たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

博士の愛した料理『博士の愛した数式』

ふとあるシーンを思い出して数年ぶりに手に取ったら、真理、霊感のアフォリズムにあふれていてよかった。以前は映画を合わせて見たこともあってか、cheesyギリギリだなぁ...と思ったのだが。

夕方6時、博士はいつもの調子で食卓についた。ほとんど無意識の状態で食べるため、骨を取ったり殻をむいたりする料理は不向きと考え、スプーン1本で野菜も蛋白質も一緒に取れるよう、クリームシチューを用意していた。

「お代わりはいかがですか? たっぷりとこしらえましたからね、いくらでもお注ぎしますよ」
私は油断し、心安く声を掛けた。返ってきたのは答えではなくげっぷだった。博士はちらりとこちらを見やりもせず、書斎へ消えていった。シチュー皿には、人参だけが残っていた。

私は人参をすりおろし、挽肉に混ぜてハンバーグを作っていた。博士に見つからないよう、そっと人参の皮をゴミ箱に捨てた。

チキンのソテーにレモンを絞り、付け合わせのインゲンを取り分けながら、博士はルートにいろいろな質問をした。

二歳の頃には、粗相をしたパンツをお風呂の残り湯で自分で洗っていたし、初めて包丁を握ってハムを刻み、チャーハンを作ったのは、小学校に入る前だった。

一番忙しいのは金曜日だった。週末用の料理を準備し、冷凍しておかなければならなかったからだ。例えば、ミートローフとマッシュポテト、煮魚と青菜、それらをどういう組合せで、どんな手順で解凍したらいいか、くどいほどに説明するのだが、結局彼は最後まで電子レンジの操作を習得できなかった。
なのに月曜の朝来てみると、用意しておいた料理はきれいになくなっていた。ミートローフも煮魚も電子レンジで解凍され、胃袋に納まり、汚れた皿は洗われて食器戸棚に仕舞われていた。

彼は気が向くとよく、台所で料理している私の姿を食卓から眺めていたが、餃子を作っている時は特に驚異の視線を注いだものだ。掌に皮を広げ、中身をのせ、ひだを4つ寄せながら包み、皿に並べる。たったこれだけの単純な繰り返しなのに、飽きもせず、最後の1個が完成するまで目を離そうとしなかった。あまりに彼が真剣で、時に感嘆のため息させ漏らしたりするので、私は妙にくすぐったく、笑いをこらえるのに必死だった。
「さあ、できました」
皿一杯に行儀よく並んだ餃子を私が持ち上げると、博士は食卓の上で両手を組み、感じ入ったようにうなずきながら言った。
「ああ、なんて静かなんだ」
と。

思わぬ騒動のおかげで、外食することになった。診療所を出た途端、3人ともひどくお腹が減っているのに気づいた。人込みの嫌いな博士のために、駅前の商店街で一番空いているお店を探し、カレーライスを食べた。空いているだけあってあまり美味しくなかったが、滅多に外食などした試しのないルートは大喜びだった。

私は片手にサンドイッチを詰めたバスケット、もう片方の手に紅茶のポットを提げていたが、あまりにもしょっちゅうルートがチケットのことを口にするせいで、こちらまで不安になり、時折スカートのポケットに手を入れてそれが無事かどうか確かめるはめになった。

2回の攻撃が終わり、早々にルートはサンドイッチを全部食べ終え、ジュースが飲みたいと言い出した。
(中略)
だた1人ルートだけが、ジュース1杯を買うのにどうしてこんなにもたもたしなくてはいけないのかと、文句を言っていたが、やがて彼女が近付いてくるたび、頼んでもいないのに博士が勝手にポップコーンやアイスクリームや2杯めのジュースを買ってくれたため、機嫌を直した。
(中略)
そのうえおじさんは私たちに、おつまみの殻付きピーナッツを分けてくれさえした。

自分のおかずがルートよりも多いと、博士は顔を曇らせ、私に注意した。魚の切り身でもステーキでも西瓜でも、最上の部位は最年少の者へ、という信念を貫いた。懸賞問題の考察が佳境に入っている時でさえ、ルートのためにはいつでも無制限の時間が用意されていた。何であれ彼から質問されるのを喜んだ。子供は大人よりずっと難しい問題で悩んでいると信じていた。

私は声を掛けても怒られないのかどうか判断できず、しばらく黙ったままピーマンの種を取ったり、玉葱の皮をむいたりしながら、ちらちら相手の様子をうかがった。博士は台所と食堂を仕切るカウンターにもたれ、腕を組み、ただじっと私の手元を見つめていた。妙に緊張して仕事がやり辛かった。私は冷蔵庫から卵を取り出し、卵焼きを作る準備をはじめた。
「あの......何か、ご用でしょうか......」
我慢できずに私は口を開いた。
「続けて」
思いがけず博士の口調が優しかったのでほっとした。
「君が料理を作っている姿が好きなんだ」
博士は言った。
私はボウルに卵を割り入れ、菜箸でかき混ぜた。好きだ、という言葉が耳の奥でこだましていた。そのこだまを鎮めるように、できるだけ頭を空っぽにして卵に集中しようとした。調味料が溶けても、だまがなくなってもまだ、箸を動かし続けた。どうして博士がそんな事を言い出すのか、訳が分からなかった。数学の問題が難しすぎて頭がショートしたとしか思えなかった。とうとう手がだるくなって、私は箸を止めた。
「それから、何をするんだい?」
博士の声は静かだった。
「えっと......そうですねえ、次は......あっ、そうだ。豚のフィレ肉を焼きます」
博士の登場で手順がぎくしゃくしてしまった。
「卵は焼かないのかい?」
「ええ。少し置いておいた方が、味がなじむんです」
(中略)
私はフィレ肉に粉をまぶし、フライパンに並べていった。
「何故そうやって、肉の位置をずらす必要があるのだろうか」
「フライパンの真ん中と端の方では、焼け具合が違いますからね。均一に焼くために、こうやって時々、場所を入れ替えるんです」
「なるほど。一番いい場所を独り占めしないよう、皆で譲り合う訳か」
今取り組んでいる数学の複雑さに比べれば、肉の焼き方など取るに足らない問題だと思うのだが、彼はいかにもユニークな発見をしたかのようにうなずいた。私たちの間をいい匂いが漂った。
引き続きピーマンと玉葱をスライスしてサラダにし、オリーブオイルでドレッシングを作り、卵を焼いた。すりおろした人参をこっそりドレッシングに混ぜようと思っていたのに、監視されているせいでできなかった。彼はもう喋らなかった。レモンを花形に切っただけで息を飲み、お酢と油が混ざり合って乳白色に変色すると身を乗り出し、湯気の上がる卵焼きをカウンターに並べると、ため息を漏らした。
(中略)
私は出来上がった料理と、自分の手を交互に見比べた。レモンで飾り付けた豚肉のソテーと、生野菜のサラダ、黄色くて柔らかい卵焼き。それらを1つ1つ眺めた。どれもありふれているが、美味しそうだった。今日1日の終わりに、幸福を与えてくれる料理たちだった。私はもう1度自分の掌に視線を落とした。まるで自分が、フェルマーの最終定理を証明したにも匹敵する偉業を成し遂げたかのような、ばかばかしい満足に浸っていた。

博士の替えの下着を買い、いい匂いのする石鹸を買い、アイスリームとゼリーと水羊羹を買った。

「果物でもお切りしましょうか」
私が声を掛けると、博士は安楽椅子に横たわったまま振り返った。
「すまないね」
(中略)
私はメロンを切って博士に手渡し、安楽椅子の傍らに腰を下ろした。
「君も食べなさい」
「ありがとうございます。どうぞお気遣いなく」
博士はフォークの背で果肉をつぶし、ぺちゃぺちゃ汁を飛び散らせながら食べた。

私はパン生地をこねている。夕食は久しぶりにパンにしようという話で3人まとまっている。ほかほかのパンにチーズやハムや野菜や、好きなものをのせて食べるのだ。

サンドイッチバフェディナーって素敵じゃない? 腹もち悪そうだけど寝るだけだしな。日本の実家にいたときは夜ご飯にパンを食べたことは一度もないけれど。

テーブルクロスは見事に蘇っていた。どうしようもなく全体を覆っていた皺が1本残らず消え、レース模様の一目一目が浮かび上がり、冴えないただの食卓を、気品高いテーブルに変身させていた。ヨーグルトの瓶に飾ってあるのは、中庭で摘んだ名前も分からない野草だったが、彩りを添える役割は十分に果たしていた。お行儀よく並んだ3人分のナイフとフォークとスプーンは、デザインが不揃いなのに目をつぶれば、なかなか堂々として見えた。
それらに比べ、料理はどれもありふれたものだ。海老のカクテル、ローストビーフ、マッシュポテト、ほうれん草とベーコンのサラダ、グリンピースのポタージュ、フルーツポンチ。ルートの好物ばかりで、博士の嫌いな人参はどこにも入っていない。特別のソースもなく、凝った飾り付けもなく、ただ素朴なだけの料理だ。けれど、とてもいい匂いを運んでくれる。
(中略)
ケーキは斜めに滑り落ちたらしく、半分が潰れていたが、残り半分は辛うじて形を留めていた。チョコレートで絞り出したメッセージは、博士 & ルートおめ、まで無事だった。とにかく私はケーキを3つに切り分け、ナイフをこてにして生クリームを塗り直し、落下して散らばった苺やゼリーのウサギや砂糖菓子の天使をバランスよくあしらい、どうにか体裁を整えた。そしてルートの皿のケーキに、ろうそくを立てた。

日曜の朝、サンドイッチを作ってバスケットに詰め、それを持ってバスに乗った。談話室でしばらくお喋りをし、テラスに出て一緒にお昼ご飯を食べた。暖かい日には博士とルートは前庭の芝生でキャッチボールをした。そしてお茶を飲み、またお喋りをし、1時50分のバスに間に合うようにおいとました。

小川洋子著『博士の愛した数式』から