「ガツーンと食べようと思って」とな。
「がっつり」という言葉が生まれる前のこと。もう20年以上前のケータイ、テレクラの走りの時代。
私は食べる気のしない焼き魚を箸でつついて時間を潰した。
「お母さん、あったかいカルピス飲みたいよ」
「そうね。今日は寒いものね。じゃ、失礼します」
まだ話し足りないらしいおばさんを置き去りにして、私は歩きだした。すると、息子がくしゅんとひとつくしゃみをした。あったかいカルピスが飲みたいのは本当だったのだろう。そして私が作ったコロッケを口に入れる。
(中略)
「入居の申し込み、どうしようか」
私がそっと尋ねると、夫は黙ったまま味噌汁を飲み干し箸を置いた。足は煙草に火を点けたが、パフェを食べている息子に気づき、灰皿に煙草を押しつけた。
私は星野君を寿司に誘った。俺金ないよ、とすかさず彼は言う。私はもちろん彼にお金を出させようとは思っていなかった。
カウンターに並んで座り、いくらでも好きなもの食べてと私が言うと、星野君は訝しげに私を横目で見た。
「どうしたのさ、モモちゃん。有馬記念でも取ったか?」
(中略)
そうか、そうだったのかーと彼は繰り返し言い、急にトロやらイクラやらを頼みだした。現金なものだ。
(中略)
改めてビールのグラスを合わすと、急に場が和やかになった。教授の悪口や、同じゼミの可愛いけど尻が軽い女の子の話で盛り上がる。
「ここの美味いね。寿司なんか俺久しぶり」
「私も。死ぬ前にガツーンと食べようと思って」
(中略)
「星野君、死ぬ前に1個だけお寿司食べていいって言われたら何にする?」
「えー、何かな。穴子かな。ウニかな」
「私はエビ。甘エビじゃなくて茹でてある方」
「貧乏くせえなあ。あ、俺やっぱり玉子焼きかな」
「子供だねえ」
星野君は明るく笑い、日本酒を追加した。
(中略)
ひとつだけ思いついたのは、それはそれは慎ましい、というよりは情けない願いだった。好きな男の子と一緒に、好きなお寿司をたらふく食べること。
(中略)
「あー、腹いっぱい。もう食えない」
ネギトロの手巻きを食べてしまうと、彼は椅子の背に寄り掛かって満足そうに言った。
「お酒ならまだ大丈夫でしょう」
「そっすね。次の店は俺出すよ。前にバイトしてた焼き鳥屋がね、安いし結構うまいんだ」ランチタイムの喧騒の中で、私は1人で食事を摂った。会議は1時間ぐらいかかると言っていたので、なるべくゆっくりフライやサラダを口に運ぶ。食後のコーヒーをちびちび啜っているうちに相席したOLも席を立ち、お水を3杯お代わりした頃には、潮が引くように店の中はがらんとしてしまった。
窓際の席にぽつんと取り残された私は居心地が悪くなってしまい、4杯目の水を注ぎにきたウェイトレスにコーヒーのお代わりとケーキを頼んだ。
(中略)
すっかりケーキも食べてしまい、コーヒーも飲み干して、さらに2度コップの中に新しい水を注がれて、私は不安になってきた。僕は黙ってデザートの苺大福を手に取った。
(中略)
平和な日曜日のお昼時、女房と子供達は、それぞれ幸せそうに苺大福を頬張っている。僕は食べかけの苺大福を手に取って見つめ、残そうかなと思った。けれどやはり、食べかけのものを捨てるのは抵抗がある。明日から甘いものはやめようと、とりあえず心に誓ってから僕はお茶を飲み干し立ち上がった。僕は自分の家への道順を運転手に告げると、甘い匂いがしている紙袋を開いてみた。中身をひとつ摘んで出す。
手作りらしい、ちょっと不恰好なドーナッツだった。数えてみたら、全部で6個入っていた。タクシーがマンションの前に停まる。僕は料金を払って車を降り、そのままじっとそこに立っていた。
袋からドーナッツを取り出し、口に入れた。砂糖がいっぱいかかったそれは、甘党の僕にはすごくおいしく感じられた。2個目の輪を食べる。そして3個目。
4個目を齧った時、リング状のドーナッツから何か小さな紙が出てきた。摘んで広げてみる。そこには小さなハートの絵がひとつ書いてあった。僕はそれも口の中に放り込み、残りのドーナッツを全部口の中に押し込んだ。3個全部口に入れて、ぐちゃぐちゃと咀嚼する。そして道端にあった自動販売機でウーロン茶の缶を買い、それを胃の中に流し込んだ。胸が苦しくて目眩がした。部屋の中から、ぷんとチョコレートの匂いがした。
「今日ね、お母さんとお姉ちゃんがチョコレートケーキ作ったんだよ。お父さんの分も取ってあるよ。食べるでしょ?」
僕はゆっくり靴を脱ぐ。女房と娘が、キッチンに立って笑い声を上げていた。
「食べるとも」
しっかりと僕はそう言った。
明日は日曜日だ。けれど僕はもうあの喫茶店には行かないだろう。僕にできることは、目の前にあるものを大切にすることだけだ。
「明日、みんなでどっか遊びに行こうか」
大きな声で言う僕に、家族3人はぎょっとして振り返った。
「朝から出掛けるからな。弁当作っておけよ」
何えばってんだか、と女房が笑う。娘がディズニーランド、と手を上げた。息子は焼肉食べ放題、と姉を真似して手を上げた。
僕は僕のために用意された夕飯を食べ、大きく切りわけられたチョコレートケーキも食べた。2度と指輪が外れないように、苦しくても僕は全部食べた。「ただいまー。カニコロ貰って来たカニコロ」
(中略)
「いいわよ。誰だって1度や2度は家出ぐらいするって。レジャーのひとつよ。カニコロは山分けしましょ」
軽く言ってハハは研いだお米を炊飯器にセットした。ハハがパート先の肉屋から掠めて来た牛肉ですき焼きをしていると、電話が鳴った。
(中略)
私は鍋の前に急いで戻り、遅れた分を取り戻そうと肉を拾って口に入れた。
(中略)
私は箸で肉をつまみ、スウちゃんの口元に持って行ってあげた。ぱくんとそれを口に入れる。そのとたん目を丸くし、わーんと大きな声で泣きだした。肉が熱かったのだ。
(中略)
パジャマを脱ぎ捨てシャワーを浴び、昨日のすき焼きの残りを温めてご飯にかけて食べた。お肉がひときれ残っていて嬉しかった。ハハが私のために残しておいてくれたのだ。店長さんがそれに気がついて、私にヤクルトを1本くれた。
哲也が先週から入ったという後輩の男の子を連れて来たので、3人で焼肉屋に行った。黄色い髪の専門学校生だという男の子は、私を美人だ美人だと言った。私は嬉しくてビールをたくさん注いであげた。私達は宇治金時を注文して再びお互いを懐かしがった。
(中略)
昔から変わっていないガラスの器に盛られた宇治金時を食べながら、私達は共通の友人の話をした。
(中略)
ひとしきり笑うとセットになっていた昆布茶がちょうど届いた。
(中略)
お茶について来た干菓子をつまみながら、私は注意深く彼女の顔を見た。散々はしゃいで疲れてしまった私達は、ソフトクリームを買ってベンチに腰を下ろした。
(中略)
「思ったほど高さはないわね」
彼女が唇をクリームで白くしながら言った。
「そうね。サンシャインの方が迫力あった」
「私、この前孫と都庁に上ったけど、やっぱりすごかった」
けだるく話をしながら、私達はソフトクリームを嘗める。卵3個を使った大きなオムレツを2つに切り分けて皿に盛り、彼女の前に置いた。するとオムレツの皿を見つめたまま、鶴ちゃんは涙をひとつぽろりと零した。
(中略)
「他のショップの子達や本社の人達も来るみたいでね。焼肉なんだって」
何が言いたいのか分からず、私は黙ってパンにバターを塗って食べ始めた。
「焼肉じゃ匂いもつくし、油とかも飛びそうじゃない。だから夏のバーゲンで買ったズッカの綿のワンピースでいいかって思ってたら、その焼肉屋が座敷だって聞いてさ」
(中略)
あっそ、と呟き、私はせっせと朝食を口に入れる。鶴ちゃんはせっかく作ってあげたオムレツに口もつけようとしない。彼女は持参したランチを広げる。コンビニで買ったらしいおにぎりがひとつ。
「それで足りるの?」
私が驚いて聞くと、彼女は「そうねえ」と首を傾げた。
「お金ないしね。食費で切り詰めないと」
(中略)
おにぎりを食べてしまうと、彼女はうーんと伸びをした。都会の真ん中の公園は、濃い日陰の下でもむし暑い。テレビを観ながら食後のアイスクリームを食べていると、電話を切った彼女が私のそばにぬっと立った。
腹減ったと男が笑う。何か食べて行こうよと私も笑う。腕を組んでホテルを出て、目についた居酒屋に入る。夫とは決して入らないようなチェーン店の安い酒場だ。
清潔とはいえないグラスで飲むビールと冷凍食品の揚げ物でも、私は幸せだった。家に帰ると夫は早速酒瓶を開けようとした。私は着替えてからキッチンでつまみのチーズを切る。
分厚い本屋の袋を抱えて、私は隣にあるコーヒースタンドに入った。飲みものとデニッシュを買い、いつもの窓際のカウンター席に腰を下ろす。
山本文緒著『みんないってしまう』より
「すき焼きの残りを温めてご飯にかけて食べ」るのは確実にうまい。どんな牛丼よりうまい。
子どもの頃はそもそもすき焼きにも目覚めていなかったので、すき焼き丼を出されるたび、口をへの字にしていたと思う。もったいないことだ。