たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

土のスープ『すべて真夜中の恋人たち』

冒頭はムラカミへのオマージュだろうか。
聖の語りはところどころムラカミ臭がする。
インタビュー集『みみずくは黄昏に飛びたつ』は好きでよく読み返す。

石川聖か電話がかかってきたとき、わたしは午前中のぶんの仕事を終えて、昼食に簡単なスパゲティーをつくろうと鍋に水をためているところだった。

スパゲティーに温めたレトルトのミートソースをかけて食べてしまうと、わたしは前髪をターバンであげて留め、右手に鉛筆をもち、手づくりの見台(いまではふれることもなくなったギリシャ語の辞書と単語の本をかさねて支えにして、新宿の画材屋で買ってきたおおきな画板を斜めに立てかけて作った即席の見台は、いつかちゃんとしたものを買おうと思っているうちに4年もたってしまっていた)、いつもどおりに動かないように胃のあたりで押さえて固定しながら、そこに広げられたゲラの1文字1文字を追いつけるようにしてじっとみつめた。
すこし疲れてくると首と腕を交互にぐるぐるまわすストレッチをして、それから台所へ行って熱いお茶を淹れて、すこしずつ冷ましながら時間をかけてゆっくり飲む。

用事があるとき以外は誰もわたしに話しかけなくなったし、仕事中にどこかから流れてくる飴とかクッキーといったお菓子の入った箱もわたしを避けるようにしてつぎの机へ回されていくようになった。

聖は自分のおかわりとわたしのためにノンアルコールのマンゴーのカクテルを注文した。
(中略)
それからいくつか仕事の具体的な話をして、わたしはさっきとおなじものをもう1杯頼み、聖は苺を使ったカクテルを注文した。
(中略)
「あなたは飲まないの? 飲めないの?」と聖はわたしの3分の1くらいまで減ったグラスをみて言った。
「たぶん、飲めないの」とわたしは言った。「大学のときにグラスに1杯飲んだことあるんだけど、気持ち悪くなっちゃって、それからためしてないんだ」
「そうなんだ」と言って聖は、じゃあわたしもつぎはマンゴーにしようかなと言いながらカールスバーグを注文した。
(中略)
「ピクルス食べない?」
食べる、とわたしは言った。聖は3種のピクルスとセロリのスティックを注文した。
(中略)
それって、宗教と似てるのかなあ、グラスの底でとろりと光っているマンゴーカクテルの残りをストローでかきまぜながら、聖に質問した。聖は水でも飲むみたいにビールをごくごくと飲んで何度か肯いた。
(中略)
「そうだね」とわたしはセロリの先を齧っていった。匂いとおなじ味が口のなかに広がった。
(中略)
そう言うと聖もセロリのスティックを1本とって齧った。野菜を折るときの独特な音がした。

献血を終えて簡単なアンケートに答え、無料の自動販売機の取り出し口から野菜ジュースの入った紙コップを取るときに、ふと、ガラス窓に映った自分の姿が目に入った。

わたしはトイレへ行ってトートバッグから魔法瓶をとりだして日本酒をがぶりとあおり、じっと便座に腰かけているとかすかに眠気のやってくる気配がしたので廊下にあった自動販売機でブラックの缶コーヒーを買ってそれを立ったまま一気に飲んだ。

聖はまたあくびをひとつしてから、最近眠っても眠っても眠り足りないんだよね、時差ぼけなんかとっくにないのになあと言ってため息をつき、それから旅行先で食べたエビのあり得ないほどのおおきさとその値段の安さと調理法について話しはじめた。

ううん、滅多に来ないよ、ほとんど来ない、とわたしが答えたところで、注文したスパゲティーが運ばれてきた。
「料理でてくるの、早くない?」と典子は目をまるくした。
「早いね」
(中略)
「明日の朝だよ」典子はフォークでスパゲティーを小さく巻いて口に入れてから、ちょっと驚いたような顔をして、おいしいね、と言った。「これすごくおいしいね。このファミレス、あっちにはないから」
(中略)
典子はそう言うと、砂糖の入ったスティックの端をちぎり、カップに半分も残っていないコーヒーにさらさらと音をたてて流し入れ、ティースプーンでかちゃかちゃと音をたててかき混ぜた。

注文したコーヒーがやってくると、ふたりともが小さな声でいただきますと言ってカップに口をつけ、それをしずかに飲んだ。今まで数えきれないくらいこうやってコーヒーや紅茶を飲んできたのに、いただきますと言ったのはそれがはじめてだった。

眠くなれば眠り、目が覚めると体を起こし、お腹が減れば冷蔵庫や戸棚に買い置きしてあったものを食べた。食べるものが何もなくなってしまうとコンビニへ行って何か適当なものを買ってきてそれを食べた。食べても食べなくても、どうでもいいようなものばかりだった。どうでもいいわたしがどうでもいいものを食べつづけて、さらにどうでもよくなってゆく感じだった。食べるごとに何かがどんどんだめになっていくようだった。簡単なものでさえ料理をする気にはなれなかったし、お湯をわかすのもしんどかった。

はまぐりのソテーや、魚のすり身と野菜を見栄えよく盛りつけたお皿が運ばれてくるたびに、女性がその調理方法や産地のひとつひとつを丁寧に説明してくれたけれど、返事をしたり肯いたりみたりするので精一杯で、言葉はうまく入ってこなかった。
「これは、はじめて食べました」と三束さんがパンに添えられたオリーブを齧ったあとに、小さな声で言った。
「おいしいですか」とわたしはきいた。
「味がうまく認識できない」と三束さんは口を動かしながら言った。「これは......、味というは頭でつくっているものですから、まだカテゴリーがないので」
「わたしも2度目とかです、オリーブを食べるのは」
「酸っぱくもなく......これは変わった味ですね。でも、もう覚えました」そう言うと三束さんは何度も肯いてみせてから、ワインを口に含んだ。わたしは、おかしいのかうれしいのかよくわからない気持ちになり、うつむいて声をださずに笑った。
お酒を飲む三束さんをみるのも、何かを食べる三束さんをみるのもはじめてだった。三束さんがパンを手にとって、それを指さきでちぎり、口に入れるのをみると、そのあとわたしはどこをみてよいのかわらかなくなった。そのたびにわたしは、ナイフとフォークを動かして、お皿のうえにあるものを切ってごまかした。
ワインはすぐになくなってしまい、さっきの女性がお皿を下げに入ってきたときに、おなじものを注文した。

ナイフやフォークが食器にふれてたてる音のあいまに、扉の向こうのフロアから客の笑う声がときどききこえてきたりした。そんなとき、わたしたちはお互いの顔をみた。目があうと、なんとなく微笑むようにしてまたお皿に目を落とし、グラスに手をやってワインを飲んだ。わたしたちは向かいあって、ナイフの先で小さく切った肉や野菜のひとかけらをすこしずつ口に入れ、そのかたまりからにじみでてくる水分と広がりとを舌のぜんぶで味わった。何度も何度も、その輪郭が失われるまでわたしたちはただそれをくりかえし噛みつづけ、それ以上はもうやわらかくはならないというところまで確かめてから、舌のうえでまじりあったものをすべて、ゆっくりと飲みくだすのだった。

最後のお皿です、と言って女性がつるりとした青い陶器のボウルを持ってきた。わたしたちは目の前に置かれたボウルをのぞきこんだ。濃い茶色をしたスープのようなものが入っていて、中に具材のようなものは何も入っていないようにみえた。どうぞお飲みになってください、と女性が手のひらをみせて合図し、わたしたちはあたらしいスプーンを手にとって、まるい膨らみをスープの表面にそっとつけてみた。沈めてみるとさらさらとした感触で、かきまぜてみると底のほうからつぶつぶのようなものが浮かびあがってきた。どうぞ、と女性が言って、わたしたちはスプーンですくって、口へ運んだ。
「土のスープです」女性はお腹のあたりで手を組んだまま説明した。
「土ですか」と三束さんが言い、わたしはまたボウルをのぞきこみ、土は、食べられるものなんですか、ときいた。
「調理によって、食べられるようになるんです。長い時間をかけて煮つめて、殺菌して、それから丁寧にあくをとりつづけて、うらごしをするんです」と女性は言った。「そこにゼラチンを加えたものです」
女性がおじぎをしてでていったあと、わたしたちは土のスープを飲んだ。底から浮かびあがってきていたのは土だった。わたしはスプーンで土をすくって口に入れた。ざらりとした感触が広がり、歯にあたると音が響いた。三束さんもおなじように土をすくって口に運んだ。わたしたちは無言のままお互いの顔をみつめ、土をゆっくりと食べつづけた。三束さんの目に映りこんだいくつもの炎がゆれているのを、じっとみていた。

「ワインおいしかったですね」とわたしは言った。三束さんとはじめて飲んだお酒は体全体に心地良くゆきわたり、手も足も、時間がたつごとにどんどん軽くなるようだった。ヒールの音が気持ちよかった。コートが軽いのもうれしかった。
(中略)
「土ではないんですが、......その、ずいぶん昔の話になりますが、わたしの父には、なま米を食べるくせがあって、いまのいままでそのことを忘れていたのですが、そのことを思いだしたのです」
「なま米って、かたいままのお米ですか」
「はい」と三束さんは言った。「ジャンパーのポケットとか、ズボンのポケットとか、そこらじゅうのポケットになま米をひとつかみ入れていて、ひとにぎしりたそれをガムでも噛むみたいにさっと口に入れて食べるんです。(中略)」

それから、慣れない高級レストランなんかに行かずに、ワインなんて飲まずに、いつもふたりで過ごしていたあの喫茶店で、スパゲティーとかサンドイッチを食べればよかったと思った。

デパートで買ってきてくれた色とりどりの惣菜や、アルミホイルに包まれたチキンやケーキをのせてしまうとリビングに置いた小さなテーブルはすぐにいっぱいになってしまって、のせきれなかったものは仕方なく床に広げて、わたしたちはガラスのコップにワインを注いで、乾杯をした。
「37とか、すごいよね」と聖は言った。うん、すごい、とわたしも返事をして、ワインを飲んだ。
(中略)
つわりが終わったと思ったら今度は食欲が止まらない、今のところ体にとっていいことなんて何ひとつないわよ、とうらめしそうに言いながら、サーモンのマリネを何枚もフォークに突き刺してまとめて口のなかに入れた。

川上未映子著『すべて真夜中の恋人たち』より