たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

『素晴らしき家族旅行』理想の料理上手

たぶん20年ぶりくらいに読み返したのだが、「今日では差別ととられかねない表現が...」の注意書きが必要だと思った。でも作者が故人じゃないから第三者が故人の作品に手を加えることは云々の言い訳が使えないなあ。その90年代に確かに使われていた言葉ではあるのだが、なくても問題なさそうな記述の箇所。

若いときよりも「幸子さん」の魅力がありありとイメージできた。近所にこんな人がいたら本当に楽しいし、この夫婦宅のように人の出入りの多い家は理想。まさに商店に育った人
それから、料理がうまいこと、人に食べさせるのが好きなことの強みもリアル。
酔って帰っても「気軽に台所に立」ってトンカツを揚げ始めるような、息をするように料理する感じね。

ただ、こないだ「人心は胃袋でつかむんだよ」と言われて思わず鼻で笑ってしまった。
玄人はだしの料理上手ながら結婚に失敗した男女、私のまわりは異様に多いので。

それから、拡張家族のたい子ちゃんが全然出てこないなぁと思った。

20年前に読んだときに唯一覚えていた箇所↓

「それに誰かが家の中にいて、気持ちよさそうに昼寝してるっていいもんだわよね。とっても気持ちが安らかになるし......」

小さな料亭の娘として育った幸子は、出刃包丁を持ってすばやく魚を料った。刺身も鯖鮨もたちどころに出来上がり、まるで魔法を見ているようで忠紘は驚きの声をあげたものだ。

その夜、引越し祝いといってテーブルに並べられたものは、出前の鮨桶とサラダが一皿であった。しかも鮨は"並"であったから、色の悪いマグロがべったりと飯の上にのっている。
新興住宅地のこのあたりの鮨屋は、昔から不味いことで有名なのだ。日頃、母親の幸子からうまいものを食べ鳴らされている8歳になる長男の洋などは、ほとんど手をつけようともしない。
しかも大口を叩いて買い物に出かけた久美子が買ってきたものは、レタス、キュウリ、サラダ菜といった月並みのものだ。房枝はそれを極めて大雑把に切り、マヨネーズの大きなチューブをでんとその横に置いた。幸子の手づくりのドレッシングや、クルトンや茹で海老の入ったサラダとはえらい違いだ。
しかし久しぶりに全員が揃ったことで、父親の保父は上機嫌である。今日入荷したという大吟醸の栓を抜き、長男忠紘、そして嫁の幸子の順で勧めた。

「パパー、こっち、こっち。早くグラスを持ってここに来なよ」
と幸子に誘われ、気がつくと隣近所の主婦にビールを酌いだりしてやっている。幸子は手早く、安い材料でいく皿もの肴をつくり、皆に箸で分け与えた。
「あんたは元々そういう要素があったのよ」
と後に幸子に言われたものであるが、いつのまにか忠紘は客を待ち、客のためにいそいそとビールを冷やすようになった。
今までに2回ほど引越しを夫婦で経験しているが、そのたびに近所の女たちは別れを惜しんで泣いたものだ。

舅がなみなみと酌いでくれた大吟醸のコップを、いくらか遠慮がちにゆっくりと呑み干し言った。
「まあ、おいしい。お義父さん、さすがだねえ」
「そりゃあそうだ。こんないい酒はそこらの店には売っていない。俺と蔵元が仲がいいもんだから特別にまわしてもらっているのさ」
「忠紘さんは酒屋の息子のくせに、ビールの方が好きなんだよ。日本酒はあまり飲まない。だけどこれのおいしさがわかるようでなきゃ、酒飲みとはいえないよね」

この率直な質問に房枝は一瞬、口にしたばかりのカッパ巻きにむせそうになったが、それをゴックンと飲み込んだ喉の動きが大きな肯定となった。

「お祖父ちゃんとこ、昨日何食べたの。心配だから来ようと思ったんだけどさ、引越しで忙しかったもんで悪かったね」
「保文が夕方来てくれて、天丼を出前で取って食べた」
「あら、そう、よかったわねぇ」
幸子と忠紘は廊下を歩きながらくすりと笑った。
「親父も大変だなあ。親のうちで天丼食べて、うちに帰ってから鮨を食べて」

その頃には幸子の夕飯も出来上がっている。ピカピカに炊き上がったご飯、自分で料ったカツオのたたき。今まで菊地家のテーブルには上がらなかったものだ。これで文句が出るはずはない。

しかし房枝のつくる、口の曲がるほど塩辛い煮物や野菜炒めにその食器のわびしさは似合わないことはない。そんな姑に孫の涎も愛せよというのは無理な注文かもしれなかった。
房枝が帰ってくるまでに洋と美奈の食事は終わっている。けれども時間がずれて一緒になろうものなら、房枝の箸は凍りついたようになる。3歳の美奈の口から、スプーンから飯粒や卵焼きやマッシュポテトやさまざまなものが落ちる。幸子はそれを拾って美奈の口に入れたり、また自分の口に入れたりする。

「ホント、それまで試食のおばさんが差し出すオランダチーズなんかつまんでたのにさ、私を見てようじ持ったまま、すたこら行っちゃうんだよ」

「テレビだったら下でも見られるよ。幸子がさ、マドレーヌ焼いたんだ。すっごくうまいぜ、一緒に紅茶飲もうよ」
(中略)
「私、夜の8時過ぎに絶対甘いものなんか食べない。だから気を使ってくれなくてもいいのよ」
「じゃ、マドレーヌはいいから紅茶だけでも飲もうよ。たまにはいいじゃないか」
久美子は忠紘と一緒にしぶしぶと階段を降りた。ダイニングテーブルの前には、これまたオレンジ色のトレーナーを着た幸子が立っている。
「ねえ、久美ちゃんはミルクティーにする。それともレモンティーにする」
久美子の目がすばやく上下に動く。おそらくどちらの方がカロリーが少ないか思案したのだろう。
「レモンティー、お願いします」
「はい、はい」
幸子は小さなバラ模様の茶碗に湯を注ぎ、それをこぼす。茶碗を温めているのだが、それはしばしば姑の苛立ちの原因になっているのだ。
(中略)
「ポットのお湯を入れてこぼすなんて30秒もかからないじゃないの。ちょっとしたことでお茶がおいしくなるのに、味オンチの人にはわからないのね」
幸子に言わせると、菊地家の食器の状態はとても信じられないことばかりだそうだ。
「だってコーヒー茶碗しかないんだよ。コーヒーも紅茶も同じもので飲むんだから、私はびっくりしちゃったよ」
このバラ模様の紅茶茶碗は、何年か前に幼稚園のバザーで安く買ったものだ。幸子は大切に食器棚に飾っていたのだが、
「コーヒー茶碗で紅茶飲むのに耐えられなくて」
先月船橋からわざわざ運んできた。しかし房枝は意地になって絶対にこの茶碗を使おうとはしない。彼女にとって幸子の食へのこだわりは、芝居じみていて分不相応のものに見えるらしいのだ。
(中略)
けれども久美子は若いだけあって、うまいものは決して嫌いではない。夜食べると太ると文句を言いながら、兄嫁の焼いたマドレーヌをつまみ始めた。家で菓子を焼くなどというのは、この菊地家にとってはそれこそ奇跡に近い行為だ。
「これ、お義姉さんが本当に焼いたの? お店で買ってきてチンしたんじゃないの」
などと菓子を裏返したりする。

「お義母さん、お茶は日本茶でいいですか。それとも紅茶にしますか」
「ありがとう。日本茶をもらうわ」
なぜだかわからないが、幸子は気味悪いほど機嫌がよくなってきている。房枝と保文のために茶を淹れ、夕方焼いたマドレーヌを皿に盛る。
「これ、焼いたから食べてくださいよ」
「まあ、まあ、まあ」
房枝は大げさに驚く。
「手がかかる子どもが2人もいるのに、よくこんなことするわねえ。お菓子なんか買ってくればいいと思うのにねえ」
姑のこんな嫌みたらしい言葉にも幸子はびくりともしない。
「いやあ、材料をちゃっちゃと混ぜて天火の中に入れればすぐに出来ますよ。ここのうちの天火、システムキッチンに組み込まれたやつだけど一度も使った形跡がなくて、最初は使いづらかったけど、やっとコツがわかって......」
一度は反撃しかけたが、すぐに思い直したように笑いかける。
「洋と美奈の好物だから、ちょっとつくってみたんですよ。さあ、お義父さんも食べてくださいよ」
幸子は保文の前にフォークを置く。彼女はとうに気づいているのであるが、保文は甘いものに目がないのだ。が、3年前にかすかに糖が出たのをきっかけに、房枝から厳しく制限されている。
だが手づくりの菓子の誘惑は大きかったらしく、彼はたちまち相好を崩す。
「こりゃあ、うまそうだな」

叔母は2人のために紅茶を淹れてくれる。おそらく外国製のものだろう。ティーカップに注がれたとたん香りが強く立った。器も紅茶用のもので、しかもいちばん安いラインとはいえ、ロイヤルコペンハーゲンである。

「それからさ、5時になったら洋も連れて駅前の喫茶店へ来てよ、私、今日とても夕飯つくる気分にならないから、友だちと一緒に焼肉を食べることにした。あんたも誘ってあげたいけど駄目だよ。そりゃあ、あんたには何の罪もないけれど、私をこんなに怒らせてるのはあんたの両親なんだからね」
子どもたちを指定の場所に連れていった後、忠紘は1人でうどん屋に入り、鴨南ばんを食べた。辛いつゆの中に、やけにやわらかいうどんが浮かんでいた。そのうどんの不味さと中途半端な空腹とが、忠紘の怒りをますますかきたてる。

夕飯は出前の玉子丼で過ごすことが多い。トリ肉が苦手な忠紘は、丼ものはたいてい玉子丼だ。カツ丼は騒々しくて好きになれなかった。その日も白に藍の竹模様の蓋をそろそろと開けたとたん、後ろから声がかかった。
「なんね、菊地さん、また玉子丼ね。夜食は500円まで会社持ちよ。あんたみたいな若い人は、こういう時は高いもん頼まんと損するよ」

まだ口開けの早い時間、彼女はカウンターに腰かけるなり叫ぶ。
「おかあさーん、ビールに焼きトン、鯨のベーコンね。それからポテトサラダもちょっと持ってえな」
化粧っ気の全くない中年女が、はいよと銀歯を見せて奥へ引っ込んだ隙に、幸子は大変な重大ごとを打ち明けるようにささやいた。
「あのね、この店、刺身は食べん方がいいよ。ガラスケースに入ってるけどあんまり新しくない。私、料理屋の娘だったから刺身には結構うるさいんよ。ここで食べるのは焼きトン、それから後でラーメン!」
「内藤サンは、よくここに来るんですか」
忠紘はあたりを珍しげに見渡す。東京で屋台といえばラーメンかおでんで、それも単品を供するが、博多は違う。焼きトリもあればトンカツもある。ガラスケースの魚の豊富さはまるで鮨屋と見間違うばかりだ。
(中略)
「だけどこの人は特別。底無しに飲むけど、すぐにしゃんとして家に帰るからすごかァ。ラーメンだっておかわりするものねぇ」
「そんなこつなかよ。ラーメンはいつも1杯」
「いや、いや、あんたは2杯食べる」
忠紘は目を見張って2人の女のやりとりを聞いていた。この時はまだ"もの珍しい"という気持ちだったろうか。
最後に運ばれてきたラーメンを残さずすすりながら、幸子は自分がいかに本が好きか説明した。

「じゃ、冷蔵庫の中に豚肉があるから、トンカツ揚げてやるよ。トンカツ、好きだろ」
「うん」
幸子はかなり酔っているにもかかわらず、気軽に台所に立つ。鍋やボウルを動かす音が聞こえ始めた。
(中略)
忠紘の返事を最後まで聞かず、幸子は台所から出てきた。手には揚げたてのトンカツの皿を持っている。キャベツとトマトが添えられていかにもうまそうだ。
(中略)
たい子は左ききであった。しかも中指をはさまない持ち方で箸を使う。だから彼女がトンカツを頬張り始めると、ぎこちない、何とはなしにいじらしい雰囲気が漂うのだ。
(中略)
「菊地さん、でしたよね。まあ、1杯いきましょう」
内藤も妻のこんな言い方に慣れているらしく、全く無視して忠紘にビールを注ぐ。だがかなり空腹だったらしく、1杯のビールをぐいと吞み干すとトンカツに箸を伸ばした。いかにも元運動選手の食べっぷりで、飯茶碗もたちまち空にしてしまう。
父親と娘が黙々と夕飯を食べている傍で、その家の主婦とビールを飲んでいるのもおかしな光景だ。
「この人ったらさあ......」
幸子はほうれん草のおひたしに醤油をかけ、それを夫にすすめた。

「菊地さん、あんたもっと食べなきゃいけんよ。痩せてるから顔がますます長く見えるんよ」
などと言いづらいことを口にしながら、魚を焼いてくれたり、煮物を温めたりしてくれる。

朝は目覚まし時計で起き、房枝がつくってくれた塩辛い目玉焼きを食べ、必ず冷めて出されるコーヒーを飲み干した。

今まではほとんどないことであったが、忠紘と課長は同じ時間に休憩をとり、一緒にコーヒーを飲みに出かけた。別館の社員食堂の隣りがラウンジになっていて、150円でそこそこのコーヒーが飲める。

「私たち、いまおソバ屋さんに入ったのよ、駅前の。だって仕方ないでしょう、私たち、どっから来たと思うの。あなたたちは近くだからいいけど、私たちは夕食もとらないで遠くから電車に乗って来たのよ。おソバぐらい食べたっていいでしょう」

「このあいだも糖が出てね、お医者さんから気をつけるように言われてるんだけどききやしない。もともとお酒はつき合い程度しか飲まなかったから今はほとんど口にすることないけど、ひとりでどこか行った時にはね、帰りに羊かんやドラ焼きを買ってきて、黙々と食べているの」
「あらら、うちの主人と同じ。忠紘さんもコーヒー飲む時は甘いものを欲しがりますよ。何も無い時は、子どものクッキー取り上げたりして......。ふっふっ」

「あっ、これは沢木屋のケーキだわ」
友文夫妻の登場により、また新しい混乱の気配がするその場を救うように、幸子が明るい声で言った。
「ここのケーキ、おいしくってうちの近くだからよく買うんですよ」
「そんなこと知らなかったけど、タクシー乗る前に、駅前のすぐ目についたケーキ屋さんで買ったのよ」
正美は苛立った声を出す。ここに居ること自体が自分は不愉快なのだ。そのことをもっと察して欲しいとその声は訴えているようであった。
「じゃあ私、アイスティーでも淹れてきましょう。あんまり甘くしませんから、信彦叔父さんも大丈夫ですよ」
(中略)
「そのケーキの箱、見てごらん」
白い紙の箱の中には、白い粉砂糖をまぶしたシュークリームが8個並んでいる。
「いい、あんたと私の夫婦、弥生叔母さんの夫婦、友文叔父さん夫婦、それからお義父さんにお祖父ちゃん、お義母さんは来ない、お祖母ちゃんは食べないってちゃんと計算してるんだ。普通はシュークリームなんて10個ぐらいパッと買うよね。あの忙しい時に、あの人ちゃんと店先で計算してたんだ。こわいよねぇ......」

「ふん、うまく誤魔化しちゃって。ま、いいや。あの頃西岡さんさ、自分のうちみたいに帰り寄ってさ、『何かない?』ってさんざん夜食ねだったんだよ。私もまぁ、嫌いじゃないからさ、ちゃんと雑炊やお茶漬けつくってやってさあ、あん時、お金を貰えばよかったよ。1,000円とは言わないけど1食700円、少なくとも50回は食べたから35,000円にはなってるよね」

彼の好きなカルビはあらかた食べつくし、炭化した肉の小片がちっちっと小さな音をたてているだけだ。

ファクシミリを送り終わり、幸子から頼まれた牛乳と食パンもついでに買い、息せききって帰ってきたら電話が鳴っていた。

ひとしきり騒ぎが起こっているうち、男は早くもテーブルに着いて、氷イチゴを食べ始めている。400円で何杯でもお替わり自由と彼は言った。
「ふうーん、うちの街にもこんなところがあったんだあ。アイスクリームも上にのせられるんだから安いかもしれないねぇ......」
幸子はたかがかき氷1杯に、しみじみとした声を出す。
「うちもハワイに行けない替わりに、4人でここへ行ったらいいかもね。洋は冷たいもの好きだから喜ぶよ」

「コーヒーでも淹れてやろうか」
「そうね」
我ながら何て卑屈な男だろうかと恥じながら忠紘は台所へ立つ。粗挽きの粉で好みのコーヒーをつくるのは好きで、前からよく皆の分も淹れてやっている。しかし夜遊びをしてきた妹に、そこまでサービスしてやることはないじゃないかと、舌うちしたくなってきた。
砂糖とミルクを添え、3人分のカップを盆にのせていくと、珍しく幸子と久美子は何やら会話を交している最中であった。

幸子がピーナッツを缶から取り出す。どうやらテレビでかき氷のシーンが始まった頃から、かなり元気を取り戻したらしい。かき回すと、コーヒーもいっそう強く香りたった。
(中略)
兄夫婦の言葉に反応するわけでもなく、久美子はピーナッツを齧り始めた。幼い頃、歯の矯正を途中でやめた久美子は、前歯が2本前に出ている。いつもはそう目立たないが、こうしてピーナッツを食べるとその歯だけ急に大きく見える。
「まるでリスみたいな奴だな」
忠紘は思い、それは少し身内の贔屓めかなとすぐに反省する。が、こうして第三者の目で見ると久美子はなかなか愛らしい。ピーナッツを食べているさまがかなりいい。見合いの場所は、木の実類が食べられるバーがどこかにしようと忠紘は作戦を練る。

銀行の隣りに大阪鮨の店があり、ここのあなご鮨が特に安くておいしいと幸子は言う。それを4人分買ってくるようにと忠紘は頼まれているのだ。
(中略)
「さあ、昼飯を食べよう」
あなご鮨を高くかかげた。
淑子の布団の傍に、幸子は小さな折り畳み式のテーブルを出した。その上に冷たい麦茶、あなご鮨をちまちまと並べた。
「さあ、お昼にしようよ、お祖母ちゃん」
淑子の右手にスプーンを握らせてやる。
「お祖母ちゃんはお箸は使えないけど、おさじでちゃんとご飯を食べられるんだよねー」
まるで3歳の美奈に向かって言うような口調だ。よく見ると食べやすいように、あなご鮨は折から出され、ふた切れおわんに盛られている。糖尿の合併症もある淑子のために、きゅうりとワカメの酢のものも用意されていた。昼寝しているだけでなく、幸子は病人の祖母に対してこまやかに気を使っているらしい。

給料日前だというのに、うまいものが食べたいとなると、上等の刺身を並べたりする女だ。
「うちはいいよ、どうせエンゲル係数が異常に高いうちなんだから」
と居直っていたことさえある。

「マルヤマさんっていうのは、ほら、おたくの店と駅の反対側にある和菓子屋だよ。今だと水ようかんがおいしくってさ、このあいだもテレビで紹介されたんだよ。この頃さ、ああいうグルメ番組って、都心じゃもうネタが尽きてるみたいだから、私鉄沿線の知られざる名店って感じで取材に来たんだって。聞いたこともないような女のタレントが来て、水ようかん5個も食べてったんだって。

出勤時間が9時から10時になったということで、デパート勤めの忠紘と朝食時間が重なるようになった。前よりもゆっくりと分量を多く食べる。ミルクを沸かしたり、パンを他の者のために焼くのも、前には見られなかった気遣いだ。そしてトーストにマーガリンをたっぷり塗り、うまそうに齧る。忠紘は以前、妹がものを食べている時に、リスそっくりだと思った記憶がある。それは今も変わってはいないが、リスはリスでもかなりましなリスだ。以前は、うちでおやつを食べている最中も、目がよく動き、何かに怯えているようなせわしなさがあった。けれどもこの頃は、目がしっかりと据わって、食べものをしっかりと確かめながら咀嚼しているような落ちつきが出てきた。いわば公園のリスから、ケージのリスに変わったとでもいおうか。
(中略)
久美子がカフェ・オレをごくごくと飲み干して言った。彼女はこの頃、街の雑貨屋で買ったというカフェ・オレ専用の鉢を愛用しているのだ。これがまるでカツ丼の容れ物のような大きさなのであるが、久美子はパリではこうして飲むのよと譲らない。これに毎朝なみなみとコーヒーと沸かした牛乳を入れるので、飲み終わるまで時間がかかる。
今も最初に何か言いかけ、そして丼、いやカフェ・オレの鉢を両手に持って飲み始めたので、忠紘はかなり長いこと待たなければならなかった。

結局久美子たちは、河口湖のペンションに泊まったらしい。珍しく土産にスモモのジャムを買ってきた。手づくりめいた和紙のラベルが貼ってあったが、"河口湖"という文字を"軽井沢"とでも入れ替えても何の不都合も生じないであろう、ありふれたジャムだ。
家族のために買ってきたこのスモモのジャムは、専ら久美子が食べた。河口湖から帰ってきた翌日から、久美子の朝食にはヨーグルトが並ぶようになった。ジャムはプレーンヨーグルトに添えるものである。

これも幸子の観察によるものであるが、例の河口湖への小旅行の際、他の女性秘書たちはそれなりに手づくりのサンドイッチやクッキーを持参したらしい。
「あの時、確か久美ちゃんはさ、お店の缶ビールを2ダースぐらい持ってったはずだよ。そういう子なんだもん。それでも目をつけられたんだから、運がいいか、他にいいところがあるかだよねぇ」

朝早く久美子は家を出ていったので全容はわからないが、朝の食卓にいくつかの皿が並んだ。弁当に使った余りの鶏の唐揚げ、幸子得意のだし巻き卵、栗のふくめ煮などである。
「すっげえ御馳走をつくったんだなあ」
「ふふ、お弁当はこんなもんじゃなかったよ」
幸子は得意そうにふふんと笑った。
「魚の味噌漬けや白あえも中に入れたんだよ。木の芽なんかもすっごく高かったけど買ってきて飾ってさ、ちょっとした店の松花堂弁道みたいだったよ」
「そんなことしたら、いっぺんに誰かにつくってもらったってわかるじゃないか」
「そりゃそうかもしれないけどさ、やっぱりこういう時にすっごいものつくってやりたいじゃないの。私ってさ、普段何もしてくれやしない相手にも、尽くしちゃう損な性格なのよ」

「納戸からさ、お客用の湯呑み茶碗出したりしてんの。結構いい九谷だよ、いつもはさ、子どもが割るからって、肉屋だ、お茶屋だの、名前が入ったものしか使わないくせにさあ。お茶受けだってさ、ちょっと聞いてよォ、わざわざ駅前行ってさ、虎屋の羊かん買ってきたんだから笑っちゃうよね。くっくっ、九谷と虎屋の羊かんで、上流っぽく見えたら、人間苦労しないよォ」

「それにさ、羊かんなんか出しちゃってさ。渡辺先生って子どもの時は外国だったから、小豆もんはいっさい駄目なのよッ。それなのにさ、下品にぶ厚く切っちゃってさ」
「あら、悪かったわね。次からは何をお出しすればいいの」
「知らないッ」

1棹と半分の虎屋の羊かんを紙袋に入れ、保文は出ていった。
「ああ、なんだかやぁな感じ」
幸子は結局手をつけなかった、渡辺の皿の羊かんを頬張る。小豆ものは彼女の大好物なのだ。

茶飯とおでんという献立は、彼の大好物である。煮かえしたためちょうど味がしみていて大層うまい。飴色の大根に、黄色の辛子をたっぷり塗り、極上の和菓子のようにも見えるそれをゆっくりと口に運ぶ。
幸子は〆サバの小鉢を運んできた。これは彼女の自慢のひとつなのであるが、この近所でサバを自分で料ることの出来る主婦は、幸子ぐらいのものだそうだ。
「そこらへんの若い奥さんに、菊地さんの爪の垢でも煎じて飲ませたいよ」
と行きつけの魚屋に誉められたという。
全く幸子の料理の腕はたいしたもので、それも祖母の看病の帰り、慌ただしくスーパーで買った材料を工夫してつくる。その手際のよさといったらない。
さまざまな軋轢が潜在しているものの、この家で一応の小康状態が長く保たれているのは、ひとえに幸子の料理の上手さといっても過言ではなかった。
舅を舌であっという間に手なずけ、小姑の久美子もなんとはなしにおとなしくなった。味音痴の母の血をひいているのか、全く料理が苦手な久美子であるが、それでも今どきの若い女らしくうまいものはわかる。黙々と箸を動かすだけであるが、それでもわが家の食卓状況が一変したのは認めているらしい。
「これ、少しだけど......」
どこかへ行った時など、名産のかんぴょうやシイタケなどを買ってくるようになった。だがもちろん房枝だけ全面降伏をするわけもなく、口癖の「まあ、まあ」を連発する。
「まあ、まあ、幸子さんたら、こんな手の込んだものをつくって......。何も2人も子どもがいるんだから、茶碗蒸しなんか家でつくることないじゃないの。スーパーで売ってるわよ、プラスチックに入ってチンすればいいやつ。あれ、結構おいしいわよ。商売やってるうちはあれで十分よ」

忠紘は大好物のゲソ巻きに手をつける。駅前の総菜屋が、寒くなると店の一角をおでん種コーナーにするが、これはその中でも秀逸なものだ。立派なゲソが上等な魚肉にくるまれている。
すぐ傍で険しい顔の母親が電卓を叩いているが、それも慣れればいつもの夜の光景である。とりあえずわが家は暖房がほどよくきいていて、おでんの他に気のきいた小鉢が3品もついているのだ。

忠紘は3階のコーヒーショップに居るからと女店員に声をかけたが、それを聞いていたようでエスカレーターの前でぽつりと言う。
「地下へ行きませんか。あそこにうまいケーキ食べさせる店があるじゃありませんか」
こいつやっぱり甘党だなと忠紘は思った。地階の食料品売場の一角に、パリの有名菓子店が出店しているのだ。たかがケーキ1個に法外な値段をとるが、その分社員が近づくこともなく、かえって好都合かもしれなかった。
平日の昼下がり、まだ売場が混むには少し間がある。客は他に中年の女が2人、シュークリームを頬張っている最中であった。
「コーヒーでいいですか」
「あ、紅茶にしてください。僕はコーヒー駄目なんです」
渡辺はその紅茶にも細かい注文をつけた。
「紅茶はつがないで持ってきて下さいね、最初にミルクを入れたいから。ミルクはフレッシュじゃなくて普通ので」
「やっぱりロンドン帰りは違うな」
(中略)
「だけど何だか僕の家では、昔から紅茶しか飲まないんですよね。多分、コーヒーを淹れる方がめんどうくさいからじゃないですか。おかげでコーヒー好きじゃなくなって、よく人から気取ってるなんて言われますよ」
ウエイトレスが銀の盆にのせた何種類かのケーキを見せにくる。渡辺は真剣なおももちでじっくり眺め、
「その、チョコレートのやつ、下さい」
おもむろに注文した。今はやや丸顔といった程度であるが、30過ぎたらきっと肥満に悩むことになるだろうと忠紘は思った。
やがて彼が選び出したケーキが運ばれてきた。渡辺は三角形のとがった部分を、大切そうにフォークで切り崩す。その様子は無邪気といってもよく、忠紘はかすかに苛立ってきた。

日曜日の朝であった。"遅出"の忠紘はゆっくりとコーヒーをすすっている。幸子はこの頃うまいコーヒーに凝っていて、すっかり手なずけた喫茶店の店員から、豆を分けてもらっているのだ。
どんなに忙しくても豆から淹れ、香り高い1杯をつくる。

その時、幸子が台所へ行ったかと思うと四角い包みを持ってきた。それが何だかすぐに忠紘にはわかった。彼女が時々手づくりのケーキだ。
(中略)
「お前さ、さっき久美子にケーキ渡してただろ」
「ああ、あれね、久美ちゃんがあちらの家へ行くのに、手づくりのケーキを持っていきたいって言うから私が焼いてあげたのよ」
上の子どもが幼稚園へ入ったのをきっかけに幸子は菓子をつくり始めた。今まで酒の肴をつくらせたら天下一品だと忠紘は思っていたが、ケーキやクッキーも大層うまい。若い娘のように気負ったりすることなく、煮物をしている傍でアップルケーキを焼いたりもする。船橋に住んでいた頃は、バザーに出すと大変な人気であった。プロになればいいのにと皆に誉められ、幸子は得意そうだった。
(中略)
「なんていうかさ、敵に塩を送るっていうか、ケーキを送るっていうかさ、そんな気持ちがあるかもしれないね。あの料理オンチの2人が私にすり寄ってきて、ケーキ焼いてくれない、なんて言うのさ、かなり気分いいよ。だけど私、今日のフルーツケーキの上っかわに、私のイニシャル刻んどいたよ。S・Kって......。私ってやっぱり意地が悪いね」

その日忠紘が家に辿りついた時、テーブルの上には鍋の残骸があった。
「今日はお義父さんとお義母さんもいるから先に始めちゃったわよ。あんたの分はちゃんと取ってあるからさ、今、火をつけてあげる」
というものの、1人で寄せ鍋をつつくというのも億劫な気分だ。
(中略)
「やだ、ご飯いらないの? いませっかくタラを切ったとこなのに」
幸子が台所から口をとがらせてこちらを見る。

「お前まだ夕飯を食べてないんだろう。何か頼めよ」
保文に言われるまでもなく、豚肉のショウガ焼きとおひたしを頼んだ。カウンターとテーブルが3つあるだけの小さな店である。「定食屋にケの生えたような」と保文は形容していたが確かにそのとおりだ。「キンピラ」「里芋の煮つけ」と書かれた短冊が壁に貼られていた。
サラリーマンらしいセーター姿の男が、湯豆腐をつつきながらビールを飲んでいる。
(中略)
「菊地さん、今日は市場がないからお刺身あんまりよくないの。マグロのブツ切りでいいかしら」
どうやら保文はこの店の常連らしい。元宝塚にいたのではないかと思われるような、年の頃なら54、5、目鼻立ちのはっきりした美人のおかみが親し気に声をかける。
「あと、いつもの塩辛があるけど......」
「お、いいね。じゃ、こいつにもやってくれ」
柚子の皮をたっぷりまぶした塩辛が運ばれてきた。
「これはママの手づくりなんだ。イカを運ぶところから自分でするんだそうだから、ちょっと瓶詰めの味とは違うよな」
保文がいっぱしの口をきくことに忠紘は驚かされる。あの口が曲がるほど不味い、母親の料理によく耐えているものだとずっと感心していたのであるが、密かにこうしたところで舌を慰めていたようだ。
ひと箸口に入れた。やわらかいイカの臓物の味がしたが、幸子のつくるものにはかなわない。博多の街に生まれ、しかも料亭の娘として育った彼女はこういう海の料理をさせたら天下一品なのだ。一晩かかってつくる塩辛は、うまみが昂まった甘みさえある。

厚く切ったスイカを頬張りながら幸子が言った。子どもにはうるさく言うくせに、口いっぱいに食べ物を入れて喋るからうまく聞こえない。言葉まで汁っぽいずるずるした発音となった。
(中略)
幸子はかなり行儀悪くスイカの種をぺっと吐き出した。こうしなければ食べた気がしないというのだ。対する忠紘はスプーンで一匙々々すくって口に入れる。子どもの頃からスイカというのはこうやって食べるものであった。いくら幸子に非難されようと変えるわけにはいかない。
(中略)
子どもたちが寝た後、2人でスイカを半分食べた。もう何の気がねをしなくてもいい。どうして同居なんてあんなしんどいことが出来たか不思議だよねぇとつぶやく。

「そう、そう、忠ちゃんの友だちは金持ちばっかりだろう、肩身が狭くないようにって、チョコレートをどっさり買ってきたのよねぇ」
「皆で食べろって50枚はあったかなあ。だけど持ってきてくれた時は、暑さのせいで溶けかけてたんだ」
「それも昔の人だから、ハーシーの大きなチョコ」
2人は顔を見合わせ、かすかに微笑み合った。

その結果、忠紘は近くのコンビニエンス・ストアから弁当を買うことになった。どれも700円から800円の、やたら揚げ物が入ったものばかりだ。
「これなら私が何かつくってきたのに」
弥生はきっと嫌な顔をするだろう。
霊園の中に、弁当をつかえる休憩所がある。コンクリート製のテーブルの上に、買ってきたウーロン茶と弁当を皆の前に並べた。発泡スチロールのわびしさは、この空気と空にはやはりそぐわない。
弥生が何か言いかけた時、幸子が紙袋からタッパーをとり出した。
「私がさ、朝ざっとつくってきたからおいしいかどうかわからないけどさッ」
さつま芋の甘煮、鶏のつくね焼き、卵焼きといったものが並んでいる。
「まあ、おいしそうだこと。幸子は本当に料理がうまいよ。この頃幸子の料理が食べられなくてつまらないよ」

林真理子著『素晴らしき家族旅行』より