たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

固定電話と「ハイミス」 林真理子『さくら、さくら おとなが恋して』

携帯電話なき時代、オフィスの代表番号に個人あての電話がかかってくるのめちゃつらいな。
田辺聖子作品でなくとも「ハイミス」が登場するのもね。

この名門クラブでいちばんましといわれるカツカレーの匙を置いて、彼はやってきた。

それに鮨は尚美の大好物である。気がつくと手帳をめくっていた。
(中略)
それほどもったいぶった店だったが、鮨はたいしてうまかったわけでもない。尚美はネタにラップをかけた店というものをいっさい信用していないが、ガラスケースの皿はまさにそのとおりであった。ただ季節のコハダはよく脂がのっていて、病気持ちではないかと思われるほど痩せた主人がおぼろと一緒に握ってくれた。これを尚美は6個も頬張った。
「本当に美味しそうに食べる人だなあ」
熱燗のちょこを手に、森下が嬉しそうに笑った。飲み干す手をしばし止めたままだ。
(中略)
あきらかに冷凍ものとわかるマグロを、うまそうに何個もつまんだ。それよりも後頭部の光が尚美には気にかかる。

「尚美さん、今度は韓国風しゃぶしゃぶを食べに行きませんか」
それなのについつられて尋ねてしまった。
「韓国風しゃぶしゃぶって、どういうものなんですか」
「タレがね、やっぱり辛いんですよ。日本のしゃぶしゃぶのつもりでたっぷりつけるとえらいことになる」
「口の中がひりひりするんですね」
「ええ、あわててビールで流し込む、この感じもなかなかいいんですが」
いつのまにか、スケジュール帳を出すはめになった。
「森下さんって、案外食通なのね」
(中略)
食事に誘った女を前に、家に帰る気がしないから、というのは全く馬鹿にしている。
とはいうものの、予定された夜、尚美は韓国風しゃぶしゃぶの鍋を囲んでいた。肉や野菜の様子はそう変わらないが、目の前に真赤な辛子がうかんだタレがある。
「これ、とっても辛そう」
「だから、肉の先をちょっとだけひたすようにしてください」
湯気が尚美の喉ぼとけのあたりを濡らす。腹がくちくなり、ここを刺激されると、人はわけもなくやさしい気分になるようだ。
(中略)
森下は肉片をざぶんと辛子のタレに沈めた。
(中略)
それなのに口と手は達者に動き、白菜を箸ですくった。
「あら、だったら再婚すればよかったのに。離婚されたんならともかく、病気で亡くされたんだったらいい思い出がいっぱいでしょう。結婚が嫌になったり、疑問になったりすることもないと思うわ」
「それがね、むずかしいところでしてね......」
森下は肉を頬ばったが、それが少し大きすぎたために口ごもる。
(中略)
白菜がみるみるうちに赤く染まっている。

「そろそろ新米で炊き込みご飯がうまい頃ですよ。原宿のはずれにあさり飯を食べさせるところがあるんです。ちょっと行ってみませんか」
けれど尚美はそんな気分は起こらない。だいいち米どころの出身の彼女は、米は白いものを食べるものだと思っている。まぜご飯というものが嫌いなのだ。

「そういえば『萩の月』っていう菓子があるんですよね」
森下が言った。
「今度出張の時にでも買ってきましょう。なかなかうまいもんですよ」
いつのまにか曖昧に微笑んで尚美は聞いている。

何千坪もある庭の向こう側は竹林でね、朝、寝床から眺めるとガラス一面が緑色なんだよ。それに冬の解禁日が過ぎると、最高の松葉蟹が食べられる......」
吉田はっそう言って箸の先で、皿の上の蟹の甲羅をつついた。あれは西新宿にあるカウンター割烹の店であった。「日本海直送」というポスターにつられて、2人は蟹を注文したのであったが、吉田は運ばれてきた貧弱な蟹が気に入らなかったらしい。全くその蟹ときたら、滑稽なほど小さく、毒々しい赤をしていた。

他の結婚した女、自分と同じぐらいの女たちは、今時分の週末、鍋にするための魚や白菜を買いに走りまわっていることだろう。それなのに自分は好きな男と温泉へ出かけ、蟹をたらふく食べるのだ。

主婦にとって旅館の食事ほど胸はずむものはない。ちまちまと綺麗な皿にもった料理が運ばれ、給仕もすべて他の女がやってくれる。浴衣姿でだらしなく膝を崩しながら箸を動かすのは大層楽しいものだ。
「さあ、昨日解禁日の蟹でございます」
女中が蓋の大皿を運んできた。
「これは松葉蟹なの」
吉田が尋ねると、女中はちょっと小首をかしげるようにした。その様子はなぜか狡猾に見える。
「いいえズワイの方なんですよ」
「あら、ズワイ蟹と松葉蟹って、松葉の方がずっとおいしいのかしsら」
「違うよ。ズワイ蟹のオスをね、特別に松葉っていって珍重するのさ」
「でも私ども地元の人間は、メスの方を好みますねえ。メスの方が卵がついていてずっと美味しいじゃありませんか」
女中は如才なく言い、またせわしなく出ていった。
「まあ、メスは卵があるかもしれないが、オスの繊細な味の方が僕は上のような気がするなあ」
吉田は美和子よりもはるかに慣れた手つきで、蟹の足を取る。
「いや、まずは身の方からいってみようかなア」
ぱっくりと2つに割ってある身の内には、毒々しいほど青い卵がぴっしりと貼りついていた。その隙き間のないほどの卵の量は、ひどく淫蕩な感じさえする。清楚なだいだい色の甲羅の下に、これほど青い卵が埋まっているのは少々気味が悪い。
だが卵はねっとりと舌にからみつくようで甘味があった。
「ビールじゃなくて日本酒にしてごらん。その方が蟹にはよく合うよ」
前から吉田はかなりの美食家だと思っていたが、旅に出るとそれにまめまめしさが加わる。彼は美和子のために蟹の足をとり、このあたりがうまいと指示をくだす。

「お茶、もういただけるかしら」
「はい、すぐにお持ちします」
この店は名前にちなんで紅茶を出してくれるのだ。たいしてうまくもないが、代官山を行きかう車や人々をガラスごしに眺めながら、茶をすする気分は悪くなかった。

知り合いの女子学生を見つけると、国安は何くれとなく話しかけ、ついでに彼女たちの弁当の菜をつまんだり、学食のカレーをひと匙すくったりする。

階上のフランス料理のレストランでもと思ったが、美砂もそれを望んだのでコーヒーハウスの隣りにあるカジュアルな店にした。ランチタイムでもないのに、ハンバーグステーキを食べるなどというのは久々のことだ。
(中略)
食事の後、最上階のバーに場所を替えた時からである。どうやらかなり酒を飲みなれているらしく、最初からしゃれたショートドリンクを注文したりする。さっきハンバーグステーキをうまそうに頬張っていた女とは別人のようだ。
「よくお酒飲むの」
「まあまあですかね」

もう会社に常備してあるビニールシートの上に、近くのコンビニエンス・ストアで買った焼き鳥やつまみ類が並べられた。缶ビールで乾杯し、宴会が始まった。今年は冷気が続いたために桜が長い。

「それならば焼鳥はいかが、この近くにね、すごくおいしいところがあるのよ」
「いいねえ。実を言うと、僕はさっきから生ビールのことばかり考えていた」
「もちろん生ビールも置いてあるわ。いい日本酒だって揃っていて、もう嬉しくなっちゃうようなお店よ」

隆を幼稚園のスクールバスに乗せた後、純子はぐったりとダイニングテーブルの前に座った。目の前には夫や子どもが食べ散らかした皿が置いてある。
隆がひとつだけ残したウインナソーセージ、そして夫の皿にはベーコンエッグの玉子の黄身が斜めについている。こういうものとひき替えに、自分は何という経験をしたのだろうかと純子は思い出す。

もうひとつの装飾といえば、目の前のフルーツ皿があるだけだ。弓なりのバナナを囲むように、キウイ、マンゴー、パパイヤが盛られている。沖縄で獲れるものばかりではあるまいが、それはいかにもこの場所にふさわしいものであった。どれも強烈なにおいを放ち、個性的なかたちをしている。

気が向くと時々料理をつくってくれたが、どれも不思議なスパイスが効いていた。ナツメグや八角(バッチャオ)といったものなら高田にもわかるが、涼子の使うものはそうではない。調理棚にずらりと並んだ瓶は、昔の男や友人たちが彼女のために世界各国から持ってきてくれたものだという。最初の頃はそのにおいが気になり箸をつけなかったことさえあるが、やがて砂漠や熱風を思い起こすスパイスがなくては物足りないほどになった。

今日の夕飯の献立を反芻した。何か緑色の物体を口にしただろうか。冷たいじゃがいものスープに、小さなTボーンステーキ、サラダは確かに緑の野菜ばかりであったが、倉吉の歯にひっかかっているそれはレタスやキュウリではない。四角く意地悪気に光っている。
思い出した、じゃがいものスープの中にポロねぎが散らばっていた。

そして友人のあてがってくれた男とこうして向かい合い、やわらかすぎるプディングを口にしているのだ。

メインディッシュの時にさりげなく切り出そうとしたのだが、Tボーンステーキは思いのほかおいしく、嫌なことはすべての料理をたいらげてからと有里は決心した。都会に住むハイミスと呼ばれる女がたいていそうであるように有里もうまいものに目がない。
(中略)
四谷荒木町のとびきりうまい鮨屋、神楽坂にある地鶏を使った焼鳥屋、どこもそう高価なところではないが、常連だけを相手にする居心地のよいところだ。
(中略)
けれどもひとたび自分のエリアから出ると、例えば新しく出来たイタリアンレストランへ行こうなどとすると、たちまち悲惨なことが起こる。注文した肉料理は中が半焼けで倉吉がそのことを指摘すると、
「お客さま、ご存知ないかもしれませんが、その料理はですね......」
やんわりと皮肉を言われる始末だ。ああそうですかと倉吉はいったんひき退がるのだが、フォークに肉をつき刺し、くんくんとにおいを嗅ぐ。
「おかしいなあ、だってこの肉、ヘンなにおいがするよ。腐っているようなヘンな......」
(中略)
有里はナプキンで口元をぬぐう。大層肉汁ののったTボーンステーキを、おいしいおいしいと頬ばった同じ口から別れを告げるのは少々気がとがめるが、後で割勘にすればいいことだろう。いや、倉吉にはさんざんご馳走になった、最後ぐらい自分が奢ってもいい。

生徒の誕生日パーティーには皆でドーナツで祝い、英語だけでお喋りをするという催しをした。

林真理子著『さくら、さくら おとなが恋して』より