たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

山内マリコ『かわいい結婚』ズワイ蟹のトマトクリームのタリアテッレ

2編目の「悪夢じゃなかった?」がよかった。男女の関係として理想的。だから夢なんだとはいえ。

グラタンとタリアテッレ食べたーい。

都会の有名な洋菓子店で何年も修行も修行したという職人が帰郷し、実家の裏に作ったという小ぢんまりしたパティスリー。ログハウス風の外観で内装も凝っている。イギリスのアンティークテーブルとアーコールチェアが置かれたイートインスペースもあり、高尚な食べ物とおしゃれな空間を求める地元の女性でいつも混雑していた。
「ファミレスとか、もう行ってらんないよね」
たえちゃんは桃のパイをフォークで掬いながら言った。
たしかにたえちゃんと行動を共にするようになってから、ひかりの文化レベルはすっかり上がってしまい、夫のまーくんとの外食が物足りなくなってしまった。まーくんが行くのは幹線道路沿いにあるチェーン店ばかりだ。そういうところの大味で高カロリーなメニューはもう体が受け付けないと、内心ひかりは思っている。
「ひかりの家って、ルンバあるんだよね。いいなぁ~。あたしも買おっかな」
桃のパイを食べ終えると、たえちゃんはレモングラスティーを飲みながらふぅーっと一息ついた。

「たまにならいいの。たまに半日くらいかけて、手の込んだ料理作ったりして、友達招いてご馳走するのは好きなの。でも毎日っていうのはね。すっごい手間だよね」
「そうだねぇ」
ぼんやりと相槌を打ちながら、たえちゃんは普段どのくらいの食事を用意しているんだろうかと、ひかりは考えた。レトルトの合わせ調味料で炒めた、麻婆豆腐やチンジャオロースといった大皿料理がボンとテーブルに置かれた手抜きスタイル? それとも一汁三菜しっかりそろったヘルシー志向? メインの料理の脇に、おひたしとか、もやしの胡麻和えなんかがちょろちょろっと添えられた気の利いたお膳? そういうディテールをたえちゃんは口にしないから、肝心のレベルがいまいちわからなかった。
(中略)
「うちの旦那さん、冬瓜のスープが飲みたいんだって。よくお母さんが作ってくれたって言うの。まあ美味しいけど、冬瓜ってけっこう固いし、包丁入れるの大変じゃない?」
「あ、わぅぅん」
ひかりは返答に詰まった。
冬瓜なんて、切ったこともなければスーパーで手にとったこともない。そもそもその見た目すら、パッと頭に浮かばない。

時々スターバックスで甘いコーヒーを飲むのが、ひかりのちょっとした息抜きだ。とてもこの街の人とは思えない洗練された態度の店員たちを相手に、しれっとした顔で複雑なメニューを諳んじ、たえちゃんが見つけてくるお店とはまた違う、グローバル・スタンダードな安定した世界観に身を浸す。
いつもほどほどに混んでいる店内、ひかりは運よく空いていたソファ席に腰を下ろした。ショートサイズのホワイトモカ400円が高いか安いかはさておき、ひかりにとって昼間のスタバで1人コーヒーを飲むことは、十分すぎるほどリッチで優雅な行為なのだった。

毎朝起こしてもらい、眠い目をこすりながら食卓につけば、そこにはバターがとろりとしみた熱々のトーストと、いちごやマーマレードのジャムが並んでいた。

味噌汁はダシを取ることなど思いつきもしないので、とりあえずお湯に味噌をぶちまけ、鍋の中で銀河系みたいに渦を巻き、ぐつぐつと煮立ってきたら完成とした。米を研ぐときに食器洗い洗剤を入れているところをまーくんに見られ、「殺す気か!?」と怒鳴られた。その結果、レトルトのお米とフリーズドライの味噌汁が主食という、現在のスタイルに至ったのだ。

こんなの別に食べたくないけど......と思いながら、三杯酢付きのところてんや練り物といった、調理の必要のないものをカゴに取り、精肉売り場では同じ理由からステーキ肉をチョイスする。塩コショウを振って焼くだけなら、ギリギリ自分にもできる。惣菜コーナーでポテトサラダの大パックを取り、ついでに熟れたアボカドもカゴに入れた。アボカドは切ってわさび少輔をかけるだけで一品になるから、重宝している。
アボカドの有用性を教えてくれたのはたえちゃんだった。
ひかりの実家の食卓にこんなものは出なかったから、長らくアボカドは、気取ったカフェ飯や創作居酒屋でときどき巡り会う、得体の知れない美味しいもの、という認識だった。たえちゃんとスーパーに行き、野菜なんだかフルーツなんだかわからない、ごつごつした洋なし状の、恐竜の皮膚みたいな外皮の山から、黒ずんだものを手にとって、「これ、ちょうど食べごろかな」と選んでいる姿を見て、ひかりは「ふむふむ」と真似して買った。
たえちゃんは、一体いつアボカドを、カジュアルに調理するようになったんだろうとひかりは考える。
たえちゃんはおしゃべりのくせに、肝心の自分自身のことは話してくれない。まるで生まれたときからアボカドに親しんでます、アボカドに対する心理的ハードルはゼロです、みたいな感じだが、そんなはずがない。だってアボカドなんて昔はなかったじゃん。たえちゃんのこの、パクチーとかも「大好き!」って言いそうな軽薄なこじゃれ感って、なんなんだろうか。

エコバッグを車の助手席に積み込んだところで、まーくんからメールが入った。
<ステーキ食べたいから今日のメシはビッグボーイでいい?>
ひかりはエコバッグから覗くステーキ肉のパックをまじまじと見つめた。白いトレーに載った、汁の染みだした赤身の肉。30%引きのシールが貼られているだけあってところどころ黒っぽく変色し、まったく食欲をそそらない。これ放り捨てちゃおうかな、という考えが頭をよぎる。
こんなときたえちゃんなら、<ちょうどステーキ肉買ったんだ! 家で食べようよ?>とか返すんだろうか。ひかりは、家で食事の支度をしなくていいなら、なんだってうれしい。それが吉野家の牛丼でもなんでもオッケーだ。ひかりは<わーい。ステーキステーキぃ〜>と打ち返して、この3割引のステーキ肉は冷凍することにした。こういう流れで冷凍庫にぶち込んだ肉をちゃんと解凍して調理したことは、過去一度もないけど。

夜8時のビッグボーイの店内、メニューに目を走らせながらまーくんは言った。
「ハンバーグとステーキ、両方食べたい」
(中略)
「ぴかりはねぇ、チキン竜田揚げのさっぱりみぞれ煮定食にする」
「ヘルシーですなぁ」

たえちゃんが予約を入れた広東料理の店は、住宅街にひっそり佇んでいた。地元の人にはあまり知られていないけれど、実は知る人ぞ知る名店だという。わざわざ遠方から通う常連もいるらしかった。
ランチで1600円は、たしかにこのあたりの相場からすると高い。それだけに内容も豪勢で、アヒルのスープ、空心菜のニンニク炒め、ピータン豆腐、特製のネギタレをつけて食べる蒸し鶏、餃子、酢豚、海鮮粥......どれも味付けが優しく、滋味が体に染み込んでくるようだった。
「なんか油が全身に行き渡る感じ〜」
たえちゃんはとろけそうな顔で、まさに快感に悶えるように言った。
美味しいもののためなら、千里をも越えるたえちゃん。高校時代は、同じ学食でたいして美味しくもないカレーうどんを食べていたはずなのに。放課後ファストフードで、新商品のバーガーに小遣いをつぎ込んでいたろうに。

「うちのお母さんだって、新婚のころはダシも取れなかったって言ってたよ?」
「え、そうなの?」
「そうだよ」
「たえちゃん、ダシの取り方わかる? どうやって取ってる?」
「え〜、お湯沸かして、かつお節ひとつかみ......ちょっと煮立たせて放り出す、とか? あとはダシパックとか、面倒くさいときは顆粒ダシ使うし。適当だよ」
その"適当"ができなくて困ってるんだけどな、とひかりは思う。改めて、この同い年の先輩に羨望の眼差しを向けていると、たえちゃんはマンゴープリンをスプーンで口に運びながら、突然切り出した。

お米が炊きあがったら少し蒸らしてからしゃもじでかき混ぜる。一気に6合炊き、ピカピカの白米の状態で、タッパーに小分けして冷凍保存し、セツさんの1週間分のごはんのストック作りは完了だ。
(中略)
家の掃除が済んだところで、昼休憩だ。
台所を使わせてもらって前田さんがお蕎麦を茹で、厚焼き玉子を作り、みんなでいただく。
「いやぁ〜、こんなにきれいになってぇ〜ありがとうね、ありがとうね」
いままでどこに隠れていたのだろう、セツさんは姿を見せると、みんなで食べるのがこのサービスのいちばんお楽しみなんだと、悲しくなるくらいにこにこして言った。
前田さんの作ったざる蕎麦を前に、セツさんはほとんど「ナンマイダー」の勢いで拝み、頭を垂れ、ありがたそうに食べた。厚焼き玉子はお菓子みたいに甘い。けれどたっぷりの砂糖のおかげで、午前中の疲れがとれるようだった。
(中略)
結局家に戻ったら4時近くになっていて、そこからひかりにとって最大の関門である、夕飯作りがはじまった。
まずは味噌汁から。セツさんの体のことを考えて、ダシはかつお節から取ることにしている。のっけからハードルが高いが、前田さんは「簡単簡単」、あっけらかんと言った。
「小鍋にこんくらい水張るでしょ、火にかけて沸騰してきたところでかつお節ひとつかみ入れて、すぐ火止めちゃうの。それで2分くらいかな、黄金色に見えるくらい色が出たら、ざるで漉して、一丁あがり。あとは切った具を煮立たせたら、火を止めて味噌を適量溶かして完成。ネギを入れるときは必ず最後ね。味噌入れてからは絶対にぐつぐつやんないで。風味飛んじゃうから。さ、じゃあ次はじゃがいも剥いてもらおっかな」
ピーラーを渡されたひかりは、たどたどしくじゃがいもに刃をあてる。面取りをして水にさらし、水を張った鍋に入れる。
「なに作るんですか?」
「肉じゃがよね。言わずもがな! アハハ!」
前田さんは、いろいろ試した末に編み出したという、秘伝の作り方を伝授してくれた。
「ちなみに肉じゃがを作るときは、同じ材料で翌日はカレーにするのも忘れずにね。肉じゃがとカレーは具がほとんど一緒だから」
「へぇ〜スゴい!」
「そうね、肉じゃがよりまずはカレーを作ることね。いまやってるように、にんじんとじゃがいもと玉ねぎを切って、お鍋でぐつぐつ煮るの。コンソメでも入れりゃ最高よ! 煮込めてきたらカレールウを溶き入れてさらに数分煮ればオッケー。多めに作れば3日はもつわよ。しかも1日目より3日目の方が美味しかったりするんだから」
肉じゃがが煮えたら、じゃがいもに火が通りすぎないうちに今度は冷ます。蓋を取って涼しいところに置くと、ぐっと味がしみるのだ。
「セツさんはけっこうお肉好きなのよ」
ということで今晩のメインのおかず、もやしと豚バラの蒸し焼きを作ることに。簡単だけど美味しいおかずとして、前田さんはこのレシピをひかりに推奨した。
水洗いしたもやしをフライパンにざっとあけ、程よいサイズに切った豚バラ肉を、もやしの上に1枚1枚広げて敷き詰めていく。火を点けて、レモン汁をざぁーっとまわしかけて、蓋をして数分待てば、ヘルシーな一品がもう出来上がっていた。
「ハンバーグとか、わざわざ手のかかるもんなんて、作んなくてもいいのよ。どうせ男の人は、料理にどれだけの手間かかってるのかなんて、考えやしないんだしね。だったら断然こっちよ。これにポン酢つけて食べたらほんと美味しいんだから〜。あたし本気で、ポン酢作ってる業者には感謝してる!」と前田さん。

今日教わったとおり、まずは洗濯機を回す。その間に流しをきれいにし———もちろんあのシャンパンタワー方式で!———野菜を切ってコンソメを入れて煮込む。
(中略)
カレールウを入れて弱火でさらに煮込み、野菜が煮崩れないうちに火を止めて冷ます。

たまに前田さんが来てくれて、美味しいおかずの作りおきを、冷蔵庫にたっぷり入れていってくれる。夫が妻の手料理に喜ぶように、ひかりは前田さんが作ってくれたおかずに狂喜した。前田さんは必ず作り方のメモを付けておいてくれるけれど、上手に再現できたことはまだ一度もない。

「今日は暇だったからキッシュ焼いてみた!」と言うと、「キッシュってなに?」
「まーくんはぴかりのこと好き?」
「うぅーん、そうだね」

「ごめんごめん、ねえお腹すいてない? ごはん食べた?」
「もう食ったよ」
「なに食べたの?」
「グラタン」
「あ、お母さんの手作りの?」
「そうだよ」
「美味しかった?」
「普通」

裕司は再び電車に乗ってなんとなく新宿で降りると、頭を冷やすために駅構内にあるコーヒーショップに入った。思えば朝からなにも食べていない。彼はホットドッグとコーヒーを頼んで、ガラス張りのカウンター席に腰を下ろした。

エスカレーターでレストランフロアへ行き、つばめグリルを見つけるや彼は駆け込んだ。ビーフシチューがたっぷりからんだハンブルグステーキを頬張り、白いご飯を食べ、水を流し込んで一息つく。胃にものを入れると気持ちがちょっと落ち着いて、食後にコーヒーなんか頼んでしばし呆けてしまう。買い物疲れである。

それどころか風呂上がりに、「きみはビール飲める?」と訊かれ、「もちろん」とこたえるや、石井は晩酌をつき合ってくれと言う。テーブルにはスーパーの惣菜コーナーで買った冷たいおかずが、透明のトレーに盛られたまま並ぶ。テレビの前で二人横に並んで、バラエティ番組を観た。
缶ビールが4本、焼酎の水割りが3杯、コンビニで買ったらしきチリ産のワインをだらだら飲み、12時を回るころ布団に入った。

店の人とも顔見知りらしく、ワインを楽しそうに飲んでいる。メニューを片手におすすめをいくつか挙げ、
「ブイヤベースが美味しいんですよ、ここ。一緒に食べません? いつも一人だからなかなか注文できなくて」
ミツコは前菜をあれこれ注文した。

プラスチック製のコーヒーカップにインスタントの粉とお湯を注ぎ、スティックシュガーとコーヒーフレッシュとマドラーを添えて出す。

二人はエスカレーターで3階までのぼると、ビストロカフェに入った。あや子はおしぼりで手を拭いながらやっと人心地ついたとばかりの表情だ。ユリはメニューを見るなり「ごはん食べない?」と、ズワイ蟹のトマトクリームのタリアテッレを注文した。
「タリアテッレってなぁに?」
「パスタよ」
「......そう」
あや子も同じものを頼んだ。
お腹が空いていたのか、あや子はあっという間に食事を終えると、口角をナプキンで拭い、改めてユリに向き直った。

山内マリコ著『かわいい結婚』より