たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

富士日記(48)つくしの煮たの、わらびおひたし

結局まだつくしを食べたことがない。

4月13日(火)晴
朝 ごはん、じゃがいもとニラ味噌汁、コンビーフ、キャベツ酢漬。
昼 ホットケーキ、スープ。
夜 ごはん、のり吸い、なまりの煮たの、卵中華風オムレツ、ニラのおひたし。
(中略)
私は、昼、おかゆ。夜、おじや。

朝 チキンライス、野菜スープ、パイナップル。
昼 ホットケーキ、鮭燻製、コンビーフスープ、紅茶。
夜 ごはん、さつま汁、山椒佃煮。

石川で鮭のちらしずし二折り。
山へ上って行く道の両側に富士桜が咲いている。
庭の梅は満開。お尻丸だしという風に開ききっている。すみれが咲いている。
ほうじ茶をいれて、ちらしずしを食べる。
(中略)
夜 おかゆ、梅干、おかか、バター、時雨煮。
主人、「海」の原稿があがったあとで食欲まるでない。おかゆを食べる。私もおかゆを食べる。湯浅[芳子]先生が東京の家へ持ってきて下さった時雨煮を、そのまま持ってきてよかった。主人、時雨煮ばかり食べる。おいしいと言う。

4月25日(日)晴
朝 豆腐味噌汁、ごはん、かれい煮付、いちご。
昼 ごはん、生鮭のフライ、キャベツとちくわの煮たの。
夜 うどんバター炒め、夏みかんゼリー。
(中略)
夜、つくしの煮たのを持って隣りのおばあさんが来る。「タネの上にかぶせる土は、まいたタネの大きさの3倍の深さにかぶせる。私は娘のときまでは百姓でしたから。じいちゃんよりよく知ってるの。いまはちっとも百姓したくないの。娘のときしましたからね。土がキライで外で働くのがキライになりました」と、勝手口で教えてくれた。

朝 ごはん、わかめとたけのこ味噌汁、炒り豆腐、しらす、大根おろし、さつまあげ。
(中略)
昼 チキンライス、スープ、じゃがいもサラダ。
夜 おかゆ、紅豆腐、バター、とりのささみつけ焼、つくしの煮たの、ふきの煮たの。

朝 ごはん、シューマイ、味噌汁。
昼 じゃがいもにバターをつける。スープ。
夜 五目ごはん、かきたま汁、かれい煮付。

久しぶりで月江寺通りまで行くと、月江寺駅の近くに「女帝大飯店」という中華料理店が出来ている。その中に、また、すし屋が出来ている。
「中国産ハチミツあります」と貼り紙がしてあるので、薬屋に入ってみせてもらう。店の主人は「日本のより安く、何よりもいいのは純度が高いことだ。日中友好のハチミツです」と言う。吉田の酒屋には、中国産のとりの罐詰が置いてあった。
朝 ごはん、しらす、大根おろし、じゃがいも味噌汁(卵入り)、ロースハム。
昼 サンドイッチ、野菜スープ。
夜 ごはん、蛤のおつゆ、ほうれん草ごま和え、あじ干物(私)、鯖塩焼(主人)。

5月11日(火)晴
前7時半、東京を出る。
談合坂で、シューマイ弁当と幕の内弁当を買って、車の中で食べた。タマにかまぼこをちぎってやる。タマ、今日はおとなしい。弁当の中味は同じで、つめ具合だけがちがっていた。
(中略)
昼 鮭とのり茶漬、きゅうりとしらす三杯酢。
(中略)
夜はかけうどんにしようと思っていると、隣りのおばあさんが鯛の刺身と草餅を持ってくる。鯛はT先生が東京から持ってきた。草餅は植木屋が作って持ってきてくれたからとのこと。
夜 ごはん、鯛の刺身、ひじきとなまり煮付、かきたま汁。これは主人の食事。
私は草餅を食べた。この草餅は皮が分厚くて、いやに緑色(草が入りすぎているのかな)だ。口の中で一杯になってしまって、なかなか呑みこめない。チューインガムの感じだ。大きさはおにぎり位。5個頂いて、2個食べた。3個めは食べられなかった。ふつうの味だった。

朝 ごはん、オムレツ、味噌汁。
昼 お好み焼、スープ、夏みかんゼリー。
夜 中華粥、ひじきの煮たの、むろあじ、野沢菜油炒め。

5月13日(木)晴
朝 ごはん、じゃがいもとそらまめ味噌汁、しらす、大根おろし、東坡肉。
(中略)
昼 ごはん、さつまあげとキャベツ煮付、コンビーフ。
夜 炒り卵と海苔のまぜごはん、けんちん汁。

5月14日(金)うすぐもり
朝 ごはん、オムレツ、けんちん汁。
昼 お好み焼、おやつにラーメン。
夜 ハヤシライス、わらびおひたし、夏みかんゼリー。
(中略)
灰であくぬきをして、10本のわらびを茹でる。主人はおいしいと言った。

<今日は植木屋が5人連れで用がないのにぶらっと上ってきた。おにぎりを持っているのでお茶だけ出したら、一休みしていった。一休みしたら、皆でどこかへ出かけていった。下の山の中へ入ってワラビを抱えて帰ってきた。『どの辺にあるか』と訊いたら『下の方』というだけで教えてくれない。でも私は植木屋が帰ってきたときの方角で、大体のところは見当をつけておいた。明日お天気だったら一緒に採りに行こう。一人で山の中へ入るのは気味がわるいから>と、おばあさんは、このようなことを話した。

武田百合子著『富士日記』より