たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

ミカンのコンポート & 手作りクッキーの大活躍 湊かなえ『ユートピア』

レストランで待ち合わせ、駐車場で一番に着いたことに気づき「自分だけがはりきっているようではないか」とつぶやくシーンはまさに日本の田舎。

車の有無で誰がどこを訪ねているのかが分かってしまうというね。

さらに車でなくても日本では靴を脱ぐので、襖の奥に隠れたのに玄関で不倫がばれる、というプロットもこないだ読んだな。

— そういや、パートの人たちが焼きカレーを食べたとか言ってたな。今流行りのパンケーキも食えるんだってさ。修一が言い、その週末の昼には早速3人で<はなカフェ>なる店を訪れもした。


それが合図であるかのように、カウンターの奥からジュッと音が上がり、香ばしいバターの香りが漂ってきた。好きな飲み物を1つ頼むようにと、まな板大の木の板に書かれたメニューがまわってきて、菜々子はカプチーノを頼もうかと思ったが、ホットコーヒーにした。「かぷちいの」と丸っこい文字で書かれたものを読み上げるのが気恥ずかしかったからだ。菜々子の隣の女性はカプチーノを注文した。(中略)2人の会話を遮るようにパンケーキと飲み物が運ばれてきた。


「桜餅150円を、100円にしようと思うんだけど」「いいんですか? そんなに安くして」「15年ぶりのお祭りだからね」


一番の引きは食べ物の無料配布だろうが。11時から5丁目でクラムチャウダーとエビマヨコロッケが先着500人に振る舞われることになっている。実行委員のすみれを中心とした芸術村の人たちが町おこしのために提案したレシピを、県立鼻崎高校の家庭科クラブを中心とるす有志メンバーが、かつて食堂だった場所を借りて作ることになっている。


おいしそうな揚げ物の匂いが漂っている。クラムチャウダーとエビマヨコロッケの無料配布に並んでいる人たちだ。


久美香が行きたがったので送り出したが、クラムチャウダーとコロッケなど並んで食べるようなものではない。いずれ、<はなカフェ>のメニューになると、実行委員の集まりのときにも聞いていたのに。なんだか、みっともない。


「そうだ、食べたいものをみんな、せーの、で指さしましょうよ。私、嫌なの。本当はグラタンが食べたいのに、時間かかりそうだからみんなと同じ日替わりでいいやとか、ちょっといいお肉を食べてみないなと思ってるのに、他のメニューより500円高いから、足並みそろえた方がいいかなとかって、遠慮するのもされるのも」光稀がメニューを広げたままテーブルに置いて提案した。「賛成。あと、全員分が揃うのを待たずに、料理が来た人から食べることにしません?」すみれもメニューから顔を上げて言った。「そう、ですね」同意しながら、菜々子は久しぶりとはいえ、ここが慣れたレストランでよかったと安堵した。でなければ今ごろ、慌ててメニューを広げているところだ。そんなことをしたら、皆と同じものを注文するつもりでいたことがバレてしまう。こんな提案をされたのは初めてだ。菜々子はラザニアを、光稀はミックスフライセットを、すみれはトリプルミートを注文した。トリプルミートセットとはビーフカツとポークジンジャーステーキと鶏のから揚げがワンプレートに盛られたボリュームのあるメニューだ。ビーフカツの衣には店の主人が独自にブレンドした香草が混ぜ込まれていたり、鶏にはレモンとにんにくで下味をつけていたりするが、そんなことはメニューのどこにも書かれていない。「<ピエロ>と言えばトリプルミートって、ネットで評判だから」

(中略)

最初に決めた通り、光稀、すみれ、菜々子、と料理が運ばれた順に食べ始めた。グラタン料理が好きな菜々子は、他の店でのランチ会でもこれまでに何度か、お待たせしてすみません、と言いながら食べた憶えがある。その場では皆、いいよ、と言ってくれるし、先に食べてくれと頼んでも、それくらい待つよ、と笑顔で答えてくれたのに、ある時、菜々子がまたグラタンを注文すると、ため息が聞こえてきた。いい加減気付けば? と言われたようだった。

(中略)

「おいしそうね」運ばれたばかりのラザニアを見て、すみれと光稀が声を合わせるように言った。熱々のホタテフライやから揚げを食べている2人からの言葉は本心のように受け取れた。「大好物なの」大好きだったメニューを遠慮なく食べることができる日が来るとは。


食事を終えた皿を下げてもらい、光稀とすみれはコーヒー、菜々子はミルクティーを注文したあとで、すみれが絞り染め模様の手提げかばんから、ハガキ大の何かを取り出した。


カレーの匂いが玄関まで漂っている。今日は健吾が食事当番だ。台所に向かうと、シンクに向かってレタスを千切っていた健吾が振り返った。

(中略)

菊乃さんの家庭菜園でできたものをわけてもらったのか、スナップエンドウが山盛りになったザルがテーブルの中央に置かれている。それを引き寄せて、ブチブチと筋を取り始めた。

(中略)

健吾は手をパンパンと払って、空になったザルに筋を取ったスナップエンドウを入れた。すみれも同様に、自分が筋を取ったものを元に戻した。一番の理解者である彩也子の保護者に難色を示されているのだ。「さっとゆがいて、熱々のうちにマヨネーズ付けて食おう」健吾は鍋に湯を沸かし始めた。

(中略)「おかわり」健吾の前に、空になったカレー皿を差し出した。食事当番だからといっておかわりまでよそう必要はないのだが、自然とそうしてしまったくらいにすみれは浮かれている。

「たった半時間で何があったの?」あきれたように言いながらも、健吾はご飯とカレーをつぎに席を立ってくれた。すみれはその間にスナップエンドウを3つ、口に放り込んだ。食欲がわかにのはトリプルミートセットのせいではないことを、ついさっきまですみれ自身気付いていなかった。


「ミカンのコンポート、よかったら食べて。学生時代にバイトをしていたレストランが出しているものなの」週に1度、光稀は手土産を持ってくる。東京の有名店のものばかりだ。


昼のうちにカレーの準備をしていたため、温め直すだけだ。


「ポテチがないんだけど」修一の酒のつまみはスナック菓子と決まっていた。小分けになったポテトチップスを買い置きしていたのだが、そういえば、夕方、久美香と彩也子におやつとして出したのが最後の1袋だった。こういう時に限って、総菜の作りおきも、商店街の人からお裾分けされた漬物もない。「そうだ、光稀さんからもらったのが確か……」菜々子は光稀に渡されていた紙袋から包装された小箱を取り出し、包みを開けた。コンポートと聞いてピクルスのようなものを想像していたが、縦長の瓶に皮を剝いたミカンが丸ごと3つシロップ漬けにされている。

「ミカンか。缶詰の中で俺、ミカンだけが嫌いなんだよね」

「でも、東京のレストランが出しているものらしいから、缶詰の味とは少し違うんじゃないかしら。光稀さんがアルバイトをしていたところだって」

ビールに合うかは別にして、菜々子はガラスの器を2つ用意すると、ミカンを1つずつよそった。久美香には朝食のデザートにしよう。先に、修一がフォークを刺してかぶりつく。

「やっぱり、缶詰の味と同じなんだけど」

菜々子もフォークで4等分し、1切れを口に運んだ。ミカンの缶詰じたい、十何年も食べていなかったが、なるほど、こんな味だったような気がする。


電話をテーブルに起き、キッチンに紅茶を淹れに行く。菜々子はミカンのコンポートをもう食べただろうか。夕食後のデザートにコンポートを食べた彩也子は、丸いままを1口齧るとフォークを置き、両手で挟み込むように頬に手をやった。

— 頬っぺたが、落ちちゃう、落ちちゃう。

子どもらしい仕草に、胸が和んだ。スーパーで売っている安物のミカンの缶詰とは違うのだから、おいしいのは当然なのだが。菜々子もひと言くらい、それらしい事を言えばいいのに、と思う。受け取るときに礼は言われても、後日、おいしかった、久美香も喜んでいた、などといった感想を聞いたことは一度もない。

これ、私は人に対して思ったことはないけど、まだ若いときに「前にあげたxx食べた?」と後で聞かれたことはある。ちなみにそのときはまだ食べていなかった。ここで書かれているような「いただきもの」ではなくてその人の家に余ってたスナック菓子だったこともあって、もらった瞬間に忘れていた。

「ええもん、あげたのに...」と不満をつのらせる記述はまだ続く。

すみれならコンポートを喜んで食べると思っていたのに、手を付ける気配がない。冷えたシロップのせいで、ガラスの器は汗をかいている。フォークは光稀が出した状態、テーブルに並行に置かれたままだ。

(中略)

「これ、いただくね」すみれがフォークを手に取り、ミカンの丸いカーブの部分に突き出して丸ごと口に運んだ。ウマッ、と果汁が口から溢れないように口をすぼめたままで言う。褒められても、今はまったく嬉しくない。早く飲み込んで続きを話せ、と苛立ちだけが込み上げてくる。そんなことはすみれは充分に察しているようで、蛇が卵を飲み込むように、数回咀嚼しただけでミカンを飲み込んだ。

(中略)

「ごめんね。スイーツだけ出して、お茶を淹れてなかった」そう言って立ち上がり、キッチンに向かう。「お気遣いなく。これって、<カモメ亭>のコンポートでしょ」すみれが座ったままキッチンを振り返る。「よく解ったわね」すみれから見える場所に瓶は置いていない。「今すごく人気だもん。まるごとくだものコンポート。そっか、確か、SICAさんが『ミツコの部屋』に出たとき、お土産に持っていって話題になったんだっけ」


「はい、土産」<鼻崎ユートピア商店街>1丁目にある和菓子屋<はなさき>の紙袋を目の前に差し出された。紙の匂いの向こうにあんこの気配を感じる。もなかか、どら焼きか。

(中略)

健吾は紙袋をテーブルから持ち上げると、丸いどら焼きを出して思い切りかぶりつき、残った半分をすみれの口に押し込んできた。モゴモゴと息を詰まらせるすみれを見て、ニッと笑う。


サブローは立ち上がり、膝に載せていた小さな紙袋をすみれに差し出した。受け取って中を覗くと、透明なビニル袋にクッキーが入っているのが見えた。黒と薄茶、緑と薄茶、紫と薄茶、それぞれの組み合わせの渦巻き模様と市松模様の、なかなか手の込んだクッキーだ。「手作りっぽいけど、サブローさんが焼いたんじゃないよね」「残念ながら、家庭科クラブの子にもらったんだ。

(中略)

「いいんだよ。地元の特産品を使った料理コンテストに応募するから、しっかりアドバイスをしてほしいってさ」「そういうことなら。サブローさんのお茶、淹れてくるね」すみれはサブローを残したまま家に戻り、マグカップに紅茶を淹れて戻ってきた。

(中略)

「ありがとう。でも、先にお茶にしよう」

窯の前に小さなテーブルを運び、マグカップと皿を置いてクッキーを出した。

「それぞれ味が違うんだって」

サブローがクッキーの説明をする。黒は黒ゴマ、緑はほうれん草、紫はむらさきいもをそれぞれプレーンの生地に練り込んだのだという。

「珍しい。ココアや抹茶かと思ってた」すみれは黒と薄茶のうずまきクッキーを1つつまんで口に放り込んだ。

「おいしい!」「どれも鼻崎町の特産品らしいよ」

サブローはほうれん草が練り込まれたものを口に入れた。

「うん、美味い」3種類、全部食べてみる。粉っぽさもなく、商品として通用するクオリティだ。正直なところ、<はなカフェ>のどのスイーツメニューよりも美味しい。鼻崎町の特産品が活きている。

「こっちからエビマヨコロッケやクラムチャウダーなんて提案しないで、このクッキーを作ってもらえば、あんなことにならなかったのかも」

海辺の町。そのイメージだけで考案した料理だった。


「あったかいココアを飲もうか。マシュマロ、浮かべてあげる」深夜〇時を半時間まわって明仁は帰ってきた。

お茶漬けをかき込みながら、「メール、何の用だった?」と光稀に訊ねる。


「上手に作ってるじゃない」「食べて。黒ゴマとほうれん草とむらさきいも」光稀はむらさきいものクッキーをかじった。サクリと歯ざわりがよく、ほどよい甘味といもの香りが口の中に広がる。「おいしい。ところで、火事場にいた子たちはみんな元気にしてる?」

(中略)

光稀は気付かないフリをして、今度は黒ゴマのクッキーを口に放り込んだ。こちらの方が好みだ。ブラックのコーヒーともよく合う。
不満を顔に出さないようにするため、手前のクッキーを1つ取り、丸ごと口に入れた。黒ゴマの風味が口いっぱいに広がる。意外なおいしさに感心していると光稀が盆にティーポットとカップを載せてやってきた。目の前にソーサー付のカップが置かれ、香りのよい紅茶が注(つ)がれる。しかし、これが楽しいお茶会でないことは、店を訪れた時から変わらない光稀の硬い表情が物語っていた。のどを潤すようにすみれが紅茶をひと口飲み、菜々子に向き直った。


光稀は2人の返事を待たずに店の奥に入り、電気ポットのお湯でカモミールティーを3人分作って、作業台まで運んだ。こういうときにこそ取り寄せっしたお菓子があればよかったのに、と後悔しても仕方ない。


マンションに着くと、彩也子はテーブルの上にクッキーを見つけた。「ピンクのうずまきだ」そう言って、手も洗わずにむらさきいものクッキーを1つ口に放り込んだが、光稀は注意をするどころか、今日1日の出来事が一気に頭の中に溢れかえり、ため息をついてダイニングチェアに深く腰を下ろした。


「お夕飯前だけど、ココアか紅茶を一緒に飲もうか。このクッキー、お祭りの火事の時に食堂を手伝っていた高校生のお姉さんたちが作ったんだって」

「へえ、そうなんだ。さっき食べたのおいしかったよ」彩也子が椅子を引きながら答える。

「遅くなったけど、火事の時にお世話になりましたって持ってきてくれたんだって。あの時のこと、順番に詳しく、ママに教えてくれる?」

彩也子はテーブルのクッキーに目を遣った。色とりどりのかわいらしいクッキーは心のこもった贈り物にしか見えない。


「新しいデザートメニューの試作品を焼いたんだけど、味見に来てくれない? すーちゃん、タルト、好きでしょう?」


<はなカフェ>に他の客の姿はなかった。ランチの時間にはまだ少し早い。9時にオープンしてモーニングメニューも用意しているが、地元の年寄りたちは、もっと早い時間から開いている古い喫茶店に集っている。エッグベネディクトなど興味ないのだろう。トーストとゆでたまごがあればいいのだ。中央の大きなテーブルの端につくと、早速、菊乃さんがコーヒーを淹れはじめた。カップを2つ用意している。るり子でもやってくるのだろうかと戸口に目を遣ったが、コーヒーが運ばれてもその気配はない。菊乃さんはタルトを載せた皿を持ってくると、すみれの隣に座った。

「花咲きタルト、っていう名前にしようと思うの」

その名の通り、直径約7センチの丸いタルト地の上には紫色の花畑が広がっている。「むらさきいものペーストを細かく絞ってみたの」

「この葉っぱの形のクッキーはほうれん草を練り込んでる?」

「当たり! 普通は抹茶だと思いそうなのに」

「タルト地が黒っぽいのは黒ゴマを混ぜてるから?」

「大正解よ。なんだ、すーちゃんもこの町の特産品のことを調べていたのね。食べてもらいながら、えらそうに講釈しようと思ってたのに」

(中略)

「味も厳しく評価してね」菊乃さんに促されてすみれはフォークを手に取った。花畑に地割れを起こすようにまっすぐ差し込み、放射線状に崩し、1口運んだ。「おいしい」「本当に? 趣味のお菓子作りじゃなくちゃんと売り物として判断してよ」「してるよ。むらさきいもや黒ゴマの味が生きてるし、はちみつの香りと甘さがすごくいい」

(中略)

「タルト、たくさん作ってるから、持っていきたいところがあれば箱に詰めるわよ」「じゃあ、2個入りを2箱」菜々子と光稀に届けようと思った。子どもたちが目を輝かせる様子が頭の中に浮かぶ。

(中略)

「菊乃さんの新作タルトができたの。光稀さんのところに持っていこうかと思ってたんだけど、今食べる?」「午後からの教室の準備があるから、コーヒーだけいただくわ」
新婦友人のテーブルで隣に座る梓が、鯛のカルパッチョを刺したフォークを持ったまま新郎新婦席をうらやましそうに眺めている。


箸で切ることができる柔らかいステーキを頬張りながら、小梅の結婚相手とのなれそめを聞いていると、背中と椅子の背もたれのあいだに置いたバッグの中でマナーモードに設定した携帯電話が振動しているのを感じた。

湊かなえ著『ユートピア』より

東京の名店お取り寄せのミカンのコンポート、地元高校生の手作りクッキーという小道具が、狂言回しとして大活躍している。