瀬尾まいこさんの文章にはハッとする修飾が随所に見られる。
「まっすぐに涙を落とした」とかね。
でも、写経してみると、「優しい味」をわりと多用していることがわかった。
「優しい味」は私にとって思うところの多いフレーズで、最初にピックアップしたのは小学生のときに読んだ「ちびまる子ちゃん」だ。
まるちゃんかたまちゃんが、
「給食のヤキソバっておいしいよね。卵入ってて優しい味だよね」と。
大人になって自分でも言ってみると、聞いた相手が「お、もらった!」と思う何かがあるらしく、その後に会ったときにその人が「優しい味」を連発し始める、ということが3人分あった。
(つまり、私も3回は言ったということ。)
その3人は今会っても「優しい味だよね」と言う。焼肉に対しても言う。
森宮さんは玄関で私を見送りながら、今晩は残りのとんかつでかつカレーにするとはりきっていた。しばらくはこのマンションでバラエティに富んだ朝ごはんを食べる生活が続いていく。
「あ、そうだ。駅のそばに新しくできたカフェで生チョコケーキ食べようよ」
史奈の提案に、
「いいね。あそこのチョコケーキおいしいってうちの姉ちゃんも言ってたよ」
と萌絵が目を輝かせた。チョコケーキは、私も大好きだ。小学校の入学式の時も家で食べた。
「やっぱり、始業式とかって、かつ丼じゃなくてケーキだよね」夕飯の後は、食器洗いがパパで、食器拭きが私の仕事。でも、家で夕飯を食べるのはパパの仕事が早く終わるときだけだから、週に一度あればいいところで、あとは、私はおばあちゃんの家で煮物や魚ばかりの地味な夕飯を食べている。
「そんなことより、ケーキを買って帰らないと」
お父さんはお母さんの話をすっかり忘れたように軽やかに言った。
「ケーキ?」
「そう。入学式のお祝いに生チョコの丸いケーキ頼んでおいたんだ」
生チョコのケーキ。私が一番好きなケーキだ。普段はおばあちゃんとおじいちゃんがうるさくて、甘いものはめったに食べさせてもらえない。ふてくされそうになっていた私の心は、またうきうきしはじめた。
「本当?」
「本当だよ。駅前のシェなんとかのケーキ。おいしいんだってー。入学おめでとう優ちゃんって、書いてもらったんだよ」
お父さんはにこにこしながら言った。プレート付きのケーキだなんて誕生日みたい。それは早く食べなくっちゃ。ケーキが待ってるなら、お母さんのことは急いで知らなくたっていい。
「うわあ、すごいね!」
私の頭の中は、もうケーキのことでいっぱいになった。
「しかも大きいんだよ。おばあちゃんもおじいちゃんも呼んでみんなで食べよう」
(中略)
「ケーキ、ケーキ、生チョコケーキ」
私は自分で作ったケーキの歌を口ずさんだ。入学式に並ぶお母さんたちを見て小さくなりかけていたうきうきとわくわくは、生チョコケーキのおかげでまたふくらみだした。甘くておいしいものを食べると、難しい問題も悲しい気持ちもどこかに飛んで行ってくれる。生チョコケーキは、最強の食べ物だ。「うわ、チョコケーキだ」
かつカレーの夕飯を食べ終わった後、私が冷蔵庫からケーキを出してくると、森宮さんは目を輝かせた。
「帰りに萌絵と史奈とケーキ食べたんだ。おいしかったから、森宮さんのも買ってきた」
しっとりしたスポンジにほろ苦い甘さのクリームがかかったチョコケーキ。きっと森宮さんも好きだろうと思うと、ついつい買ってしまった。
「やったね。......って、俺も買ってきたんだけど」
森宮さんはすごすごと立ち上がると、冷蔵庫の野菜室の中からケーキの箱を出してきた。私が買ってきたのとは違う大きな箱だ。
「まさか......」
「驚かせようと思って隠してたんだ。ほら」
森宮さんがテーブルの上で箱を開けると、中からはホールのケーキが出てきた。しかも、上には「優子ちゃん、進級おめでとう!」とプレートまで載っている。高校3年生になるだけで、祝うようなことは何もないのに、いや、それよりもケーキの大きさに私は眉を寄せた。
「これ、2人で食べるの?」
苺に桃にメロン。果物がたくさん載ったケーキは、6人分はある。かつカレーをがっつり食べた後でなくても、大きすぎる。
「そりゃ、この家俺たち以外にいないしね」
森宮さんは当たり前だという顔をした。
「だったら、ホールで買わなくていいのに」
「そうだけどさ、ホールのケーキなんて、何かイベントがないと食べないだろう? せっかくの始業式なんだから。きっとあちこちの家で今日はお祝いしてるよ。ま、ゆっくり食べればいいじゃん」
「まあ、そう。そうだね」
森宮さんは他の家族がすることは自分もやらなくてはと思ってくれているようだけど、どこかずれている。かつ丼もホールのケーキも、食べる機会は他にあるはずだ。だけど、私がチョコケーキを箱に入れてもらった時のように、森宮さんもケーキを注文した時、私が食べる姿を想像して少なからず胸が弾んだはずだ。
「まあ、いっか。今日は森宮さんに読んでもらわないといけないプリントもいっぱいあるしね。甘いものを食べながらチェックしてもらおっと」
(中略)
「スポンジがふわふわでおいしい」
私はそんな森宮さんを眺めながら、のんきにケーキを口に入れた。果物がたくさん載ったケーキは、さっぱりとして満腹でも意外に食べられる。
(中略)
森宮さんはプリントを読むのに必死で、ケーキに見向きもしていない。そんな調子ではいつまでたってもホールのケーキを片付けられない。それに、私が買ってきたケーキの感想も早く聞きたい。「おいしい」の一言をもらえないと、何だか損した気がする。私は森宮さんにフォークを押し付けた。
「あ、ああそうだな」
「ほら食べて」
「いただきます......。お、チョコが濃厚なのに、素朴でおいしい。普段は気づかないけど、小麦とバターって優しい味なんだよな」
「でしょ? 気に入ってよかった」
森宮さんが口いっぱいにほおばっている姿を見ると、買ってきてよかったと思える。私が「どんどん食べてね」と勧めると、
「俺もさ、おいしいもの食べると、優子ちゃんに食べさせたいって思うんだよね。会社で取引先からの差し入れとか置いてあったら、こっそり2個持って帰ってきちゃうもんな」
(中略)
「ちょっと、どうしてフルーツばかり食べるの?」
進路調査票を折りたたんでいた私は、ホールケーキを見てぎょっとした。上に載った果物だけを森宮さんは食べている。
「いやあ、さすがにスポンジやクリームは重くてさ。俺、上の果物食べるからケーキの部分は優子ちゃん食べてよ」
おいしそうに食べる私の顔が見たくて、買ってきたケーキじゃないのだろうか。
(中略)
私はあきれながらも、スポンジとクリームだけのケーキを口に入れた。買い物が終わると、昼ごはんにハンバーガーを食べ、梨花さんとソフトクリームを食べた。最後には車で飲もうと、サイダーまで買った。楽しいことばかりの一日。私のそばにはなかったきらきらしたものを持って来てくれたのが、梨花さんだった。
煮物や焼き魚ばかりだった夕飯は、オムライスやカレーやハヤシライスになり、掃除も洗濯も梨花さんがやってくれ、私が手伝うとほめてくれた。
一緒に暮らし出して3ヶ月ほど経った、じとじとと暑い夜、夕飯後、梨花さんが用意してくれたゼリーを食べながら私は聞いた。
溶かして冷やすだけでできるインスタントのゼリー。メロン味って書いてあるのに、果物の味はあまりしないけど、口の中でプルンとするのが気持ちいい。夏が近づいて、梨花さんはこのゼリーをよく作ってくれた。「ねね、それよりさ、ゼリー食べようよ、ゼリー。今日はさらにゼラチンを減らして作ったんだ」
しんみりしかけた私の前に、森宮さんはゼリーを置いた。透明のグラスに入れられた薄い黄色のゼリー。グレープフルーツのさわやかなにおいが広がっている。
「うわ、おいしそう」
「だろ? 今日はゼラチンの量を規定の半量にしてみたんだ」
5月に入ってから、毎日のように森宮さんはゼリーを作っている。ジュースにゼラチンを溶かして冷やすだけなのだけど、毎日微妙にゼラチンの量を調節してはいろんなジュースで試していた。
「さ、食べて」
「ありがとう......。あ、とろっとしておいしい」
スプーンから逃げてしまいそうな柔らかなゼリーは、口に入れるとするっと喉の奥へ流れていった。
「ああ、これは高級ゼリーだな」
森宮さんも一口食べると満足げに言った。
「ゼリーってふやかしたゼラチンと液体を混ぜるだけでできるんだぜ。100%ジュースと混ぜれば本格的な味になるし。これをケーキ屋で売ってるとかって、ないよな。しかもそこそこの値段で」
「そうかもね」
「こんな簡単で安上がりなデザートで、お金とるなんてなあ」
森宮さんはゼリーを眺めながら、不服そうな声を出した。
「容器代も入ってるんじゃない? ほら、ケーキ屋さんのゼリーってかわいい器に入ってるのが多いし」
(中略)
「そうだ! 明日は、つぶつぶオレンジジュースでゼリー作ってみよう。どう? 想像するだけでおいしそうだろ。俺の発想力ってなかなかだよな」
「そうだね」
「そうだねって、適当だな」
「そんなことないよ。うん、森宮さんの作るゼリー、おいしいよ」
梨花さんが作ってくれたインスタントのゼリーも好きだったけど、このとろりとした柔らかいゼリーもおいしい。それに、どんな人にも好かれたほうがいい。梨花さんの教えを思い出し、私はゼリーを食べきるとにこりを笑ってみせた。
「だろ?」
森宮さんは満足げにうなずくと、「お代わり取ってくる」と台所へ向かった。
透明のゼリー。甘いチョコレートケーキみたいに食べるだけで幸せな気分になるほどの強力さはないけれど、どんなときに食べても心地の良いデザートだ。違う味のゼリーが待っている。そう思うと、明日のこの時間がやっぱり楽しみになった。「ね、帰りどっかでデザート食べて帰ろうよ」
球技大会から1週間後、萌絵に誘われ、「いつもの店で少し前からかき氷が出てたよ」という史奈の提案で、みんなで駅近くの喫茶店に行くことにした。
(中略)
萌絵がパフェのソフトクリームをスプーンですくいながら顔をしかめた。
「本当、知らない間に梅雨入りしたね」
私はミルクの氷を口に入れた。ふわっとした薄い氷が口の中で溶けていく。ゼリーを夕食後に食べていたから、一足先に夏が来たような気がしていたけれど、ようやく梅雨に入ったところだ。私は昼ごはんに梨花さんが用意してくれたピラフをかきこみながら言った。
(中略)
梨花さんはピラフをスプーンでいじりながら言った。冷凍のピラフを炒めただけだけどちゃんとおいしいのに、梨花さんは食欲がないのかちっとも食べていない。みなちゃんが新しく買ってもらったリカちゃん人形で遊んで、みなちゃんのお母さんが作ってくれたシュークリームをごちそうになって、夕方にはバイバイをした。今日はお父さんと梨花さんで手巻き寿司を食べるのだ。3人での食卓を思い浮かべると、少しでも早く帰りたかった。
(中略)
「さ、ごはんにしよう」
私とお父さんに向かって梨花さんが言った。手伝おうと思っていたのに、もうテーブルの上には、ご飯とお刺身がたくさん置かれている。誕生日だとか、連休とか、ちょっとしたときに、「豪華に見えるけど、すし飯を炊いて、お刺身を並べるだけだから簡単なんだよね」と梨花さんは手巻き寿司を用意してくれた。
それぞれ海苔の上にご飯と好きな具をのせて巻いて食べる。おばあちゃんが一度も作ってくれたことがない料理で、最初に食べた時は、自由に好きなものを好きなだけ食べられるなんてと私は興奮した。
「豪華だね」
「今日はいくらも買ったんだよ」
梨花さんは私の横に座りながら言った。
私の前にお父さん、隣に梨花さん。みんなが席に着くと、私は何を巻こうかと大皿の中をのぞき込んだ。マグロにイカにエビ、梨花さんが焼いた卵焼きもある。
「イカときゅうりを巻こうかな」と私が海苔を手に取ると、
「ごめん。やっぱり、その前にさ」
とお父さんが言った。
(中略)
それからみんな黙ってしまって、誰も手巻き寿司を食べなかった。たくさんのすし飯は乾燥してつやがなくなり、お刺身も色がくすみ始めていた。もうすぐ、大きな変化が、それも望んでいない変化がやってくる。そう思うと、イカもマグロも食べたいとは思えなかった。みなちゃんと奏ちゃんと遊んで帰ってくると、梨花さんがハンバーグを作ってくれていた。
私の大好きなハンバーグ。それなのに、梨花さんと並んで食べているうちに、突然涙が流れてきて、息が苦しくなった。
(中略)
「ゼリーあるよ。ケーキも」
「これから楽しいこといっぱいしよう。明日は水族館に行こう。遊園地も。ね」私は史奈がコンビニで買ってきてくれたチョコレートをつまんだ。暑い中持ってきてくれたせいか、柔らかくなったチョコレートはすぐに口の中で溶けた。
(中略)
史奈はクッキーを手にしながら言った。勉強すると糖分が欲しくなるらしく、持ってきてくれたお菓子は甘いものばかりだ。「どうだった、新学期?」
私がそうめんと卵焼きを食卓に運び終えると、森宮さんが聞いてきた。
「別に何もないけど」
「出た、別に。別にと普通は、最悪の表現方法だな」
森宮さんは海苔やねぎをつゆが入った器に入れながら、不服そうな声を出した。
(中略)
私はお茶を淹れると、席に着いた。
「あるある。別に何もない会社なんて、倒産寸前じゃん。よし、できた。薬味をぎっしり入れて、初めてそうめんは夕飯に格上げだな」
甘く炊いたしいたけにウズラ卵まで入れて、森宮さんはいただきますと手を合わせた。
(中略)
私がねぎと海苔だけ加えたつゆにそうめんを入れながらあいまいに答えると、森宮さんは、
「これはもう完全に何かあるときの話し方だ」
とにやにやした。
(中略)
森宮さんはおいしそうにそうめんを食べながら言った。
「そうめん、好きなのに」
そうめんは細くてすんなりと喉に入っていく。麺類の中で私は一番好きだ。
瀬尾まいこ著『そして、バトンは渡された』から