カリフォルニアで意外だと思っているのは、ビアードパパがつぶれないこと。日本にいたときは駅で買っていたものだが、一時帰国したときに見たら他の店に変わっていた。
そしてここにも「優しい味」が。
「ケーキはいらないし、話は終わり。帰ったらどうだ?」
森宮さんはテーブルの上を片付けだした。紅茶と緑茶と焼き菓子にきなこのおはぎ。森宮さんが用意してくれたお菓子は、てきぱきと台所へ運ばれていく。「風来坊って何よ。っていうか、ケーキ食べるの?」
「ああ。放浪癖の風来坊は最悪だけど、食べ物に罪はないからな」
「あっそう」
一番低いハードルだと思っていた森宮さんさえ飛び越えられなかった私は、ため息をついた。
「あいつがアメリカ行った時、優子ちゃんに新しい彼氏を勧めておくんだったなー。ビザもピアノも追いかけないまっとうな人間をね」
森宮さんはチーズケーキをほおばりながら嫌味なことをつぶやいた。山本さんはスペシャル定食という名の残り物を、いろいろとテーブルへと運んだ。肉じゃがにカレイの煮つけにほうれん草のお浸しにだし巻き卵に豚汁。たくさんの皿が並べられるのに、早瀬君は「森宮さんと同級生でよかった」とうれしそうな顔をした。
「本当はただの残り物なんだけどね。でも、おいしいよ」
「うん。じゃあ、いただきます」
「どうぞ」
早瀬君は驚くほどよく食べ、何かを口にするたびに、おいしいと言ってはあれこれ山本さんに尋ねた。
「この豚汁って甘いですね。どんな味噌汁使ってるんですか?」
「九州の味噌だから少し甘いんだよ。それに玉ねぎとさつまいもが入ってるからね」
「へえ。おいしい。だし巻きのみずみずしさもたまらないですね」
「だろ? 卵は少しでだしが多いからなんだよな。その分、固まりにくいから作るのにはちょっと技術がいるんだよ」
山本さんは意気揚々と答えている。
「このほうれん草もすごいおいしい。ほうれん草だけなのに何かと炒めたようなまろやかな味で。こんなふうに、常温でおいしい料理が多いのが和食のいいとこですね」
そう言ってほうれん草のお浸しをほおばる早瀬君に、山本さんが「そのお浸しは優子ちゃんが作ったんだよ」と告げた。
「そうなんだ。森宮さん、ピアノ弾きつつ、こんな料理も作れるの?」
「いや、ピアノはたいして弾いてないし、それはただお浸しにごま油足しただけなんだ」
「すごいよ。森宮さん、音楽もやって料理も作って、まさにロッシーニだ」そして、出会った翌年、秋が深まりだしたころ、早瀬君は後5ヶ月で卒業だというのに音大を中退し、「バイト代もたまったし、今度はハンバーグの修行に行ってくる」とアメリカに出向いてしまった。
「ピザだけだとさ、お腹膨れないじゃん。スパゲティでもいいんだけど、俺はハンバーグが食べたくなるんだよな。ピザとハンバーグって最強だと思わない?」
早瀬君はデートの帰りに寄ったファミリーレストランでチーズハンバーグを食べながら言った。「こんばんは。よかった。まだ開いてて」
早瀬君がそう言って片付けかけていた店のテーブルに着くと、山本さんは「和食が恋しいだろう」と、鮭を焼いたり筑前煮をよそったりしてくれた。
「俺、いろいろ気づいたよ」
早瀬君はおしぼりで手を拭くと、まっすぐ私を見てそう言った。
「いろいろ?」
「そう。アメリカにはハンバーグがないってことと、自分がやりたいことが何かってこと。俺、ファミリーレストランを作りたい。ファミレスのちょっとだけよそ行きな料理って一番わくわくするじゃん」
「本当に? アメリカの人ってハンバーガーよく食べてそうなのに? 早瀬君、気づかなかっただけじゃないの?」「俺、チーズケーキはどこの店のでも好きだけど、これはいまいちだったな。やっぱあの風来坊趣味悪いんだな」
森宮さんはきれいにケーキを食べ終えてからそう言った。「まあまあ、早瀬君は言葉の選び方がへたくそなだけで、悪気はないから。それより、シュークリーム買ってきたんだ」
私は2人の前に皿に載せたシュークリームを置いた。話が難しくなる前に、この重い空気をほどきたい。
「駅前に新しくできたケーキ屋のだよ。前通るといい匂いしてて。さ、食べて」
「いただきます」
早瀬君はさっそく大口を開けてシュークリームをほおばった。
「あ、おいしい。お父さんも早く食べたほうがいいですよ。今ならまだ皮が香ばしいです」
「わかってる。っていうか、お前にお父さんって言われる筋合いないって言っただろう」
森宮さんはそう返すと、負けじと大きな口を開けてシュークリームをかじった。私も一口食べてみる。皮がパリッと焼かれたシュークリームは、牛乳と卵と砂糖の優しい味がする。
「お父さんがだめなら、なんてお呼びすればいいですか?」
シュークリームをぺろりと食べ終えた早瀬君が紅茶を飲みながら聞いた。
「呼ばなくてけっこうだ」
瀬尾まいこ著『そして、バトンは渡された』より