たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

日本の宅配ピザが好き 山本文緒『群青の夜の羽毛布』

この本も、以前読んだらしいのに、ひとつも記憶の引っ掛かりなし。ラストよかった。生きててよかった。

おなかは空いてないですか? ああ、そうでしたね。先生はいつも夕飯は済ませて来るんでしたよね。はい、わたしももういただきました。今日はおでんでした。風が冷たくなってくると、おでんが食べたくなって......え? 先生もそうだったんですか。気があいますねえ。でも、今日みたいに急に冷えると、夕飯におでんを作った家が多いんでしょうね。
ああ、そうですか。先生はちくわぶが好きですか。変なものが好きですね。あとは卵と大根とはんぺん? なんだか白いものばっかりですね。分かった、先生はおでん種より出し汁が好きなんでしょう。だから味が染みやすいのが好きなんだ。わたし? そうですねえ、わたしはタコが好きかな。おかしいですか? そんなに笑わないで下さいよ。
でもね、うちの家族はみんなタコが嫌いなんで、入れてくれないんですよ。

それからさとるは、夕飯の準備に取りかかった。この前作ったおでんの評判がよかったので、今日もまた作ってみようと思った。テレビもラジオも点いていない部屋の中で、さとるは1人静かにおでんを煮た。
今日は土曜日なので、母の帰宅は夜の9時過ぎになる。さとるは先に夕飯を済ませ、1階のリビングで本を広げた。
(中略)
「御飯食べる?」
さとるの問い掛けに、母は顔を上げた。
「おでんなの?」
「うん」
母はだるそうに立ち上がり、レンジの上の鍋を覗き込んだ。
「タコは?」
「あ、忘れた」
(中略)
「おなか空いたよう、お姉ちゃん」
「食べてきたんじゃなかったの?」
「ちょっとつまんだだけでさあ」
さとるは立ち上がると、黙ってレンジの火を点けた。
「今日のおかずは何?」
「おでん」
「また、おでんか」

小さなお盆にロング缶のビールとオレンジジュース、グラスが2つとクラッカーの箱が載っていた。

さとるが作った料理は、ごく普通の家庭料理だった。
やや形がいびつな出し巻き卵に、何の変哲もない豚の生姜焼き、人参のゴマ和え、じゃがいもの味噌汁。
感激するほどおいしいというわけではないが、外食やコンビニエンス・ストアで弁当を買うことが多い鉄男にとっては新鮮な食事だった。まるで実家に帰ったようだ。
キッチンテーブルに、新婚夫婦のように向かい合って、鉄男とさとるは食事をした。
鉄男は最初「このゴマ和えはすごくおいしい」とか「学食の味噌汁にはキャベツの芯が入っている」などとさとるに話しかけたが、彼女はッ食事をはじめると、とたんに口をきかなくなった。鉄男の話に相槌は打つが、あとはただ黙々と箸を動かしている。
(中略)
さとるは黙ったまま、静かに味噌汁を飲み干した。鉄男も茶碗の底に残った御飯を口に入れる。
「おかわりは?」
さとるが微笑んで聞いてくる。機嫌を悪くしたわけではなさそうだ。お願いしますと、鉄男はさとるに空の茶碗を渡した。
それでも何となく居心地が悪くて、鉄男は2杯目の御飯に残った味噌汁をかけ、急いで口の中にかき込んだ。

「御飯にお味噌汁かけると、おいしい?」
日本に来たばかりの外国人のような質問。
「おいしいよ。上品とは言えないけど」
さとるはふうんと呟く。この家では、飯に味噌汁をかけて食べるような人間はいないということだろうか。テーブルの上を手早く片づけている彼女を見ながら、鉄男はまいったなと思った。
香りのいいほうじ茶が、鉄男の前に置かれた。

「御飯食べましょうか。私、おなか空いちゃった」
「それってさとるさんの分だけだろう。2人で食べたら足りないし、ピザでも取ろうか」
彼の台詞に、さとるさんは顔を輝かす。
「ピザって、宅配ピザ?」
「そうだよ。あ、もしかして嫌い?」
「ううん。私ね、食べたことないの。一度食べてみたかったの」
(中略)
これがめちゃくちゃうまいんだと、鉄男が電話で頼んでくれたピザは、メキシコ・スぺシャルという辛そうなものだった。30分以内に来るというので、さとると鉄男は先にお弁当を食べることにした。
「うわ、うまそうだな」
プラスチックのバスケットの蓋を開けると、鉄男は嬉しそうな声を出す。中身はおにぎりが2つと、昨夜の残りの唐揚げとポテトサラダ、それから朝の茹卵とプチトマトだ。
「よかったら全部召し上がれ。私はメキシコ・スぺシャルに賭けてるから」
「ねえ、これって自分ひとりで食べるつもりだったんでしょ?」
早速おにぎりに手を出しながら、鉄男が言う。
「そうよ」
「それにしちゃ、きれいに盛りつけてあるじゃない」
「普通だと思うけど」
「いや、普通じゃないよ、さとるさんって」
「失礼ねえ。そんなに変なこと?」
プチトマトをひとつつまんでさとるは笑う。

「あ、笑った笑った。そうそう、元気出して。可哀想だからお茶奢ってあげる。急いでるの?」
「いや、帰ろうかと思ってたとこ」
「じゃ行こう。バンブーのホットショコラ飲もう」
(中略)
素朴に言う彼女の丸く見開かれた目を見ながら、鉄男はホットショコラをすすった。甘い。でも甘いものは嫌いではない。

鼻をすすり、手土産の鯛焼きの袋を持ち直し、鉄男は意を決してチャイムを押した。
(中略)
母親は鉄男の前にお茶を置いた。日本茶のいい香りが鼻をくすぐる。そのとたん、鯛焼きを持って来たことを思い出した。
「あの、こんなもので何なんですけど......」
鉄男が鯛焼きの袋を差し出すと、母親はそれを受け取り中身を見て、明らかに苦笑いを浮かべた。ケーキとかクッキーにすればよかったと鉄男は後悔する。

「では、あの、今日はこれで」
「あら、まだいいでしょう。さとるに会っていって下さいよ」
「いや、でも......」
「シチュー作ってあるから、お夕飯も食べていって」
(中略)
既に準備はできていたらしく、食卓の上にはすぐにサラダや温められたシチューが並べられた。
(中略)
「シチュー、おいしいですね」
せめて、みつるが話に乗ってくれればいいと思いながら、鉄男はそう口にしてみた。けれどみつるは知らん顔でスプーンを動かしている。
「さとるが作ったの」
意外にも母親が答えた。ぶっきらぼうな言い方だったが、無視されるよりはマシだった。
「これってビーフシチュー?」
こういう場合、さとるに対して敬語を使った方がいいのだろうかと悩みつつも、鉄男はいつもの調子でそう聞いた。
「うん。でもトマトが沢山入ってるの」
ためらいがちにさとるが答える。
「そっか。外じゃこういう味のシチュー食べたことないな。オリジナル・レシピなわけ?」
(中略)
一見行儀の悪そうなみつるも、箸をきちんと持ち、サラダのきゅうりをつまむ様子は優雅とさえいえる。
(中略)
「じゃあ、次からお願いします。さとる、洗うのは後にしてお茶をいただきましょう。そうだ、鉄男君が持って来てくれた鯛焼きがあるのよ」
そこでみつるが無言で席を立つ。流し台の横のワゴンの上に置かれた鯛焼きの袋を取り上げて開けてみる。
「冷めちゃってる。温めようか」
みつるがっそう言って母親を振り返る。
「そうね。蒸し器でやる?」
「やあだ、お母さん。電子レンジでやれば1分だよ」
「ああ、そうね。その方が早いわよね」
「お母さんって、何でも蒸し器であっためようとするよね。この前なんか、こーんなちっちゃいお饅頭1個、あっためてたでしょ」
(中略)
変な母娘だと思っていたけれど、電子レンジであつあつになった鯛焼きを食べている姿は、普通の母娘に見えた。あいかわらず言葉少なではあるけれど、この鯛焼きは餡が尻尾まで入っていると言って微笑む姿は、先程の緊張感溢れる食事風景とは別の母娘のようだ。

他にすることもないので、与えられたビールを飲み、手作りらしいマリネを口に入れる。

鉄男が雑煮を頬張るのを、母は楽しそうに見ていた。

さとるはちょっと笑ってから、ジャーの中に入っている御飯でおにぎりを作ってくれと言った。
言われた場所から海苔とシャケのそぼろを出し、よく手を洗ってから鉄男はにぎり飯を作りはじめた。
(中略)
とりあえず鉄男は御飯を全部握ってしまうことにした。せっせと手を動かしはじめると、さとるはまた抱えた膝に頬を寄せて、瞼を閉じている。
「味噌汁も作ろうか」
そっと言うと、さとるは顔を上げ、眩しいものを見るように目を細めた。
「作れるの?」
「味噌汁ぐらい作れるよ」
「ありがとう。じゃあ、冷蔵庫の中にお豆腐のパックがあると思うから、それ使って」
(中略)
お握りと味噌汁、そして冷蔵庫にあったレタスとトマトで簡単なサラダを作ると、鉄男は手を洗ってソファの方を振り返った。

「何を飲みますか?」
何でもいい、という答えをもらった鉄男は、カウンターへ行ってピザとジンライムを2つ頼んだ。
(中略)
問いただそうと思った時、マスターがカウンターの向こうから手招きしているのが見えた。ピザができたのだ。
(中略)
ここでピザを食べたのは初めてだが、お世辞にもおいししとは言えなかった。しかし母親は仏頂面のまま、自分の分を平らげた。紙ナプキンで口を拭い、残りの酒に口をつける。どうやら酒も強いようだ。
「おいしかった」
文句を言うのかと思ったら、彼女がそう言うので鉄男は驚いた。
「そうですか?」
「ピザなんか食べたの、何年ぶりかしら」
「ああ、そういえばさとるさんもそんなこと言ってましたよ」
「あらそう」
母親は簡単に返事をした。
「宅配ピザも、お宅でご法度なんですってね」
鉄男が言うと、母親は肩をすくめる。
「そうね。うちは出前は取らないわね」
「どうしてですか?」
「どうしてって、高いからよ。栄養も偏るし」

才女でちょっと近寄りがたいところがある人だったんですが、当時わたしは学食でバイトをしてたんですよ。で、いつもラーメンかカレーしか食べない彼女に、たまにサラダとか冷や奴とかをサービスしたんです。

山本文緒著『群青の夜の羽毛布』より