たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

富士日記(2)千六本

友人隣人のみならず、家のメンテナンスに来た人にも食べ物の心遣いをしているところが興味深い。今は感染症予防で何も受け取ってもらえないかもな。30年以上前、内装を直しにきてくれたおじさんに親がお茶や羊羹を出しているのが珍しくて、子どもたちは「食べてた?」「食べてる食べてる」と陰から見守ったものだ。

「一升瓶のぶどう酒」ってワインぽくないですよね。
覚えた言葉、千六本。

工事の人たちにスイカを買って食後に出す。工事の人たちは、10時に1回、昼食後に1回、3時に1回、きちんと必ず休憩する。
(中略)
工事の人たちは、何が好きかというと、水気のあるもの―――スイカ、果物のかんづめ、ゼリーなどが好き。工事の人たちの持ってくる弁当箱には、ごはんがびっしりお餅になってしまったように詰っていて、もう一つの同じ位大きい弁当箱には、ほうれん草か小松菜らしいおひたしが、これもびっしり詰っていて、袋の中から日水のソーセージなどを出してかじりながら、実においそうに食べる。

地元のぶどう酒、ドーナツ、揚げせんべい、果物の罐詰で、完成祝。
(中略)
女衆は一升瓶のぶどう酒を傾けてコップになみなみとつぎ「ああ、うめえ」と言う。
(中略)
社長はチーズの銀紙を太い丸い指先でくるくるむいて食べながら、ビールをちゅっちゅっと音をさせて少しずつ飲んで満足そうだ。

どの家も道に面した硝子戸や障子を開け放って、奥の奥の方までみえる。座敷にはビールが並んで、おさしみや南京豆やのしいかを食べながら、にこにこしたり、死にそうに真赤に酔払ってしまったりしている。どこの家にも必ずおさしみがある。綿菓子とぶどうを買う。

市川さんと女の人が帰るとき、女の人に、子供さんにといってパイナップルのかんづめを2つ包むと、かぶっていた手拭をとって嬉しそうにおじぎをして市川さんにまつわりつくように真暗な庭の坂道を上っていった。

午後も雨止まず、霧が深いので買出しに行かず、インスタント焼きそばの夕食。

大月駅で駅弁を買う。駅弁は桂川のそばのいつも休んで食べるところで食べる。この間、この駅弁種て死にそうになった人がいたと新聞に出ていたっけ。

本栖湖で親子丼(主人)、うどん(私と花)を食べる。

隣りにきていた石屋さんたち(男4人女2人)家に入ってもらって、有り合せのビール、ぶどう酒、あめなど出して、石を運んでもらったねぎらいをする。

夜食は鳥肉入りのお雑煮。

石屋の社長はもぞもぞして「今日パーティーをやりたい」と言う。それでは、と千円渡して豚肉を800グラム買ってきてもらうことにする。うちの方では、深沢七郎君にもらった鳥の丸焼きと、果物のかんづめと、じゃがいものから揚げを用意する。2時過ぎに社長と3人の労働婦人が来た。社長は鯛のあらいと鯉こくを持参した。ビニール袋に入れた酢味噌も持ってきた。みかんも1箱持ってきた。豚肉で百合子は串カツを作り、電気なべを食卓において、揚げながら食べるようにした。そのパーティーのありさまは、テープにとってあるからくわしく知りたい者はテープを聞けばよろしい。みんなすっかり愉快になった。社長は「今度は俺(う)らがテープを買うだから、正月になったら、又、やるべえ」と言いおいて帰った。―――泰淳記す―――

母はやっと起きて朝ごはんの支度をした。鯉こくとウインナーソーセージだった。ウインナーソーセージがマンガみたいにつながっているのでも白かった。

夜は、豚のつけ焼きとスープと「江戸むらさき」だった。食べて少したったとき、私は日記を書いた。―――花記す―――

☆朝食前に庭でござで滑る。
朝食 パン、ソーセージ、鳥肉スープ、はちみつ、バター、紅茶。
食後にまた庭でござですべる。
(中略)
昼食 うどん。
食後に雪だんごつくり。そのあとで自動車掃除をして、また、雪だんごつくり。
夜食 さけのかす漬、金山寺みそ、しおから、わさび漬。
そのあと、今日も日記書く(6時)。―――花記す―――

この辺は正月にきんぴらごぼうを作るらしく、八百屋や食料品屋は、ごぼうを千六本に刻んで、袋に入れたり、山と積んだりして売っている。3時半、外川さんの家まで戻る。外川さんにわかさぎをもらって山へ上る。

朝食 カレーうどん、紅茶。
昼食 側口湖畔の富重。主人うな丼250円、私と花子ラーメン140円。
(中略)
夕食 外川さんに貰ったわかさぎで、天ぷらをする。大へんおいしい。泰淳10匹、百合子20匹、花8匹ほど食べる。ポコ1匹(しっぽを残す)。

奥さんは「ソバはいくら買うかね。いつも150円だけんど。それでいいかね」と、ゆっくりたずねるので、外川氏はめんどうくさそうに「200円ばっかでいいさ」と言っている。「タコは切っておくかね。うどんはゆでておくかね」と、奥さんは少しも変らぬゆっくらした調子でたずねるが、外川氏は返事をしなくなった。

武田百合子著『富士日記』より