この本も、学生のときに読んだらしいのだが、初読と同じだった。
魚住「大魔神」がとても魅力的。自分がほしいもの、自分に必要なものをはっきりと知っていて、人を見る目があって、職業人としては精神的にもとても頼りになるプロ。
HIVに怯える、という設定が非常に懐かしい感じ。学研の学習雑誌に啓発マンガが載っていたものだ。「手をつなぐのは問題なし、でも歯ブラシの共有はダメだ」とかね。
ただ、日本みたいに今だに感染者が増えているのは珍しいので、恐れたほうがいいと思います。梅毒にかかる人が増え続けているのも要注意。
「紅茶でも入れておくれ。なんだい、お茶菓子も持って来なかったのかい? ここはあんたの家じゃないんだからね。手ぶらで来るんじゃないよ」
祖母はソファに腰を下ろすと、カシミアの膝掛けを拾いながら文句を言った。
はいはいと適当に返事をして、私は台所にお茶を入れに行く。おいしく入れないと祖母は本気で怒るので、私はお湯の温度に気を付け、祖母のお気に入りのカップにお茶を注いだ。
お茶を持って部屋に戻ると、祖母は戸棚からお菓子の缶を出しているところだった。
「食べるだろ?」
「私、ダイエットしてるのよ」
「ああ、そうかい。ご苦労なこってね」
祖母は意地悪く笑って、頂き物らしいリーフパイの袋を開けた。バターと砂糖の匂いが鼻をくすぐる。
「やっぱり食べようかな」
「デブになってもいいのかい?」
「よくないんだけど」
「じゃあ1枚お食べ。2枚目に手ぇ出したらあたしが叩いてあげるから」
私は祖母の気が変わらないうちに、急いでパイに手を出した。さくさく齧ると幸せの甘い味がする。お盆に載った食事を見て、私は眉をひそめた。プラスチックの食器に、煮崩した豆腐とかぼちゃとお粥が入っていた。お茶碗にはその3つを混ぜたものが入っている。魚住が混ぜて、それを祖母に食べさせていたのだろう。見るからに不味そうだ。
「桐島さんは今日もサンドイッチ? じゃあコーヒーのほうがよかったかしら」
湯飲みに日本茶を注ぎながら、ひとりが聞いてくる。
「あ、お茶でいいです」
「さ、食べましょ」
3人は、花柄やらスヌーピーやらの布巾に包まれたお弁当を食べ始めた。私は朝、駅で買ったサンドイッチを開け、小さな音で点けてあるテレビを見ながら食べた。「イタリア料理とかのほうがよかったのかな?」
何も考えていないのかと思ったら、中原先生はおしぼりを使いながら私の顔色を窺った。
「いいえ。こういう所のほうが落ちつきます」
「でしょう? ずっと湯豆腐が食べたいと思ってたんだけど、ひとりじゃねえ」
(中略)
そこでテーブルに湯豆腐が届く。
「その話は保留にしましょう」
「ええ。私、おなかすいちゃった」
しばらく私達は黙って豆腐を食べていた。柚子の香りと、湯気で曇った先生の眼鏡を見ていると、また両目の奥が熱くなる。
(中略)
目の前でふうふう言いながらお豆腐を食べている男の人が、私は好きだと思った。
湯豆腐も懐かしいなあ。真夏の南禅寺のお店でビールがめちゃくちゃ美味しかったのをよく覚えている。
隣席の観光客とおぼしき外国人が暑さにまかせたのだろう、"cold" と注文していて気の毒に思った。
湯豆腐だって十分タンパクだけど、冷奴なんかもう、全然量食べられないし会食向きじゃないでしょ...。
注文を取りに来た女の子に、母がクリームソーダと告げたので私は真剣に耳を疑った。甘いものが食べたくなっちゃってと母は苦笑いで言い訳する。
(中略)
そこでクリームソーダがテーブルに届いた。着色料のどぎつい緑に、純白のアイスクリーム。その向こうで地味なセーターを着た母がスプーンを持った。母と今の状況にまったく似合ない色だった。
(中略)
母は黙って、ストローでソーダを飲んだ。溶けたクリームの甘ったるい匂いが鼻をつく。帰って来たとき持っていたコンビニの袋を炬燵の上に置く。
「食べる?」
ポテトチップの袋を取り出し私に見せた。
「太るからいい」
「あれだけビール飲んだんだ。もう遅いよ」
笑いながら先生は袋を開けた。「そうだ、大福があったっけ。あなたも食べる?」
母は立ち上がって冷蔵庫から豆大福を出して来た。炬燵に座り直すと、早速口に持っていく。
(中略)
新品の家具に新しいセーター、豆大福ぐらいはよしとしても、母が節約しているようには見えなかった。
「あなたが遊びに使うお金はないわよ」
大福を食べながら、母はさらりと言った。毎年お正月は祖母の家で過ごした。祖母はお節料理が大好きで、暮れから3日もかけて豪華なお節を作った。それをお正月の3日をかけて、私と祖母で食べ尽くすのだ。
私はゆっくりお風呂に入った。バスルームを出ると強烈な空腹を感じた。冷蔵庫を開け、冷凍のグラタンとビールを発見し、私はそれを頂くことにした。
缶ビールを飲みながら、私はこれからのことを考えた。母の驚いた顔がこちらを見る。母の手にはスプーンとヨーグルトの瓶があった。父に食べさせていたのだ。
お肉を食べてしまうと、ウェイターがチーズを載せたお皿を持ってやって来た。
「ワイン、もっとどう?」
先生が私に聞く。彼は最初の1杯しか飲まなかったから、いつの間にかひとりで1本開けてしまったようだった。
山本文緒著『きっと君は泣く』より