実は、途中まで、『淳子のてっぺん』『バッグをザックに持ち替えて』の著書がある唯川恵先生の小説だと思い込んで読んでいた...。
もちろんそれで読書体験が変わることはないのだが、なんかすいませんという気になった。
Kindleだと毎度表紙を見ることもないので、そういうことが起こります。いや、起こらないか。
私は訓練と重装備が必要なコースを登ったことはないが、一度ワンゲル部の人と山作業を何日か行なったときは彼女のスタミナに舌を巻いた。
こっちは45分に1回の休憩でもう立ち上がりたくもないのだが、彼女は飴ちゃんを持ってガシガシ丘陵地を斜め歩きしながら一人一人を見て回るのである...。
あれがワンゲラーなんだと思った。
おばさんたちのグループは総勢6名で、2人がけの椅子縦3列から身を乗り出して、しょうゆせんべいの袋をまわし、バリバリとかじりながら大声で話している。
留守中の旦那の食事について。2日分、全部作って冷凍してきたわよ。作るはずないでしょ。結婚当初、インスンタントラーメンもろくに作れなかったくせに、今ではそばを打てるようになって、それがなかなか美味なのよ、とかなんとか。午前6時過ぎ、缶コーヒーは買ったけど、いつものペースに合わせると、朝食の時間にはまだ早い。
「おなかすかない? いろいろ持ってきたから一緒に食べようよ」
由美はかろうじて蓋ができている状態のリュックを開け、座席前の小さなテーブルにジップロックの袋を3つ出した。「新月」の豆羊羹、「宝珠庵」のもなか、「うさぎ堂」のいちご大福......。どれも丸福デパートの地下食料品店街に趣のある店舗を構えている。高級和菓子店の看板商品ばかりだ。しかも、3人で3個ずつの計算なのか、9個ずつ入っている。
「グリーン車気分でしょ」
確かに、目指す場所は妙高山ではなかったのか、藍染スカーフのおばさんたちの姿は見えなくなったけど、彼女たちがバスでひろげていたお菓子とは格が違う。
「じゃあ、これ。いただきます」
包みをひろげて、手のひらにすっぽりと納まる大きさのいちご大福にかぶりつく。
「おいしい」
存在は知っていたけれど、食べるのは初めてだった。1つ500円もするのだ。それならケーキだろう、と気になりながらも素通りしていた。やわらかい生地とあんこは口の中で甘く溶けるように広がり、いちごの甘酸っぱさと一緒にのどをするりと通っていく。
「でしょう。あまおう、使ってるんだって」
由美もいちご大福の包みを開けた。
緑色が徐々に濃くなっていく窓の外の景色を眺めながら、ふた口で食べ終えた。贅沢だなあ、とシートにもたれる。こころなしか、最初に座ったときよりもやわらかく感じた。
「おやつ代、割って。けっこうしたでしょ」
わたしもおやつは持ってきているけれど、じゃがりこやコアラのマーチでは、わけてあげても割りに合わないはずだ。
「いいの、いいの、全部もらいものだから。どれも、賞味期限が今日明日のものばかりだから、食べてくれるだけで助かる」
(中略)
「他のも食べて。もなかは4種類あるけど、みそ餡がおすすめかな」
みそ餡もなかは大御所俳優がテレビで紹介したことで有名になり、丸福デパートでも開店と同時に行列ができ、午前中には品切れになってしまう貴重な品だ。当然、これも食べたことがない。けれど。
「ありがと。でも、いちご大福でおなかいっぱい」
貢物だとわかった途端、何の魅力も感じなくなる。絶対に食べるか、とすら思ってしまう。午前8時。手頃な座る場所を確保し、おにぎりと地図を出す。高級和菓子を朝食にするという由美に、6つ握ってきたおにぎりのうち、いちご大福のお礼を兼ねて2つをわけてあげた。
「わあ、雑穀ごはんだ。梅干しも入ってる。りっちゃんいい奥さんになりそうだよね」奥さんが作ったローストビーフを、「妻の自慢の料理なんだ。他にも得意なものはたくさんあるが、僕はこれに目がなくてね」と家長である部長が取り分けてくれる姿は、わたしの理想の夫婦像と重なった。
「りっちゃん、いちご大福食べてくれない?」
ジップロックの袋のまま差し出してくる。
「嬉しいけど、一度にこんなにいっぱいくれなくてもいいのにね」「りっちゃん、ビールがある」
ヒュッテの前では氷水に浸した缶ビールや酎ハイ、スポーツドリンク、ジュースなどが売られていた。ああ、飲みたい。だけど。
「妙高山の山頂に行ってきてからにしようよ」
「そうだね。ここで飲むと、もう歩けなくなりそう」
簡単に話がまとまり、お昼ごはんを食べることにした。ヒュッテ前のテーブルにつき、2つ残っているおにぎりの1つを由美に渡す。
「ごめんね、りっちゃん。わたし、デザートはいっぱい持ってきてるから」
由美はリュックからジップロックの袋に入った和菓子と......、マンゴーを2つと、ネットに6つ並んだみかんを取り出した。こんなものが入っていたとは。リュックも相当重かっただろう。マンゴーには有名ブランドのシールが貼られている。ひとつ、3000円から5000円はするのではないか。みかんも、今の季節、それなりにしそうだ。
(中略)
由美はリュックから果物ナイフを取り出して、するするとマンゴーの皮をむき始めた。花柄の紙皿と先っぽにハートのついたピックも用意されている。
「どうぞ、食べて。わたし、マンゴーはあんまり好きじゃないんだ」
好きでもないものをどうして? と言いたいけれど、これが本当に部長からの貢物だとしたら、また鬱陶しい話が始まりそうで面倒くさい。あまり深く考えずに、いただくことにする。
「おいしい」
濃厚な甘ったるさがゆったりと口いっぱいに広がっていく。思わずうっとりして空を見上げると、真っ青な空にこれから目指す山の頂がくっきりと浮かんでいた。贅沢だ、本当に贅沢だ。ハートのピックも持って帰りたいほどにかわいい。
湊かなえ著『山女日記』より