュッ」と快い音が起こった。
思っていた以上に肉は薄くスライスされている。ゆるい曲線をもっていて、ちょうど花びらのようだ。レースのように白い脂がふちを囲っている。さっと湯にくぐらせてもボタン色は残っている。
「こりゃ、うまい、うまい」
編集者は悲鳴のような声をあげた。薄いのに、肉のジュースが口の中にひろがるのだ。
(中略)
米沢には悪いのだが、私は半年後、三重に行く。そしてかの「和田金」で、松坂牛をお腹いっぱい食べてしまうのだ。スキヤキが水っぽくもしつこくもなく、焼きつけて砂糖をまぶすものだということを初めて知った。

林真理子著『食べるたびに、哀しくって…』より