たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

『十五の夏』その9:旧ソ連

食べ残さないと歓待が足りてないことになって失礼、というマナーは中国とかでも聞くけど、いまも生きてるのかな。後片付け大変だよね...。私はやっぱりきれいに食べてもらうほうが嬉しいわ。

「ソ連のルイノック(自由市場)に行くと、肉のコーナーに豚の脂身だけを並べている場所がある」
「脂身だけですか」
「そうだ。ソ連を訪れた日本の視察団員が、『ソ連の物不足はほんとうに深刻だ。価格が高い自由市場にも豚の脂身しかない』というような感想を述べることがある。これは大きな間違いだ」
「どうしてですか」
「あれは、最上質の豚の脂身を塩漬けにした特別料理だ。ロシア語ではサーロという。ロシア人の大好物だ。ソ連では、ステーキ肉よりもサーロの方が高い」
「そうなんですか」
「そもそもソ連でいちばん安い肉は牛肉だ。その次に高いのが豚肉と羊肉だ。もっとも牛肉、豚肉、羊肉の値段はそれほど変わらない」
「そうするとビーフステーキは、ソ連ではそれほど高級品ではないわけですね」
「そうだ。鶏のソテーの方がずっと高い」
「鶏肉が高いんですか」
「そうだ。鶏肉は豚肉の3倍する。だから、鶏肉で作ったキエフ風カツレツがソ連では高級料理と見なされている。私や日下も、ソ連からお客さんが来たときは、必ず焼鳥屋に連れていく。そうすると高級品を奢ってもらったと思ってロシア人は喜ぶ。それから、デザートには、店と相談して、バナナを準備してもらうことだ」
「バナナですか」
「そうだ。バナナはソ連では穫れない。だから、超高級品の扱いになる。ロシア人に出しても感謝されないのがマスクメロンだ。中央アジアではメロンがただのような値段で販売されている。それがモスクワにも大量に入ってくる。明治屋や千疋屋で高級なマスクメロンを買ってロシア人にプレゼントしても、全然、喜ばれない。食については、土地や民族ごとの文化がある。アエロフロートの機内食にしてもそうだ」
「どういうことでしょうか」
「アエロフロート国際線の機内食は、日本航空やルフトハンザ航空と基本的に変わらない。ごく普通の洋食だ。それは、ソ連人以外の外国人も多く利用するからだ。これに対して、アエロフロート国内線を利用するのは、ほとんどがソ連人だ。そうなると機内食も、ソ連人の口に合ったものになる」
「具体的にどういう違いがあるのでしょうか」と僕は尋ねた。
「まず、パンは、ほとんどの場合、白パンではなく、黒パンが出る」
「ロシア人は、白パンよりも黒パンの方が好きなのですか」
「ロシア人だけでなく、ウクライナ人やベラルーシ人、リトアニア人なども黒パンの方が好きだ。それから、機内食で豚肉が出ることはまずない」
「どうしてですか」
「イスタム教徒とユダヤ教徒は豚肉を食べないからだ。ソ連全体で、イスラム教徒とユダヤ教徒を合わせると総人口の3割を超える。特に長距離移動が多く、飛行機をよく利用する人にはイスラム教徒が多い。だから機内食で豚肉が出ることは稀だ」
「そうすると何が出るのですか」
「茹でた鶏肉か牛肉が出る。鶏肉の方が高級感があるので好まれる」
「日本とは逆ですね」
「そうだ。だから、ソ連人は国内線の機内食を喜んで食べている」
篠原さんの話を思い出したので、僕は周囲を見回してみた。確かに、みんなおいしそうに機内食を食べている。
僕も茹で鶏を食べてみることにした。フォークとナイフで切るのが面倒なので、手でつかんでかぶりついてみた。確かに、ジューシーでおいしい鶏肉だ。新鮮なので、鶏肉特有の臭いもない。トレーには、キュウリのピクルスが1本載っていた。かなり酸っぱいのではないかと覚悟して食べたが、日本の糠漬けのような感じで、まったく酸っぱくはなかった。国内線の機内食は、土地の人々の口にもっとも合う食材で作られているのだと思った。
食事が終わると、スチュワーデスは、トレーを回収したが、プラスチックのカップだけは残した。そして、トレーを回収し終えた後、「チャイ、チャイ(紅茶、紅茶)」と言って、通路を回り始めた。コーヒーはもう在庫が切れたので、紅茶だけを配っているようだ。ほとんどの乗客がもらっていたので、僕もそれに倣った。ヤカンからカップに熱い紅茶が直接注がれた。スチュワーデスは、角砂糖と一緒にキャンディーをいくつかくれる。隣の母子を見ていると、キャンディーを口に入れてから、紅茶を飲んでいる。紅茶には砂糖を入れていない。僕もそれを真似てみた。
キャンディーは、ひじょうに溶けやすい。そして、キャンディーの中にはジャムが入っている。このジャムが、口の中で紅茶と合わさって、おいしくなる。どうもジャム入りキャンディーを口に入れて熱い紅茶を飲むというのが、ロシア庶民の紅茶の飲み方のようだ。この飛行機に乗って、ずいぶんたくさんのことを勉強した。

「緑茶自体を買うことはできますか」と私は尋ねた。
「それは簡単です。どの食料品店にも、ホテルに入っているベリョースカのお土産コーナーでも販売しています。それから、ホテルのレストランで食事をすると緑茶がついてきます」
「そうですか。それはありがたい」
ようやくこれでソ連の緑茶を試すことができそうだと僕は楽しみになった。
「それで、今はコーヒーにしますか、それとも紅茶にしますか」とインツーリストの職員は言った。僕は「紅茶にしてください」と答えた。
インツーリストの職員は、部屋の隅にあるバーに行ってウエイトレスに指示をしていた。しばらくすると、ウエイトレスが、紅茶とサラミのオープンサンドイッチ、それにビスケットを持ってきた。お金を払おうとしたが、受け取らない。
(中略)
しかし、紅茶のカップ、ホルダー、スプーン、砂糖、オープンサンドイッチの白パンは、サマルカンドでもモスクワでもキエフでも完全に同じだ。恐らく、ハバロフスクやナホトカでも同じなのだろう。スプーン、皿、カップに値段が刷り込んである。もっともサラミソーセージは、土地によって少し異なる。今食べているサラミソーセージには羊肉が入っている。恐らく中央アジアの肉製品は羊肉を使ったものが多いのだろう。

「昼だからセットメニューしかありません」
「それで構いません」
「飲み物は何がいいですか」
「コーラを飲みたいです」
「部屋にもコーラを持っていきますか」
「はい。それからミネラルウォーターも持っていきたいです」
ワロージャは、ウエイターを呼んで早口で何か言って、紙幣を握らせた。ウエイターは無表情に「ダー」と答えた。
ウエイターはすぐに食事を持ってきた。コップに入ったサワークリーム、かたゆで卵のエッグマヨネーズ、それにバターライスが添えられた肉の煮込みだった。
肉の煮込みを指して、「これはウズベク料理ですか」と僕は尋ねた。
ワロージャは笑って、「ロシア料理です。ビーフストロガノフです。昼食はロシア料理で、夕食がウズベク料理になります。この後、デザートにアイスクリームとブドウ、コーヒーが出てきます」と答えた。

ウエイターがやってきて料理を次々と並べる。まず、キュウリの漬け物、キャベツの漬け物、サラミソーセージ、トマトとタマネギのサラダにキャビアとイクラが並ぶ。モスクワのレストランの前菜と同じメニューだ。ただし、パンだけが丸いナンだ。
「これがウズベク料理ですか」と僕が尋ねた。
「ウズベク料理とロシア料理がミックスされています。ロシア料理は、前菜をたくさん並べます。ウズベク料理にはそのような前菜の伝統がありません。ここに出てきた中では、トマトとタマネギのサラダとパンがウズベク料理です」とワロージャが説明した。
ワロージャは、ナンに無塩バターを塗ってイクラをのせて食べる。僕もそれをまねてみた。まだ温かいナンとイクラがバターを媒介に見事に調和している。
トマトとタマネギのサラダを食べてみた。塩と胡椒だけで味付けされている。ひどく辛い。胡椒の辛さではなく、タマネギを水でさらしていないから、こんな凄い味になるのだろう。サラダはあきらめて、キャベツの漬け物を食べてみた。これは浅漬けでおいしい。
ウエイターがウオトカ、白ワイン、スパークリングワインを持ってきた。
「ウズベキスタンはシャンペン(スパークリングワイン)がおいしいです」とワロージャが言ったので、僕以外は皆、スパークリングワインを飲んでいる。
「モスクワのシャンペンに比べて甘いですね」と高校教師が言った。
「中央アジアのワインやシャンペンは、モスクワと比較して甘い傾向があります」とワロージャが説明する。
皆は、酒の話で盛り上がっているが、僕はまったくわからないので黙っていた。ウエイターに「ペプシ」と頼んだが、「ニェット」と言われた。そして、ウエイターは、グラスにガス入りのミネラルウォーターを注いだ。少し塩辛い。
「モスクワで飲んだミネラルウォーターより塩辛い感じがします」と僕は言った。
「グルジアのミネラルウォーター、ボルジョミです。確かに他のミネラルウォーターと比べると少し塩辛いですが、この水を飲むと酔いません」とワロージャは言う。
(中略)
ウエイターが前菜の残りをいくつかの皿にまとめた。
「これから、温かい前菜が出ます。マンティとラグマンです」とワロージャが言った。
両方とも初めて聞く名前だ。
しばらくしてウエイターが、大きな餃子を持ってきた。それを見てワロージャが説明した。
「これがマンティです。ペリメニ(シベリア餃子)を大きくしたようなものですが、中身は牛肉や豚肉ではなく羊肉です。ウズベキスタンでは社会主義化が進んでいるので、食もロシアにだいぶ近づいています。ただし、豚肉はあまり使いません。もっともウズベキスタンに在住するロシア人やウクライナ人は豚肉が好きなので、タシケントの精肉店では豚肉も売っています」
「羊肉が人気があるのですか」
「羊肉がブハラでは最も標準的です。これから出てくるラグマンも羊肉と羊の脂をベースにしています」
「羊の脂?」と僕は尋ねた。
「そうです、羊の脂を小麦粉に混ぜて生地を作ります。その生地をのばして麺にします。日本のウドンのような感じです」とワロージャが答えた。
ウエイターが橙色と金色の派手な模様がついたドンブリを持ってきた。ウドン用のドンブリによく似ている。中には、汁と麺が入っている。麺は見た目はウドンのような感じだ。食べてみたが、コシがほとんどない。羊肉の塊がのっている。スープは、ビーフシチューのような感じだ。ただし、羊の強烈な臭いがする。それに大きめに切られたトマトと細かく切られたウイキョウがのっている。ウイキョウは臭い消しなのだろう。味はなかなかいい。ウズベク風のウドンだ。この種の麺類を食べるのは、日本を離れてから初めてのことだ。
「おいしいです。ウドンに雰囲気がよく似ています」と僕は言った。
「佐藤さんは、モスクワでレストラン『ウズベキスタン』に行ったことがありますか」とワロージャが尋ねた。

「食事はこれでだいたい終わりですか」と僕は尋ねた。
ワロージャは笑いながら「まだ始まったばかりです」と答えた。
「この後、何が出てくるのですか」
「まず、シャシリク(串焼き肉)が出てきます。シャシリクも羊、鶏とケバブが出てきます」
「ケバブとは何ですか」
「羊肉で作ったハンバーグステーキのようなものです。ただし、香りの強い草を練り込んであります。ウズベキスタンの人気料理です」
「牛肉や豚肉は出ないのですか」
「牛肉はときどき出ますが、シャシリクではなくステーキにして食べることが多いです。ウズベク人よりも、ロシア人やウクライナ人が牛肉を好みます。豚肉は、少なくともレストランでは出ません」
「イスラム教の影響ですか」
「イスラム教というよりもウズベク人は民族的習慣として豚肉を好みません。精肉店でも豚肉は売っていません。豚肉だけでなく、豚肉を原料にしたソーセージ、ハム、ベーコンの類も売っていません。ソーセージなどの加工肉は牛肉によるものが多いです。羊肉は癖があるので、加工肉には向きません。もっともタシケントは大都会で、ロシア人やウクライナ人もたくさんいるので、食料品店で豚肉も売っています」
ワロージャは、イスラム教の影響ではなくウズベク人の民族的な習慣と言うが、実際はイスラム教が、生活レベルで染みついているから豚肉が売られていないのだと思った。
シャシリクは、羊、鶏、ケバブ、トマトとピーマンが1人1本ずつ出てきた。とても1人で食べきれる量ではない。
「無理して食べないで残してください。ウズベク人の習慣では、残り物が出ないと、お客さんを充分に歓待していないことになります。この後、プロフという焼き飯が出てきます」とワロージャが言った。僕は、ワロージャの助言に従って、ケバブと羊肉だけを食べた。羊肉は、変な臭いがしない。北海道の帯広で食べた、たれに漬けないと臭いが気になって食べられない羊肉とは全然違った。
続いてプロフが出てきた。見た目は大皿に盛った炒飯のようだ。タマネギとニンジンがたくさん入っている。それにぶつ切りにした羊肉が交ざっている。ただし、全体が油でべたべたしている。日本で食べる炒飯のようなサラサラした感じはない。味はおいしい。当初、植物油と思っていたが、どうも羊の脂のようだ。どれだけ大量の脂を使っているのだろうか。
デザートには、アイスクリームとマスカットブドウが出た。コーヒーか緑茶の選択だったので、緑茶を選んだ。僕と同じテーブルにいる日本人は皆、緑茶を注文した。しばらくしてウエイターが、湯飲みのようなカップに入った緑茶を持ってきた。香りがあまりなく、味にもコクがない。高校教師が、「現在の日本の緑茶には、アミノ酸が添加されている。それが人工的な旨味になっているのだけれど、この緑茶は無添加だ。だからこういう素朴な味がする」と説明した。確かにあっさりしているが、何となく親しみの持てる茶だった。

佐藤優著『十五の夏』より