たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

エリザベス・キューブラー・ロス博士の自伝から

3時間ほど列車待ちで寄ったことがあるだけのスイス。
寄宿学校に留学していた子が「あの国には選択肢がない。スーパーに牛乳もチョコも1種類しかない」と言っていて、さすがに1種類は大げさだろうが、あまり面白い国ではなさそう...と思い込んでいた。
でも、本書を読んで、ぜひ行きたくなった。
アメリカに移住したヨーロッパ人が死ぬまでアルプス山脈に焦がれるのが想像できるような気がする。

それから、エイズの子どもたちのための施設建設に反対するバージニアの人たちひどすぎ。
アメリカのよくないとこだよ、自称クリスチャンに偽善者が多すぎる。

死とその過程にかんする研究で、わたしがいちばん影響を受けた精神医学者はC・G・ユングだった。医学校の1年生のころ、チューリッヒの市街を逍遥しているその伝説的なスイス人の精神医学者を、わたしはよくみかけた。歩道や湖のほとりをゆったりと歩くユングの姿は街の風物詩といってもいいものだった。いつも忘我の状態で深い思索にふけっているようにみえた。わたしはユングとのあいだに不可解なきずなを感じていた。口をきけば、たちまち魔術的に気脈がつうじてしまいそうな、奇妙な親近感を抱いていた。

ところが、ある快晴の日に、大好きな担任教師のブルクリ夫人がクラスの全員をつれて見舞いにきた。そして、全員でバルコニーのしたに集まり、わたしの気に入りのセレナーデを歌ってくれた。帰り際に先生が、おいしそうなチョコレート・トリュフでできた黒い熊の人形を手わたしてくれた。わたしはそれをむさぼり食べた。
病気はゆっくりと、しかし確実に治っていった。のちに自分も白衣をつけた医師の一員になり、さらにかなりの年月をへてはじめてわかったことだが、その治癒はもっぱら世界最高の医薬のおかげだった。すなわち、家庭で受けた看護、なぐさめ、愛......そしてわずかばかりのチョコレート!

母は世界一の料理上手だったが、とりわけクリスマス・シーズン用の新しい献立を自慢にしていた。肉や野菜の入手先にはとくにうるさく、ほかにない一品を手に入れるためには何マイルも歩く苦労を惜しまなかった。
わたしの目には倹約家にみえた父も、クリスマスにはいつも生き生きとしたアネモネ、ラナンキュラス、デージー、ミモザなどをとりあわせた大きな花束を買ってきた。また、ナツメヤシやイチジクなど、キリスト降誕の季節に神秘性を添える異国的なドライフルーツを箱ごともち帰ってきた。

父は平日、朝早く家をでて、チューリッヒ行きの汽車に乗る習慣だった。昼食どきには帰宅し、また駅へと急いだ。母はベッドメイキングや掃除もそこそこに昼食の準備にとりかかった。昼食はたいがい四品料理とその日のメインディッシュだった。昼食には家族全員が食卓につくきまりで、子どもたちが余計な物音をたてないか、食べ残しはないかと、マナーに厳しい父の「鷹の目」がつねに光っていた。

戦況が悪化するにつれて、わたしたちは犠牲というものの意味を学んだ。難民の人波がスイスの国境をこえて入ってきた。食糧を配給する必要があった。母はたまごを1年か2年も保存させる方法を教えてくれた。庭の芝生はじゃがいもと野菜の畑になった。地下室には缶詰が大量にならべられ、現代のスーパーマーケットのようなありさまになった。
前の畑でとれた野菜を食べ、自分でパンを焼き、果物や野菜の保存食をつくり、以前のような贅沢を捨てた生活に、わたしは誇りをもっていた。それは戦争へのそなえとしてはささやかなものだったが、自給自足で生きることにたいする自信が育まれ、後年の生活に大いに役立つことになった。

大学で教授と同僚だった人たちを招いてのクリスマスディナーで、わたしは失策を犯した。夫人の指示で前菜にアスパラガスをだしたわたしは、客が食べ終わったことを知らせる夫人のベルを合図に食堂へと急いだ。みると、アスパラガスはまだ全員の皿に残っていた。わたしはキッチンにひき返した。夫人がまたベルを鳴らした。皿にはまだ手がつけられていなかった。3度、同じことがくり返された。自分の気がおかしくなったのではないかと疑っていなければ、きっと笑ってしまったにちがいない。
とうとう夫人が血相を変えてキッチンに飛びこんできた。わたしは惚けたように立っていた。「食堂へいってお皿を片づけなさい」夫人はいきりたった。「教養のあるおかたはアスパラガスの先っぽしか召しあがらないの。お皿にあるのは残りなのよ!」なるほど、そうかもしれない。だが、皿をひきあげたわたしは「残り」といわれた部分をむさぼるように食べた。みかけどおりにおいしかった。最後の1本を呑みこんだとき、ひとりの客が入ってきた。

途中、ジュネーブの友だちの家に1泊した。友だちは泡風呂、紅茶、サンドイッチ、ケーキで歓待してくれ、マイレンまでの旅費を貸してくれた。

家主の親切な夫人がわたしの好物のフィレミニオンの夕食をつくってくれた。

1962年には、すでにアメリカの風土になじんでいた。4年の歳月がわたしを変えていたのである。いつのまにかチューインガムを噛み、ハンバーガーを口にし、朝食に甘いシリアルを食べ、ニクソンよりケネディを支持するようになっていた。母を何度目かのアメリカ旅行に招く手紙に、「スカートのかわりにズボンをはいて外出することがありますが、ショックを受けないでね」と書いた覚えがある。

母とわたし自身の元気づけのために、コニャックとスパイスをミックスしたエッグノッグ(卵と牛乳でできた甘味飲料)の大きなびんを救急車にもちこんだ。

大きなバッグにはブルックリン生まれの夫へのおみやげが詰まっていた。クーンの店の「清浄な」ホットドッグが1ダース、「清浄な」サラミが数ポンド、ニューヨークスタイルのチーズケーキなどなどである。着陸するころの飛行機の機内にはデリカテッセンの匂いが充満していた。

ある晩、泊まり客のために子牛の料理をつくっていたときのことだ。

夜になり、家に帰ろうとする棟梁を強引にひきとめて、コーヒーとスイスチョコレートをふるまい、なにかが起きるのを待った。

ポーリーンの「こんばんは、エリザベス。お帰りなさい。おいしいものがあるんだけど」という声を聞いて、ようやく家に帰ってきたという実感がわいた。しばらくすると、ホームメイドのプリンかアップルパイをもって、ポーリーンが戸口に姿をあらわした。近所にはポーリーンの兄弟がふたり住んでいて、たのむとどんな仕事でもよろこんでやってくれた。
アメリカでも貧しい地域のひとつといわれるそのあたりで、人びとは生活苦をかかえながらも正直に、南カリフォルニアで会った軽薄な人たちよりはずっとリアルに生きていた。わたし自身もかれらに見習って、朝から晩まで肉体労働に明け暮れ、ずっしりと手応えのある生活をしはじめていた。

ものが呑みこめないほどひどくなっていた別の服役者は、わたしが面会したときに嘔吐していた。看守が運んできた昼食は激辛ソースがかかったぱりぱりのタコスだった。「サディストとしか思えないわ」わたしは声をふるわせた。

ロブスター料理を食べにいこうと誘われて町につれていかれたとき、ケネスがなにをたくらんでいるのかは読めなかった。誘われたらまず断れない、わたしの数少ない弱点のひとつがロブスターだった。

「涙の河のなかで、おのれの祝福を数えるのだ」「時間を友としなさい」

エリザベス・キューブラー・ロス著 上野圭一訳『人生は廻る輪のように』から