「アタック25」があっさり終了してしまったとはビックリだ。どんどん消えていった一般視聴者参加のクイズ番組。いつメンばかりやたら大勢並ぶ日本のバラエティ番組はほんましょうもないと思うのだけど、一般人を募集するより手間暇もお金もかからないんでしょうね...。学校休んで高校生クイズに出場したことがある身としては隔世の感(もちろん、球場を出ることはできませんでした。スマホどころかケータイなき時代のこと)。
パンデミックになって日本のワイドショーをちょこちょこネットで見るようになったら、以前はドラマで主演もしたような俳優とか超頭いいはずの文化人とか猫も杓子もコメンテーターしてて、仕事ないのかな、だとしてもワイドショーに魂売ったらあかんやろ、と悲しくなった。
児玉清氏には食べ物本もだけど、メアリー・ヒギンズ・クラークを推してもらったのを感謝してる。
ただ、これは彼だけを責めるべきではないのだろうが、「女流作家」紹介のルッキズム最低。あとがきの「女房を質に」という「冗談」もひどい。ついカギカッコだらけにせざるを得ない。
本をたくさん読んでる人でさえ20年前はこの程度だったのよ。
1989年に東西ドイツを隔てる壁が崩れたとき、東ドイツからどっと西側へ繰り出した人々はコカ・コーラとバナナに群がったという。
(中略)
僕も物語に登場するワインの味をいろいろと想像しているうちに、いつしかワインの味が頭の中にできてしまっていた。その味は、葡萄。つまり葡萄のジュースのようなものと思いこんだのであった。
今でこそ、フランスワインもドイツワインも日本中どこででも買える時代になったが、高度経済成長期以前の日本では、赤玉ポートワインがせいぜいであった。そしてポートワインを最初に飲んだときの違和感は今でも忘れられない。想像上の味とのあまりの違いに愕然としたのだ。人工的な甘さのうえに強烈なアルコールを感じてショックだった。違う、違うと飲みつづけているうちに猛烈な酔いが気持ち悪さとともに襲ってきた。
翌日の頭の痛さと気分の悪さは絶望的なものであった。この瞬間からワインに対する僕の憧れは、しばらくの間、完全に消えてしまったのだが、十数年後にフランスの白ワイン、ソーテルヌの超甘口のシャトー・ラフォリ・ペラゲに遭遇して突如復活した。とろりとして甘く、フルーティーでおいしい白ワインに、「あ、これこそ僕が子どもの頃からずうっと思い描いていた理想の味だ」と叫んでいた。年齢とともに超甘口から爽やかさとあっさり感のある、やや甘口のドイツ白ワインの方へと移行してきたのだが、あの出逢いが今日まで尾を引いている。
そんな僕が、あの『南仏プロヴァンスの12か月』(河出文庫)の作家ピーター・メイルの小説『CHASING CÉZANNE』(邦題「セザンヌを探せ」河出書房新社)を読んで、突如フランスの赤ワインを猛烈に飲みたくなったのだ。どうしたわけか、彼の本からは料理と飲み物のおいしさが漂ってきて、空き腹のときに読んだりすると、別に食べ物のことが書いていなくてもお腹がグーッと鳴ったり、喉がグビリとしたりするから不思議だ。彼の描く南仏プロヴァンスという土地柄が原因なのか、それとも作者自身が食いしん坊であるためか、とにかくメイルの本を読むと、妙に心が浮き浮きとしてきて、豊かな自然の恵みの美味なる食卓が目の前に浮かぶ。
特にこの小説は主人公たちが機会あるごとにレストランに入り、食事を愉しむ件があることもあって、彼らの口にする赤ワインがにわかに魅力的に輝き始めたのであった。メイルのフランスへの憧れがそのまま読む者の心を弾ませてくれるのか、彼の書く文章の飛び抜けた面白さがそうさせるのか、メイルのエッセイと小説にすっかり洗脳されたのか、それまでわが家の隅で不遇な扱いを受けて転がっていた赤ワインをテーブルの中心に引っぱり出して開けた。グラスに注ぎ、ぐっと一杯口にしたとたん、今まで毛嫌いしてきた赤ワインがまるでウソのように暖かく丸く、芳醇な香りとともに身体中にひろがった。そして、ピーター・メイルの小説の楽しさがまた一段と広がったのであった。
1998.2
児玉清著『寝ても覚めても本の虫』より