たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

『十五の夏』その4:ハンガリー

佐藤少年は時間を見つけては数学の問題集をやっていてすごい。旅行直後の試験を何もせずに受けるのはあり得ないということだが、素晴らしい克己心。
私は子どもの頃、帰省のたびに山ほどドリルや本を詰め込んでいってひとつもやったことない。右から左に重い本を動かしただけであった。

時計を見ると午後1時だった。朝、パンを2つとチーズ、サラミソーセージ、それに目玉焼きとサラダを食べたので、お腹が全然減らない。とりあえず、プールに行ってみようと思った。

おばあさんは、ミネラルウォーターとビスケットを出してくれた。ビスケットにはチョコレートのコーティングがなされている。一枚取って食べてみた。チョコレートのコーティングの下にマーマレードが入っている。ビスケットは胚芽入りの小麦粉でつくっているのだろうか、少し苦みがあるが、おいしい。

ブラウエル家の人々は、前菜にサラミソーセージ、ハム、チーズの盛り合わせとピクルスをとっていた。僕もウエイターに「同じものがほしい」と頼んだ。
(中略)
ブラウエルさんは、「ドイツでは15歳以下はアルコール飲料を飲むことができません。それだからハイケもウヴェもコカ・コーラを飲んでいます。DDR(ドイツ民主共和国=東ドイツ)には、コカ・コーラがないので、ハンガリー旅行のよい思い出になります」と言った。
(中略)
ブラウエルさんの奥さんがドイツ語で何か言った。ハイケが「このレストランに来るのは初めてだけど、何がおいしいの」と英語に訳す。僕は、「以前、魚のスープを食べたけれど、とてもおいしかった」と答えた。ブラウエル家の4人は相談し、僕の推薦通り、このスープをとった。メインはステーキにするというので、僕もこれにあわせることにした。
(中略)
ウエイターが、パプリカで真っ赤になった鯉のスープを持ってきた。ブラウエル家の4人は驚いた顔をしてスープを見つめた。
「おいしいよ」と言って、僕はスープを食べ始めた。具が多いので「飲む」というよりも食べるというのが正確な表現だ。
「ドイツでも鯉を食べることがあるが、フライにすることが多い。日本でも鯉を食べますか」とブラウエル夫人が尋ねた。
「日本人は海の魚を多く食べるけれど、鯉を食べることもあります。“あらい”という生の鯉の肉に味噌という大豆をすりつぶしてつくったソースをつけて食べる料理があります。おいしいです。僕の住んでいる埼玉県は海がないので、父親に山に連れていってもらい、湖で鯉を釣って、それをあらいにしてもらったことがあります」と僕は答えた。
(中略)
スープを食べ終わると、今度はステーキが出てきた。茹でたジャガイモがつけあわせだ。ステーキは、中が半生だ。恐る恐る食べてみたが、これがなかなかおいしい。ただし、僕にはステーキよりもジャガイモのの方がおいしかった。ハイケたちはジャガイモをそのまま食べていたが、僕はバターをつけて、塩を振って食べた。日本のジャガイモと比較して、水分が少ない。イモが引き締まっている感じがする。
メインが終わると、今度はデザートが出てきた。あんずが入ったパイの横にホイップクリームがたくさん添えられていた。コーヒーにもホイップクリームが山盛りになっている。ただし、日本のホイップクリームと違って、ほとんど甘くない。だから、こんなにたくさんのクリームがお腹に入るのだろう。
食事が終わったので、レストランを出ることにした。ブラウエルさんが、「あなたは学生ですから、ここは私が支払います」と言って、お金を払ってくれた。ポーランドでもハンガリーでも、ほとんどカネを使わないで済む。日本人と比べて、東ヨーロッパの人たちはカネに執着しないようだ。
レストランを出るときにハイケは、「まず、私からマサルに手紙を書くわ。必ず返事をちょうだいね」と言った。
僕は、「絶対に返事を書く」と答えた。
ヴェヌス・モーテルに戻ると、フロントには夜の支配人と、黒白のブチ猫のツェルミーがいた。ツェルミーが足にまとわりついてくる。可愛い猫だ。支配人が声をかけてきた。
「食事はおいしかったですか」
「とてもおいしかったです。東ドイツから自動車でやってきた家族と同席して、楽しかったです。夕食を奢ってもらいました」
「それはよかった」

「ブルガリアのヨーグルトが、日本で売っている『ブルガリア・ヨーグルト』とほんとうに同じなのかどうか、おにいちゃんの話を聞きたかった」
「残念ながら、ブルガリアには行かない。ハンガリーでヨーグルトを食べたけれどおいしかったよ。中にイチゴや、何かよくわからない酸っぱい果物が入っている」

「グラーシュとジャガイモしかないけれどいいか」と尋ねた。僕は「喜んで」と答えた。
「飲み物は?」
「いつものようにコカ・コーラ」と僕は答えた。
「コーヒーとデザートはどうしますか。まとめて注文してもらえるとありがたい」
「それじゃ、コーヒーとアイスクリームをください」
「アイスクリームには、チョコレートソースをかけますか」
「かけてください」
ウエイターは、10分くらいで、僕の頼んだメニューを運んできた。店には僕以外には3~4人しか客が残っていない。いずれの客もかなり酔っぱらっている。ワインをたくさん飲んだようだ。
グラーシュは、パプリカがきいていてとてもおいしかった。付け合わせの茹でたジャガイモとよく合う。いつもの白くて堅いパンもでてきた。このパンにもだいぶ慣れてきた。それにしても、ハンガリー人は人懐こくて親切だ。

食欲がないのでベッドで休んでいたが、レストランでサラミのサンドイッチと目玉焼きを作ってもらって、昼食にした。そのあとレセプションの前のソファに座って、ツェルミーと遊んでいた。ツェルミーは、1歳くらいで、仔猫ではないけれども成猫でもない「中猫」だ。それだから、ミーコと比べても、よくじゃれついてくる。あっという間に2時間が経ってしまった。

「先に家に戻る。僕たちは、牛乳を買っていこう」
僕はフィフィについて店に入った。焼きたてのパンのいい香りがする。食料品店で、パン、菓子類、野菜、肉などの売り場が分かれている。牛乳の売り場では、厚手のポリエチレンの袋に入った牛乳が山積みにされている。白い牛乳とこげ茶色の牛乳がある。
「このこげ茶色のは、コーヒー牛乳か」
「違う。チョコレート牛乳だ。1リットルのパックなので2つずつ買っていこう。コーヒーは、母さんが上手にいれてくれる」
透明なパックの底にカカオが沈んでいる。
「マサルは、チョコレートが好きか」
「好きだよ」
「それじゃ、チョコレートも買っていこう。ハンガリーのチョコレートはおいしい」
そう言って、フィフィは大きな板チョコを1枚買って僕に渡した。
(中略)
フィフィが、袋の端をナイフで切って、牛乳をピッチャーに入れた。「どっちを飲む」と尋ねるので、僕は「こっちがいい」とチョコレート牛乳を指した。フィフィは立派なクリスタルのグラスに牛乳を入れてくれた。こくがあっておいしい。小学6年生のとき、沖縄の海辺で飲んだハーシーのアイスココアを思い出した。
フィフィのお母さんが、テーブルにパン、サラミ、ハム、チーズ、ピクルスと黄色や赤のパプリカを並べ、コーヒーをいれてくれる。
「パプリカは好きか」
「日本では、黄色や赤のパプリカは見たことがない。不思議な味だ」
「ハンガリー人はパプリカが大好きだ」
そう言って、フィフィはナイフでパプリカを上手に切り分けてくれた。食器もナイフも年代物だ。スジゲトバリ家が代々引き継いでいる食器かもしれないと僕は思った。

「お腹が空いた。早く食料を買いに行こう」と友だちが言った。
キャンプ場の中にスーパーマーケットがある。そこで僕たちは、ライ麦パン、白パン、バター、サラミソーセージ、ハム、チーズ、トマト、キュウリ、リンゴ、オレンジ、パプリカ、ピクルスの瓶詰め、それにビール、ジュースとミネラルウォーター、チョコレートとビスケットを買い込んだ。フィフィが何種類ものパプリカを買い込むのを僕は眺めていた。
「パプリカが珍しいか。日本にはないのか」
「日本にもあるけれど、緑色だ。それにこんなに大きくない」
「緑色のパプリカはとても辛いので、あまり使わない。いずれにせよハンガリー人はパプリカなしに生きていくことができない」
それにしても真っ赤、真っ黄色の大きなパプリカは不気味な感じがする。日本では、東欧社会主義国は物資が欠乏しているという話ばかりを聞いたが、このスーパーマーケットは、僕の母がいつも買い物をする前原フードセンターよりも充実している。フィフィのアパートもきれいで広いし、ハンガリーの生活水準は日本よりも高いかもしれない。
(中略)
フィフィが慣れた手つきで簡易コンロに火をつけてコーヒーをいれてくれた。簡易テーブルの上に、ナイフでパン、野菜、ハム、サラミソーセージをきれいに切り分けて、夕食の準備ができた。
「今日は、昼食抜きになってしまった。それから、温かい料理がなくて済まない。ピクニックではだいたい冷たい食事になる」
「別に気にしていない。おいしいよ。ハンガリー産のピクルスとジャムは、日本でも売っている。でもこのピクルスの方が、酸っぱくなくておいしい」
周囲を見ると高校生、大学生のグループや家族連れが、簡易テーブルの上に、同じような冷たい食材を並べて夕食をとっている。みんな楽しそうだ。

お母さんが、「ほんとうはワインを出すところだけれど、あなたがお酒を飲まないというので、ジュースにしたわ」と言って、こげ茶色の瓶に入ったジュースをグラスに注いでくいれた。ピーチネクターだ。かなり濃厚だ。
「これだと喉が渇くから、ソーダ水を飲むといい」とフィフィが言って、小さな消化器のような機械で、別のグラスにソーダ水を注ぐ。
「中に二酸化炭素のボンベが入っているので、普通の水がソーダ水になる。いま流行だ。日本人はソーダ水を飲まないのか」
「ウイスキーやレモンジュースをソーダ水で割ることはあるけれど、ソーダ水自体を飲むことはない」
「ミネラルウォーターは飲まないのか」
「通常は飲まない。ミネラルウォーターに炭酸は入っていない。みんな水道水を飲んでいる」
「茶にしてか」
「いや、そのままだ」
「一度沸かしてから、湯冷ましにしないのか」
「しない。そうすると味が落ちる」
フィフィは、「信じられない」という顔をしている。
お父さんとお母さんは、「私たちは、ワインを飲みます」と言って、白ワインを注いだ。
「ハンガリー人は、白ワインが好きだ」とお父さんが言った。
フィフィは、「僕はいつもワインを飲むが、今日はマサルに合わせてジュースにする」と言った。お姉さんもジュースを注いだ。「姉はアルコールを飲まない」とフィフィが言った。
前菜には、ハム、サラミ、チーズ、パテ、ピクルスがたくさん出てきた。どれもおいしい。ザワークラウトと肉団子の入ったスープも出てきた。メインは、ヒレ肉とマッシュルームをパプリカで煮込んだ料理だった。マルギット島のレストランで食べたパプリカの料理と味が似ていた。デザートには木イチゴのタルト、それに桃のコンポートが出てきた。コンポートは生温かかったので、不思議な感じがした。

「確かに楽しい。銭湯では、アイスクリーム、牛乳、コーラなどを売っている。風呂に入った後は、冷たいものがおいしい」
「それはわかる」
「僕が好きなのはフルーツ牛乳だ」
「牛乳にフルーツが入っているのか」
「そうだ。牛乳にバナナ、みかん、パイナップルなどのジュースが入っている。香料が添加されているので強い香りがする」
「いつか僕も日本に行って、マサルと銭湯に行ってみたい」

居間にいくとフィフィが、「朝ご飯を食べよう」と言って、僕をキッチンに誘った。小さなテーブルがあり、その上に牛乳とチョコレート牛乳のピッチャーが置かれている。その横に、パン、サラミソーセージ、チーズ、パプリカ、キュウリが適当な大きさに切られて並んでいる。その横に小型消化器のようなソーダ水製造器がある。
(中略)
僕は、お腹が空いていないので、パンやサラミソーセージには手を付けずに、チョコレート牛乳だけを飲んだ。

カフェというから、日本の喫茶店のようなものと思っていたが、立ち食い食堂だ。行列について、食事と飲み物をとる。僕は、フィフィの勧めに従って、チーズとサラミ、トマトとパプリカ、それにグラーシュとパンをとった。フィフィはグラーシュではなく、ゆでたソーセージをとった。
「僕はビールを飲む。だからソーセージにした。マサルはビールは飲まないんだったよね」
「飲まない。前にも言ったけれど、日本では20歳未満の飲酒は禁止されている。法律の規定は守ることにしている」
「わかった。それで何を飲む」
「コカ・コーラだ」
「何か甘い物も食べよう」とフィフィが言った。
「何がおいしい」
「チョコレートケーキだ」
「それじゃ、それにする」
「飲み物はコーヒーでいいね。ホイップクリームは入れるか」
「たっぷり入れてくれ」
トレー一杯に皿と瓶とカップが並んだ。
ハンガリーのチーズとサラミは絶品だ。グラーシュにも牛肉がたっぷり入っている。ハンガリーの生活水準は、食や住居に関する限り、明らかに日本よりも高い。服が貧弱なので、写真に写ると貧しそうに見えるだけだ。
チョコレートケーキは、少し硬い。たっぷりチョコレートを使っているからだ。それにホイップクリームが山盛りにしてある。ケーキというよりも、少し軟らかくて粉っぽいチョコレートにたくさんホイップクリームをかけて食べているような感覚だ。
「フィフィはいつもこんなチョコレートケーキを食べるの?」
「いつもじゃないけど、ときどき食べるよ。オーストリア=ハンガリー帝国の時代からチョコレートケーキは自慢のメニューだ」
「ハンガリーは、菓子類も食事もおいしいよね」
「ハンガリー人は、食べることにエネルギーの大部分をかける。他に楽しみがないから」

「グラーシュ社会主義という言葉を聞いたことがありますか」と書店員が尋ねた。
「グラーシュとは、ビーフシチューのことですね。パプリカがたくさん入っている」
「そうです」
「マルギット島のレストランで食べました。おいしかったです」
「カーダール(労働党第一書記)は、グラーシュを毎日、食べられるようにするのが社会主義の目標だと言っています。要するに政治には関心を持たず、一生懸命に働けば、国民の生活水準を上げることを約束しています。その約束は確かに果たされています」
「しかし、それで国民は満足しているのですか」
「満足したふりをしています」

「ウエイターに聞いてみるのがいいだろう。最初は何かおいしいスープを飲みたい。その後は、キューバの名物料理がいい。付け合わせは米にしてほしい」
フィフィは、ハンガリー語でウエイターとメニューを見ながら話をしている。
「メインは豚肉がいいか、それとも鶏肉にするか」
「豚肉がいい」
「蒸した米にするか、バターライスがいいか」
「バターライスがいい」
「それじゃ、僕も同じものを注文する」とフィフィが言った。
豆のスープに豚肉の煮込みを頼んだとのことだ。
(中略)
ウエイターが豆のスープを持ってきた。以前、母が「メキシコ料理だ」と言って作ってくれた豆のスープに味が似ていた。
ウエイターはスープと一緒にロールパンも持ってきた。
「米を頼んだのにパンを持ってくるのか」
「スープには必ずパンがついてくるよ。バターライスは、豚肉料理の付け合わせについてくる」
スープをスプーンで口に入れた。うずら豆を少し小さくしたような豆が入っている。
「おいしいね。母が似たスープを日本で作ってくれたことがある。確か沖縄の親戚が小包で送ってきたアメリカ製の豆の缶詰を使っていた」
「僕は初めて食べる味だ。パプリカがよくきいている」
「確かに。母はパプリカではなく胡椒を使っていた」
スープを飲み終わるとすぐにウエイターがメインディッシュを持ってきた。一度焼いた豚肉をソースで煮込んだ料理だ。マッシュポテトとゆでた人参が付け合わせになっている。バターライスは別の皿に大盛りにされている。炊いた米にバターを混ぜているのではなく、蒸した米をバターで炒めたようだ。香ばしい。それに少し焦げたところがある。塩と胡椒で味を付けているが、ニンニクも入っているようだ。ステーキハウスのガーリックライスに似ている。豚肉の料理もバターライスもおいしい。
「フィフィ、これは確かに日本人の口に合う料理だ」
「母さんの見立てが正しかったわけだ。『きっとマサルに喜んでもらえるはずだ』と言っていた」
「親戚でもない僕に、こんなによくしてもらって、恐縮している」
「僕たちの家族にとってマサルは親戚のようなものだ」
「しかし、資本主義国の人間と親しくしているとトラブルに巻き込まれるんじゃないかと心配にならないのだろうか」
「その辺は、何が許されることで、何が許されないことなのか、両親はよくわかっている。両親はマサルを通じて僕に世界は広いということを伝えようと考えている。マサルから来る手紙を両親も楽しみにしている」

佐藤優『十五の夏』より