たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

ひとり芝居『6時27分発の電車に乗って、僕は本を読む』

なんとなく70年代くらいをイメージしながら斜め読みしていたら、いきなりUSBが出てきてええっ、と思った。

登場人物たちがすごくいい作品として持ち上げる文章のサンプルを劇中に出すのはきっついだろうなあと思う。『1Q84』にも粗削りながら驚異の新人の作品というモチーフが出てきて自画自賛が大変そうだった。

ここで働き始めてから、何を食べても茹でた段ボールを食べたような後味が残るようになっていたが、守衛所に来れば昼食のサンドイッチの味も少しましになるような気がした。

イヴォンはランチタイムに何も食べない。ただ、詩や戯曲の言葉がそばにあれば満足していた。その言葉を時々、濃い紅茶で洗い流すだけでいい。イヴォンは濃い紅茶が大好きで、魔法瓶に入れて持ってきたものを一日中飲んでいた。

夕食には米を食べた。皿に盛った米をゆっくり、もそもそと食べた。

そして、ギレンのすぐ前にシャンパン・グラスとマム・コルドン・ルージュのハーフボトルを置く。シャンパンの最初の一口が腹に収まる前の冷たい喉越しが心地良い。

「昼は何を食べた?」ジュゼッペにそう尋ねられて、ギレンは驚いた。何も食べてはいない。第一、彼がたいていいつも、ほんの少しシリアルを食べて、あとは熱い紅茶をマグカップ1杯飲むくらいで他にほとんど何も口にしないことを、ジュゼッペはよく知っているはずである。しばらく何も考えずに黙っていたのだが、気持ちが通じたのかどうか、ジュゼッペは「ちょっと食事を作ったんだよ」と言ってきた。口調からして、ギレンが断ることは最初から頭になく、必ず食べさせる気であることはわかる。ジュゼッペの作る料理は、いつも皿の上の何もかもが全部、イタリアンだった。アンチョビ・ペーストをつけたグリッシーニを、イタリアの発泡白ワイン、プロセッコで洗い流す。次に、山と盛られたメロンと生ハムを赤のラクリマ・クリスティとともに食べる。クリスチャンにとって、「キリストの涙」という名前のそのワインで酔っ払うほど幸せなことはないとジュゼッペは信じていて、ギレンにもその幸せを味わってほしいと思っているのだ。ギレンが驚いたのは、そのワインを飲むと、いつも工場で嗅いでいる煮えた段ボールのにおいを忘れられるということだ。味覚に蓋をしてしまうあの嫌なにおいを忘れてしまう。デザートには、さくさくした食感のビスコッティ・アマレッティが皿いっぱいに盛られて出てくる。それを食べながら、よく冷えた自家製のリモンチェッロを飲む。まさに至上の幸福だ。美味しい食事とともに、無駄話をしていれば、この世の厄介事は全部なくなったような気がする。

意に反して、胃が音をたてている。年老いた神父は空腹なのだ。神父になったばかりの頃から、告白を聞く夜には質素な食事しかとらないのが常だった。サラダに新鮮な果物、それで終わりということも多い。自分を食べ物で満杯にしないことで、食べ物以外の何かが入ってくる余地を残そうという考えだった。

私たちは、クロワッサンを食べ、コーヒーを飲みながら、悩みや楽しかった出来事など、あれこれ話す。他愛のないおしゃべりだ。

ランチタイムになると、ギレンはイヴォンの小屋までぶらぶらと歩いていった。良い香りのするビスケットを1袋、イヴォンの淹れてくれた紅茶で流し込むようにして食べたが、ずっと上の空だ。ビスケットを咀嚼しているあいだ、聞こえていたのは、ヴィクトル・ユゴーの戯曲『リュイ・ブラース』の第3幕第2場である。

彼は皆と次々に握手をした。小さく華奢な手はどれも〈ビスキュイ・ド・ランス〉(シャンパーニュ地方のお菓子)のように薔薇色だった。

木曜日は特別な日。おばさんの日だ。名づけて「シューケット・デイ」。シューケットはおばさんにとってドラッグのようなものだ。必ず毎週木曜日にキメなくてはならない。地元のパン屋さんでシューケットを8個買う。8個のシューケットだけ。他には何も買わない。エクレアやフルーツタルト、パニラスライスなんかをおばさんが持ってくるのを見たことがない。いつも、きめ細かな氷砂糖をまずした小さなお菓子だけを8個持ってくる。

(中略)

どうして、おばさんはシューケットをすぐに家に持って帰ってテレビを見ながら食べないのか。あるいは、近所のカフェに行って、そこでバッグから取り出し、ホットチョコレートやライムブロッサムティーとともに食べる手もあるはずだ。なのに、いつも壊れやすい宝物のようなお菓子を大事に胸に抱いて、真っ直ぐここに来る。おばさんは前に一度、話してくれたことがあった。「あのね、よそで食べると味が違うの。何度か試してみたけどね。(中略)最高の香りや風味が感じられるのは、やっぱりここしかない。ここでは天にも昇るような美味しさになる。

(中略)

試したかったのはワッフルだ。小腹がすいた時、よくワッフルを食べる。1階のクレープ屋のワッフルがかなり美味しいのだ。いつもプレーンを買って、カウンターで食べてしまう。ここに帰ってくるまで待ちきれないからだ。ある日、できたての温かいワッフルを持ち帰って、個室の1つに入って食べてみたことがある。それでわかったのは、おばさんがまったく間違っているわけではないということ。何かが変わる。私のワッフルが、私のタイルの中だと何か別のもっと崇高なものへと変化する。それより美味しいワッフルを食べたことがあるかどうか、思い出せなかった。おばさんがシューケットについて話し始めると、もう止められない。「クリームをひけらかすような、あの傲慢なケーキたちとは比べものにならない。あのマジパンに包まれた、もったいぶったようなビスケットたちともまったく違う。自分の装飾の重みで崩れてしまうようなお菓子とはわけが違うのよ」おばさんは怒ったように言う。「シューケットは最もシンプルなペストリー、絵画で言えばミニマリズムのような!」少しでも聞く耳を持った人間に彼女はそう教える。「人の目をくらますような飾りは何もない。ほぼ真っ裸で私たちの前に現れる。まとっているものといえば、わずかな白い結晶だけ。ありのままの姿を見せてくれる。少しの甘みだけ、他にはなんの気取りもない。そして何より食べやすい」ああ、あなたにもおばさんの話を聞かせてあげたい。

(中略)

便座の蓋に置いた柔らかいクッションに楽に腰掛け、彼女はたっぷり20分近くもかけて、大切に持ってきたお菓子を一つひとつ貪るようにして食べていく。口蓋と舌のあいだでペストリーを押し潰すと、中に閉じ込められていたバニラ風味のついた香りが解放され、彼女の味蕾を刺激する。(中略)シューケットを一気に8個も食べてしまうなんて、正真正銘のジャンキーとしか言いようがない。

婦人たちはそれぞれに、自分だけのシュー皮のレシピを思い出したようだ。自分だけが知っている裏わざを互いに教え合っていた。卵の数はいくつか、バターの量はどのくらいで、どのケーキノズルを使うのがいいか、など。

ジャン=ポール ディディエローラン・著、夏目大・訳『6時27分発の電車に乗って、僕は本を読む』より