たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

サービスエリアで食い倒れ『リバース』

ネタばれになりそうな箇所は引用していません。もちろん。おいしそうで引用できないのが残念な箇所もいくつか。

いろいろ話題のイヤミスを読んで回って、あまりの拙い語り口に5ページでやめたりもした末に湊かなえ氏に戻ってくると、えらそうな言い方だがやっぱり一般人の描写がうまいな〜と思う。日本の学校に通った経験のある者にはしみる書き込みが素晴らしい。ちょっと人に名前を覚えてもらっていただけで喜ぶ主人公。常にコホートの中での自分のポジションを気にしている人々...。

そしてこんなコーヒー専門店が近くにあったらいいね(今、近所に「2022春オープン」を掲げている場所があるが、ただでさえ物が届かず、人が足りず、内装系の工事がどこでも滞っている昨今、年内の開店は無理じゃないかなーと思ってる)。

実は今まで飲んだ中で瞠目するほどおいしかったコーヒーはいまだに「1997年にラスベガスのショッピングモールで初めて飲んだスタバのコーヒー」なのだ。渡米時1.5ドルだったトールサイズは、じりじり値上がりをして今や2.2ドルだ。環境と自分の状態によるのだろうが、おいしいと思うことはほぼない。

3/1/2022追記:本作はドラマ化されたということで、どんな脚色なのかと最終話だけ配信を買って見てみた。久しぶりの日本のドラマは記憶以上に見るに堪えないものだった。藤原竜也は、やってることが20年前と同じ。小池徹平のつくり笑顔の恥ずかしさ。市原隼人っていう人は、ニュートラルな表情はできないのだろうか。

ローストされた豆の状態で購入し、淹れる直前に、これもまた深瀬の私物である手動ミルで挽く。当初は自分のためだけに淹れていたのだが、10杯分まで沸かせる機械では、1杯分よりも複数杯分作った方がおいしくできるため、ついでにどうぞ、と希望者を募っていくうちに、社員全員が、深瀬のコーヒーを待ちわびるようになった。

一息つく間もなく、深瀬は自分の席に着き、引き出しからコーヒー豆の入った袋とミルを取り出して、ゴリゴリと挽き始めた。一瞬のうちに香りがフロア内に広がる。
「俺、今週は初めてだな。どこの豆?」
小山が自席から声を張り上げた。一巡目でもらうぞ、と周囲への軽い牽制も兼ねているはずだ。
「ケニアです。オレンジやビターチョコレートのような風味が特徴ですね。他の豆より深煎りされてるので、苦みを強く感じると思います」
「おおっ、俺好みだな」
「私はこの前のがよかったわ。どこのだっけ?」
深瀬の向かいの席の女性社員も加わった。
グアテマラよ、と深瀬が口を開く前に、深瀬の隣席の社員が答えた。ピーチっぽい香りがいいのよね、深瀬くん、などと深瀬を中心に話題が広がっていく。

じゃあまずは最初に行ったホンデュラスから、と言って、奥さんに販売コーナーから豆を持ってくるよう頼み、ドイツ製だという機械で丹念にエスプレッソのお湯割りを作ってくれた。
–––おいしい、おいしいです!
さわやかな酸味が口いっぱいに広がり、その奥からほのかな甘さが湧き上がってくる。「ブルーベリーとチョコレートの風味」とマスターが説明してくれたが、なるほどこういうことか。だが、それらよりもっとまろやかで味が深く、熟成させて作ったワインのようだ。
(中略)
結局、その日、店を出たのは深夜零時を過ぎてからだった。飲んだコーヒーは、2杯目からデミタスカップだったとはいえ、12杯、全種類だ。会計の際、1杯分の代金でいい、とマスターに言われ、しばらくぎこちない押し問答が続いたが、最終的に深瀬が折れた。マスターはおとなしそうでなかなか手強い。おまけに、1杯300円だった。豆の販売価格は種類によって100グラム当り500円から2000円とばらつきがあるが、喫茶コーナーではどの豆を選んでも同じ代金なのだという。
–––豆には自信があるけど、職人としてはまだ修行中だからね。
自分の技術はそんなマスターの足元にも及ばない。敗北感よりも、新しい世界が開けたことに心地よさを抱いた。

「深瀬くんって、朝はパン?」
定位置である一番奥の席でぼんやりとコーヒーをすすっていると、カウンター内から奥さんに声をかけられた。
「どちらかと言えばパンだけど、コーヒーだけのことが多いかな」
「だめよぅ、若いんだから朝ごはんはしっかり食べなきゃ。糖分は必要でしょ」
「でも、僕、朝のコーヒーには砂糖とミルク、両方たっぷり入れてますよ」
店ではコーヒー豆そのものの風味を堪能するため、ブラックで飲んでいる。
「なんだ、甘いの大丈夫なのね。じゃあ......」
奥さんはコンと音を立てて、カウンターの上に、手のひらにおさまりそうなサイズの小瓶を置いた。べっこう飴のような淡い黄色の、粘度のある液体が入っている。
「蜂蜜、もらってくれない? 実家の親の手作りなの」
奥さんの父親は定年退職後、地域の仲間たちと養蜂を始めたのだという。
(中略)
「去年は皆でホットケーキを焼いて、それにかけたらおしまいって量しかとれなかったけど、今年は豊作だったみたい。うちに5個届いたくらいだもん。わざわざホットケーキを焼かなくても、トーストにかけるとおいしいわよ。先にバターをたっぷり塗ってね」
へえ......、と瓶を持ち上げると、蜂蜜の表面がどろりと揺れた。素人でもこんなに透明度の高いものが作れるのか。ラベルを貼れば、十分に商品として売り出せそうだ。

広沢が蜂蜜の瓶を持って深瀬のアパートにやってきたのは、大学4年生、6月初旬のある夜のことだった。広沢は深瀬のアパートを訪れる際、たまにスナック菓子やテイクアウトの牛丼などを持参していたが、その日のコンビニのレジ袋の持ち手は、重力に耐えかねて引きちぎれそうになるくらい伸びていた。
ゴン、と鈍い音を響かせて、広沢はテーブルの役目だけを果たしているこたつの上に、レジ袋から取り出したものを置いた。1年分の梅干しが全部入りそうなくらい大きな瓶の、9分目までが琥珀色のどろりとした液体で満たされていた。
–––親戚のおじさんが養蜂をしているんだ。俺が甘い物好きだからって、こんなに送ってこられてもなあ。

「えーっと、何だったっけ。そうだ、蜂蜜」
奥さんが棚から別の蜂蜜の小瓶を取りだした。
「お皿に出す? それとも、スプーンでそのままペロッといっちゃう?」
「それより、コーヒーに入れてみませんか?」
「それ! 何で気付かなかったんだろう。深瀬くん、グッドアイディア!」
奥さんが手を打った。
–––なあ、コーヒーに入れてみないか?
最初に、その提案をしたのは広沢だった。しかし、深瀬は奥さんのようにすぐには賛同しなかった。コーヒーの香りが蜂蜜の香りに消されて、台無しになってしまうのではないかと危惧したのだ。(中略)
–––そうやって飲んだらおいしいって、うちの母親が言ってたから。信用できるかどうかわかんないけどさ。
そういうことなら1杯くらい、と深瀬も試してみることにしたのだ。
奥さんが首を伸ばして深瀬のカップに目を落とした。中身は空っぽだ。
「もう1杯飲む余裕ある?」
腹の具合はまだ十分に余裕がある。それとも、時間のことか? 腕時計を見た。午後6時40分、待ち合わせの時間まで、まだ20分ある。
「大丈夫ですよ」
じゃあ、と奥さんは空のカップを下げた。
「こういう混ぜ物系の場合は、ブレンドがいいかしらね」
「賛成です」
奥さんは棚からクローバー・ブレンドの瓶を取り、カップ2杯分を電動ミルに入れた。次に、挽きたての豆をエスプレッソマシーンにセットする。ヴーン、と低く響く音とともに、濃厚なコーヒーがカップに滴り落ちてきた。それをお湯で割ると完成だ。
嗅ぎ慣れたクセのないまろやかな匂いが鼻腔をくすぐる。このままでもアリだなと心が揺れた。そこに、ポン、と音が響き、濃厚な甘い匂いが広がった。
お先にどうぞ、と瓶を差し出され、深瀬はティースプーンに1杯すくってカップに入れた。底をゆっくりとさらようにかき混ぜる。
「1杯でいいの?」
「僕は。でも、砂糖1杯分と同じ甘さにするなら、3杯入れるといいですよ」
「なんだもう、蜂蜜マスターじゃない」
(中略)奥さんは3杯しっかり入れ、スプーンをせわしなくクルクルと動かしている。
(中略)
鼻いっぱいに香りを吸い込んでから、コーヒーをすすった。庭に巣箱を置いていたと聞いたことも手伝い、口内が野に咲く鼻で満たされているような気分になる。はじめからこういう種類のコーヒーだと言われたら信じてしまえるほど、違和感のない、コーヒーと蜂蜜が一体化した香りと味だった。
(中略)
「これ、いい。コンテスト上位入賞の豆にも負けてない。お父さんに言ったら邪道だって却下されそうだけど、今週はお試し期間として、蜂蜜入りブレンドを他のお客さんにも勧めてみようかしら」
奥さんはすっかり気に入った様子で、熱いコーヒーをきゅっと飲み干した。

私もコーヒーはほぼブラックで飲むが、たまに砂糖や蜂蜜を入れると、3杯どころではうっすらとしか甘くならないし、市販の缶やパックのコーヒー飲料にいかに大量の砂糖が入っているかがよく分かる。もしかするとコーラ以上の量なのではないか。

カップを持ち上げ、香りを吸い込み、ちびりとすする。と同時にパッと目を見開いた。想像以上のおいしさだったのだろう。自分がここを初めて訪れたときも、こんな表情をしていたのではないか、と深瀬は美穂子の横顔を見つめた。
–––豆って買えるんですよね。
深瀬のコーヒーを淹れているマスターの邪魔をしないようにか、遠慮がちに訊ねた美穂子は、マスターが答える前に、でも......、と続けた。
–––同じ豆でもきっと、ここで飲む方がおいしいんだろうな。

いつもの、という注文は、マスターにおまかせ、という意味だ。甘酸っぱいベリー系の風味。
–––コスタリカ?
–––正解です。
外れだったり、新しく買い付けてきた豆なら、マスターの蘊蓄話が始まるのだが、当たっていたら、これだけで終わる。

–––カレーパンとかサンドイッチとか、お惣菜系のパンが充実しているから、出勤前に、お昼ご飯用に買ってみたらどう?
(中略)
損をした、と小石を蹴りたいような気分で高架下をくぐりながら、はて、自分は何を期待していたのだろう、と足を止め、パンを買いに行ったのではないか、と無理やりカレーパンに合うコーヒーについて考えてみた。

むしろ駅で会ってそのまま夕飯を食べに行くというパターンの方が多いのだが、<グリムパン>の定休日前は<クローバー・コーヒー>でということにしている。美穂子が売れ残ったパンを大量にもらってくるからだ。それを、深瀬のアパートで、2人で食べる。夕飯がパンであることに深瀬は抵抗を感じない。週に1度くらい、こういう日があってもいい。

軒下にはいるだろうが、寒い思いをしているに違いない。まずは、温かいコーヒーを淹れてやろう。美穂子は店でも、コーヒーに砂糖とミルクを入れている。奥さんにもらった蜂蜜を見せると喜ぶのではないか。

「運転できない代わりに、コーヒーを淹れてきたんだ」
「気が利くな。砂糖は?」
浅見がカップを受け取りながら訊ねた。
「入ってる。ミルクも」
広沢の好みに合わせて作ったものだった。浅見が一口飲んだ。うまい、と声を上げる。ちょっと俺にも、と谷原がカップを奪った。

「次のサービスエリアで、テレビでも取り上げられたご当地から揚げが売ってるらしいんだけど。みそだれを付けて食べるんだって」
案の定、一番に反応したのは谷原で、休憩がてらサービスエリアに寄ることになった。地鶏のもも肉を一晩、特製のタレに漬け込んで揚げた外はカリカリ、中は肉汁が溢れ出すほどにジューシーなから揚げを、辛みそに付けながら食べるというもので、4人で2パック買い、旨い旨い、とつつきあった。(中略)猫舌の深瀬が三口に分けて食べたから揚げを、広沢は一口で頬張った。
「広沢、ちゃんと噛んでるのか?」
浅見が訊ね、
「ホント、いつ見ても、気持ちのいい食いっぷりだよな」
と谷原が広沢を見上げた。
(中略)
「スイーツは何かないのか?」
谷原に訊かれ、二つ先のサービスエリアで高原ミルクを使ったプレミアムプリンが食べられることを伝えた。そこにも寄ることになり、その後も、フランクフルトやみそおでん、メロンパンなど、次々と頬張っていった。
「そろそろ、夜のバーベキューのことを考えないか」
食い倒れツアーのような状態にストップをかけたのは、やはり浅見だった。

日本名物?で一番懐かしいのはサービスエリアと道の駅かもしれん。ドライブ中ではない地元の人まで詰めかけるところとか。そんなにあれこれ食べられないけど、いいにおいをさせている屋台やフードコートに加え、ハンバーガーなどの珍しい自動販売機がずらっと並んでいるのを見るとワクワクする。外国からのお客様を連れていくと大変喜ばれる。最近はスタバや都会にあるのと同じコンビニ併設も増えてしまいましたが、イオンのように画一的にならず、それぞれシグネチャを守ってほしいと思う。

サービスエリアで満腹になったにもかかわらず、長野県に入って高速道路を降り、のんびりと県道を走りながら、とっくに正午をまわっていたことに誰ともなく気付くと、昼食はどうしようかという話になった。
「どこかおすすめのところは?」
谷原に訊かれ、深瀬は1キロほど進んだ先に、<アルプス庵>という蕎麦屋があるはずだと伝えた。
「アルプスの天然水を使った水蕎麦が食べられるらしい」
「水蕎麦? 聞いたことないけど、旨そうだな」
すんなりと同意を得て、水車の回る蕎麦屋に辿りつき、車を降りたときだった。
「悪いけど、俺、あっちの店に行ってもいいかな」
広沢が来た道の方を指さした。100メートルほど戻った辺りに赤い三角屋根の建物が見えた。
「レストランか? せっかく信州まできたんだから、みんなで蕎麦を食おうぜ」
谷原が行った。
「でも、斑丘高原豚のカツカレーって看板が出てたんだ」
「そっちも旨そうだな。ていうか、カレーなら仕方ないか」
広沢は学食ではいつもカレーを食べていた。カレーなら毎日どころか、三食続けても飽きないのだという。好き嫌いはなく大概のものなら、旨い旨い、と口にしながら食べていたが、カレーに関しては貪欲で、旨いカレー屋があると聞けば、そのためだけに半日かけて出かけていったと聞いたこともあった。
斑丘高原豚、という響きに深瀬も魅力を感じたし、広沢に合わせてもよいような気もしたが、なんせ腹はまだいっぱいで、蕎麦なら入るが、カツカレーを一皿食べきれる自信はなかった。
「俺は蕎麦にするよ」
浅見が言った。
「高原豚と、天然水の水蕎麦。俺も蕎麦に1票かな」

「カレーに関しては貪欲」な人、私のまわりにも何人かいる。カレー以外のものが名物の店に行っても、メニューにカレーがあると食べてみなくては気が済まなくなる人。

谷原と浅見と3人で蕎麦屋に入ったのだが、居心地だの会話だのと気にすることすら忘れてしまうほどに蕎麦を楽しむことができた。
メニューは「水蕎麦」のみだった。注文すると、普通のざる蕎麦と変わらない、せいろに載った蕎麦が運ばれた。蕎麦つゆの入ったとっくりと猪口、ねぎとわさびの載った小皿もある。しかし、その横に、塩の載った小皿と、冷水の入ったガラスの猪口も添えられていた。テーブル脇に「お召し上がり方」という紙があり、それによると、まずは蕎麦を冷水にくぐらせて食べるよう買いてあった。
「なるほど、だから水蕎麦なのか」
(中略)
冷水に蕎麦の先をさっとくぐらせ、口に運ぶ。ひんやりとした感触とともにつるりと蕎麦が滑り込み、口から鼻の奥までいっぱいに蕎麦の香りが広がった。これまで蕎麦やうどんやそのものの味や香りを意識したことはなかった。のど越しと歯ごたえ、そして、つゆの味を楽しむものだと思っていた。しかし、改めて、いや、その時初めて、蕎麦の香りを理解することができた。
次は塩を付けろと書いてある。アイボリーがかった瀬戸内海の藻塩は舌に直接触れてもしびれることがないまろやかな塩辛さで、それを箸先でほんの少し蕎麦に付け、つるりとすすると、口の中に甘味があふれた。これが蕎麦の味か、と開眼し、目から鱗とはまさにこのことだと噛みしめるように飲み込んだ。
後はお好きな食べ方で、蕎麦つゆも蕎麦の香りと味を引き立てる風味と辛さに調節している、とあった。満腹だったはずなのに、3人とも蕎麦を1枚ずつ追加注文した。
「大当たりだったな」
(中略)
蕎麦そのものの味もいいが、やはりつゆで食べるのが一番いいな、などと言いながら外に出ると、すでに広沢が車の脇に立っていた。携帯電話を出していたが、3人の気配を感じると、すぐにポケットに仕舞い片手を上げた。
「高原豚はどうたった?」
谷原が訊ねると、広沢は満足げに、靴ほどの大きさのカツが載っていたのに、旨すぎてあっというまに平らげてしまったのだと答えた。
「カレーは辛いのに、肉が甘くて、絶妙なバランスって感じかな」
どんなに旨いものを食べても朴訥な表現しかしない広沢にしては、珍しい言い方だった。余程のことだったのだろうと、深瀬が高原豚に思いを巡らせている横で、そっちも食いたかった、と谷原が子どものように声を上げた。

「斑丘高原ミルクのソフトクリーム」というのぼりに、谷原も目を留め、あれを食おう、と声を上げた。広沢は緑色の屋根の建物の方向にハンドルを切った。
「信州つっても、やっぱ、暑いな」
ソフトクリームをなめながら谷原が言ったが、建物の外にあるテーブルについているのが苦にならない程度の暑さだった。ソフトクリームが食べるペースを追い越して溶けていくこともない。

レタス、キャベツ、トマト、ピーマン......、彩り豊かな野菜はどれもこれも新鮮で旨そうに思えた。値段も100円、200円と手ごろで、広沢が持ったカゴにそれぞれが思い思いに入れていった。実家の母親が見れば、息子はこんなに野菜好きだったかと驚くに違いないと、ついおかしくなってしまったほどだ。
「高原って言葉に踊らされてるよな」
真赤なトマトが3つ入ったビニル袋をカゴに入れながら谷原が言い、
「今頃、気付いたのか」
と笑う浅見も、子どもの握りこぶしほど大きなマッシュルームが詰まったビニル袋を2つもカゴに入れた。1つで十分だろ、と谷原が1袋戻す。広沢も粒の揃ったとうもろこしを5本、カゴに入れた。村井の分だな、と谷原もトマトをもう1袋追加した。
奥の一角はパンコーナーになっていた。自家製酵母のパン、米粉を使ったパン、といった手書きポップとともに、手作り風の素朴なパンが並んでいた。
「明日の朝ごはん用に買っとく?」
(中略)
まかされた、というよりは押し付けられたのだから、好きなものを選べばいい。深瀬は「石窯焼きのクルミパン」と手書きのラベルが貼られた直径20センチはありそうな丸いパンをカゴの野菜の上にのせた。
パンの横の棚には小さな瓶が並んでいた。ジャムや蜂蜜だ。いずれも「森川さんちのジャム」「森川さんちのハチミツ」と手でちぎったような和紙に筆書きされたラベルが貼られていた。高原よりも個人名の方が心惹かれるな、と深瀬はジャムの瓶を1つ手に取った。紫色なのでおそらくブルーベリーなのだろうが、果物の名前は書かれていない。赤いのはイチゴ、黄色いのはリンゴではないかと推測し、リンゴの瓶をカゴに入れた。
蜂蜜も1つ買っておくことにした。こちらはジャムと違い1種類だ。カラメルソースのような濃い褐色の蜂蜜は、アルプスの自然のエキスがぎっしりと詰まっているようで、その場でペロリと舐めたい気分になった。
サラダ用に「たま江おばあちゃんのドレッシング」と名前プラスおばあちゃんという最強のフレーズが並んだ瓶をカゴに入れ、最後に、大事なものを忘れていたではないかと、「たま江おばあちゃんの焼き肉のタレ」と書かれた瓶を手に取ったところで、谷原、浅見、広沢が一緒に戻ってきた。

「おい、めちゃくちゃいい肉だ」
谷原が村井から預かったクーラーボックスを開けて言った。高級肉に普段縁のない深瀬でも、一目見てわかるほど、見事なさしの入った牛肉が、焼き肉用にカットされ、B4サイズほどの黒いプラスティックのトレイにきれいに並べられていた。それが5パックもあった。
(中略)
谷原と浅見は缶ビールを開け、軽く乾杯してから作業を始めた。ソフトドリンクを何も買っていなかったことに気付いたが、ここなら水道水も旨いだろうと、あまり気に留めなかった。
深瀬がタマネギの皮をむく横で、広沢は慣れた手つきでピーマンを切っていた。谷原と浅見がキャベツを手で千切るか包丁で切るかでもめたが、焼き野菜用と生食用で両方用意すればいいではないかと一瞬で片付いた。

乾杯前に流れた不穏な空気など、肉を1枚食べただけで一気に霧散した。(中略)
旨いコーヒーが心を和ませてくれることは日々実感していた深瀬だったが、旨い肉は心を躍らせ、自然と笑顔にさせてくれるものなのだと、肉を噛みしめながらしみじみと感じ入った。ほどよくさしの入った甘い肉は、もう少し口内に留まっていてくれと引き留めてしまいたくなるほどに、舌の上でとろけ、のどの奥にするりと流れていった。
「これまでの俺の人生で、一番旨い肉かも」
谷原が舞台役者のような大袈裟な言い方をしたが、その言葉には深瀬も他の2人も同意して、肉を頬張りながら大きく頷いた。
「なんか、村井に申し訳ないな」
肉を飲み込んでから広沢が言った。
「まあ、ここにいないのは残念だけど、肉のことは気にしなくていいんじゃないか? あいつの家じゃ、これが普通だろ」
谷原がさらに頬張りながら答えた。
「そうかな。皆で行くからって奮発してくれたんじゃないか?」
浅見が肉のトレイに目をやった。
(中略)
「気にし過ぎだって。あーっ、そっか。あいつの家行ったことあるの、俺だけか。晩飯がコース料理で出てくるんだから、まいったよ」
谷原が言った。
「それだって、おまえが遊びに行くから、特別にそうしてくれたんじゃないのか?」
「でも、コースで出るか? もしおまえらがうちの実家に遊びに来るとして、母ちゃんが張り切ったとしても、すき焼きとトンカツとから揚げがドーンといっぺんにテーブルに並ぶ感じだぞ」
「うちと同じだ。あと、プラス、カレー」
(中略)
「俺の家では手巻き寿司だったな。肉もあった方がいいだろうって、母さんが棒状のハンバーグを作って、それも巻いて食べられるんだけど、一番人気で、だんだん具がそれだけになっていってたな」
浅見は懐かしそうに目を細めながら、谷原から缶ビールを受け取った。
「ハンバーグ手巻き寿司か、旨そうだな。深瀬の家は?」
(中略)
「うちもすき焼きかな。それか、焼き肉。こんなにいい肉じゃないけど。あとは刺身。近所の魚屋に届けてもらうんだ」
仕方なく、親戚同士で集まったときのメニューを挙げてみた。
「いいねえ、新鮮な刺身。卒業までに、全員の実家訪問をやってみたいよなあ」

とにかく、食べるのに夢中だった。肉が旨いのはさることながら、道の駅で買った野菜も負けていなかった。肉をしこたま食べ、もう腹いっぱいだと思っても、甘いタマネギと味の濃いピーマンを食べると、不思議なことにまた肉が欲しくなる。
「何が旨いって、このタレじゃないか?」
谷原が生のキャベツを手に取り、たっぷりとタレをつけて齧った。
「ホントに。買って帰ろうかな」
浅見がタレの瓶を手に取り、ラベルを眺めた。
「材料とか、何も書いてないんだな」
「そこがいいんじゃないか? 手作り感もアップするし、秘伝の味って感じも出るしな。俺も買って帰ろ。これだけで白飯3杯はいける」

「朝飯用に買ったパンとかで、村井にサンドイッチか何か、夜食みたいなのを作ってやってくれないか。店も閉まってるって言ってたし、ここに着いて、腹減ったってゴネられても困るからな」

パンをスライスし、ベーコンをスライスし、トマトをスライスし、きゅうりをスライスし、レタスを千切り、サンドイッチを作り続けた。

2巡目のコーヒーをカップに注ぎ自席に戻ると、先にコーヒーを飲んでいた隣席の女性社員が、今日の豆は? と深瀬に訊ねてきた。確か、彼女は2巡目のものを入れていたはずだ。
「ケニアとブラジルのブレンドです」
「あら、2種類混ざってるなんて珍しい。新しい味の開拓?」
「いや、たまにはいいかなと」
言葉を濁しながら深瀬はコーヒーをすすった。互いのよさを相殺するのではないかと案じていたが、単品でおいしいものは混ぜてもおいしい。それどころか、キング・オブ・キングのブラジルを使っているのだから、皆にはいつも以上に味わってもらいたい。初めに淹れたケニア単品を飲んでいる人しかり。

–––旨い焼き肉を腹いっぱい食べました。道の駅で買った野菜も旨くて、あと、高原豚のカツカレー!
谷原は声を詰まらせながら広沢の食べたものを遡って答えていった。楽しかった時間を巻き戻していくように。広沢がいた時間を指でなぞっていくように。サービスエリアであと食べたのは、と谷原が言葉を切り、深瀬が継いだ。
–––メロンパンです。

村井がメニューを開き、すばやく4品挙げると、深瀬も2品ほど手間のかからなそうな料理を選び、テーブルの上のボタンで店員を呼んだ。村井はビールを大ジョッキで、深瀬はウーロン茶を頼み、刺身の盛り合わせなど、料理を6品注文した。
(中略)
「これ旨いよ。冷めないうちに」
自分の前に置かれていた白エビのかき揚げの皿を村井の前に移動させた。村井は大きなかき揚げを取り皿を経由させず、直接口に放り込んだ。

寿司やから揚げが大量に用意されていたのに、箸をつけるのが申し訳なく、個別に用意されていたタコときゅうりの酢の物をちびりちびりと食べていただけだ。その横で、谷原は中央に並べられた皿に何度も手を伸ばし、食べまくっていた。浅見も、頬張りはしないが箸を置くことはなかった。料理は勢いよく減っていった。少しは遠慮したらどうだとあきれるほどに。なのに、村井はあつかましい要求までした。
–––すごい料理を前にこんなこと言うのは失礼だけど、俺、おばさんのカレーも食ってみたかったな。
(中略)
–––じゃあ、夕飯に食べて行って。おばさん、これからがんばって作るから。ね、ね、ね、ね。
(中略)
一度、ホテルに戻り、夕方改めて出直すと、家の門が見えないうちからカレーの匂いが漂ってきた。町を見下ろす高台にある広沢の家に向かうには、かなり急な坂道を登らなければならず、足取りが徐々に重くなっていたが、カレーの匂いをかぐと、自然と足も早まった。きっと、広沢は子どもの頃、この匂いをかぐと駆け足になったに違いない。そんな想像をしながら広沢の家を訪れた。
その時も、村井はカレーを食べながら、広沢の父親と同じペースでビールをガバガバと飲んでいた。

この店のウリはコーヒーだけでなく、週替わりで種類の変わる蜂蜜トーストのようで、今週の蜂蜜という欄に「愛媛県産・ミカンの蜂蜜」と書いてあったのだ。もしかすると、広沢の家のミカン畑でとれたものかもしれない。
昨年、広沢の三回忌の法事に皆で訪れた際、自家製の蜂蜜レモネードを振舞われ、蜂を飼っているのは父親の兄だが、蜜を採取するために蜂を放っているのは父親のミカン畑なのだ、と広沢の母親に教えてもらった。
その蜂蜜を由樹くんにわけてもらって、コーヒーに入れていました。(中略)
–––由樹はトーストにかけるのが好きだったの。クマのプーさんみたいねってからかうと、怒られちゃって。
(中略)
コーヒーとトーストが運ばれてきた。蜂蜜は小さなガラスのボトルに入れて添えられている。深瀬は琥珀色のそれをコーヒー用のスプーンで掬い、カップに沈めてかき混ぜた。
(中略)
深瀬はトーストにも蜂蜜を垂らし、一口齧ると、周囲を見渡した。

–––あそこさ、今の時期は鱧鍋も食えるみたいだし、今度はみんなで来たいよな。

腹は減っていたらしく、村井の差し出したテイクアウトの牛丼を嬉しそうに受け取った。
「紅ショウガ抜きにしてもらったからな」
村井が言い、助かるよ、と谷原はビニル袋に顔をつっこむようにして香りをかいだ。広沢は紅ショウガ好きだったな、と深瀬はどんぶりの表面がピンク色になった牛丼を旨そうにかき込む広沢の顔を思い出した。
「さすが、深瀬。コーヒーもちょうどきれていたんだ」
谷原が深瀬の手元に目を留めて言った。牛丼に負けないくらいの香りを放つコーヒー豆は会社のために買ったものだが、仕方がない。

「くだらないことかもしれないけど、2人でコーヒーを飲む時間が好きでした。ミカンの蜂蜜を由樹くんが持ってきてくれて、コーヒーに入れてみないか、って提案してくれたんです。ものすごく、おいしかった」
(中略)
「うちのミカン畑で兄が養蜂を始めてね。妻が大量の蜂蜜を由樹に送ったんだ。パンにかけるのが好きだからって。それにしても多すぎるだろう、と文句を言ったら、妻が確認するって電話をかけた。そうしたら、勝ち誇ったような顔で受話器を置いてね。友だちにあげたら喜んでくれたそうよ、その子はいつもとてもおいしいコーヒーを淹れてくれるんですって、なんて言うんだ」

「それより、深瀬くん、あなた、お蕎麦は大丈夫? さっき、旅行のお土産でいただいたんだけど、半生タイプだったから早めに食べなきゃいけないみたいなのよ。出雲大社に行ってきたんですって」
「じゃあ、いただきます。蕎麦は大好物です」
「よかったわ」
(中略)
部屋の中央のテーブルには天ぷらの盛り合わせと、握り寿司、タコときゅうりの酢の物が並んでいた。蕎麦があることが前提のメニューのような気もする。
(中略)
母親が料理の載った盆を持って入ってきた。ガラスの器に盛られた蕎麦とつけ出汁をテーブルに並べる。
「珍しいな」
父親が蕎麦の器に目を落として言った。
「宮田さん、出雲大社に行ってきたんですって」
深瀬も蕎麦を見た。なるほど、普段食べているものの3倍の太さはある。
「お父さん、深瀬くんがワインを買ってきてくれたのよ」
(中略)
「いいえ、自分では飲めないけど、お酒を飲んで楽しい雰囲気になるのはとても好きなので。その分、僕はごちそうをいただきます」
「まあ、足りるかしら」
母親が嬉しそうに言ってくれた。
「こちらも遠慮なくワインをいただくかな」
父親が言うと、母親はすぐに台所に取りに行った。3つおそろいのグラスを並べ、父親と自分のグラスにワインを注ぎ、深瀬のグラスにはコーラを注いでくれる。

ホテルの2軒隣にあるコンビニでアイスコーヒーとサンドイッチを買うと、広沢家のある山側ではなく、国道を海の方向に向かって歩き始めた。
(中略)
路地に逸れて海を見渡せる堤防の上に座り、サンドイッチの包みを開いた。

ここはパンケーキがおいしいのだと言われ、空腹ではなかったが、深瀬もプレーンのパンケーキとホットコーヒーを注文した。
(中略)
おまたせしました、とタイミングを見計らったように声をかけられた。バターの香りが漂うパンケーキが運ばれてきた。深瀬が注文したものにはバターしか載っていないが、2人のものにはソフトクリームのような形に絞られた生クリームと赤いイチゴソースがかかっている。
「とりあえず、食べようよ」
(中略)
「ここのホットケーキって、昔から地元ではわりと人気あるんだよ。パンケーキブームになった途端、メニューもパンケーキって書き換えたのは、なんだかなあって感じだけど。由樹も食べたことあるんじゃないかな」
どうにか話題を変えようとしている麻友に応えるように深瀬も、おいしそうだなあ、と口にしながらパンケーキにナイフを入れた。
(中略)
あおいはそう言うと、溶けた生クリームが沁み込んだパンケーキにナイフを入れた。4等分にして、口より大きな一片を飲み込むようにして押し込んでいる。話したいことはこれ以上ない、という合図に思えた。

岡本はメニューを広げずに、タンメンが旨いんだ、と自分のを注文したため、深瀬も同じものを頼んだ。

「そういや、ここはトーストも旨いんだった。珍しい蜂蜜をかけて出してくれるんだけど」
深瀬はマガジンラックの横に置かれた小さな黒板に目を遣った。「奈良県吉野のさくらの蜂蜜」と書いてある。男相手に何がトーストだ、という気恥ずかしさは失せ、純粋に食べてみたいと思えてくる。
「さくらの蜂蜜なんてあるんだ。旨そうだな」
古川がぼそりと言った。コーヒーが運ばれて来たタイミングで、深瀬は2人分のトーストを注文した。
ミカンの蜂蜜よりも薄い黄色の蜂蜜を深瀬はたっぷりとトーストにかけた。古川はまず味見をするつもりなのか、白い皿の端に少しだけ垂らせた。
(中略)
「あいつ、蜂蜜好きだったじゃん。アパートにもでっかい瓶があったし。持って帰れって持たされたのが、未だにうちの冷蔵庫に入ってるよ」
古川はコーヒーのスプーンの先で蜂蜜にうずまきを描くようにしながら、淡々と話した。
(中略)
古川は満足そうに口の端で笑うと、冷めたトーストに蜂蜜をたっぷりとかけて頬張った。
深瀬もぬるくなったコーヒーを口に含んだ。淹れ方が違うのだろうか。前回は気付かなかったが、スペシャルティコーヒーと呼ばれるコーヒーを扱っているというのに、<クローバー・コーヒー>で感じたことのないエグみが舌の上にわずかに残った。

「すごくいい子でさ、月に2回はサンドイッチを作ってきてくれていたんだけど、あのとき以来、来なくなったんだ」

湊かなえ著『リバース』より