たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

能町みね子さんの東京『お家賃ですけど』

6年間暮らした東京。今思うとあんな密集度の高いところによく平気でいたものだと思う。いいこともたくさんあったけど、二度と住みたくない。

吉豚(吉牛にあらず、豚丼しかないのだ)を食べる。徹夜後の吉野家はなんておいしいんだろう。

またここで軽く呑んじゃおうかなあなんて言ってガタガタと日本酒を出したり用意をするお師匠さんは、途中で居酒屋にかばんを置いてきたことに気づき、笑い、酔っ払いは困ったもんだなんて言って自転車に乗ってまた出ていきました。
部屋に残されたのは串焼きの焼きトン(臓物)と、豚レバーのスモーク、豚レバーの油漬け。

そこのお酒は仁勇っていう千葉の蔵のもので、このあたりではどこにも売ってないのだと。わざわざ取り寄せて自宅で飲んでみてもお店で飲むほどうまくないのだと。そんな話で。
串焼きの焼きトンはまあまあだけれど豚レバーのスモークはかなり美味。冷めてしまっていたので、温かかったらもっと美味しいんだろうな。

大曲の事務所でひとり、自転車で帰れるからってんで深夜2時まで目が痛くなりながら作業してたら、どうしてもどうしても牛丼が、吉野家の牛丼いやこのさい吉野家ならば豚丼でもいい、それが食べたくなったのです。
松屋はいかん。あそこの玉ねぎはいかん。
(中略)
そういえば大久保通りにスキヤがあった、自転車とばして深夜2時半スキヤ。
スキヤ、広いのにお客さん私一人だ。表面を拾うなら鼻がテカッてて目の赤い女だ。店員さん、いいですかね。
そして私は「牛丼とタマゴ......」と意味もなく不満そうに注文。恥ずかしいときは不満そうに発言して相手を突きはなすに限るよ。
スキヤ、けっこうおいしいね。

けっきょく、だらだらしたあと深夜にやきそばを作ってみる。あと、メロンもたべる。
(中略)
四つにわりひとりでメロン掬う夜。
ひとり掬うメロン熟れえず瓜の味。
加寿子荘にいるなら俳句くらい詠んでも許されるかと思って。
デッサンみたいに粗い。メロンはもうちょっとおいてから食べようね。

私はついこのあいだまで、晩ご飯にカップ焼きそばなんて食べていた。それほど情けない食生活だったのだ。
そんな私が勢いづいて、おべんとうおつくった。
いや、おべんとうを!!! つくった!!!
(中略)
とはいえ、調理したのは余りものの野菜いためだけで、あとは冷凍食品とプチトマトだけというシンプルさ。

私は濡らしたタオルで体をふいて、すぐに買いだめしておいたハーゲンダッツを食べて自分をよしよししました。

わたしはまた矢来の細かな路地を抜け、裏通りのチーズ屋さんで、名物の味噌漬けモッツァレラを買いました。はじめてのことです。やっぱり、高くてもよい。牛込の、神楽坂の土曜日なのだから。

そして都電の早稲田駅から自転車で帰るとちゅう、名もなき八百屋(看板がなくほんとうに名が分からない)の店先で乱雑にならぶ傷物のくだものに目がとまる。漏れる甘味に小蝿がたかっていて、これはおいしそう。ハネジューメロン200円。知らない黄色いメロン150円。これは買っていこう、と思ってほかのお野菜も物色していると、奥より白髪短髪でランニングのじいさまが出てきて、さかんに私に話しかけるのね。とりあえずナスを、と思ったら4つ5つ入った袋をいくつか手にとって「どれがいいの? よく見た方がいいよ」と品さだめをうながす。これが思いやりだ。
けっきょくナス4つあまりとじゃがいも7つあまりとハネジューメロンを買って、たった500円か、と思ったら「ごはん食べるの?」と質問がとぶ。質問の意味がよく分からない。
じいさまは一度奥に入って、なにか黒い粒が大量に瓶づめになったものを持ってきた。「梅干し。ちょっと食べてみて。食べれる?」と彼がわたしに差し出すときの一言はまたも思いやりだ。梅干しと言っても、レーズンのように干しつくされて小さくなったもので、見たことのない代物。酸味よりしょっぱさが勝る。「ごはんに合うから、持ってきなさいよ」と、ひと包みくれた。
梅干しはあんまり好きじゃないのですが、食べれない味じゃなかったし、素直に好意に甘えて喜ばれたかったのでもらってきてしまいました。思いやりの応酬だ。

3月3日のお昼にとつぜん私のベッドとの間の仕切りのカーテンを開けて、「おひなさまだからね」といって柏餅をくれた。わたしは何遍かお礼を言って、もっといろいろ会話がしたい気持ちを引きずりながらカーテンを閉め、柏餅って端午の節句じゃなかったっけなんて思いながらむしゃむしゃいただいた。いつか亡くなるのはしかたがないけど、どうか三田村さんが一度立って家に帰れますように、「やっぱりお家がいちばんいいわ」なんていいながら、お見舞いにきたときのように孫を叱りながら亡くなられるよう。

能町みね子著『お家賃ですけど』より