日本推理作家協会賞受賞作『海の星』のおっさんがイカをくれるシーンを読み直してみて、「ヌメヌメと黒光りするイカを見ていると、母の白い手が触ることができるかどうか怪しいような気がして」の暗喩に気づいた。
北陸から来た友人と京都の小料理屋に行ったとき、彼女は刺身の小鉢に手をつけなかった。街中の魚は無理、と言って。
逆に彼女の自宅に招いてもらったとき、もうそれこそ船盛、あら煮を山ほど出していただいた。驚愕の美味しさだったのはもちろん、こんなものが一般家庭で用意できるのかとほんとに驚いた。しかも途中で帰宅した会社員のご尊父に「もっといいものがあればよかったんだけどねえ」と言われてまた驚愕。
オレンジ色に熟れた甘いミカンよりも、まだ青い、その年一番のミカンをカゴに入れず、手のひらの上でころがしてから皮をむき、半分に割って口にほおばりながら食べるのが好きだった。
その食べ方を教えてくれたのは姉だ。疲れた、とすぐに弱音を吐くわたしと違い、姉は黙々と作業をした。
(中略)
都会から来た人にはミカン畑が珍しいのか、車を畑の前に停め、もぎたてのミカンを少し譲って欲しいと申し出る人たちもいた。―――そっか、腹痛じゃ仕方ねえな。見舞いに預けても嫌がらせになるだろうし、よかったらこれ、姉ちゃんにばれないように、ここで食っちゃって。
彼はわたしにチョコレートを1枚差し出した。当時、新発売になったばかりの生クリームがたっぷり入っているという板チョコで、白地に赤い花模様の包み紙が美しく、買ってほしいと母に何度かねだったことがあったが、50円以上のお菓子は買わないと、いつも突っぱねられていた憧れのお菓子だった。
(中略)
―分けてもらえなかったらお母さんが買ってあげるから、チョコレートはお姉ちゃんに渡したら?
弁当を食べているとき、母がわたしに行った。ボロ服のポケットに隠しておいたのに、邦和からチョコレートをもらったことは気付かれていたようだ。
家に帰って事情を話し、チョコレートを渡すと、姉は澄ました顔で「じゃあ、半分こね」と花柄の包み紙を丁寧に外した。銀紙の上からチョコレートを2つに割ると、うっとりするような甘い香りが漂った。―――わたしは綿菓子にする。
そう言って、顔より大きな綿菓子を買ってもらい、夢中になって全部食べきったあと、姉がリンゴ飴を買ってもらうのを見ると、やはりそちらにすればよかった、と思うのだ。真っ赤な飴が世界一おいしい食べ物のように見えてきて、それを食べられない悔しさに涙を流していると、母が財布を出し、姉が参道を走り戻って、真っ赤なリンゴ飴を買ってきてくれる。
綿菓子がトウモロコシのこともあったし、リンゴ飴が食べ物ではなく花をつけたサボテンだったこともあるが、ほぼ毎回、こんなことを繰り返していたのか、と当時の自分のおでこをはじき飛ばしてやりたくなる。まさか、大歓迎するとは―――。
美香子はもちろん、縦のものを横にもしない夫までが、やれ、ビールだつまみだなとと言いながら、いそいそと居間と台所を往復している。
そうめんと天ぷらを手早く作ってテーブルに並べ、隣室から母を連れ出した。
(中略)
都会の料理で舌が肥えているだろうから、文句をつけられるかと構えたが、上手にからっと揚がってる、と言いながら、姉は天ぷらをおいしそうに口に運んだ。いつもは少食の母も、姉が帰ってきたことが嬉しいのか、機嫌良くそうめんを全部平らげた。小学校に上がる際、こんなに食が細いのに給食は大丈夫なのか、と妻と一緒に心配したものだが、まったくの杞憂に終わったようだ。
身をほぐしてやった魚を食べることも嫌っていたはずなのに、骨が付いたまま調理された魚を、箸でほじくるようにではあるがおいしそうに口に運んでいる。うっかり骨が口に入ってしまっても、嫌がる様子もなく、抜けたばかりの前歯の隙間から器用に片手で取り出している。そのせいで、指先はスープでべとついているが、それを注意するのは今夜でなくてもいいはずだ。私も箸を手に取った。
魚介類を香草とスープで煮込んだアクアパッツァは妻の得意料理の一つだ。
職場で知り合った妻に、彼女のアパートで初めてふるまってもらった手料理がこれだった。
―――はりきって作ったはいいけれど、浜崎さんが瀬戸内海の出身だってことをすっかり忘れてた。おいしい魚料理に慣れているはずだから、辛口採点されそう。
彼女は不安そうにそう言って、白い皿に料理をよそってくれた。
確かに、寿司や刺身に関しては少し舌が肥えていたかもしれない。そのうえ、子どもの頃は魚と肉が8対2、いや、9対1の割合で夕飯のおかずにのぼっていたため、魚料理はうんざりだと思っていた。外食の際、自分から魚料理を注文したことは一度もなかったくらいだ。
だが、こんな洒落た名前のメニューは知らなかった。味も初めて体験するもので、こんな魚の味わい方もあったのかと感激し、正直に彼女に伝えた。
以後、結婚してからも、月に一度はこの料理が食卓に上がる。しかし、これまでのアクアパッツァは、鯛やスズキなどの白身魚が切り身の状態で入っていたが、今日のは骨がついたままの小アジが使われている。
(中略)
「早くアクアパッツァを食べてよ。この魚、僕が釣ってきたんだから」
どういうことだ? と妻を見ると、息子は日中、同じマンションに住む小学校の友たち一家に誘われて釣りに行って来たのだ、と説明してくれた。食べにくい魚をもりもり食べていたのは、そのせいか。誇らしそうな顔でこちらを見ている。
「僕一人で、20匹も釣ったんだよ。最後なんか、1回で3万匹釣れたんだ」
「へえ、さびきをしたのか」
「そうそう、さびき。パパも釣りをしたことあるの?」50匹釣れた小アジを家に持って帰ると、母がすでに帰ってきていて、魚を見ると、驚きながら喜んでくれた。
うろことぜいごと頭を落とし、内臓を取り出す作業を教えてもらいながら一緒に台所に立ち、大皿一杯のアジフライを作ってもらった。3枚におろせるほどの大きさではないため、骨のついたまま衣を付けたが、揚げたてにマヨネーズをかけて、はふはふと言いながらかぶりつくと、波がでそうなくらい旨かった。
小骨が口の中に残ったが、取り出せばいいだけのことだった。
母も、おいしいおいしい、と言っていた。
その晩、母と歩きながら、あそこで釣ったのだと海岸通りから堤防を指さすと、言ってみようと進路を変えた。
―――洋平、ジュースを飲もう。
母は酒屋の自動販売機の前で足を止め、コートのポケットから小銭を取り出して、細長い口に入れた。淡い光が灯った押しボタンを眺めながら、私はどれにしようかと迷った。母は自分の分は買わないのではないか。それならば、一緒に飲めるものにした方がいい。母は炭酸が苦手だからリンゴジュースにしようか。
そう思いながら手を伸ばすと、先に母の手が伸び、ガタンと取り出し口に缶の落ちる音が響いた。グレープ味のソーダ、私の大好物だった。
―――子どもは遠慮しなくていいの。
そう言って缶を取り出すと私の手に持たせ、自分用にリンゴジュースを買った。堤防にはその晩もカップルが数組いたが、母は等間隔の法則を破るようにあるカップルの真横に立ち、プルトップを引きながら橋を見上げた。
私も同じようにして橋を見上げた。光の帯の向こうには、暗闇が広がっている。
(中略)
煙草の旨さは成人しても理解できないままだが、静かな海を眺めながらの煙草は室内の何倍も旨いのだろう。グレープ味のソーダはおそろしくおいしかった。
―――こんなにきれいなんだもん。その向こうに行ってみたくなっても、おかしくないよね。
母の目が潤んでいるように見えたが、海面に反射している光が、目に映っているだけだと思い込むことにした。そうしなければ、自分の方が大きな声を上げて泣き出してしまいそうだったからだ。くだらないことを言おう。
―――明日のアジは何味? なんちゃって。
母は一拍おいて大笑いした。それどころか、隣のカップルも2人でプットと吹き出した。こうやって、父が帰ってくるのを待ちながら、母と過ごしていくのだろうと思った。たいしたことはできないが、週末ごとに魚を釣ろうと心に決めた。
釣った小アジは翌日は焼き、その翌日は南蛮漬けにして、3日間食べ続けたが、飽きることはなかった。「そういうのは、1、2回だけだから有り難いんだよ。なんだかなあって思いながらもらったアジだったけど、母さんは普通に、あらよかったわね、とか言ってたし、刺身とアジフライにしてもらったけど、本当においしかったし」
3枚におろし、さらに半分に切って揚げたフライは肉厚で、噛めばかむほど口の中に濃厚な魚の味が広がっていったのを、今でも憶えている。何よりも、小骨を気にせず、一気に飲み込めるのがよかった。刺身も、歯ごたえがあるのに舌の上でとろける、という絶品の旨さだった。―――お、今日はマシじゃねえか。塩ふって焼くとうまいぞ。
得意げに笑い返したが、おっさんはやはりクーラーボックスの蓋を開けた。大きなイカが入っていた。
―――あおりイカだ。まだ生きている。刺身で食うと旨いぞ。母ちゃんはイカさばけるか?
食卓に家でさばいたイカの刺身が上がったことはなかった。ヌメヌメと黒光りするイカを見ていると、母の白い手が触ることができるかどうか怪しいような気がして、私はおっさんに向かい、首を横に振った。
―――そうか。家はここから近いのか?
黙ったまま頷いた。
―――よし、じゃあ俺がさばいてやろう。ちょっくら台所を貸してくれ。高価な魚ばかりをもらって申し訳ない、と母が言うと、次の回からしばらくは、娘が焼いたというクッキーやマドレーヌを持ってくるようになった。
菓子作りにはまっているのはいいが、うちの者は皆甘いものが苦手で、申し訳ないがもらってほしい、などと言われると、母も受け取らざるをえなかったようだ。ピーナッツ入りのクッキーは、製菓用ではなく、つまみ用のピーナッツを使用していたのか、周辺の生地が少し塩辛くなっていた。私には好みの味だったが、安っぽさは否めない。
しかし、母はそれに対しても、お礼にハンカチなどを買って渡していたため、さらにそのお礼として立派な鯛を持ってこられたりと、おっさんとのやりとりは、やはり堂々巡りになってしまうのだ。投げ釣りの方も、さびきとさほど変わらない小さなアジが3匹釣れただけだった。
それでも、おっさんは2週間後、何食わぬ顔をして大きなスズキを持ってやってきた。娘の作った菓子も持ってきたし、ノリの佃煮やちりめんじゃこなどの乾物を持ってくることもあった。―――あ、開けていい?
彼女が頷いたので、私はその場で金色の星形のシールで封をされた紙袋を開けた。星形のクッキーだった。
―――食べてみても、いい?
肝心な言葉を遠回しにするように、私はクッキーを1つ、口に入れた。味にも歯ごたえにも憶えがあった。手作りのクッキーなどどれも似たようなものだと思いながら立て続けに3つ食べると、やはり同じものだという確信が強くなった。生地の中に塩味の強いピーナッツが混ぜ込まれているのがその証拠だった。ウエスタンアドベンチャーとウエスタンカーニバルを楽しむと、昼食を取るためにレストランに入った。3時前になっていたのであまり行列もできていないし、ピザやサンドウィッチといった軽食を出すところなので回転も早く、奈波から「おなかがすいた」と抗議を受ける前に席につき、食事を始めることができた。
ドリームランドでは食品の持ち込みが禁止されている。夢の国ではコンビニのおにぎりや家で作ってきた弁当を食べることは許されないのだ。夢の国では夢の国のものを食べる。
ミックスピザとホットドッグ、チキンナゲット、ハムと卵のサンドウィッチというありふれた食べ物は夢の国仕立てに、ドリームマウスの顔をかたどったプラスティック容器の中に並べられている。
―――これで3千円か。
夫が夢の国に水を差すようなことを言った。
―――でも、この容器、折りたためるようになってるし、運動会のおにぎり入れにちょうどいいかも。
―――うわあ、運動会のお弁当、これに入れてくれるの? やったあ。
奈波がサンドウィッチにかぶりつきながら嬉しそうに言った。このひと言で笑顔になれる。3千円など安いものではないか......と、これが夢の国の魔法なのだろう。
プラスティックのナイフとフォークがついているが、私もピザを手に取り、かぶりついてみた。なかなか、おいしい。
毎日三食きっちりと手の込んだ料理を作っているが、こんな食事も悪くない。メニューを見ても注文の仕方がわからず、平川と同じハンバーグのセットを頼み、カラのグラスと小皿をもらった。ドリンクバーとサラダバー用だ。自分で入れるのか、と平川の後からおろおろしながら皿を持ってついて行ったのに、気が付くと、「トマトも食べなきゃだめでしょ」とか、平川に彼女のような口調で話していた。
(中略)
まったく会話は盛り上がらなかったが、平川が見た目に似合わず甘いものが好きだということがわかり、種類の違うデザートを2個ずつ注文して、それを2人で分けながら食べたのはとても楽しかった。何か食べたいものはないかと訊かれて、魚の煮付けをリクエストすると、さらに弾んだ声で、まかせておいて、と返ってきて、僕は腹をくくった。
母さんは鯛の煮付けを作って待ってくれていた。姉さんは急な出張が入ったとかで、僕と入れ替わりに出ていったと母さんに聞かされた。野良猫が残念がるほどに、煮付けをきれいにたいらげると、母さんはネーブルを切ってくれた。
めぐみに島の伝説をもっと教えてほしいと頼むと、明日、白綱山を登りに行こう、と誘われた。それならお弁当を持って行こう、と提案すると、片道1時間あれば充分だから、お昼ごはんを家で食べてからにしよう、と却下された。
祖母にそれらのやりとりも含めて、白綱山に登ることを伝えると、祖母は朝から巻きずしを作ってくれた。卵焼き、ほうれんそう、甘辛く炊いたかまぼこ、にんじん、しいたけ、かんぴょう、そして、焼きアナゴが入っていた。まさか、自分のためにとは思えず、誰かお客様でも来るのかと訊ねてしまった。
―――誰も来ないけど、こういうのは、突然作りたくなってしまうものなのよ。昼はうどんを作るから、これはおやつに持っていけばいい。いい天気だし、家よりも、山のてっぺんで食べる方が何倍もおいしいだろうからね。
祖母はそう言って、巻きずしを2本、ラップに包んでわたしに持たせてくれた。巻きずしと水筒をリュックに入れて、めぐみを待った。昼食は祖母とうどんを半玉ずつ食べただけだったので、大きくのびをするとお腹が鳴った。照れ隠しにめぐみを見て、へへっと笑うと、めぐみのお腹も鳴り、わたしはその場に座ってリュックから巻きずしを取り出した。
―――おばあちゃんが、急に作りたくなったから、おやつにも持って行きなさいって。巻きずしはおやつって呼べないよねえ。でも、せっかくだから一緒に食べて。
そう言って、めぐみに一本渡し、ラップを半分広げて巻きずしにかぶりついた。おいしかった。あの頃は、節分に巻きずしを丸かぶりするという習慣を、わたしは知らなかったので、切ってない巻きずしを食べたのは初めてだったけれど、これが本当の食べ方なんだという気分がした。めぐみも巻きずしにかぶりついた。
―――おいしい。あなごが入ってる。
―――島の人はあなごが好きなんでしょ。うちのお父さん、アナゴが入ってない巻きずしを、はずれ、って呼んでたもん。お雑煮だって、関西風も悪くはないけど、あなごの入った島の雑煮にはかなわないって......。
訊かれてもいないのに、あなご一つで父のことをうんと思い出し、涙がわいてきた。だけど、めぐみは涙の理由を聞いてこなかった。黙って巻きずしを食べ終えると、わたしが食べ終えるまで、海を眺めながら、小さな島々の名前を教えてくれた。そうして、わたしの涙が乾いたことを確認すると、ごちそうさまでした、と言って立ち上がり、元気な声でこう提案した。
―――十字架探しをしよう。―――我が家は進水式の日のお昼ご飯はちらし寿司って決まっていて、お母さん、航にとってはおばあちゃんね。おばあちゃん特製のあなごがたっぷり入ったのを食べるの。
だから母は朝早くからちらし寿司を作っていたのか、と合点がいった。白綱島で育った大人には、母のように、進水式にまつわる思い出がそれぞれあるに違いない。
湊かなえ著『望郷』から