たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

焼き芋の力 石田衣良著『再生』

Kindleの表示にもよると思うが、「終わりかな」と思ったところから数ページ続く作品が何本もあった。
ハタを楽にする「働く」の瞬間が詰まった作品集。「たべる」の表記もいい。

ネクタイを締めた白いシャツのうえに、梨枝子が残したエプロンをする。メニューはカリカリに焼いたベーコンにタコのソーセージ、スクランブルエッグとヨーグルトであえたイチゴとリンゴのフルーツサラダである。パンはしっかりと歯ごたえのある全粒粉のイングリッシュブレッドだ。耕太は目をこすりながら、リビングにやってきた。
「もうすぐできるぞ。テーブルに座れ」
「うん」
耕太はいつも返事がちいさな子どもだった。テーブルに皿をならべてやる。
「さあ、たべよう」
康彦は半分に切ったトーストのうえに卵とベーコンをのせてやった。ついでにケチャップをハート形にかけて、『トイ・ストーリー』の皿にのせてやる。自分は新聞を読みながら、ソーセージを口に放りこんだ。よく焼いたソーセージの皮は、歯があたった瞬間にぱりっとはじける。
(中略)
「どうした、たべないのか」
6歳の男の子は力なく首を横に振った。
「ママのおにぎりがたべたい」
こたえにつまった。ママはいないのだ。この瞬間、どこかで生きているわけでさえない。そういいそうになって、無理やり笑顔をつくった。
「わかった。パパがつくってあげる」
冷凍庫のなかにごはんが残っていたはずだ。梨枝子は朝食をつくるのが面倒なときは、それを解凍して梅干をちぎって押しこみ、簡単なおにぎりをつくっていた。前夜の残りもののみそ汁に、おにぎりがひとつ。それが幸福だったころの古村家の朝食だった。
せっかくつくったおにぎりを耕太は半分しか食べなかった。康彦はそれでもしからなかった。

太字は引用者。ここ、「耕太」でないのナイス。アメリカのニュース記事みたいな主語の代替。語り手とのこの場の距離感がすごく伝わるし。ちょこんと腰かけているかわいい坊の姿が目にうかぶし。

義理の母は8分目ほど焼きあげたハンバーグを冷凍庫に残してくれた。電子レンジであたためるだけでたべられる手づくりのハンバーグである。缶詰のミネストローネを開け、スーパーで買ったポテトサラダを皿に移し、ふたりだけの晩ごはんにした。ケチャップで口のまわりを真っ赤にして、耕太がいった。
「やっぱり、バーバのハンバーグおいしいね。パパも教えてもらいなよ」
「こう見えても、パパは料理がなかなかうまいんだぞ。ママなんかよりもずっとな」
梨枝子は鬱病になってからは家事が、なかでもとくに料理がまったく不可能になっていた。
「耕太、覚えてるかな。ママとパパで餃子の包み競争をしたときのことだけど。あれだってパパが勝ったよな」

耕太は長い電話に興味を失ったようだった。ミネストローネのなかからマカロニだけを選んでたべている。

一睡もしていないはずなのに気分は爽快だった。これから朝食の準備をしよう。耕太が好きな簡単おにぎりでもいい。

早めに会社を抜けだしてはいったいきつけの喫茶店だった。テーブルのうえにはランチセットのホットサンドが手つかずのまま冷めている。
(中略)
「だったら、駅まえに新しくできたイタリアンを予約しておくよ。アンチョビとキャベツのパスタがすごくおいしいんだから」
今日子は食品サンプルのようなホットサンドを眺めた。手をつける気にはまったくならない。夜になったら、パスタをたべられるくらいの元気はでるのだろうか。

その日の夕食には、定明の好きなヒラメの刺身がでた。
(中略)
刺身をつまんで、ビールを空けるひざのうえには、開いたままの問題集がある。

「さあ、あなた、見学にいきましょう。帰りにお鮨おごってあげるから。よくがんばったごほうびね」
松井家では財布のひもは敏子がにぎっていた。

「あっ、そうだ。山崎さんに、おかずを1品つくってきたの」
貴代子がオーロラのショッピングバッグからだしたのは、ポリ袋にはいったちいさなタッパーウェアだった。
「ほら、ひとり暮らしだと野菜が足りないでしょう。筑前煮、よかったらお昼にでもたべて」
ポリ袋の底に醤油色の汁がたまっていた。それを素世の机におく。すぐに甘辛いにおいがただよってきた。顔をひきつらせないようにこたえるのが精いっぱいだった。
「ありがとうございます。でも、今度からはこんなに気をつかわなくていいですよ」
素世はポリ袋にふれることなくそういった。煮つけのにおいをかぎながら、午前中の仕事をするのはうんざりする。
(中略)
「そのタッパー、どうしたの」
気のりのしない声で素世がいう。
「となりの浜名さんにもらった。筑前煮だって」
(中略)
「まあ、いいじゃない。ひと口味見してみようよ」
タッパーのふたを開くと、煮物のにおいが広がった。サトイモ、ニンジン、タケノコ、絹サヤ、よく味の染みこんだ照りのある煮あがりである。麻由香がはしを伸ばした。サトイモをひとつつまむ。
「うーん、ちょっと甘辛すぎかなあ」
「どれどれ」
里恵がすこし煮崩れたニンジンを口に運んだ。
「確かに、これは味が濃いね」
それをきいて、素世はたべる気がなくなった。朝食といっしょにつくったランチは、ハムと卵のサンドイッチである。筑前煮とあうわけがなかった。煮物のにおいがいたたまれなくなって、ふたを閉めた。残りは食堂をでるときにたべ残しのバケツにでも捨てればいい。基世はサンドイッチをかじっていった。
(中略)
「そういえば、お昼の筑前煮。おいしかったけど、ちょっと味つけが濃かったかな」

「ねえ、里恵、帰りに溝の口駅で冷たい発泡酒でもいっぱいやらない。わたし、ものすごく安くて、けっこううまい焼き鳥屋しってるんだ」
里恵が制服のボタンをはずした。
「いいですねえ。いいかげん自炊にも飽きてきたところだし」

真理恵は近くのスーパーで食材を買いこんできて、栄養がつくという手料理をふるまってくれた。身体があたたまる鍋やときに分厚いヒレ肉のステーキである。
(中略)
真理恵はミニキッチンで、ほとんど手をつけなかった豆腐と豚バラのチゲ鍋を処分していた。

そのあいだに病院の食堂で、天ぷらそばを半分だけ口にしている。油があまりよくないせいか、好きな小エビのかき揚げもおいしいとは感じられなかった。味覚にまで障害がでているのだろうか。

帰りに本屋に寄り、休みのあいだに読む本をたくさん買いこむ。ラーメンと餃子とビールの小瓶で夕食をすませて自分の部屋にもどったときには、手足の冷えも立ちくらみもなく、すっかり自律神経の調子ももどったようだった。

夜はメインダイニングで、沖縄の島野菜をふんだんにつかったディナーだった。15年ほどまえにきたときには、沖縄の観光地の食事はどれも砂糖をつかいすぎて甘口だったのだが、今回のディナーはきちんとうまかった。

「待って、あなた。そこのカフェで、熱いココアでものんでいきましょう」
そういうと美砂は夫と肩をならべ、つないだ手のなかに赤いリードを隠した。

あれは今日のようによく晴れた秋の土曜日だった。遅めの朝食の用意にかかったのだが、冷蔵庫にはパンが切れていた。サラダとオムレツをつくるから、そのあいだにパンを買ってくるように夫に頼んだのである。歩いて数分の近所の手づくりパン屋だった。フランスパンの生地でつくるパン・ドゥミがおいしくて有名なのだ。
10分ほどして、簡単な朝食の準備ができた。刻んだリンゴをプレーンヨーグルトにからめ、そこにハチミツを垂らした即席デザートも用意する。半熟のオムレツが冷えていくのにあわせて、美砂はだんだんといらいらしてきた。せっかくの料理がだいなしになってしまう。

「やっぱり冬はココアだな」
酒好きだった朗人は、診断がおりてからアルコールを一切口にしなくなった。ショットグラス1杯のウイスキーで、脳細胞は100個死滅するとどこかに書かれていたからだ。記憶力の衰えを抑えるという医師からだされた薬に加え、脳にいいというDHAや漢方薬も大量にのんでいる。
「そうね、甘くておいしい。糖分は頭の栄養になるんだものね」
精製された白砂糖よりもミネラル分が豊富だという黒砂糖を、いつも美砂はもち歩いていた。朗人のココアにもひとかけら落としていた。ひざのうえには店が用意したひざかけがのせてある。

光弘は公園にくる途中のスーパーで買ったサツマイモをアルミホイルにくるんだ。すき間があいていると焦げてしまうので、念入りに大人の腕ほどあるイモを包んで、真っ赤に燃える炭のあいだに埋めこんだ。
(30分も放っておけば、うまい焼きイモができる)
資材小屋からスコップをもってきて、端のほうの炭をすくい、銀のホイルにかけてやった。

火を見ていると時間がすぐにたってしまう。腕時計を確かめると、30分がすぎていた。焼きイモは焦げていないだろうか。木切れでアルミホイルを炭のなかからかきだして、軍手で拾いあげた。もっていられないほど、熱い。ホイルを開くと、サツマイモの皮にいい具合に焦げ色がついていた。
ふたつに割ると、爆発するように湯気があがった。試しにひと口たべてみる。焼きイモの中心は黄金色に蒸されて、スイートポテトのようにとろとろに溶けていた。うまい。
光弘は両手に焼きたてのイモをもって、もうひとつの焚き火のほうへむかった。先ほどの子どもたちに加えて、もうひとりの子どもと暗い顔をした青年が増えていた。
「熱々の焼きイモができたぞ。たべるか、みんな」
3人の子どもが歓声をあげた。
(中略)
光弘はイモを折っては、子どもたちにわたしていった。焚き火を眺めながらたべる焼きイモは最高のごちそうだ。
「ほら、坊主もくえよ」
ひとりだけ離れた男の子にホイルでくるんで、焼きイモのかけらをわたしてやった。男の子は黙ってあごの先だけ沈めると、イモを受けとった。
(中略)
それからはみななにもいわずに、焼きイモをたべた。大人ふたりと子どもが4人。視線はすべて、中央にある焚き火にむかっている。火を見ているだけで、退屈などかけらもなかった。同じものをたべているので、奇妙な一体感もあった。

炉の隅に隅を集めて、光弘はまたイモを焼いた。こんなことなら、ステーキでもよかったかもしれない。パンを焼き、あいだにからしと塩をたっぷり振った肉をはさんでたべれば、いい昼食になっただろう。
光弘は青年の事情をそれ以上はきかなかった。青年も自分からは話そうとしない。ちょうどイモが焼けたころだった。また昨日の男の子がやってきた。3人組の仲間でなく、ひとりきりだった内気な子である。少年は無言で焚き火のそばに立って、手に傘をもっている。光弘はいった。
「よう、いいところにきたな。もうすぐイモが焼けるぞ」
(中略)
太い角材を焚き火のまえにおいて、そこに3人で横並びに座り、焼きイモを分けた。焚き火で蒸し焼きにしたイモは、電子レンジであたためた市販のものとは香ばしさが違う。さしてサツマイモ好きではない光弘さえ、おとなの腕の半分ほどあるイモを平らげてしまうのだ。
「今日は3人だけだから、スペシャルにしよう」
デイパックのなかからバターをとりだす。
「みんな、自分のイモをだしてみろ」
治朗も男の子もいきいきとした表情で、アルミホイルをさしだした。光弘はおおきなイモをバターナイフで半分に割った。湯気のあがる切れ目に、バターの塊を押しこんでやる。黄金色の液体がとろとろになったサツマイモにしみていく。
「こいつをくったら、もうカフェのケーキなんて目じゃないぞ」
自分でもバターのついたイモをひと口頰ばった。バターの塩味とサツマイモの甘味が溶けあって、文句なしにうまい。男の子も治朗も夢中でたべていた。光弘は満足すると、新しい薪をくべた。

光弘は公園の近くのスーパーで、パンとステーキ肉を買っていた。またあのふたりはきっとくるだろう。そんな気がしてならなかった。

昼すぎに母親たちのグループがやってきて、ちいさな焚き火を熾し、割り箸の先に刺したマシュマロを焼いてたべていったのだ。
(中略)
「今日はよく働いたから、イモより腹にたまるものにしよう。ひと休みしたら、どうだ」
資材置き場の材木は、2日間の治朗の働きによって、半分ほどがきれいに長さのそろった薪になっていた。光弘はフライパンをとりだし、バターのかけらを投げこんだ。先にパンを刺した枝を焚き火を囲むように立てる。フライパンから煙があがると、丸のままのニンニクとステーキ肉をいれた。ステーキは強火でいいのだ。すこし焦げたくらいがうまいのだし、ばりばりと肉の焼ける音を恐れてはいけない。さして高くはないオーストラリア産の赤身だった。サシのはいった高級サーロインは年のせいか、まったくうまいとは思わなくなった。単純に牧草の香りがするような、筋肉質の赤身が硬くてもうまい。
「ステーキサンドですか。なんだか豪勢ですね」
治朗が手元をのぞきこんできた。
「そうだ。そこにあるキャベツを3分の1に切ってくれ」
冬キャベツの半玉はつけあわせに買ったものだ。治朗は慣れないナイフで、芯を残してキャベツを切った。光弘はパンのうえにステーキをのせて、まず壮太にわたしてやった。
「ほら、サラダだ」
片手にサンドイッチ、もう片方にキャベツの塊をもって、壮太はおかしな顔をした。
「このキャベツどうやってたべるの? マヨネーズは」
光弘は笑った。
「そんなものはないさ。適当に塩をなすりつけてくえばいいだろ。いいから、ステーキサンドをひと口やって、キャベツをくってみろって」
つぎは治朗につくり、わたしてやる。こちらにはたっぷりとマスタードをいれてやった。壮太はステーキサンドを思い切りかじると、声をあげた。
「この肉うめー」
続いてキャベツに塩を振って、かぶりつく。ちいさな前歯からしゃきりと水を切る音がした。
「うわー、キャベツ甘えー」
治朗が少年にいった。
「そんなにうまいのか、壮太」
男の子は必死でうなずいて、サンドイッチをかんでいる。肉はうまいが、硬いのだ。
「じゃあ、ぼくも先に失礼します」
「ああ、ばんばんくってくれ。こっちはもう肉なんて、たいしてくう必要もないんだ。なにせ年だからな。もう仕事をすることもないし」
光弘はゆっくりと自分の分のステーキサンドをつくった。焚き火のそばで、自分のくいものをつくる。なぜ、これだけのことで心が満ち足りるのか。人間など単純なものだった。
(中略)
会社にもいけないダメ人間なんて生きていてもしかたないって。それが、この公園でうまいイモとうまいステーキサンドをくったら、気が変わったんだ。

夕食のおかずはまた近所のスーパーの惣菜だった。
更年期うつの亜紀子には台所仕事が困難なのだ。みそ汁とあたたかいごはんを用意するのが限界で、あとは出来あいのおかずをなんとか食卓にならべるだけであった。晃一は腰をおろすといった。
「療治は?」
亜紀子がおどおどと夫に目をやった。
「今はあんまり食欲ないって。夕方におかゆたべたから」

お椀をとり、みそ汁をすすった。亜紀子が調子はずれの高い声をあげた。
「あら、療治のお椀がないわね。今、用意するから」
(中略)
みそ汁と白い飯だけ腹に収めて、晃一は風呂場にむかった。

晃一は食欲がなかった。炊き立ての飯にお茶をかけて、スーパーのぬか漬けですすりこむ。いくつになっても、こんなものが一番うまいのだから、思えば安あがりな人間である。

石田衣良著『再生』より