たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

イニシャルKな食べ物 湊かなえ『花の鎖』

3代ごひいきにしているとはいえきんつばがよく出てくるなー、どころじゃなくて、「この人、きんつばきんつば言い過ぎじゃない...?」と笑えてくる。
そしてきんつばのイニシャルも、からあげのイニシャルもKなのであった。

創業80年の老舗『梅香堂』できんつばを買う。
1個100円。梅の透かし模様が入ったピンク色の小箱に5個詰めてもらった。
「おばあちゃん、近頃見かけないけど、元気?」
金色のひもで箱を包みながら奥さんが訊く。あたしは祖母が意を悪くして、先週からH医大付属病院に入院していることを話した。きんつばは祖母への差し入れだ。食べられるかどうかは疑問だけれど。
「まあ、大変。大将に知らせなきゃ。おばあちゃんにはお世話になってるもの」
祖母は昔から、来客があるとき、よそさまのお宅を訪問するとき、いつもここのきんつばを買っていた。
―――梨花ちゃんのぶんも。
一緒についていくと、箱詰めしてもらうのとは別に1個だけピンク色の和紙に包んでもらい、あたしのポケットに入れてくれた。つぶあんを四角に固めて薄い衣をつけて焼いただけの和菓子をおいしいと感じるようになったのは、ここ数年のことだ。
せっかくもらったきんつばを、ひと口かじっては、ゴミ箱の底に捨てていた。ポケットに入れたまま洗濯機に放り込み、母親にこっぴどくしかられたこともある。
(中略)
箱を入れた白地に梅模様の紙袋に、奥さんがきんつばを1つ、ピンク色の包装紙に包んで入れてくれた。鼻の奥がツンとなる。

「加代ちゃんたら、昔からそうやっていつも私をからかうんだから。お茶が冷めちゃったから淹れ直すわね」
「ありがとう。このきんつば、すごくおいしい。近くに売ってるの?」
「そうよ、駅前のアカシア商店街にある『梅香堂』っていう和菓子屋さん。越してきたばかりだからまだどんなお店があるのかよくわからないんだけど、幼なじみに来てくれるって言ったら、和弥さんが教えてくれたのよ」
(中略)
加代ちゃんはアルバムを閉じて、きんつばを手に取りかぶりつくと、自分の近況を話し始めました。
(中略)
加代ちゃんが『梅香堂』でお土産を買って帰るというので、アカシア商店街を抜けていくことにしました。私もきんつばを4個包んでもらい、実家の母親に届けて欲しいと加代ちゃんにことづけました。
「遠方からありがとうよ」
大将が私と加代ちゃんに、焼きたてのきんつばを1個ずつ持たせてくれました。
「コロッケを揚げてるわ」
肉屋の前で加代ちゃんは足を止めると、揚げたてのコロッケを2つ買って1つを私にくれました。お肉は何度か買ったことがあるけれど、時間のタイミングが合わず、コロッケは初めてでした。
私たちはコロッケをかじりながら商店街を歩きました。こんなことをしたのは学生のとき以来です。伯母に見られると思い切り顔をしかめられそうですが、この町に見知った人はまだほとんどいません。
「お肉がたっぷりで本当においしい」
衣はサクサク、中は甘辛く味付けしたお肉とこまかくつぶしたジャガイモがしっとりとからまっていて、ひと口かじると、口の中に肉汁が広がっていきます。
「こんなにおいしいコロッケを食べたの、初めて」
加代ちゃんも満足そうです。油のしみた包み紙をゴミ箱に捨てるのすら名残惜しそうでした。
「美雪はいいなあ、いつでも食べられて」
「でも、あそこのコロッケを食べたのは初めてよ」
「あら、もったいない。和弥さんに買って帰ってあげたら?」
今日のお夕飯のメニューは決めてあるし、買い物もしてあるけれど、そうしようと思いました。
(中略)
夕飯のおかずをコロッケにしたので、あとは、キャベツを刻んで、ごはんとおみそ汁を作るだけでした。
(中略)
「お、コロッケか。これも気になっていたんだ」
冷えた瓶ビールをグラスに注ぎながら、加代ちゃんと一緒に先に1つ味見をしたことを打ち明けました。和弥さんはお皿に載せてあったコロッケを3つ、美味い美味い、と言いながらあっというまに平らげました。コロッケがおいしいことを差し引いても、なにか嬉しいことがあったようです。

りんどうを花瓶に生けてテーブルの上に飾ると、いつもは自分でやりなさいと言うのに、晩ご飯の肉じゃがをあたため直してくれた。
「仕事はどうなの?」
食べ終えた食器を下げ、熱いお茶を淹れてくれる。昨日『梅香堂』でもらってきた売れ残りのきんつばを1つずつ食べることにした。粒あんに生クリームを混ぜた新商品。大将は近頃、新商品を作ることに力を入れている。和菓子屋もお洒落になる時代なのだと言っているけれど、昔なじみのお客様からの評判はいまいちだ。母親も少し眉をよせながら食べている。
わたしはおいしいと思う。むしろ、こちらの方が好きだ。

「一応描いてるけど、和菓子屋のアルバイトの方がお給料がいいくらいよ」
「和菓子屋さんって、あの、きんつばのところ?」
「そう、『梅香堂』」
「わたし、大好きだったんだ。今でも日本一だって思ってる。2年間で5キロも太っちゃったのは、さっちゃんのせいかもしれないわね」
(中略)
中身は大概、手作りの洋服や小物と『梅香堂』のお菓子だった。商店街には洋菓子屋もあったけれど、ケーキは東京のお店の方がおいしいだろうという母親の持論で、毎回、きんつばやどら焼き、羊羹などの、和菓子ばかりが送られてきた。
実は、わたしは和菓子が好きではなかった。
子どもの頃からうちの家庭の事情を知っているからなのか、おつかいをしに商店街を歩いていると、奥さんが出てきて、紙に包んだお菓子をこっそりと持たせてくれた。
(中略)
実家が果物農園を営んでいるという希美子は、おやつはいつも家でとれる果物だったらしい。きんつばという名前も知らなかったくらいだ。こんなにおいしいのに、どうして食べないの? と頬張っていた。わたしは逆に、野菜を買うのが精一杯の環境で育ったため、希美子に届く果物を楽しみにしていた。
「みんなでお菓子を持ち寄って、いろんな話をしたよね。楽しかったなあ」
懐かしそうに空を見上げ、希美子はあの頃食べたお菓子を指を折りながら1つずつあげていく。
「昌美はお父さんが船乗りさんだから、よく外国産のチョコレートを送ってもらっていたいs、おばあちゃんが漬けたっていう梅干しを送ってもらっていたのは誰だっけ」

机の上に夏美さん用のコーヒーと『梅香堂』で買ってきたきんつばを出したのですが、彼女は手土産に持ってきたクッキーの缶を私に渡しもせず、自分で包装紙をバリバリと破いて、机の真ん中に置きました。座布団に正座した私が手を伸ばしても、クッキーには届きません。

「わたしでよかったら何でも聞いてくださいよ。何もないところですけど、『梅香堂』のきんつばはおすすめです。もう食べました? 1年中売っているけど、この先もう少し寒くなった頃に、フライパンで表面がきつね色になるくらいあぶって食べるのが、おすすめですよ」
「まあ、おいしそう。ぜひ、試してみます」

お夜食にフライパンできつね色に焦げ目をつけたきんつばとコーヒーを用意しようと思います。

「あー疲れた」と言いながら、板チョコにかじりついていた。
―――エネルギー補給にさっちゃんもどうぞ。
チョコレートなど口に入れられる気分ではなかったけれど、希美子よりも体力が劣ることを認めたくなく、平気なふりを装って、固まりをそのまま口にほうりこむと、胸がムカムカし、目を開けているのも辛くなってしまった。

期限の切れたお菓子は箱に入れて持たせてくれるため、売れ残るのは大歓迎だけど、どうにかならないものか。せっかくの新商品も、このまま売り上げが伸びないようなら、製造中止になりそうだ。あんこと生クリームの相性がいいことを、早く町の人たちに気づいてもらわなければ。特に若い人。
「おかみさん、呼び方を変えるってどうかな」
「わたしの?」
「商品の。きんつばの場合、つぶあん、栗入り、生クリーム、ってわかりやすいけど、全然オシャレじゃないでしょ。購買意欲をそそsられない」
(中略)
「『梅香堂』なんだから、花の名前にするのは? つぶあんは看板商品だから、梅。栗入りは真ん中が黄色い花がいいな。コスモスか椿、せっかく大きな栗の甘露煮が入ってるんだから、椿にして。生クリームは、あんこと混ぜた色が薄紫っぽいし、洋風だし、こっちがコスモス」
(中略)
「呼び方を変えた途端、5個も売れるなんてさすがだわ。でも、コスモス、けっこう胃にもたれるのよね」
生クリームのきんつばを補充しながら、おかみさんがあっけらかんとそう言った。

公民館の受付カウンター越しに、前田さんへビニール袋に入ったきゅうりのピリ辛漬けを差し出す。手土産に商店街の八百屋で買ってきたもので、漬けたのは奥さんだけど、発案者はうちの母親らしい。おとなしそうに見えて、あの人はわりとこの町で幅をきかせている。
(中略)
「さっきは失礼しました。生クリームのきんつばを5個続けて食べるのはきついと思うけど、あいだにこれを挟むと、あっというまに食べられます」
「あれは、ここのみんなで食べたけど」
(中略)
「じゃあ、これもお茶請けに、みなさんで食べてください」
そう言うと、前田さんは近くにある書類を濡らさないように、水っぽいビニール袋を受け取った。ピリ辛漬けかと、館長さんが喜んでいる。

空になった食器を下げ、熱いお茶ときんつばを用意しました。
勇気を出して、商店街の人たちに話を訊いて本当によかったと思います。
明日、お弁当の材料の買い出しと一緒に、『梅香堂』に寄って、香西路夫が好んで食べていたお菓子を買ってきてほしいと和弥さんに頼まれましたが、私の予想では、多分、きんつばではないかと思います。

岩の前の平らな場所に家から持ってきた敷物を敷き、重箱を広げました。巻き寿司といなり寿司と卵焼きを、和弥さんに言われたように4人分の量で用意したのですが、森山くんはおいしいおいしいと言いながら、あっというまに平らげてしまいました。
(中略)
「そうだわ、ここできんつばを食べましょう。香西路夫と同じ気分になれるかもしれないわ」
大将に訪ねたところ、香西路夫に届けていたお菓子は、やはりきんつばだったことがわかったのです。

職場の定食屋で余った総菜を温め直したのか、甘辛い醤油の匂いが玄関まで漂っている。多分、カレイの煮付けだ。総菜は、わたしの方が早く帰った日は翌日のおかずになり、母親の方が早く帰った日は晩ご飯のおかずになる。
(中略)
「遅かったのね。これが、デートでならいいのに。カレイの煮付けがあるわよ」
いつもの嫌味がかった口調で、背中を向けたまま言われる。
(中略)
温かいほうじ茶を前に、居間のテーブル越しに母親と向かい合った。笑顔は変わらない。今日は『梅香堂』の余ったお菓子はなく、お茶請けはきゅうりのピリ辛漬けだ。こちらから報告することは何もないと言わんばかりに、爪楊枝の先に引っかけて口に放り込んだ。

「ところで、『梅香堂』のきんつばなんだけど、花の名前で呼ぶことになったんだよ。わたしが提案したの。つぶあんが梅で、栗入りが椿、生クリーム入りがコスモス、どう?」

「わたしだって香西路夫くらい知ってるわ。それに、焼きたてのきんつばを食べてみたいもの」
その程度のもてなしでいいのならと、わたしは希美子を連れて帰ることにした。
『梅香堂』の大将に希美子を紹介し、ここのきんつばの大ファンなのだと言うと、その場できんつばを焼き、実家に持ってかえる土産まで持たせてくれた。コロッケもおすすめだからと、2人であげたてのコロッケを食べながら家に向かうと、母親は盆と正月が一度にやってきたような食事を準備して待っていてくれた。
きんつばとコロッケを食べたことを後悔するわたしの隣で、希美子は何事もなかったように母親の手料理をおいしそうに食べていた。それだけでも嬉しいはずなのに、「からあげの隠し味はなんですか?」とか、「どうしたらお肉がこんなにやわらかくなるんですか?」などと一手間かけたところをちゃんと訊いてもらえるものだから、それほど口数の多くない母親も、盆と正月分くらい楽しそうに会話をはずませていた。からあげの隠し味がマヨネーズだと、その日初めて知った。

ここを読んで、過去に出会った(たとえお腹いっぱいでも、最悪は苦手なものでも)喜んで食べてホストを喜ばせる客人たちと、「母親は盆と正月が一度にやってきたような食事を準備して」くれた富山の友人のご実家や、祖母の思い出がぽろぽろと。
前者はものすごい愛だよね。なおこちゃんと一緒になっちゃん宅に泊まりに行ったとき、お八つを食べすぎてあんまりお腹が空いていないところで、カパカパの美味しくないハンバーグを出していただいたのだが、おかわりまでしているなおこちゃんに感嘆した。私もおかわりをしたらなっちゃんのお母さんが喜んでくれることはよーくわかっていたけれど、完食するだけで精一杯...。

そう言って、希美子は弁当のからあげを口いっぱいに頬張った。これ以上何も話す気はないし、聞く気もないと言わんばかりに。

母親は今朝も食事中に、「前田さんはからあげ定食が好きみたいだけど、今度作り方を教えてあげようか?」とニコニコ、いや、ニヤニヤしながら言っていた。

『梅香堂』できんつばを20個箱に詰めてもらい、Hグランドホテルに向かった。

先日はなるべく力のつくものを食べてもらおうと、アカシア商店街の肉屋で牛レバーを買ってきてニラやニンジンなどの野菜と一緒に炒めたのですが、「レバーは苦手なんだ」と皿の端に避けて野菜しか食べてくれませんでした。尊敬するばかりの和弥さんが子どもじみたことをするのを見て、ほほえましく思いましたが、他に何で体力をつけてもらえばいいのだろうと、悩みの種もひとつ増えてしまいました。
今夜のトリのからあげはおいしそうに食べています。いつもより多めに作ってはいますが、どれほどの栄養になるのかはよくわかりません。

和弥さんは台所でお湯をわかしてインスタントコーヒーを作り、魔法びんに移しています。朝食用でしょうか。あとは私が準備しようと思いましたが、お弁当どころか、お米をまだ炊いていないので、おにぎりを作ることもできません。何か食べるものはないかと戸棚を開けると、ちょうどきんつばが2つ残っていたので、紙に包んで手提げかばんに入れました。

獅子岩の手前に着くと、和弥さんはリュックサックから敷物を出しました。温かいコーヒーを飲みながらきんつばを食べていると、なんだかピクニックに来ているような気分です。ふとした拍子に、お腹の仲をくすぐられているような笑いが込み上げ、その都度、コーヒーをこぼしてしまわないように、コップをしっかりと握りしめてしまいます。
「美雪がこんなに笑い上戸だとは思わなかった。コーヒーを入れてきたはずだが、間違えて酒を入れてしまったかな」

「それで取り消しなんてことになったら大変。じゃあ、内緒でお祝いをしなくちゃね。あの子も、すき焼きを観たら、なんだ知っているのかって、あっさり打ち明けてくれるかもしれないし、怪しまれたら、お肉が安かったからって言えばいいわ。偶然でも、嬉しいことと重なっていれば、お祝い気分で食べられるでしょ?」
「そうですよね。うちもすき焼きにします」
「じゃあ、帰りにうちに寄って。いいネギができたのよ」
そんな会話をしながら、2人で肉屋に向かいました。

美濃戸口に到着し、山小屋で入山手続きを済ませたあと、わたしと前田さんは小屋の前にあるテーブルで弁当を広げた。午前7時は朝食にはちょうどいい時間だけど、からあげ弁当が適しているとは思えない。母親が持たせてくれた弁当だ。

「間に合ってよかった」とビニール風呂敷の包みが入った紙袋を差し出された。
「お弁当。山に登るのなら、体力つけておかなきゃダメでしょ」
「こんなに大きな包み、リュックに入らないし、提げて歩けないよ」
「おにぎりは別に包んであるから、お弁当は登る前に食べるといいわ。朝早いとお店も開いていないだろうし、あの人、からあげ好きでしょ?」
「誰が?」
ギクリとした。前田さんと行くことは話していない。
「希美子さんよ。ずっと前、うちに遊びにきたとき、おいしいおいしいって食べてくれたじゃない」
「よく憶えてるね、そんなこと。じゃあ、いただきます。ありがとう」
(中略)
「すみません。こんな荷物になるもの持ってきて。強制的に食べさせてるようなもんですよね。朝からからあげなんて、胃にもたれませんか?」
水筒のお茶をコップに注ぎながら、前田さんに訊ねた。
「全然。『竹野屋』のからあげ定食なら、何時でも大歓迎だ」
前田さんがからあげを頬張りながら言った。
「『竹野屋』ってよくわかりましたね」
「ああ、味が同じだし、他の総菜も『竹野屋』の定食についているものばかりだからそう思ったんだが。わざわざ注文してくれた?」
使い捨ての弁当箱には、からあげと梅干しごはんの他に、ポテトサラダ、きんぴら、かぼちゃの煮付けが入っている。
「いいえ、母が『竹野屋』で働いてるんです」
(中略)
雑念を振り払うように、からあげをかたまりのまま口に放り込んだ。もぐもぐと嚙み砕く。ひょっとこのような顔になっているかもしれないけれど、目の前にいるのは前田さんだ。今は山に登ることだけを考えよう。体力をつけて。からあげはショウガ醤油で下味をつけているため、冷めてもおいしい。『竹野屋』の味だ。だけど、わたしは母親が家で作ってくれる、マヨネーズで下味をつけたものの方が好きだ。

「すみません......。お昼にしませんか?」
リュックを下ろすと、母親が持たせてくれたおにぎりの包みを取り出した。アルミホイルで包まれた三角おにぎりが6つ、具の種類をマジックで書いてある。
「『竹野屋』のおにぎりは食べたことあるますか?」
「よくあるよ、晩飯を食いにいったときに、夜食用に握ってもらうこともある」
「何味が好きですか?」
「鮭とおかかとちりめん山椒」
「わたしは梅とこんぶとふき味噌が好きです。ちょうどよかった、その6種類です」
前田さんが好きな具のおにぎりを3つ渡した。母の料理はたとえおにぎりでもおいしい。
(中略)
あっというまにおにぎりを食べ終えた前田さんは、リュックからコッヘルとガスバーナーを取り出した。コーヒーを淹れるようだ。「ミルクと砂糖は?」と聞かれる。わたしのコーヒーには両方入れ、自分のぶんはブラックのままということは、わたしのためにミルクと砂糖を持ってきてくれたのだろうか。
お詫びの印というわけではないけれど、リュックからきんつばの入った紙袋を取り出して、前田さんに1つわたした。生クリーム入りのコスモスは相変わらず人気がない。
「やっぱり、ごめんなさい。赤岳のコマクサ、楽しみにします。それから、せっかくなので、紅葉も楽しみます。だから、一頼みを続けていいですか?」
「ぜひ」
山で飲むコーヒーは地上の十倍増しでおいしく感じる。『梅香堂』のきんつばと組み合わせれば、至福の味わいだ。

商店街の洋菓子屋『マルコ』の焼き菓子はおいしいけれど、この町の中ではというレベルだ。でも、『梅香堂』の和菓子、特にきんつばは全国レベルでおいしいと言えるのではないかと、あたしは密かに思っている。
それに気付いたのは東京での学生時代、友人たちと行列のできる和菓子屋のきんつばを食べたときだ。そもそも、きんつばに並ぶことが信じられなかった。半時間がかりで手に入れたきんつばを、友人たちは、おいしい、と声をあげながら、満足げに食べていたけれど、あたしはかなりがっかりした。『梅香堂』の方が何倍もおいしいし、おまけに、並んで買ったのに温かくない。どうして冷ましてから売るのだろう。昔、ポケットに入れてもらったきんつばの温かさが、妙に懐かしく思えた。
(中略)
「いえ、ちょっと出かけるので、お土産に。でも、同席するかもしれない人に、この前きんつばをあげたばかりだから、羊羹やどら焼きを混ぜた方がいいかなあと思って。どうしよう。いや、でもやっぱ、きんつばかな」
(中略)
「きんつばを3種類、10個ずつ詰めてるから。値段は全部同じでいいみたい」
「3種類?」健太が聞いた。
「普段売っているのと、あと2種類。大将がおしゃれな和菓子を志した時期があるのよ。結局は昔から守ってきたものが一番ってことで落ち着いたんだけど、梨花ちゃんのお母さんはすごく気に入ってくれてたから、特別に復刻版を作ってもらったの」
「わざわざ、すみません」
「いいのよ。みんな、梨花ちゃんのお母さんが好きだったってこと」
奥さんは布巾をかけていた木箱からきんつばを2個ずつ取り出して、和紙にくるんだ。
「はい、これ味見して。健ちゃんも」
あたしと健太に1包みずつ渡してくれる。作りたての温かさが和紙を通して伝わってくる。奥さんに、大将によろしくお伝えくださいと言付け、店を出た。

「じゃあ、明日はごちそうを作るわ。何がいいかしら......」
寿司だ、すき焼きだ、トンカツだ、などと2人で言い合いながら食事を終え。台所を片付けていると、和弥さんは仕事用の机の引き出しから図面の束を取り出して、テーブルの上に起き、1枚ずつ眺め始めました。

川縁に降り、獅子岩の手前に風呂敷を敷いて座りました。温かいコーヒーの入った魔法びんを出して蓋に注ぎ、きんつばを2個包んでもらった紙を広げました。
「和弥さん、お茶の準備ができましたよ」
声をかけても返事はありません。ここに来れば和弥さんが迎えにきてくれるのではないかと淡い期待を抱いていましたが、何の気配も感じません。月まで隠れています。
自分用のきんつばをたいらげ、コーヒーを飲み干し、和弥さんの分は川に流しました。

湊かなえ著『花の鎖』より

最後の章がなんだか拙くて惜しかった。